母と僕

 広島県広島市。

 人情味溢れ、山や草木に囲まれた緑豊かな街に生まれた僕。

物心ついたときから、築38年の古い木造アパートで母と2人暮らしをしていた。

僕が僕の人生について記憶しているのは4歳の頃から。

保育園で友達と追いかけっこをして楽しく遊んだことや、殴り書きのような絵でも保育園の先生は大袈裟に褒めてくれたことが嬉しく、今でも記憶に残っている。

朝、母と一緒に登園するとき、4歳児ながら涙を堪え無理に笑顔を作り、仕事へ行く母を明るく見送ったことや、みんなは迎えに来たお母さんに抱き付き笑顔で帰って行くなか、僕は保育園の先生と2人きりで、外が暗くなり心細くなるなか母を待ったことも、記憶にしっかりと残っている。

 母は介護の仕事をしていた。

弱音や愚痴を一切吐かず、懸命に、ただがむしゃらに働き僕を育ててくれた母。

そんな母も、僕が11歳の誕生日を迎えた12月17日、酒に酔ったことも原因なのか、これまで抱えてきたものを爆発させた。


 「なんでお母さんばっかりこんな辛い思いしないといけないの?あとどのくらい働けばいいの?

雪人…あなたのお父さんはね、とってもずるい人なのよ。

あなたが2歳のときね、お父さん急に離婚届持ってきて、『これに印鑑押してくれ』って言ってきたの。

お母さんは本当に驚いてね。お父さんに何で離婚をしなくちゃいけないのか聞いた。

そうしたらお父さん、『好きな女がいる。彼女とはもう1年くらい付き合っている。実は彼女が妊娠した。彼女はまだ若い。俺なしじゃ1人で生きていけない。だからもう別れてくれ』だって。笑わせるでしょう?

あなたが1歳の誕生日を迎えた頃から、確かにお父さんは仕事の帰りが遅くなった。あなたのお父さんは高校の先生をしていたんだけど、部活動だけでなく進路相談や受験勉強、面接の練習なんかで仕事が山積みだって言ってたの。その時のお母さんはおバカさんだったから、お父さんの言葉、そのまま信じちゃって。お弁当だけじゃなく、夜食まで作って、栄養ドリンクまで入れて。

お仕事を頑張ってくれているお父さんを心から、純粋に尊敬していたのよ。お母さんはお父さんみたいに免許や資格なんて持っていないし、叔父さんの喫茶店で働いていたところに、お父さんからアプローチされたから。

目的の仕事に就くために努力をして、念願叶えて教師って仕事を頑張るお父さんが魅力的でしょうがなかったの。

お父さんは私より歳が7つも上だし、お兄さんみたいな頼りがいもあって。

ほら、お母さんのお父さん、雪人のおじいちゃんはもういないって言ってるでしょう?

雪人のおじいちゃんはお母さんが小さいときに事故で亡くなったんだけどね。

小さな頃から父親の愛情を欲していたお母さんにとって、お父さんはお母さんの心にぽっかり空いた穴を塞いでくれるような、ずっと欲しかった父親の愛情をくれるような、そんな素敵な人だったの。だからお父さんに、『結婚してください』って言われた時は涙が止まらないほど嬉しかったし、大好きなお父さんとの赤ちゃんがお腹にいるって分かったときは、もっともーっと嬉しくて幸せだった。

雪人、あなたが生まれてからその幸せはどんどん大きくなっていったのよ。

雪人が初めて寝返りをした日、声を出して笑った日、立っちしてあんよまでした日…。

お父さんと全て、雪人がこんなに成長してくれて嬉しいねって話して、幸せな時間を過ごしてきたの。

お母さんはお父さんが大好きだったし、お父さんもきっと同じ気持ちなんだろうって思ってた。

だけど雪人が1歳を迎えた頃から、お父さんの帰りが遅くなったり、帰らない日が多くなって。。

お母さん、本当に、バカみたい…

お父さんのこと信じてずっと待っていたのに…

相手の女はまだ若いから俺なしじゃ生きていけないだなんて言うからさ、笑っちゃったわよ。

本当は凄く悔しくて泣きたかったけれどね。

お母さんだってお父さんなしじゃ生きていけない。

まして雪人も育てなくちゃならないんだから。

お父さんの心のなかに、お母さんの存在なんて無くなっちゃって…消えちゃったことが悲しくてしょうがなかったの。

それからお母さんは、資格が無くても働けれるところをどうにか探して、

今日までずっと介護の仕事をしているけれど、腰は痛いし、認知症のお年寄りには引っかかれるし…

なんでお母さんこんなに頑張ってるんだろう?

お母さんなんのために生きてるんだと思う?

お母さんいつになったら楽になれるんだろう?

雪人はまだ11歳。これからどんどんお金も掛かってきちゃう。

ねぇ雪人、お母さんどうしたらいい??」

そこまで言うと母は、声をあげてわんわん泣いた。

顔を真っ赤にし、鼻水を垂らし、子どものように泣きじゃくった。

そんな母を見るのが初めてで、どうしたらいいのか分からなかった。

ただ僕は、嗚咽し涙をこぼし続ける母の背中に手を置いたまま、時間が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 どれくらい時間が経ったであろうか。

母が毎年、僕の誕生日の日に作ってくれる特別メニューの、母お手製、にんにく醤油味の唐揚げと、ケチャップの優しい甘さが特徴のミートスパゲッティが、流れる空気を再現するかのごとく冷たくなっていた。

時計はもう、21時を指していた。

【ゆきとくんお誕生日おめでとう】

と書かれたホワイトチョコでできたプレートが乗ったケーキに、可愛いらしくデコレーションされた砂糖でできたクマが、こちらを寂しげに見つめていた。


 泣き疲れ、机に伏せる形で眠ってしまった母に毛布を掛けて、僕は天井を見つめ、母を裏切った父を恨んだ。

いやーーー僕の存在を怨んだ。

 僕は母を心から愛している。

 しかし大好きな母にとって、僕の存在が足枷になっているような気がして、僕が母を苦しめている気がして、僕さえいなければ母は今頃笑って過ごせているような気がして、僕のいない世界さえあれば、母は幸せになれる気がして…、視界がぼやけ頬を冷たいものが伝うなか、ただひたすらに母の手料理を口に運んだ。

 唐揚げもミートスパゲッティも、冷たくなっているというのにとても美味しかった。

それが余計に寂しさを助長させ、その美味しさすらも憎らしかった。


 翌日、母は昨夜何も無かったかのように、いつもの明るい笑顔で「おはよう」と言ってくれた。

母の目が腫れ顔が浮腫んでいることを、僕は気付かないフリをした。

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そこに光はあるのだろうか 綺音 @ayane_25

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