ろーレンツの均衡

葦原佑樹

第1話

ローレンツの均衡


スミス・アンド・ウェッソン・チーフスペシャル。持つとすずっしりと重く、ひんやりと冷たい。そして硬質である。本物のピストルはモデルガンとは感触が違う。

僕の手元になぜ本物のピストルがあるのか。その経緯を説明するには少々の長い話が必要だ。国境なき医師団に参加してアフリカに行った時に、僕と友人の命を救ってくれた記念品だ。僕がまだ新米の医者だった頃、医学部を卒業して研修医としての2年間と、さらに外科に入局してからの専門研修医としての2年間が終わったころから話を始めよう。


専門研修を市立病院でした僕は、その後、母校の大学病院に戻された。国立栃木大学・医学部付属病院、人口16万人ほどの地方都市にある、栃木県唯一の国立の大学病院だ。学生時代を過ごしたキャンパスと付属病院は懐かしかったが、付属病院は市立病院とは違っていた。

僕は当時、まだ28か29歳だったと思う。僕の名前は大地大典、語呂の良い名前だが、母親が再婚して苗字が変わったわけではない。生まれた時に両親に付けられた名前だ。小学生の頃には友達にからかわれ、〝ダイダイ〟とあだ名を付けられた。でも、僕は自分の名前を気に入っている。両親は健在で、離婚も再婚もしていない。中学に入るとそのあだ名は消滅したが、高校に入ると新たなあだ名が出来た。〝ダイテン〟だ。大典をダイスケと読める者は少ない。しかし、こちらのあだ名には悪意は含まれていなかった。

 あの頃は市立病院での仕事を懐かしく思い出していた。市立病院は忙しく、そして、楽しい職場だった。市立病院での外科医の仕事は多かった。一口に外科と言っても色々とある。例えば整形外科は外科とはまったく違う。彼らは腕と脚と背骨を扱う外科で、骨折の整復が主な仕事だ。僕が所属する外科は一般外科と言われることもあって、お腹の中の内臓の手術をする外科だ。ただし、お腹だけではなく胸も外科の領域で、胴体全部だ。しかし、首から上はさらに細かく分かれていて、目の下までが耳鼻咽喉科、目は眼科、その上は脳神経外科の領域だ。

一般外科と言うだけあって扱う臓器は多い。例外は生殖器で、女性なら産婦人科、男性なら泌尿器というところか。そんなわけで、外科の手術は多かった。

市立病院での外科の手術日は週に4日あって、1日だけ手術のない日があった。しかし、緊急手術があれば手術日でない日でも手術をしなければならない。病棟の患者の管理は手術の合間にすることになる。公立病院だから土日が休みの週休二日制だが、正規の勤務時間だけでは病棟の仕事にまでは手が回らない。早朝と夜と、そして休日に病棟の仕事をした。自分で手術をした患者の術後管理は自分の仕事だ。手術が多ければ、術後管理に割かれる時間も多い。

そんな職場で自分の仕事をこなすだけの毎日だったが、それなりに張合いがあった。患者を治療し、社会に貢献しているという実感があった。どこの病院で誰が手術をしても、同じようにうまくいく手術。そんな普通の手術を確実に安全に行う。それが僕の仕事で、当たり前のことだと思っていた。

しかし、それが当たり前ではないことを、僕は大学病院で知ることになった。


大学の付属病院で最初に面食らったのが、外科が麻酔科と対立していることだった。市立病院では麻酔科医は仲間だったが、大学病院の麻酔科医は僕らを敵と思っている。

 その訳は、最初の日に先輩の執刀する手術に助手として入ったときにわかった。幽門側胃切除という簡単な胃がんの手術だったが、朝から始めて終わったのは午後の4時だった。市立病院ならお昼には終わって、午前と午後で二例出来る手術だ。

医学部付属病院での手術は市立病院の三倍の時間がかかる。まったく同じ手術なのに、なぜそんなにかかるのか。上手な外科医と下手な外科医、かかる時間が1.5倍なら話はわかる。しかし、三倍となると、余計なことをしているとしか思えない。実際に、余計としか思えない操作が多い。慎重で丁寧と言えば聞こえはいいが、臆病なだけだ。

 市立病院の外科部長が言っていた。「多くの先輩の手術を見て、それまでに他の人に教わった手順を省略している外科医がいたら、それを真似ろ。それが洗練された術式だ」。

 それで患者が無事に退院すれば、その手術が正しかったことがわかる。10年後に手術の合併症で腸閉塞になるかどうか、そんなことはわからない。それを防ぐために色々なことを言う人がいるが、それらは実証されていない。

 手術操作は単純で少ない方がいい。余計な所をいじくりまわせば、不必要な傷をつける。そして出血が多くなり、止血にも時間がかかる。挫滅する組織が多くなり、患者は術後に痛がる。悪循環だ。

大学病院の偉い先生は口が達者だ。しっかりと理論武装をしている。しかし、理論的考察だけで実証されていない。それも、一つか二つの事実を迷信と憶測で修飾して、自分に都合のいいように組み上げた論理だ。実証されないから間違いだと証明されることもない。まあ、医学なんて95パーセントは憶測と迷信だ。正反対の治療をして患者の身体を傷めつけても、患者が自力で回復しているに過ぎない。

経験的に上手く行くとわかっている実績のある治療法はいい。最悪なのが最先端医療と称される治療法だ。最先端医療も、症例を重ねて有効性が客観的に認めれれば、保険適用になって普通の治療法になる。しかし、最先端と称されているうちは有効性が認められていない証拠だ。そんな最先端の手術が大学病院では横行していた。教授か准教授か講師か、偉い先生が執刀して、患者の二人に一人は殺してしまう。それでも許されるのは、栃木県で唯一の国立大学という権威とブランドか。

 もう一つの疑問が夜中の緊急手術だった。うちの医局には手術がしたいのにさせてもらえない先輩が何人もいた。手術を執刀させてもらえるのは教授のお気に入りの数人の外科医たちだけだ。他の先輩は手術に飢えていた。そして、彼らのストレス解消の場が夜中の手術室だった。自分が当直をしていたときに来た患者は絶好の獲物だ。広い中央手術部を我が物顔で占有するチャンスは夜中の緊急手術しかない。翌日の朝まで待って、複数の医者が関わったほうがいいのが明らかなケースでも、彼らは強引に手術をする。主治医となった外科医が緊急手術を決定したら、他の者はその決定に口を出せない。助手として付き合わされることになる。

そんな緊急手術や最先端医療は禁止すべきだと思うが、問題は、そんな手術とまともな手術、あるいは、すべき手術とすべきではない手術、その間に明快な境界線を引けないことだ。グレーゾーンがある。だからこそ、おかしな手術も許される。なぜなら、彼らは、それをグレーゾーンに引き込む理論武装をしている。

そんな手術の麻酔をやらされている大学の麻酔科医が、外科医を敵と思うのは当然かもしれない。助手として一緒に手術をしている僕でさえ、そんな先輩を仲間とは思いたくなかった。しかも、そういう外科医は、手術中も麻酔科医に色々と注文を出す。そして、手術の結果が悪いと麻酔が悪かったと言い出す。結果が悪いのを他人の所為にして、反省しないから学習もしない。僕も同類と思われているに違いない。そんな先輩の下で働くのは、犯罪行為の片棒を担がされているような気がした。

一般外科として一つの科である外科学教室も、臓器別に細分化されている。主任教授は一人だが、准教授が心臓外科のトップで、彼らは心臓の手術しかしない。肺は胸部外科、その他は消化器外科と言われるが、その中も、食道班、肝臓班、大腸班、血管班、乳腺班に分かれていた。外科学教室は七つに分かれていて、准教授が三人、講師が四人いて、それぞれのトップになっていた。

 僕は食道班を希望したら、すんなり受け入れられた。食道班は食道がんの手術がメインだが、胃と十二指腸と小腸の手術もする。ここを選んだ理由は、食道班のトップの講師に学生時代から憧れていたからにすぎない。いい男でオシャレで、なにしろ、立ち居振る舞いから講義の仕方までがカッコいい先生だった。四人の講師の中で最も年上の筆頭講師だ。地味な4ドアの古めのBMWに乗っていたが、後ろのエンブレムが外されていて、モデル名がわからない。しかし、よく見ると高性能版のM5であることがわかって、それもカッコ良かった。なんでエンブレムを外したのか、後で知ったのだが、情けない理由だった。

 他の班もちょっと紹介しておこう。小腸の先は大腸だが、その境目には盲腸がある。いわゆる盲腸の手術、虫垂切除術は全ての外科医が行う。盲腸から先は大腸で、大腸班は肛門までを担当し、痔の手術も彼らの領域だ。大腸班のトップは主任教授だったが、事実上のトップは一番若い講師で、この講師は教授のお気に入りだったらしい。ここに入るのが出世コースだと言われていたが、毎回ウンコまみれになる大腸班だけは勘弁だった。乳腺班もつまらなそうだ。ほとんど乳がんだけで、甲状腺の手術もするが、ここは耳鼻科と重複している。甲状腺は胴体と頭の境界領域にあるから、そこから上を担当する耳鼻咽喉科と、そこから下を担当する一般外科の、どちらもが自らの領域と主張する臓器だ。

 市立病院で、耳鼻科の甲状腺がんの手術の助手に入ったことがある。人手が足りないと気軽に他科に応援を依頼するのが市立病院の慣例だった。耳鼻科の部長は手術が上手かった。そこで痛感した。洗練された術式とはこういうものだ。一般外科医が手を出すべきじゃない。

ちなみに血管班は腹部大動脈瘤の人工血管置換術がメインで、血管吻合は全ての手術の中で最も難しい技術とされる。血管吻合をマスターするのも魅力的だったが、最近はステントという技術が発達して血管吻合の手術が少なくなった。この班も魅力を感じない。

そんな訳で食道班に入れたのは希望通りで幸運だったが、大学病院の外科は内部が最悪だった。僕の憧れの筆頭講師は、筆頭と言えば聞こえはいいが、要するに万年講師で、それ以上の出世の道を断たれた男だ。自分よりも年下が先に准教授になっている。BMWのM5のエンブレムを外していたのは、教授よりもいい車に乗るといじめられるからしい。教授はメルセデス・ベンツのEクラスのワゴンだった。仕事に興味を失っていたようで、趣味だけに生きているような男だった。でも、趣味に没頭するならまだましだ。他人に迷惑はかからない。

 医局内では仲間同士でいがみ合っていた。助手、講師、准教授。彼らは自分の地位を上げることしか頭になく、目標は教授になることでしかない。順位闘争だ。偉くなるためにライバル同士がお互いに頑張るのなら、順位闘争は生産的で社会に貢献する。しかし、順位は相対的なものだから、頑張らなくても、ライバルの足を引っ張れば目的を達成できる。敵は身内の中にいる。

大学病院は教育機関であるとともに、アカデミックな学究の最先端の機関だ。しかし、僕が知る限り、近年の医学の進歩は薬屋と機械屋の功績で、臨床医の役割りは彼らの下働きでしかない。最先端の医療器具で手術をしたからと言って、自慢にはならない。それが使えなければ恥だが。

地道に研究をしている様子の先輩もいたが、注目される成果を出した先輩を知らない。それらは基礎医学系の医者の仕事で、臨床医の仕事じゃない。ちなみに、研究で成果を出す必要はない。研究は論文の数だけで評価される。誰も他人の論文を読まないから、内容は評価されない。

 名誉だけが目標の人生で、清貧を良しとし、開業して金を稼ぐ医者を馬鹿にする。本音は自分の名誉のはずなのに、彼らの口から出るセリフは、決まって「患者のため」だ。しかし、患者のためにあるのが医療の前提で、そんな当たり前のことが医者の口からわざわざ出たら、その医者には他意があると思っていい。しかも、陰では金稼ぎに夢中だから始末が悪い。金が欲しければ堂々と働けばいい。

 大学病院に勤務して半年を過ぎた頃から、僕は自分が医者であることに疑問を感じ始めていた。医療行為とは何だろう。患者のためにあるのではなく、医者のためにあるのか。あるいは、僕が不真面目な怠け者だから、学究というアカデミックな道で努力している先輩たちを理解できないのか。

自己嫌悪になって大学を止めたくなっていた時に、国境なき医師団に参加してアフリカから帰って来た同級生に会った。彼からその話を聞き、国境なき医師団に参加するのもいいかもしれないと思った。ボランティアをするいい子ちゃんを装って、大学から脱出するには絶好の名目だ。


 申し込みをして決定するまでに二カ月がかかり、正月明けにアフリカのドワイエ共和国に派遣されることに決まった。国境なき医師団からの書面を教授の所へ持っていくと、さすがに教授も即座には言葉が出なかった。

「何で事前に私に相談しなかった」と言って、苦虫を噛み潰したような顔で許可してくれた。事前に相談したら許可してくれなかっただろう。医局長は不機嫌だった。働き手が一人減るのだから当然だろう。

 国境なき医師団は無報酬ではなかった。大学病院の非常勤医師としての給料よりもむしろ高額をくれる。アルバイトが出来ないからトータルでは収入が減るが、アフリカ滞在中は生活費から交通費までまったく金がかからないというから、出費も減る。

出発は1月の寒い時期だったが、赤道よりも南で南半球だから、夏の真っ盛りのはずだ。2ケ月間だから、帰ってくるのは3月の中旬だ。大学病院勤務は3月の末で終わるから、直ぐに何処かの関連病院に転勤させられるはずだ。万事思惑通りだ。


期待に胸を膨らませて成田空港を発った。快晴で空には雲一つない。幸先が良い。途中パリでトランジットして、ドワイエ共和国の首都、セント・ジョージのチッペンデール空港に着くまでには丸一日以上がかかった。着陸のためのシートベルト着用のサインが出て、座席から外を眺めているとセント・ジョージの街並みが見えてきた。意外だった。普通の都会だ。ジャングルを切り開いた未舗装の滑走路を期待していたわけではないが、あまりにも普通で、日本やヨーロッパの都会と変わらない。ビルの立ち並ぶ景色に少々ガッカリした。

空港には国境なき医師団が用意してくれた車が待っていた。車は空港の正面玄関の前のロータリーを回って市内に向かって走り出した。ロータリーの真ん中に銅像があった。その銅像は鳩の糞で汚れていた。どこの都会でも同じだ。いや待て、ここはアフリカだから鳩じゃないかも知れない。もっと珍しい鳥を期待したが、やはり鳩だった。ドバトだ。道の脇の広場には見慣れたドバトがいた。

しかし、市内を通過したときに僕の印象は変わった。空からは普通に見えたビル群は荒れ果てていて、ここが2年前までは戦場だった事を思い出した。停戦が成立して2年とちょっとしか経っていない。ビルの壁には銃弾の跡が生々しく、街中には多くの人々があふれ、スラム化している。気の滅入るような風景を通り過ぎて橋を渡ると郊外へ出た。木々が立ち並ぶ郊外の風景は気が休まる。しばらく行くとゴシック風の古風な建物が見えてきた。英国の植民地時代の総督府だった建物だ。ここは戦場にならなかったらしく、建物は戦火を免れていた。総督府が現在の市庁舎で、その隣のかつての総督の公邸が病院になっていた。

この病院にもガッカリした。ジャングルの中のテント張りの野戦病院を期待していたわけではないが、建物はゴシック風なのに内装はリフォームしたらしく現代的で、日本の病院と変わりない。

しかし、我々医師団の発足式は魅力的な場所で行われた。市庁舎の庭で、そこは素晴らしい英国式の庭園だった。日本人は僕一人で、見渡すと年齢は様々だ。定年退職して参加したのかと思われる医者もいれば、まだ医者に成り立てのホヤホヤだろうとしか見えない若い人もいた。

東洋系の男性が二人いたが、韓国と台湾の医者だろう。名簿で見た覚えがある。その時に美しい女性医師に気付いた。東洋系か西欧系か、どちらともとれる顔だ。アフリカ系には見えないが、肌はやや褐色だ。僕が彼女を見ると、彼女も僕を見た。目が合った。僕は目をそらすことが出来ずに見つめてしまった。彼女は微笑んだ。そして、僕は恋をした。


式が終わった時に、白人の長身の男が僕に近付いてきた。透き通るような白い肌にブルーの瞳、ウエーブのかかった美しい金髪、細く尖がった高い鼻、角張った顎、端正な美形で、まるでナチスドイツの親衛隊かヒットラー・ユーゲントようだ。ちょっと構えた。

「君は外科医だね、僕は麻酔科だ、よろしく。アンディと呼んでくれ。米国人だ。君は日本人だろ」

「ああ、消化器外科の大地大典と言う。よろしく、アンディ」

麻酔科医の方から先に挨拶されたのは初めてだ。麻酔科医は無愛想な人種だ。〝俺が麻酔をかけてやらなければ、お前は手術ができないだろう〟と言わんばかりに、恩着せがましい態度をとる。しかも、麻酔科医はチビかブサイクと相場が決まっている。美形でカッコいい男は麻酔科医にはならない。それにしても、やけに愛想の良い男だ。ニコニコして、ナチスのような印象は一気に崩れた。

礼儀正しく愛想の良い医者は、自分の腕に自信がない。信用できない。腕に自信があれば、医者は横柄になる。

「ドクター・ダイチ、君のことは何と呼べばいいのかな」

既にドクター・ダイチと呼んでいるのだから、それでいいだろうとも思ったが、愛称で呼び合うのが彼らの習慣だ。

「僕のニックネームはダイテンだ、そう呼んでくれ」。ダイダイと言おうかダイテンと言おうか迷った。どちらも子どもの頃以来呼ばれたことのないあだ名だ。でも、僕はダイテンの方が気に入っていた。いずれにせよ、ダイスケとそのまま呼び捨てにされるのは避けたかった。

「オーケー、ダイテン」

アンディは自分が先に下手に出たが、ここで立場が逆転した。僕はフルネームを名乗ったが、彼は苗字を名乗らなかった。まあ、名簿があるから秘密ではないが。


仕事の二日目に、早速、僕が執刀する手術の麻酔をアンディが担当した。胃潰瘍の穿孔の緊急手術だった。医師団にはもう一人麻酔科医がいるはずだが、まだ顔を知らない。

僕が中央手術部に入った時には、患者はもう運び込まれていた。急いで手術着に着替え、どの部屋でするのかを看護師にたずねた。7番の手術室だと聞き、部屋に入ると患者は手術台の上にねかされていた。アンディは準備が整っているようで、先端にマスクを付けた呼吸回路を片手に、現地人の男性スタッフに何か指示をしていた。二人の女性スタッフが患者に心電図や血圧計を装着している最中だった。手術部の看護師だろう。自動血圧計が患者の血圧を表示すると、アンディはそれを確認して患者の顔にマスクを載せた。すぐに全身麻酔機のほうに手を伸ばし、吸入麻酔薬の気化器のダイアルを回した。

そのまましばらく、アンディは患者が呼吸をする様子をじっと観察していた。静脈麻酔薬を投与する様子がない。吸入麻酔薬だけで患者を眠らせるつもりのようだ。左手でマスクを軽く押さえたまま、じっと動かない。僕はとりあえず、「よろしく、アンディ」と挨拶をした。

するとアンディは僕の方を見て、空いている右手の人差し指を立てて、マスクの上から自分の口元にあてた。声を出すなという意味か? その時に患者の手が動き出し、マスクを払いのけようとした。

「押さえて」と彼はスタッフに指示して、マスクを強引に患者の顔に押し付けた。三人のスタッフはすでに心得ているようで、患者の両腕と脚を押さえた。1分半ほどで患者は大人しくなった。そこでアンディは女性スタッフに患者の容態を説明させた。まだ聞いていなかったのか、順番が逆だろうと僕は思った。

アンディはマスクから手を離すと、全身麻酔機のテーブルの上に用意してあった薬液の入った5mlの注射器から4mlとちょっとを点滴ラインの途中の三方活栓から慎重に投与した。あの薬液は筋弛緩薬だろう。静脈麻酔薬ではなさそうだ。だが、それでも彼はマスクを持つだけで、人工呼吸はしなかった。患者の自発呼吸に任せている。

ちょっとアンディに不信感を持ったが、そこから先は手際が良かった。筋弛緩薬の効果で患者の呼吸が止まると、マスクをどけ、左手に持った喉頭鏡で口を開け、右手で女性スタッフから気管内挿管チューブを受け取って、気管内挿管を済ませた。

気管内挿管チューブを呼吸回路につなぐと人工呼吸器のスイッチをいれ、そこで初めて、アンディは僕を見て会釈をした。

「よろしく、ダイテン。セボフルランだけで眠らせようとすると、最初の2分15秒間は興奮期がある。悪かった、失礼な態度をとって」

「こっちこそ悪かった。そういう麻酔導入法は初めて見たので知らなかった。失礼した」

アンディは一流だ。あのさりげない気管内挿管はなんなんだ。気管内挿管は全身麻酔をかける時の一つの儀式だ。しかし、アンディには衒いがなく、躊躇もない。さりげなく済ませてしまった。僕はアンディを見直した。愛想の良い医者は腕が悪いという、僕の持論に一つの例外が出来た。アンディの印象は二転した。

気管内挿管は麻酔科医の特殊技術だ。これが出来るがゆえに、奴らはデカイ顔をしている。僕だって気管内挿管ぐらいできるが、あれほどスマートにはできない。口の中を血だらけにして結局挿管出来ずに、駆けつけた麻酔科医に助けてもらった事がある。あれ以来、手を出す気になれない。

人間は眠ると呼吸が出来なくなる。睡眠時無呼吸という症状がその典型だが、その一歩手前がいびきだ。いびきをかく人は多い。人間は眠ると喉の前の壁と後ろの壁がくっつき、空気の通り道が塞がれる。気道の閉塞だ。そこを無理に空気が通るから〝いびき〝という音が出るのだが、この時の呼吸の量は通常の半分以下だ。換気量が足りない。普段の睡眠なら、息が苦しくなれば寝がえりを打ったり目が覚めたりして自分で気道を開通させる。しかし、薬で眠らせるとそうはいかない。そのまま放置すれば患者は死亡する。

眠った患者の気道を開通させる手段は色々とある。一番確実なのが、口から気管までチューブを入れてしまう気管内挿管だ。小指の太さほどの気管内挿管チューブだが、これを確実に気管に入れられば、患者は眠ってもこの管を通して息が出来る。死ぬ事はない。

小さな子供や精神的に不安定な患者では、簡単な検査でも、眠らせて行った方が良いケースはいくらでもある。鎮静薬や睡眠薬を静脈投与すれば簡単なことだ。ちょっと眠らせただけでは、そう簡単には気道は閉塞しない。しかし、気道が閉塞して呼吸停止する患者がたまにいる。滅多にいないが、たまにいる。ここが問題だ。日常的に睡眠薬を静脈投与して仕事をしていれば、いずれはそういう患者に出くわすだろう。一人でも患者を死なせると面倒なことになる。麻酔科医に依頼した方が無難だ。それで麻酔科医に頭を下げることになる。

市立病院の麻酔科医は簡単な検査程度の麻酔でも二つ返事で快く引き受けてくれた。しかし、大学病院の麻酔科医はそうではなかった。〝なんでそんなことで、いちいち呼び出すんだ〟と言わんばかりに、恩着せがましい態度をとる。病気の治療は一切しない中途半端な医者のくせに、気管内挿管を確実に出来るというだけで態度がデカい。不愉快な連中だ。アンディがそういう人種ではないことを祈った。

僕は急いで患者のお腹の皮膚を消毒して、手洗いをして、手術の準備をした。アンディに「いいですか」と声をかけると、彼は「お願いします」と答えた。

僕は電気メスで一気に患者の腹を開いた。10cmほどでいいだろう。大きく開ける必要はない。プラスチック製のディスポーザブルの開創器で傷を丸く開き、胃の穿孔部を探した。胃に開いた潰瘍の穴はすぐに見つかり、数針かけて閉じた。他の部分を点検して異常がないのを確認して、お腹の中を洗って傷口を閉じた。

昔は、胃潰瘍の手術は胃を取ってしまうことだった。穴を閉じても、すぐに新しい穴が開くからだ。しかし、現在では優れた内服薬があるので、薬を飲めばもう穴は開かない。この患者のように実際に穴が開くのは、胃が痛いのを我慢して医者にかからなかった患者だ。

「速いな、手術時間は19分間だ」とアンディは言って、僕にウインクをした。

僕は何も言わずに微笑んだ。一流の麻酔科医に手術の腕を認められたような気がして、ホッとした。

 

僕は発足式の時に見た女性医師に会いたかったが、なかなか見かけなかった。四日目にして、やっと、彼女と手術部で出会った。向こうから歩いて来る姿を見て、すぐに彼女と気付いた。徐々に近づいてくるので、胸が高鳴った。挨拶をしようか迷っていたら、向こうからニコッとしてくれた。思い切って声をかけた。

「こんにちは。消化器外科の大地と言います」

「初めまして。形成外科のフランスです。フランソワーズ・フランス。よろしくお願いします」

「こちらこそ」そう言ってすれ違って、再びお互いに歩き出した。それだけだったが、嬉しかった。名前を知って、フランス人かな? と思った。

その翌日、彼女のする植皮の手術の助手に入るように、医師団のリーダーから言われた。もちろん快く引き受けた。

脚の火傷の皮膚移植だった。麻酔科医はアンディではなかった。白人だがブサイクな小男で、むしろホッとした。無愛想な男で、いかにも麻酔科医らしい。

形成外科医のする本格的な植皮の手術がどんなものか、僕は知らなかった。小さな面積の皮膚移植なら経験がある。どこか、少しなら皮膚を取って縫い縮めても大丈夫そうなところから皮膚を取り、皮膚を失った部分に移植する。しかし、この患者は右足の大腿部の前面全てにやけどを負っていて、そこを全て覆わなければならない。こんなに広い部分の皮膚をどこから取ってくるのか。僕はポカンと患部を見つめてしまった。

「分層植皮をするの。下腹部から分層で皮膚を取るから、お腹の部分を広く消毒して下さらない」

「あ、ハイ」しかし、僕が手伝えることは他にほとんどなかった。

 彼女は、僕が見たこともない道具を取り出した。アルミ製で、直径20cm、長さ10cm程の円筒の三分の一ぐらいの扇型の道具だ。中心からアームが出ていてい、そのアームが円筒の円周部分に沿って動く。アームを片側に固定すると、円筒の面を揮発性の液体で拭き、円筒の表面に両面テープを貼り付けた。

「エーテルよ。お腹の皮膚もこれで拭くの。そうしないと良くくっ付かないから」

と言いながら、彼女はアームに、円筒の幅にピタリと合う10cm程の長さの刃を取り付けた。そして刃の隙間を慎重に調節した。

お腹の皮膚を拭いたエーテルが蒸発すると、両面テープの表面の紙を剥がし、円筒をお腹に押し付けた。押付ける力を緩めると円筒が反動で持ち上がり、両面テープに張り付いた皮膚が持ち上がった。アームに取り付けた刃を横に往復させながら、その皮膚を削いでいった。円筒をゆっくりと回転させると、薄く剥ぎ取られた皮膚が円筒の表面に残り、徐々に面積を増やしていった。

 皮膚は表層と内層の二層に分けても、どちらも新たに再生する。はぎ取った表層の皮膚を火傷で皮膚を失った部分に移植する。それで皮膚の面積が倍に広がる。なるほど。

「欠点はどちらも表面が汚らしくなることよ」と言いながら彼女は作業を続けた。しかし、両面テープの全ての面積を取り終わる前に、途中で皮膚をメスで切って終わりにしてしまった。それっぽっちでは火傷の部分の全ては覆えない。

 今度はその皮膚片を円筒から剥がし、プラスチックの板の上に載せてローラーのような機械に通した。プラスチックの板から皮膚を剥がすと、皮膚に細かい切り込みが入って網の目になって大きく広がった。まるで大根の桂むきだ。温泉旅館の宴会で出される、活造りの刺身の上にかぶせられている大根の網を想いうかべるとよい。あるいは、七夕の笹に吊るす折り紙細工の飾りか。

 その皮膚の網をさらにいくつかに切って、大きく広げて火傷をしている部分にステープラーでカチャカチャと留めた。ホッチキスのような針で皮膚を縫い付ける器具だ。はみ出した部分は切り取り。切り取られた皮膚辺は、まだ覆われていない部分に、小さな針と糸で縫いつけた。

 ここからやっと僕の出番があった。彼女が結んだ糸をハサミで切る役目だ。細かい皮膚の切れ端がまだ覆われていない残った火傷の部分に縫い付けられると、全ての火傷をした皮膚が覆われた。採取した皮膚は1ミリ四方の無駄もなく使用された。

 見事だった。あれっぽっちの皮膚で火傷の部分を全て覆った。しかも、あっという間に。手先が器用なだけではない。図形の認識能力というか、空間認識能力が優れている女性だ。しかも、ジグゾーパズルのように皮膚辺を配置する能力は、情報処理というまた別の知的能力だ。

 「広い範囲の火傷はこうするしかない。でも、治ったときの肌は極めて醜い。網の目になっているので、網の目の一つ一つが盛り上がって魚の鱗の様になる」と彼女は言った。

 形成外科というと美容形成を真っ先に思い浮かべるが、形成外科は戦時下の皮膚移植で発達したと彼女が説明してくれた。傷を負った兵士を早く戦場へ戻すための技術だ。自分は植皮で皮膚の機能を回復させるのが専門で、美容形成は専門外だと主張した。

 しかし、あれだけ空間認識能力が優れていれば、美容形成ならさらに才能を発揮できそうな気もした。

フランソワーズは一つ一つの操作に躊躇がない。慎重に行わなければならない操作も、簡単な操作も、どちらも指の動きのスピードは同じだ。急ぐ様子もなければ、迷う様子もない。淡々と作業を進める。この子は度胸がある。〝美人は気が強い〝という、僕のもう一つの持論通りだ。


午前中の手術が終わって、お昼前後に時間の余裕がある時は市庁舎の食堂へ行く。病院の中にも職員用の食堂があったが、隣の市庁舎の食堂のほう快適なのを四日目に知った。英国植民地時代からの由緒あるレストランで、調度品や食器類は一流だ。問題は料理も英国風なことだが、僕の口には合った。僕は食通ではない。しかし、一番魅力的だったのが朝食だ。朝が弱い僕が、早起きをしてここに来るようになった。薄く硬いトーストとカリカリに焼いた枯れ葉のようなベーコンはハマる。しかも、目の前の庭には素晴らしい喫煙席がある。そこは本格的なイングリッシュガーデンだった。

 手前は芝だが、芝生の向こうには素晴らしい景色がある。自然の雑木林のようにも見えるが、巧みに計算されていることは僕にもわかる。低い灌木、それより高い広葉樹、その後ろにはさらに高い針葉樹が植えられていた。 三列に木々を配することによって、鬱蒼とした奥行きを感じさせることが出来る。イングリッシュガーデンは元々はキツネ狩りをするために作られたという。本来は山野で行うキツネ狩りだが、ほとんどの土地が個人の所有になり、野原でも勝手に狩りをすることが出来なくなった時代に生まれたもので、自分の庭にキツネを放って狩りを楽しんだという。

 キツネが隠れられそうな茂みがあちこちに配されているが、それらは生垣でつながってはいない。キツネが隣の茂みに移動するには、何の遮蔽物もない開かれた芝生の上に姿を現さなければならい。そこに現れたキツネを当主とその招待客が馬に乗って追いかけるのだが、馬で走り回るにはフランス式の整形庭園では都合が悪い。きちんと直線的に整えられた植え込みの角を踏みつぶされたら、その修復には手間がかかる。しかし、雑木林風ならさほどの手間はかからない。

 この国は赤道に近いが、首都のセント・ジョージは山の中腹にあって標高が高い。気候はイングランドに近いと言う。初代の総督が平地の熱帯雨林を嫌って、自分の故郷の気候に近いここを首都に選んだらしい。だから木々が英国風に見えるのかもしれないが、鳥が違う。色彩が鮮やかで、いかにもアフリカ風だ。見たことのない鳥がいた。ところで、キツネはいるのだろうか。もしかして、アフリカでしか見られない珍しい動物がいるのかもしない。あるいは、いきなりライオンに出くわしたりするのか。

 庭のテーブルは喫煙席と禁煙席に分かれている。手前が禁煙席、向こうが喫煙席である。こんなアフリカの僻地の野外の空間にまでWHOの力が及んでいるとは恐れ入る。しかし、喫煙席の方が庭の景色を堪能できて特等席だった。しかも、テーブルと椅子は藤製で、凝った造りの美しいものだ。野外でよく使われる白いプラスチック製の安物ではない。

 僕は最も先端の席に座った。目の前には視界を遮るものが一切ない。僕が席につくと、金色のトリムのある真っ白い制服を着た真っ黒い顔のウエイターが注文を取りに来た。「コーヒーを」と一言言った。

「マシンのものと、ハンドドリップがございますが、どちらにいたしますか」とウエイターが聞いてきた。

「ハンドドリップ? そんなコーヒーがあるんですか」

「はい、国産の最上級の豆を使用しております」

「それにして」

「かしこまりました」

 そう言えば、この国はコーヒーの産地としては無名だが、コーヒー豆が主要な農産物であることを思い出した。

 花柄の少女趣味の垢ぬけないコーヒーカップと同じ柄のポットが運ばれて来たときに、この庭にライオンはいるのかと聞いてみた。

 「ノー」、彼はニヤニヤして答えた。「ここには大型の動物は入って来れません。入れるのは空を飛べる鳥だけです」。

「柵があるようには見えないけど」と僕が言うと、ウエイターはさらに嬉しそうな顔をして、「庭の端まで行って御覧なさい。ハッハーとうなづくような素晴らしい仕掛けが見られますよ」そう言いながら、彼はポットからカップにコーヒーを注いだ。

「あっ、そう」 

ポットから注がれたコーヒーは温いが、美味しい。むしろこの温さがいい。学生時代に大学のそばにあったヘーゼル・アイという喫茶店を思い出した。無口なマスターが入れてくれるコーヒーに似ていた。口当たりがソフトで、甘みがあり、酸味もある。

ハンドドリップと聞いて、マスターが、注ぎ口の細いポットからネルのフィルターの上にポタポタとゆっくりと湯を注ぐ、あの姿を思い出した。ヘーゼル・アイという店名は彼の愛読書からの引用だそうだ。真っ白い制服のウエイターはポットを残していったので、もう一杯分あるようだ。


翌日は虫垂切除術が縦に4例組まれていた。いわゆる盲腸の手術だが、この手術は執刀医が自分で腰椎麻酔を行う。下半身麻酔だ。市立病院ではほとんどを麻酔科に依頼して全身麻酔で行っていたが、大学病院では麻酔科と折り合いが悪かったので、自分で腰椎麻酔をするのを覚えた。アンディに頼みたかったが、ここでは麻酔科医は人手不足だ。彼に直接頼むのも悪い。頼めば二つ返事で引き受けてくれそうたが。しかも、うっかり麻酔科に依頼すると、もう一人の方かもしれない。気心の知れない麻酔科医に頼むぐらいなら、自分でやったほうが気楽だ。

そうは言っても、自分で麻酔もすると気疲れする。一例目が終わった時に、さっそくたばこが吸いたくなった。しかし、二例目との入れ替えにそれほどの時間はかからない。一番近い喫煙場所は正面玄関の外の路上だ。中央手術部を出て玄関ホールの広い階段を下り、外に出た。玄関の前はさすがに遠慮して、道路を横断して、現地人が数人でたばこを吸っている所に行った。

 3人の黒人がいたが、吸っているのは一人だけだった。僕はたばこに火を付け、その一人に会釈した。彼も微笑んだ。隣りにいた背の低い少年とも思われる若い男が僕に向かって手を出した。意味がわからなかったが、もしかしてたばこを欲しがっているのかと思い、たばこのボックスの蓋を開けて軽く振り、一本だけを上手く飛び出させてその男に差しだしてみた。彼は嬉しそうに一本を取り、自分のポケットから使い捨てのライターを出して火を付けた。なんだ、ライターは持っているのか!

その後ろにいた男は背が高く、肌の色が最も黒く、鋭い目つきで僕を凝視していた。この男にもたばこを勧めてみた。彼は穏やかに笑って手を振り、僕の差し出したたばこを受け取らなかった。僕は苦笑いをして手を引っ込めた。彼は吸わないのか。

無言のまま、三人のたばこの煙が目の前で混ざり合った。僕は吸い終わると携帯用の灰皿に吸殻を入れ、たばこを受け取った一人に会釈をして、立ち去ろうとした。その時に、その少年ともおぼしき男が嬉しそうに微笑み返してくれた。ちょっと思った。可愛らしい目をしている。

ポケットから再びたばこの箱を出して、数本残っているのを確認してから一本を取り、その一本を自分の耳に挟んで、残りを彼にあげた。彼は嬉しそうに受け取った。

そうしたら、背の高い男が意外な行動に出た。その少年とおぼしき男からたばこの箱を取り上げ、一本を取り出して彼に返し、その一本を自分の目の前に立てた。そして、僕に微笑んだ。僕が微笑みを返すと、彼は自分のたばこを取り出して僕に差しだした。なんだ、この男もたばこを吸うのか。

何と、ダビドフのシガレットだった。一本もらって火を付けた。彼も僕のたばこに火を付けた。お互いに相手のたばこを吸った。妙な男だ。

大分時間が経過したが、僕のドクター専用携帯電話は鳴らなかった。患者の入れ替えに手間取っているようだ。手際の悪い看護師で良かった。現地の人とのささやかなコミュニケーションの時間は、言葉は一切交わさなかったが、楽しかった。ダビドフを数回吸ったときに電話のベルが鳴り、僕は「直ぐに行く」と答えてその場を去った。電話の鳴るタイミングも絶妙だった。それ以上居たら気まずくなっていたかもしれない。

帰り際に、手術部のスタッフで、アンディが親しそうにしてた黒人の男性看護師がたばこ吸っている姿が交差点の向こうの端に見えた。彼もたばこを吸うようだ。挨拶をしようと思ったが、彼はこちらを向かなかった。


その日は緊急の虫垂切除術も加わって、結局は5例の手術をした。ろくに昼休みも取れなかった。疲れた。夕食は職員食堂で済ませ、宿舎へ帰ってスコッチをミネラルウォーターで割って飲んで、寝た。

しかし、翌日は暇だった。午前中の手術が終わると、午後の手術の開始まで1時間半以上の時間が開いた。

市庁舎の食堂に行くと、あの形成外科医が一人でテーブルに座っていた。ちょっと迷ったが、思い切って声をかけた。

「こんにちは、ドクター・フランス。よろしいですか」

「あら、ドクター・ダイチ。どうぞご一緒に。・・・・嫌ね、ドクターなんて呼び方。それは仕事の時だけでいいわ。ここではフランソワーズと呼んで」

彼女の顔を真正面から見てドキっとした。目が印象的で魅力がある。ブルーではなく、むしろグリーンというか、うすいやや茶色がかった虹彩だ。もしかして、この目がヘーゼル・アイか。

「わかった、フランソワーズ。じゃあ、僕のことはダイテンと」

「よろしく、ダイテン。ところで、あなたの御質問にお答するわ。フランソワーズ・フランスは語呂の良い名前だけど、結婚して苗字が変わったわけではありません。まだ独身よ。母親が再婚して苗字が変わったわけでもありません。生まれた時に両親が付けてくれた名前よ。私は自分の名前が気に入っています。子どもの頃はよくからかわれたけれど、両親を恨んだことはありません」

「ハイ、・・・・・?」

「必ず聞かれるから、聞かれる前にお答えいたしました」

「僕も似たようなものだ。僕の名前はダイチ・ダイスケ、語呂の良い名前だが母親が再婚して苗字が変わったわけではない。生まれた時に両親に付けられた名前だ。小学生の頃には友達にからかわれたが、僕は自分の名前を気に入っている。小学校の時の僕のあだ名は〝ダイダイ〝だ。両親は健在で、離婚も再婚もしていない」、必ず聞かれる質問の答えを一気に言った。

「子供の頃はダイダイで、何故、今のニックネームはダイテンなの」

「そっちは漢字の読みかたを間違った奴が付けたあだ名だ。でも、僕はその方が気に入っている」

「あなたは日本人よね」

「うん」

「日本人は一目見ただけでわかるわ。日本人は漢字を複雑にした。日本人でも読めないんだ」

「総理大臣でもね。それにしても、お互いに自分の名前では苦労させられているみたいだね。ダイダイは子どもの頃に悪ガキが僕を虐めるために付けたあだ名だ」

 「やあね、子どもの虐めってどこでも同じなのね」

「ところで、君はどこの国の人なの」

「私のことを何人だと思う。」

「名前から察するとフランス人」

「8分の1だけ当たり。曽祖父がフランス人だったの」

「言葉が完璧なクイーンズ・イングリッシュだから、かえって迷う。生粋の英国人と言うよりも、語学学校で習った英語に聞こえる。しかも、顔を見ると東洋系にも見える」

「正確な推察ね。そう、混血よ」

「そういう意味じゃないよ。君の顔は完璧な美人だ。卵型の輪郭に広いおデコと細っそりとした顎。はっきりした二重まぶたの大きな目。そういう顔は、どの民族にも見られる典型的な美人の顔だ。日本人にもいる。中東に多い顔だけれども、アフリカ系にも居る。しかし、中東やアフリカ系とは鼻と口が違う。彼女らの鼻と口はクセがあって、印象がもっと濃い。君の鼻は細っそりと尖っていてクセがない。口も綺麗だ。そこの印象が濃くないから東洋系にも見える。しかし、眼が違う。目は明らかに西欧系だ」

「褒めてくれているようだけど、人の顔をそんなに詳細に分析しないでよ。初対面なのに」

「ごめん。それで、国籍はどこなの」

「イギリス人。香港で生まれて、8歳の時に家族で英国に移住したの。香港が中国に返還された時に。それにしても、あなたの顔の分析は正確よ。私は中国人の血が4分の1、多分、漢民族。英国のアングロサクソン系が4分の1、ケルト系が8分の1。スウェーデンのノルマン系が8分の1。ユダヤ人の血が8分の1入っているけど、ユダヤ人というのは宗教の分類だから、ヨーロッパ系だったらしいけど民族の系統はわからない。残りの8分の1が曽祖父のフランスのノルマン系で、曽祖父が名乗ったフランスというファミリーネームを代々名乗っている。それ以前のことは知らない」

「多国籍だね」

「いいえ、無国籍」

「どう違うの」

「自分が誇れる国がない。あなた、日本人であることを誇りに思っているでしょう」

「そう思うしかないじゃないか。それ以外にはなれない。それにしても、自分の家系をそれだけ詳しく知っているのは凄い。僕は、父が京都出身で母が東京生まれだということぐらいしか知らない」

「それがいいのよ。私は自分のルーツを知りたくて、一生懸命に調べて勉強したの。でも、知っても無意味。私はどこの国にいても外国人。パリで2年間暮らしたことがあるけど、パリが一番嫌だった。フランソワーズ・フランスなんて名前でフランスでは暮らせない。生粋のフランス人ならともかく、私のフランス語は外国人だと直ぐにわかる。それでこんな名前だから、かえって馬鹿にされるのよ。英国にいるとフランス人か中国人、でも、英国人はフランス人が嫌い。中国人で通した方が気楽。香港では白人の子」

「そんなもんか。日本人は白人に対してコンプレックスがある。色々な理由があると思うけど、やはり、白人は外見が美しいからだと思う。君ぐらい美人なら、何人でも関係ないと思うげど」

「確かに、美人であることは認めるわ。でも、それが仇になるのよ。美人であるがゆえにアラ探しをされるの」

「なんか、わかるような気がする」

「それにしても、私の言葉を語学学校で習ったものと見抜くのは凄いは、英国人でもわからないのに。イギリスに移住した時に、親に語学学校に行かされたの。香港訛りがあると馬鹿にされるからって」

「僕も親に語学学校に行かされた口だ。日本に居て英会話を身に付けるには語学学校に通うしかない。僕の場合はアメリカンイングリッシュの学校だった。その方が仕事に役立つと父に説得されて。そこで教わったんだ。英語のクセで出身地を推測する方法を」

「そうなんだ・・・・。ごめんなさい、身の上話をペラペラと喋っちゃった。初対面なのに」

「こっちこそゴメン、初対面で随分立ち入ったことを聞いちゃったね」

「そんなことないわよ。国籍を聞くのは単なる社交辞令。私がきちんと説明したかっただけ。何故か、あなたには」

「・・・・・・」

「だって、イギリス人と一言言えば済む事でしょ」

「ありがとう」

これで打ち解けた。食事が済むとフランソワーズが言った。「コーヒーが飲みたいけど、私はたばこが吸いたいから、あっちの喫茶室へ行くわ。あなたはどうする」

「僕もたばこが吸いたい」

「あら、あなたもたばこを吸うのね、それは良かった。じゃあ、ご一緒しましょう」彼女は立ち上がった。

「あそこの喫茶室もたばこが吸えるんだ。知らなかった。でも、庭に出ないか。天気もいいし」

「えっ、あそこも吸えるの」

「うん、コーヒーも飲めるよ」。二人とも、一度喫煙場所を見つけると、それ以上は探さないようだ。僕のお気に入りの最前列の席にフランソワーズを誘った。

「素敵な所ね。中から見ていただけじゃわからなかった。イングリッシュガーデンじゃない」

「イギリス人なら、見馴れているだろうけど」

「まさか、こんなに広々としたイングリッシュガーデンは見たことがない」

「そんなもんか」

「あなた、もしかして、日本のお宅には日本庭園があるの」

「もちろん、ない」

「そんなもんでしょ。それより、ここならコーヒーよりも紅茶の方がいいかな。一応、英国人の私としては」

「いや、コーヒーがいい。ここのコーヒーは美味しい。たばこにはコーヒーだ」

「そうね、コーヒーが飲みたい」

「ところで、君の目は魅力的だ。もしかして、ヘーゼル・アイというのは君の目のことかな」

「らしいわね、よく言われるわ」

「じゃあ、やっぱりコーヒーだ」

「・・・・何のこと?」

「深い意味はない、気にしないでくれ」

先日のウエイターが来たのでハンドドリップのコーヒーを二つ注文した。

フランソワーズがバッグからたばこ出して火を付けたので、僕もポケットからたばこを出して火を付けた。一服すると彼女は言った。

「私、たばこを吸わない男の人って嫌いよ」

 いきなりだったので、その言葉の真意を測りかねた。次の言葉がなかったので、僕も言ってみた。

「僕もたばこを吸わない女性はダメだ。結婚するなら吸う人にしようと決めている」

「あら、私は合格ね。それにしても極端ね」

「デートの時は、男はたばこを吸うほうが素敵なんて言ってる女だって、結婚すれば、必ず、止めろとか減らせと言うに決まっている。僕の母がそうだ。父が言ってた」

「まだいいじゃないの。デートの時は吸わせてくれるのなら。男はいいわよ。男と女で立場が逆だと悲惨なんだから。君のためを思って言ってるんだとか言っちゃって、強引に私にたばこを止めさせようとした男がいたの。二人で山に行ったときに、景色の良い所に出て休憩したの。一服しようとしたら、いきなり私のたばことライターを取り上げて谷底に投げ捨てたのよ」

「山でものを捨てちゃいけない」

「フフッ。おまけに私に抱きついてきて、図々しい男。頭に来たから、思いっ切りあそこを蹴飛ばしてやった。もう、不愉快で不愉快で、山を下りてくる時は最悪だった」

「それはお気の毒に。でも、ご無事でなにより」

「あれ以来、たばこを吸わない男は嫌。絶対に二人きりにならないようにしている」

「君こそ極端だね。トラウマになってるのか」

「かも知れない。大して好きでもない男と、二人で山に行ったのが間違いね」

「たばこを吸うか吸わないかは、本人の持って生まれた性格の違いだ。つまり、遺伝的な資質の違いだ。吸う人間と吸わない人間は人種が違う。実際の人種の違い、たとえば肌の色の違いよりも、はるかに大きな違いがある」

「そのとおりね。黒人の仲のいい友達がいるんだけど、彼女は吸う。でも、白人や中国系でも、ものの考え方が全然違う人がいて、そういう人に限ってたばこを吸わない。そういう人とは話が合わないわ。まあ、吸っていても話が合わない人はいくらでもいるけど」

喫煙者同士だと初対面でも話題に困らない。最近はたばこがどんどん吸い難くなっているから、その話題ならオーケーだ。

コーヒーが運ばれてきた。例の少女趣味のカップとポットだ。

「素敵なカップ」

「さすが、女の子だね」

「あら、嫌い? ウエッジウッドの廃番のカップよ。欲しくてネットで探したら、高くて買えなかった」

「いくらだった」

「忘れた」

僕はあらためてカップをよく見た。手書きのボタニカルアートで、スミレの花が描かれていた。

「そう言われてみると、いいカップだ。手書きだね。プリントじゃない」

「見る目があるわね。あなたがそういう人でよかった。男の人ってこういう物にあまり興味がないから」

「ヘーゼルアイの君にふさわしいコーヒーカップだ」

「・・・・・・」


 市庁舎の庭は僕のお気に入りの喫煙場所になった。お昼は時間が許す限りここで昼食を食べた。フランソワーズに会えるかもしれないという期待もあった。

 しかし今日は、アンディが国連平和維持軍の将校と連れ添って僕のテーブルに来た。

「いいかい?」

「もちろん」

「はじめまして、国連平和維持軍のエドワーズ中尉です」と軍服を着た男は自ら名乗った。

「高校の同級生なんだ。偶然にここで出会った」とアンディが説明した。

「アリゾナの高校です。僕らの故郷です」と中尉が言った。

「内戦は終わったと聞いていますが、まだ平和維持軍は駐留しているんですか」

「ごく一部です。平和の維持が目的ですから、平和になってもしばらくは必要なんです」

「なるほど」

「実は、まだ小規模な戦闘は続いています。民族同士が殺し合うと、恨みはさらに根深くなります。簡単には終わりませんよ」

「そうなんだろうね」と僕が他人事のように言うと、エドワーズ中尉の表情が一瞬強張った。その空気をアンディは敏感に察知して、「今日は涼しくていいね」と話題を変えた。当たり障りのない会話とは、天気の話題だ。これは万国共通だ。

僕はたばこを吸いたくなっていた。そのために喫煙席に来たのに、初対面の人を目の前に遠慮していた。そうしたら、エドワーズ中尉がたばこを取り出し、「吸ってもいいですか」というような意味のことを口にして、僕に会釈した。

「イエス」と答えると、彼はムッとした。しまった、この場合の答えは「ノー」だ。慌てて「ノー、ノー、ノー」と三回繰り返して、自分のたばこを出して口にくわえた。

「早く覚えろよ、これで二回目だ。君は英語が上手いのに」とアンディが言って、自分のたばこに火を付けた。

「エドと呼んで下さい」とその軍人はニコッとして言った。笑顔を見て印象が変わった。何故か、ホッとした。それにしても、エドワーズ中尉でエドか。アメリカ人は愛称で呼び合うのが好きだが、普通は愛称は名前を略す。しかし、苗字を略すこともあるのか。

「オーケー、エド。僕のことはダイテンと呼んで下さい」と言った。それが礼儀だ。

 この時にアンディの名札が気になった。僕は名簿でアンディの苗字をまだ調べていなかった。〝A. アンドリュース〝と書いてあった。

「ところでアンディ、君の苗字はアンドリュースなんだ。アンドリュースを略してアンディなのかい」

「違う。アンドリュー・アンドリュースだ。いまさら何を言うんだ。知らなかったのか。失礼な奴だ」

「失礼なのは君だろう。愛称しか教えてくれなかった」

「確かに。申し訳ない。語呂がいい名前なんで、いちいち質問されてうっとうしいからフルネームは言いたくなかった」

「その質問を当ててやろうか」

「えっ?」

「母親が再婚して苗字が変わったんですか? だろ」

「その通りだ。しかし、これは僕が生まれた時に両親が付けてくれた名前で、僕の親は離婚していない」

「思った通りだ。僕も同じだ。ダイチ・ダイスケで語呂がいい」

「・・・・・君に隠す必要はなかったね」

 この時にエドワーズ中尉の胸を見ると、金属製のネームプレートが付いているのに気づいた。〝E・エドワーズ〝だ。

「もしかして、エドワーズ中尉はエドワード・エドワーズですか」

「エドモンド・エドワーズです」と、笑いながら答えた。「正式に言うと、エドモンド・エドウィン・エドワーズです。イニシャルはE・E・Eですが、E・E・Eだと会話のネタになる。それでE・Eにしています。私の家系はスコットランド出身で、何代か前のジイさんがエドワードだったらしい。その曾々々々祖父に敬意を表して、男の子にはEのイニシャルの名前を付けるんだそうです」

「ご自分のお子さんにも?」

「私はまだ独身です」と言って、エドワーズ中尉はポケットからジッポーのライター出してたばこに火をつけた。彼のライターに目が行った。アメリカ空軍のマークが彫刻してあるジッポーだった。

「ところで、そのライターはアメリカ軍の物ですか」と聞いてみた。

「アメリカ空軍の支給品です」と、中尉はライターを差し出して見せてくれた。「よろしかったら、あなたのジッポーと交換しましょうか」

「えっ?」、僕は自分のライターを見た。しまった、今日はカーボンファイバーのジッポーを使っていた。米軍の支給品で特別の彫刻がしてあっても、ヘアライン仕上げの一番安いジッポーだ。カーボンファイバー製ケースのジッポーと交換するのは惜しい。これは高かったんだ。

「じゃあ、これもお付けしましょう」と、僕が躊躇しているの気付いて、もう一つポケットから出した。「こちらは国連平和維持軍の支給品です」。平和維持軍のシンボルカラーのライトブルーの焼き付け塗装で、白い文字でUNと大きくプリントしてある。

「国連平和維持軍もライターを支給するんですか。全員禁煙させられるのかと思ってた」

「平和維持軍も軍隊です。戦闘に参加する兵士に禁煙させるほど野暮じゃない。我々はWHOとは別組織ですし」

「確かに。肺がんを心配するよりも、もっと切迫した命の危険がある」

「そういう意味じゃありませんよ。禁煙させると兵隊の士気が下がります。しかも、夜中にコソコソと表に出て吸われて、敵対する誰かに拉致されたりしたら困りますから」

国連平和維持軍のジッポーは魅力的だった。日本に帰れば自慢できる。「いいんですか?」。エドは僕のカーボン製のライターに目を付けたようだ。交渉は成立した。

エドはドワイエ共和国の現状を一通り説明してくれた。かつては英国の植民地で、1972年代に独立したと言った。そんなことは日本を発つ前に調べて知っていたが、拝聴した。コーヒーの栽培と鉱物資源が主な産業で、以前は世界中から多くの企業が進出していたという。日本の企業の現地法人もあったらしい。空から見た立派なビル群は、経済が繁栄していたことの証だ。しかし4年前に、経済的に優位にあるカイトド族が貧困のホグマ族を武力攻撃した。その時点でほとんどの企業は撤退した。企業はドライだ。

カイトド族は圧倒的に優勢で、戦闘はエスカレートした。ホグマ族が虐待されていることが国連に知れ、国連が関与した。しかし、関与の仕方が問題だった。なんと、劣勢のホグマ族に武器を供与したのだ。これが戦闘状態を長引かせる結果になった。

弱者同士が争ったとき、強者は弱者の弱い方に加勢する。それは人道的に自然なことだ。当事者の心理は十分に理解できる。しかし、その方法が銃を与えることとなると、双方の死者はさらに増える。二つの民族の確執はさらに深まり、和平の道が遠ざかる。そこで国連は平和維持軍を派遣して、一応は和平交渉が成立した。しかし、それは見かけ上のことだけだった。

本来は選挙で新たな政権を樹立すべきだったが、選挙をすれば、経済的に優位で数でも勝るカイトド族から大統領が出るのは明らかだった。選挙はせずに、国連指導でホグマ族のリーダーが大統領になった。しかし、これではカイトド族が納得するわけがない。彼らにとっては、新たな大統領は欧米の大国の傀儡でしかない。彼らは国連のやり方を認めていない。戦闘は一応鎮静化したが、国連軍の駐留が治安維持に必要だった。

 とまあ、これが、エドワーズ中尉から聞いた話だ。

「ということは、まだ、一触即発の戦闘状態にあるということですか」と僕は中尉に質問した。

「だと思う」

「何でそんな危険な所に、僕らは派遣されたんだ」と、僕はアンディの方を見て言った。

エドワード中尉が答えた。「国境なき医師団は国連とは何の関係もない組織です。彼らは往々にして国連の勧告を無視する」

「・・・・・・」僕は言葉が出なかった。無知過ぎた。

「もしアンディが事前に私に相談してくれれば、ここには来ないように勧めたよ」と中尉は言った。

「昨日偶然に会うまでは、高校卒業以来付き合いがなかったんだ」と、アンディが仕方ないという表情で言った

「ところで、ホグマ族という劣勢の民族に武器を与えたのが間違いだと言いましたが、与えなかったら、彼らは全滅して、それで平和になったということですか。」

「まあ、そう言えないこともないが、そうじゃない。カイトド族は残忍な民族と思われているが、実際には教育レベルが高い勤勉な民族だ。アフリカの先住民族だって、みんながみんな、裸に腰巻だけで、槍を持って走り回っているわけじゃない。それは先進国の連中の思い込みだ。君たち日本人だって、いまだにチョンマゲを結って、日本刀を振りまわしているわけじゃないだろう」

僕は日本人を引き合いに出されたのにカチンときたが、それは顔に出さないようにした。

「ホグマ族は貧困で教育レベルが低い。しかし、たまたま、ホグマ族の土地の採掘権をドイツの企業が入手した。それに支払われた金額がいくらだったのかはわからないが、貧困のホグマ族にとっては破格の高額だったのだろう。実際に富を得たのは三家族だけだが、彼らはいい気になって、その一家の一人の若者がランボルギーニを買った。それがカイトド族の若者を刺激した。セント・ジョージの高級店の店先にそのランボルギーニを停めた時に、カイトド族の若者が数人でランボルギーニを棒で滅多打ちにした。それが発端だ」

「はあ、ありそうな話ですね」

「そうだ。つまらない話だ。日常的な隣人同士の喧嘩に過ぎない。しかし、カイトド族の長老たちもその三家族のことを快く思っていなかったようで、その若者たちを戒めるどころか、カイトド族の全員をけし掛けた。ただし、攻撃の目標は富を得た三家族だけで、ホグマ族全体ではなかった、少なくともその時点では。しかも、その富を得た三家族はホグマ族の他の連中からも好感を持たれてはいなかった、当然だ。他の連中はいい思いはしていない。だから、その三家族だけがカイトド族の攻撃の対象であったなら、この紛争はこれほどエスカレートしなかっただろう。しかし、ホグマ族に武器が供与された」

「だからどうなんですか」

「ホグマ族は日頃からカイトド族に虐げられてる。その三家族以外のホグマ族も、日頃の恨みを晴らす絶好の大義名分と武器を手に入れてしまった」

「ところで、そのホグマ族の土地から何が出たんですか」

「わからない。その企業は試験採掘をして採掘権を得ただけで、その後は何もしていない。国連が関与した時点で、その企業も撤退した」

「レア・アースとか、そんなものですか」

「多分そんなものです。金とかダイアモンドとか、そういうものじゃない。推測ですが、それほど価値のあるものじゃない。別の安全な所に同じ鉱脈が発見されれば、あっという間に価値を失う程度のものだったはずです」

「ところで、さっき、カイトド族は残忍な民族だと誤解されていると言ってましたが、どういうことですか」

「カイトド族の信仰には妙な迷信がある。人が死んだら、両手両足を切断しないと冥界をさ迷うという迷信だ。ホグマ族はカイトド族にとっては野蛮な蛮族でしかない。しかし、人であることは認めている。だから、彼らはホグマ族を殺すと、その死体の四肢を切断する。そうしないと、冥界をさ迷い、自分に災いをもたらすと信じているからだ。もちろん、自分の家族が死んだときも同じように四肢を切断する。しかし、それは身内以外の人の目には触れない。だから誤解される。つまり、四肢を切断するのは信仰のなせる業だ。しかし、これが残虐な印象を与える。切断するのは死体だから、死体を火葬にするのと大して変りない。火葬だって、考えようによっては死者をさらに焼き殺すことだ」

「そりゃそうですね。仏教で言う成仏と似ていますすね」

「そうだと思う。しかし、印象はかなり違う」

「凄い信仰ですね。どんな宗教なんですか」

「キリスト教だ」

「えっ!」

「キリスト教のカトリックの分派だと思う」

「カトリックにはそんな信義があるんですか」

「もちろんない。本来のカトリックにはない。しかし、キリスト教は布教の過程で他の宗教と混ざり合うことがある。ヨーロッパにも土着の宗教や密教が色々とあって、イエス・キリストの名の下に残酷な儀式を行う宗派がないわけじゃない。キリスト教の特殊性だ。

普通は、宗教というのは他の宗教を否定して、自らの神だけが絶対だと主張する。ところが、キリスト教は他の宗教の神を自らの神と同一のものだとして、その宗教を認める。そして、混ざり合う。カイトド族のキリスト教はマリア信仰だ。しかし、彼らの教会に行ってみるとわかるが、彼らのマリア像は肌が褐色だ。つまり、彼らのマリアは黒人女性だ。抱かれている赤ん坊のイエスも肌が黒い。マリア信仰はカトリックから派生した宗派に多い。この点だけを見ても、彼らの信仰がヨーロッパのカトリックが修飾されたものだと推測できる」

「ホグマ族はどうなんですか」

「彼らはカトリックの布教の影響を受けていない。土着の原始的な信仰のままだ」

「違う種族ということですが、民族的にも違うんですか」

「民族的には同一だ。顔立ちや体型では区別できないし、言語も同じだ。遺伝子にも特に特徴的な違いはない。しかも、DNAを調べるとかなりの交雑がある」

「えっ? 交雑?」

「そうだ。カイトド族とホグマ族のDNAを調べると、父親と思われるDNAを持つ男が、相手側の男だったりする例が多い」

「そんなもんですか。それでも殺し合うんだ」

「だからこそ殺し合うのかも知れん」

中尉が先に帰ったので、「彼は軍人らしく見えないね」と僕はアンディに言った。エドワーズ中尉は聡明そうな顔で、学者風だ。しかも、体型は顔に似合わず小太りで、鍛えられた身体には見えない。およそ軍人らしくない。

「彼は情報将校だと言ってたから、軍事訓練は免除されているのかも知れない」

「情報将校って何? 暗号解読とか、スパイとか」

「それは軍事機密だそうだ。でも、大学での専攻は数学だったはずだから、暗号解読は当たりかもしれないな」

「ふーん、国連の平和維持軍にも軍事機密があるんだ」

 

 日々の業務は順調に進んでいた。手術の種類は日本とほとんど変わりない。当然だろう。民族が違っても、なる病気はそれほど違わない。日本と違うのは戦闘が続発していることで、火傷を負 った患者が多い。形成外科の植皮の手術が多く、フランソワーズは大活躍だった。その割に意外と少ないのが、銃による外傷の患者だ。しかし、救急外来には銃創の患者が大勢来ているという。ライフルによる銃創は軽症が多く、救急外来で処置をしてしまうらしい。重症の者はその場で死んでしまって、中央手術部にまではたどり着かないという話だった。ただし、たまには例外もある。膝に銃弾を受けた患者の手術を中央手術部ですることになった。整形外科の仕事だが、整形外科医は他の手術の最中で、手が空く整形外科医が一人しかいないと言う。僕が助手に入ることになった。脚の切断だ。

僕が中央手術部に入ると、丁度患者が運び込まれるところだった。それは酷いものだった。

通常、患者は、中央手術部に運ばれる前に病棟で身支度を整えてくる。着ているものを全て脱ぎ、身体は清拭されて綺麗になっている。手術用の薄いパジャマは着ているか、下着は付けていても下半身だけだ。傷があればガーゼか包帯で被われている。しかし、この患者は救急外来に来た時の姿でそのまま中央手術部に運び込まれた。泥だらけの軍服を着て、その軍服には大量の血が染み付いていた。傷が生々しく、左膝が完全にえぐられている。そして、その先には、それこそ皮一枚で足の先がぶら下がっている。その足はまだ軍用の編み上げブーツを履いていて、膝の関節を失った脚は、足先があり得ない方向に向いていた。

これを見たときはショックだった。足首を脱臼して、足先が変な方向を向いているだけでも気持ちが悪いのに、それ以上だ。普段の手術室では見ることのない光景で、血は見慣れているはずの中央手術部のスタッフでさえも平常ではいられない状況だった。

アンディが患者の所に歩み寄った。

「苦しがっているから、取り敢えず全身麻酔をかけよう。手術台に移してくれ」と女性スタッフに言っているのが聞こえた。そばには三人の女性スタッフがいた。看護師だろう。しかし、誰も動こうとしない。

アンディは自分でストレッチャー引き、1番の手術室に向かおうとすると、例のアンディが可愛がっている現地人の男性看護師が走り寄ってストレッチャーの後ろに着いた。

「チコ、いいところに来てくれた。1番に入れる」チコと言う名前なのか。

1番の手術室の手術台の横にストレッチャーを付けると。「ここでいい。ストレッチャーの上で全身麻酔をかける。それから手術台に移そう」

アンディはそう言うと、全身麻酔器を操作して呼吸回路の先端に付けたマスクを患者の顔に当てた。次に、チコと呼ばれていた男性看護師に何かを指示した。チコはその場を離れて、幾つかの道具を持って直ぐに戻って来た。アンディはしばらく患者に吸入麻酔薬を嗅がせて、チコの介助で気管内挿管をした。息の合ったコンビだ。しかし、気管内挿管の刺激で患者は暴れた。その後硬直して、人工呼吸に抵抗した。アンディはしばらく手でゴム製のバックを押して人工呼吸を続け、患者の呼吸が落ち着くと人工呼吸器に切り替えた。

 三人の女性看護師は手を震わせて見ているだけだった。彼女たちに向かって「服を脱がせて」とアンディが言うと、三人は一瞬躊躇したが、一人が脱がせ始めると他の二人も手伝い始めた。

 脚の傷口の上部に巻かれた止血のためのベルトのようなものだけを残して、完全に患者を裸にして身体を清拭した。その頃には他のスタッフも冷静さを取り戻していた。

 アンディは点滴の針を刺すべき場所を探していた。そういえば、点滴ラインが取れていない。点滴ラインなしで全身麻酔をかける麻酔科医を初めて見た。

「こんなに真っ黒い肌で、皮下の静脈が見つかるのか」とアンディに声をかけた。

「アメリカにだって黒人の患者は大勢いる。慣れてるから大丈夫だ」と言って、すぐに針を刺した。そこからリンゲル液を急速に落とし始めた。

看護師が止血用のベルトのさらに上部に、ターニケットという駆血帯を巻いた。僕は滅菌されたガウンを着て手袋をした。そのベルトも傷口と一緒に消毒して、ベルトと傷口だけを露出して他の部分は全て滅菌された不織布で覆った。手術の準備ができた。

 整形外科医がアンディに「血圧は?」と聞くと、アンディは血圧を確認しようと生体情報モニターの方を見た。しかし、チコが先にそこに表示された血圧を読み上げた・

「108の68です」

「ターニケットは280で」と整形外科医は看護師に指示した。看護師が電動ポンプのデジタル表示を280にセットしてスタートのスイッチを入れると、電動ポンプの作動音がして、デジタル表示が280mmHgまで上がると作動音は止まった。大腿部に巻かれたターニケットという駆血帯を最高血圧よりも高い圧力で膨らませると、内部の動脈は圧迫されて血流が遮断される。そこで止血用に巻かれていたベルトを外した。

切断された脚の断端の皮膚を5cmほど切って綺麗に整え、大腿骨の断端も削って整えた。さらに切断された血管を探して全てを糸で縛った。

そこでターニケットの圧を抜いた。傷口の血流が再開すると血が滲みでて来たが、目立った出血はなかった。もう一度止血を確認した。

その時にアンディが言った。「採血して血液中のヘモグロビンを測ったら8g/dlだった。元気な男性兵士だから15g/dlぐらいはあったはずだから、リンゲル液の輸液で血液を倍に希釈したことになる。これなら輸血の必要はない。腕や脚の動脈は切断されても収縮して自然に出血を止める。多分、出血量は2000ml以下だろう」

出血で血液が失われると血管内の血液量が足りなくなる。最初に問題になるのが血液の量だ。しかし、それはリンゲル液などの水分を点滴で投与することで補える。ただし、それを続けると血液が希釈される。次に問題になるのがヘモグロビンの濃度だ。ヘモグロビンは赤血球の中にある赤い色素で、血液の最も重要な成分だ。血の色が赤いのはこの色素による。酸素と結合して酸素を運搬する働きがあって、血液中のヘモグロビンの濃度が少なくなると身体の各部へ酸素を供給できなくなる。生命を維持するには5g/dlが必要だ。ヘモグロビンを補うには赤血球を輸血するしかない。

 整形外科医は、「これはライフルの銃創じゃない。こんな酷い傷は見たことがない」と言った。さらに「大砲か爆弾かもしれないが、それにしては傷が限局している。もしかすると、最近はやりのアンチ・マテリアル・ライフルで撃たれたのかもしれない」と言った。

対人用ではなく、敵の兵器や構造物を破壊するライフルで、2000m先の飛行機も撃ち落とせるという。

断端を皮膚で覆って、手術は終了した。


術後管理は整形外科医に任せて、僕の仕事は終わった。さすがに疲れた。あまりにも残酷な光景を見てしまったので、一人ではいたくなかった。着替えて中央手術部を出る時にアンディを見かけたので、声をかけた。

「市庁舎のバーでビールを飲もう。そこで待ち合せよう」とアンディは言った。

「構わないが、僕はそこを知らない。いいところだと聞いたので探したんだが、見つからないんだ。行ってみたいと思っていた。連れて行ってくれ」

「わかった。部屋で待ってろ。迎えに行くから」と笑いながら彼は言った。

そのバーは食堂のわきの階段を上がった二階にあった。バーというよりもクラブと言ったほうがいいかも知れない。英国式のクラブで、雰囲気のある落ち着く所だった。ここでは何もかもが英国式だ、と思った瞬間、気が付いた。ファースト・フロアーはイギリスでは2階だ。僕は一階だとばかり思って、一階しか探さなかった。だから見つからなかったんだ。

「ファースト・フロアーね!」と僕が小声でささやくと、アンディは笑った。

「僕も最初は勘違いした。アメリカと日本はフロアーの数え方は一緒だ。しかし、僕らが言うファースト・フロアーは彼らにはグランド・フロアーで、その上がファースト・フロアーだ」

壁際の席に着き、ただ「ビール」と注文したら、小ぶりのジョッキに入った生ビールが出てきた。サワーというビールらしい。イギリス人はビールを冷やさないで飲むという話を聞いたことがあるが、これはちゃんと冷えていた。まあ、温いビールを飲んでいたのは昔の話らしい。かの有名なルーカスの冷蔵庫が良く壊れるので仕方がなかったとう話もあるが、これはクラシックカー・マニアのジョークで、ルーカスのヘッドランプはよく切れたらしい。ただし、ルーカスの名誉のために注釈すると、ルーカスは冷蔵庫を製造したことはない。

サワーは日本のラガー・ビールと違って炭酸が弱い。サワーと言っても酸っぱいわけではなく、ここで飲むとそれなりに美味い。やはり、その土地で普及しているものは、そこでは一番だ。

「ところでアンディ、あの男性看護師、チコって言うの、できそうな男だね」

「ああ、よくやってくれる。しかし、本名は知らない。みんながチコと呼ぶから、そう呼んでくれと本人に言われただけだ。しかも、看護師じゃない。資格がないらしい。でも、オペ室の機械は彼が全てメインテナンスしている。オペ室の主みたいな男だ。ホグマ族だそうだ」

「可愛がっているみたいじゃないか」

「可愛がっている訳じゃない。頼りにしている。何の資格もないから、逆に何でもやってくれる」

「どういう意味?」

「例えば看護師に、看護師でなくても出来る仕事を頼むと断られる。〝私の仕事じゃありません〝ってね」

「ハハッ、そうだね」

アンディと話していたら、気分はすっかり晴れた。仕事のことはもう忘れた。考えてみれば、僕らが患者に関わるのは、その人の人生の最悪のときだ。そんな時の人ばかりを相手にしているのだから、その人のことはすぐに忘れなければ、医者なんて仕事はやってられない。

「実は、エドから銃をもらった」とアンディが突然言った。上着の裾をたくし上げて、ズボンの内側に差し込んだピストルをちらっと見せてくれた。「カイトド族の動きが不穏になっているらしい。市内で戦闘が絶えないようだ」

僕は唖然とした、「病院は安全だろう」

「だといいが」

「・・・・・・」

「君も護身用に持っていたほうがいい」

 その言葉に僕は興味をそそられた。僕は銃が好きだ。モデルガンなら何丁か持っている。

「えっ、僕にもくれるの」

「頼んでやるよ」

 それでアンディと別れて自室に戻った。もう気分はすっかり晴れていた。たばこがなくなったので、あちこちを探したが見つからない。確か、もうワンカートンあったはずだ。しかし、ない。5カートン持って来たはずなのに、全部吸っちゃったのか。まだ3週間とちょっとなのに。1日二箱だから、なんだ、計算どおりか。

成田を出るときに買った、日本製のたばこのザ・ピースを思い出した。トランクのわきに置きっぱなしになっていた、成田空港の免税店の紙袋からワンカートンを出して、セロファンを切って一箱を出した。その箱の中には平たい缶が入っていて、缶の蓋を開けるとさらにアルミのシートでシールされている。さすがに高級たばこだ。パッケージを開ける時の儀式は楽しい。そして、開けたときの香りは素晴らしい。しかし、一本を取って吸うと、やはり、このたばこは僕には合わない。巻きが弱過ぎる。僕が普段吸っているアメリカンスピリットは巻きが強いので、僕の慣れた吸い方ではニコチンの吸入量をコントロールできないようだ。ニコチンは血中濃度によって薬理効果が千差万別に変化する。喫煙者は自分の要求する効果を得るニコチンの血中濃度を、無意識のうちに吸い方でコントロールしているという。

こんなことなら、アメリカンスピリットをもうワンカートン持ってくれば良かった。しかし、あの免税店には売っていなかった。つい、高価なザ・ピースが安かったので買ってしまった。


翌日の午後にアンディとエドワーズ中尉が迎えに来た。

「ダイテン、君も銃を持っていたほうがいい。基地の銃の保管庫に案内するから、好きなのを選んでいい」とエドは言ってくれた。

病院を出て駐車場に行くと、軍用のハマーが止まっていた。

「あのハマーが君の車か」アンディがエドに聞いた。

「私のじゃない。軍のだ」

「僕に運転させてくれ。ハマーなら乗ったことがある」と、アンディは嬉しそうにはしゃいだ。アンディの意外な一面を見た。子供みたいだ。

「いいよ」

 運転席に座るとアンディは戸惑っていた。「僕が乗ったことのあるのハマーとは違う」

「アンディ、君が乗ったのはハマーのH2だろう。あれは普通のトラッックだ。これはハマーのH1と同じだが、私たちはハンビーと呼んでいて、軍用車として最初から設計された車だ。でも、本質的には普通の車と同じだ。運転も難しくない」

「ああ」

「それよりも気をつけてくれ。ここは元英国領だから、左側通行だ。しかし、道は一本道で、曲がり角は一箇所しかない。そこは教えるから、とりあえず道なりに行けばいい」

「わかった」

 左側通行なら、日本人の僕の方が得意だ。僕に運転させてくれと頼めばよかった。僕も運転したかった。しかし、右でも左でも、一本道なら誰でも運転できる。

 15分ほど走ると山道になった。上り坂でカーブが多くなった、すぐに峠に達して、後は下り坂だ。再び平らな直線になって、しばらく行くと右側に基地が見えた。

「あれが国連軍の基地だ。この先に標識があるから、そこを右折してくれ」

 アンディはそこを右に曲がった。そして、右側を走り出した。

「アンディ、左側通行だ」

「そうか、そうだった。すまない。曲がったら勘違いした」

「気をつけてくれよ。他に車がいないからいいけど」とエドがたしなめた。


 基地の銃の保管庫にはカイトド族から押収した大量の銃が保管されていた。

「カイトド族は資金が豊富だから、ヨーロッパから銃を大量に密輸していた。何でもあるぞ。好きなのを選んでいい」。エドワーズ中尉が保管庫を管理する担当の軍人に僕らを紹介してくれた。

「キース軍曹です。こちらへどうぞ」と、保管庫の扉を開けて中に案内された。

保管庫はそれほど広い部屋ではなかったが、天井まであるスチール製の棚に銃が積まれていた。棚はA、B、C・・・と分類されているようで、それぞれの銃には数字とバーコードがプリントされた札が結びつけられていた。すごい数だ。

「アンディ、君は何をもらったんだ、見せてくれ」

「コルトのオートマティックだ。45口径」

「あっ、1911だね」

アンディとエドとキース軍曹の三人が顔を見合わせて同時に言った。「詳しいね」

「君にはこれが良いだろう。銃を撃ったことはないんだろう」と、キース軍曹がオーストリア製のグロッグの9ミリを出した。

グロッグは傑作銃だ。米国の警察官がバックアップ用に自分で購入する護身用のピストルのトップセラーだという。多弾倉で、17発プラス一発の18発の弾丸を装填出来る。しかし、僕は不服だった。グロッグはフレームがプラスチック製で、見える部分にプラスチックの部品があると、日本でも手に入るモデルガンやエアーガンと変わりばえしない。しかも、カッコ悪い。

「これじゃ嫌だ。折角だから、全金属製のがいい」

エドがニヤニヤして「贅沢だな、でも、45口径は素人の君には無理だ。9ミリ・パラがいい」と言った。

9ミリ・パラとは、1908年にドイツ陸軍に制式採用されたルガー・パラベラム・ピストルの弾で、弾丸の直径が9mmだ。さっきのグロッグはこの弾だ。アンディが手にしてる45口径はインチ規格で、弾の直径が0.45インチ、約11.2mmある。すなわち、より強力である。こちらは1911年に米国陸軍が制式採用したもので、100年以上前に開発されたこの二つの弾丸が、現在でもピストル用カートリッジの主流だ。

「ところで、ルガーP‐08はないの。9ミリ・パラのオリジナルの」。

「ない」そっけなかった。

「じゃあ、ワルサーP‐38は」これもカートリッジは9ミリ・パラで、1938年にドイツ陸軍に制式採用された銃だ。

「それもない。そんなアンティークの銃はここにはない。趣味で集めているわけじゃない。あくまでも実戦で使用するための銃しかない」

「ふん」

「あっ、P‐1ならあるかもしれない」とキース軍曹が言った。ワルサーP‐38の戦後型で、外観はほとんど変わらない。キース軍曹は保管庫の在庫リストをパソコンで検索した。「ない」

「これならどうだ」と、美しいワルサーP‐5を出してきた。

P‐38をモダンに改良したもので、ガンブルー仕上げの黒光りが美しい、高級感のあるピストルだった。

「ダメだ」アンディが横から口出しをした。「その銃は良い銃だと思うが、結局は失敗作だった。売れなかった。安全装置の付いた銃は素人の護身用には向かない。いざという時に発射出来ない。引き金を引けば必ず弾が出る。しかし、引き金に指を掛けなければ決して暴発しない。そんな銃じゃなきゃダメだ。これはどうだ」と、アンディはコルトの小さなリボルバーを棚から見つけ出して来た。「38スペシャルだから、9ミリ・パラとほぼ同等の威力がある」

「ディテクティブ・スペシャルだね。これはいいかもしれない。でも、これなら、スミス・アンド・ウェッソンのチーフスペシャルの方がいいな。それも、ステンレスモデル」

「ハイ、ハイ」と言いながらキース軍曹が再びパソコンに向かった。そして、プラスチックケースに入った新品のチーフスペシャルのステンレスモデルを見つけて来た。

「元箱入りだ。これがいい、これに決めた」

「でも5連発だぞ。コルトなら6連発だ」

「いいよ、どうせ護身用だ。人を撃つことはないと思う」

 アンディは呆れた様な顔をして、キース軍曹に「38スペシャルのホロー・ポイントのニッケルメッキしたカートリッジはないか」と言った。キース軍曹は棚からそれを二箱出した。一箱25発入りで50発だ。

「えっ! 薬莢が銀色だ。ニッケルメッキしてあるのか。普通の真鍮の方がいいな。そのほうが本物っぽい」まるでオモチャの弾ようだった。

「つべこべ言わずにその弾を詰めろ、素人のくせに。その弾はアメリカじゃ一発1ドル以上はするんだぞ。メッキしていないフルメタルジャケットならスーパーマーケットで一発30セントで売っている」

僕は黙ってスミス・アンド・ウェッソン・チーフスペシャルのシリンダーを開き、その弾を5発入れた。シリンダーを丁寧に戻して軽く回転させると、カチンと音がしてシリンダーが定位置に固定された。これでオーケーだ。トリガー・ガードに指を入れて、銃を手のひらでクルッと回転させた。

「止めろ!」と、アンディが叫んだ。「実弾の入った銃でそんなことをするもんじゃない。だからオモチャのピストルで遊んでいる奴は困るんだ。トリガーに指を掛けるのは撃つと決断した時だけだ。その時までは決してトリガー・ガードに指を入れてはいけない。一度練習しよう。銃を発射したときの衝撃がどんなものか。その恐ろしさは体験しないとわからない」

帰りに、基地の売店でアメリカンスピリットを売っているのを見つけたので5カートン買った。ドルなのでピンとこなかったが、妙に安かった。免税か。


 翌日の昼間に二人の都合があったので、イングリッシュガーデンの奥まで行って銃を撃つ練習をすることになった。しかし、どこまで行っても庭の端が見えてこない。そうとうに広い庭だ。そこで突然、庭は崖になって終わった。

 崖の上から下を見下ろすと理解出来た。「はっはー、 こうなっているのか」と、僕はつぶやいた。芝の生えた地面が少し盛り上がって終わり、その先の地面は段差になって2メートルほどの下にある。その段差の淵は木の板で覆われていて、壁になっていた。

「よく知ってるじゃないか。この塀は〝ハッハー〝って言う名称だ」とアンディが得意げに言った。

これだと、外側からは塀だが、内側からは塀が見えない。上手く出来ている。そう言えば、あの黒人のウエイターが〝ハッハーとうなずくような〝と言ってニヤニヤしていた。こういうことか。イギリス人も、感心したときは〝ハッハー〝って言うのか。

 アンディが大きなポリ袋をさげていたのが気になっていたが、彼はそのポリ袋からスイカを二つ出した。一つを5メートルほどの先に置き、「撃ってみろ」と僕に言った。

僕はチーフスペシャルの撃鉄を起こして両手で持ち、スイカに狙いをつけた。

「違う。ダブルアクションで撃たなきゃ練習の意味がない。まあいい、取り敢えずシングルアクションで一発撃ってみろ」

撃鉄を起こしてから引き金を引く。すると撃鉄がリリースされて、弾が発射される。つまり、引き金を引くことによって起こるアクションは一つだ。すなわち、シングルアクション。しかし、撃鉄を起こしていない状態で引き金を引くと、その動作で撃鉄を起こし、撃鉄がしかるべき位置まで起き上がるとリリースされる。引き金を引くという一つの動作で二つのアクションが起こる。すなわちダブルアクションだ。こちらの方が素人でも簡単に連射が出来る。しかし、引き金を引くストロークが長いし、引くのに力もいる。狙いがブレやすい。

僕はシングルアクションでトリガーを引いた。弾が発射され、するどい衝撃と共に銃が上を向いた。しかし、スイカには当たっていなかった。

「今度はそのままトリガーを引いて、ダブルアクションで3発をスイカに打ち込め」とアンディが言った。

僕はその通りにした。それでもスイカにはなんの傷もなかった。

アンディは「見てろ」と言って、後ろに下がってスイカから10mほどの距離に立った。真っ直ぐにスイカに面と向かうと、いきなり左手で上着の裾を払い上げて右手で銃を抜き、腰をかがめて両手で銃を持ち、3発を連続して撃った。その時、茂みから小さな動物が走り出した。アンディはそちらを向き、走る小動物を一発で仕留めた。ネズミだった。スイカを見ると3か所の穴が開いていた。

アンディはさらに4発をスイカに打ち込んだ。スイカがグチャグチャに崩れた。スライドがオープンになって止まるとアンディは空になったマガジンを抜き、左手で予備のマガジンを入れた。右手の親指でスライドストッパーを下げると、スライドはスプリングの力で自動的に閉じた。

アンディはもう一つのスイカをまた5mの距離に置いた。

「一発残っているな。今度はシングルアクションで慎重に狙って撃て」

 僕はハンマーを起こし、両手で握って腕を伸ばし、左目をつむって右目だけで慎重に狙いを付けた。ふと思った。先端のサイトはまあまあだが、手前のサイトはボヤけている。眼のピントが合わない。

「このサイト、ちゃんと合っているのかな」

「当たり前だ。5mの距離で狂うサイトがあるか」

 僕は慎重に狙って、グリップはしっかりと握ったまま、軽くトリガーを引いた。鋭い衝撃と共に、目の前のスイカが破裂した。当たった。

 ビックリした。アンディが撃った時はスイカに穴が開いただけなのに、僕の時はスイカが破裂した。

「それがホロー・ポイントの威力だ。僕が使ったのはフルメタルジャケットだ。しかし、ホロー・ポイントでも一発で人間を反撃不能に出来るとは限らない。必ず3発撃ち込め。それで確実に殺すんだ」

 僕はアンディの顔を見た「・・・・・」何も言葉が出なかった。

「銃を人に向けて、手を上げろ、武器を捨てろ、なんて呑気なことを言ちゃいけない。それで殺された警察官が実際にいるんだ。銃を人に向けるときは、殺す覚悟を決めてからだ」

「あっ、そう」

「僕にドイツ語を使うな!」アンディが血相を変えていきなり怒鳴った。わけがわからなかったが、直ぐに気付いた。

「アッ、ソーというのは日本語だ。ドイツ語と使い方も発音も同じみたいだけど」

「えっ? そうなんだ・・・・・。御免」

「まあ、いいや。気に障ったのならこっちこそ御免。それにしても、ドイツ語が嫌いなのか」

「僕はよくドイツ人に間違われる。だから、君にからかわれたと思った。すまない。父はスウェーデン系で母はポーランド系だ。ドイツ人の血は入っていない。ドイツ人だと誤解されると不愉快だ」

「知らなかった。何かトラウマがあるみたいだね」長身でハンサムでも、自分の外見に悩みがあるらしい。僕は話題を変えることにした。「ところで、こういう弾丸、映画で見たことがある。ダムダム弾ってやつじゃないの」

「そうだ。ダムダム弾の一種だ」

「禁止されているんじゃないの」

「戦闘で使用することは禁止されている。軍用のカートリッジはフルメタルジャケットと決まっている。昔のジュネーブ条約だ。でも、警察用には普及している。軍事作戦で銃の標的になるのは敵の兵隊だ。しかし、敵兵とはいえ、立場が違うだけで、自分の祖国を守るために戦っている立派な若者だ。そんな若者をホロー・ポイントで撃っちゃいけない。でも、警察官が撃つのは犯罪者だ。つまり、悪人だ。だから殺傷力の強いホロー・ポイントも許される」

「・・・・・・、それにしても、君は上手いな」

「僕はコンバット・シューティングの大会で優勝したことがある。アリゾナのローカルな大会だったけどね。それに、マサチューセッツ州のCCWも持っている」

「CCWって何だ」

「コンシールド・キャリー・ウェポン。ピストルを服の下に隠して街中を持ち歩ってもいいという許可証だ」

「すごい!  許可を得るのは大変なんだろう」

「そうでもない。CCWは犯罪歴がなければ誰にでもくれる」

「マサチューセッツ州ってそういう所なんだ。ボストンのある州だろう」

「今はほとんどの州でCCWが許可されている。それが犯罪の抑止力になるからだ」

「え~! アメリカってそんな国なんだ。銃を規制すんるじゃなくて、むしろ普及させようってことか」

「銃があるから銃による犯罪が起こるという考え方は間違ってる」

「銃がなければ銃による犯罪は起きない」

「そりゃそうだが、国民一人当たりの銃の普及率はアメリカよりもスイスの方が高い。でも、銃による犯罪は少ない」

「そうなんだ」

「犯罪者と善良な市民、どちらに銃が普及しているかがポイントだ。もしアメリカで銃の所持が規制されたら、真っ先に銃を持てなくなるのは善良な市民だ。しかし、犯罪者は違う。彼らは法をくぐって銃を手に入れるだろう。つまり、犯罪者だけが銃を持つことになる」

「それなりに説得力はある」

「銃は犯罪の原因ではなく、単なる道具だ。犯罪の原因は他にある。一般の市民が銃を携行しているかもしれないと思えば、犯罪者も街中で銃を振りまわせなくなる。それが抑止力だ」

「アメリカ人らしいね。そう言えば、西部劇に出てくるピストルはピース・メーカーっていうんだよね。平和の使者だ。国民に自衛のために武器を持たせる。そうすれば警察や軍隊の経費を削減出来る。そう言われてみると、日本の刀狩りの歴史も似たようなものだ」

「銃は使い方次第だ」

「それにしても、善良な市民って何だ。嫌な言い方だね。そんなものがいるのか」

「君は違うのか」

「僕は自分が善良な人間だと思ったことはない」

「確かにそうだな。誰だってそうかもしれない。自分が善良だと思っているのは、毎週日曜日には教会に行くモルモン教徒だけだ。女とはやりたい放題のくせに」

僕は、〝女とはやりたい放題のくせに〟という一言が気にかかった。アンディはハンサムでいい男なのに、女に不自由しているのか。

「さあ、その一箱の残りの弾をすべて撃ってしまおう。そのぐらい撃たないと練習にならない。あの木がいいだろう。丁度人間ぐらいの大きさだ」

当たると葉っぱが揺れた。5発づつ、弾を入れ替えて4回で一箱が終わった。手が痛かった。次にアンディが右手だけで一発撃った。木が真ん中から折れ、上の部分が倒れた。

 

今日は手術がないので、病棟でカルテの整理をした。しかし、こういう仕事は性に合わない。一応、今やるべきことは全てやって、疲れたので一服することにした。表に出ようと廊下を歩いていると窓の外にチコの姿が見えた。正面玄関の前から少し離れたところで、彼が以前にたばこを吸っていた所と同じ場所だ。左側を見ると、僕が現地人と一緒にたばこを吸ったところも見えた。ここから見ると丸見えだ。しかし、あの現地人たちはいなかった。

僕は外に出てチコに話しかけた。「こないだは大活躍だったね」

「はぁ?」

「脚の断端形成の時。まともに動いていたのは君だけだった。他の連中はビビって何もできなかった」

「皆さんは外国人ですから、ああいう患者に慣れていないんです」

「君は大丈夫なのか」

「この国は戦場です。見慣れています。自分はアンドリュース先生のお役に立ちたかっただけです。先生は立派です」

「ああ、彼は麻酔のプロだ。何事にも動じない。何度も修羅場をくぐってきたに違いない」。

僕はポケットからザ・ピースを出してチコに勧めた。でも、他人にたばこの缶の中に指を入れられて、僕が吸うであろうたばこに触れられるのが嫌だったので、一本を自分でつまんで彼にあげた。

自分にも一本出し、火を付ける前に鼻の下にあてがった。「嗅いで見て、いい香りがするから」、チコは同じようにして微笑み、火を付けた。

「いつも、ここでたばこを吸うんだ」

「昼休みだけです」

「えっ、今、昼休みなんだ。遅いですね」午後の3時だった。

「はい、手術の都合で不規則です」

 日本でも看護師は昼休みにしか吸わない子が多い。「じゃあ、もっぱら自宅ですね」

「いえ、自宅でも吸いません」

「えっ?」

「妻が嫌がるんです。子どもの前では吸わないでくれと」

 僕の父も、僕が生まれて3才になるまでは禁煙したと母が言っていたのを思い出した。

「お子さんは小さいのですか」

「妻と息子は死にました」

「・・・・・」一瞬、僕は言葉が出なかった。

「カイトドに殺されました。今は一人です。でも、妻の言い付けは守っています」

「・・・・・・」

「奴らは許せません。妻と息子は手と足を切られて殺されたんです」

 だったら冥界をさ迷わずに天国に行ったでしょうね、とは、とても言える雰囲気ではなかった。

「お気の毒に」そう言うのが精一杯だった。

「このたばこは美味しいです。日本はいい国ですね」

チコがどういう意味でそう言ったのかはわからなかった。日本人がみんな、こんな高級たばこを吸っているわけではない。


 今日は子供の鼠径ヘルニアの手術が6例組まれていた。脱腸だ。同じ手術が同じ日に組まれる傾向があるのは日本と同じだ。麻酔はアンディだった。子供に点滴の針を刺すのは難しい。でも、アンディは点滴なしで全身麻酔をかけて、子供が眠ってから点滴を取っていた。

「麻酔をかけると血管が膨らむから静脈を見つけやすい」と言っていた。

 小児の鼠径ヘルニアの手術は簡単だ。最近は内視鏡を使って傷口を小さくする手術が流行っているが、幸いにしてここには内視鏡の設備がなかった。古典的な術式だと、片側15分間で終わる。僕の記録は9分間だ。

 アンディは5分間で麻酔をかけ、その後に消毒を始めて手術開始までが5分間、手術時間は片側なら15分間以下、両側でも25分間あれば終わる。それから10分後には子供は目覚め、泣き出すとアンディは麻酔終了を宣言した。

子供を手術台からストレッチャーに移すと、アンディは僕に「よろしく」と言って立ち去った。

僕はストレッチャーを押して中央手術部を出て、入り口で待つ母親に手渡す。すると子供は泣き止む。そのまま病棟まで連れ添い、病棟のベッドに寝かせて看護師に任せ、僕は玄関先の喫煙場所に向かう。麻酔終了と同時に外に出て、先にタバコを吸っていたアンディとすれ違う。

 ゆっくりと一本吸って手術部に戻ると、アンディが麻酔を開始するところだ。麻酔開始から終了までのトータルの麻酔時間は、片側なら35〜40分間。両側でも50分間以下だ。手術後の片付けと、次の手術の準備に15分間。患者の受け入れに5分間。概ね1時間前後で1例の手術をこなす。朝の9時から始めて、45分間の昼休みをとって、午後の4時前に6例の手術が終わった。

 ここでの仕事は単純だった。手術すべき患者がいて、手術をすれば患者は治る。治癒法が確立されている病気を、その治療法で治す。これこそが医療だ。

 治らなくて元々などという、治療法のない病気の患者をモルモットのようにオモチャにして、売名行為に利用する医療とは違う。

 ここに来て市立病院で仕事をしていた頃を思い出した。あの頃は自信を持って仕事をしていた。国境なき医師団に参加して良かったと思った。

 しかし、そんな仕事ばかりではなかった。


 泌尿器科医から受け持ち患者の手術の依頼を受けた。84歳の前立腺癌の術後の患者で、背骨に転移があって下半身が麻痺していて、肝臓にも転移が見つかったので取って欲しいという依頼だった。前立腺と背骨の病巣は放射線と化学療法で完治しているというが、脳梗塞を2回起こしていて、右半身麻痺と発語の失語症がある。さらに認知症も入っているらしく、つまり、ボケボケでコミュニケーション不能で、立って歩くことはおろか、起き上がることさえ出来ない。寝たきりだ。しかし、VIPなので手術をして欲しいという依頼だった。

 「なんで?・・・・」これじゃあ、まるで日本の大学病院だ。

 気が進まなかったが、一応、泌尿器科の病棟へ診察に行った。白人の看護師にその旨を告げると、無造作にカルテを出した。カルテは見ずに、口頭での説明を求めた。

「ボケていて、お話はできませんよ」と、これまた、投げやりだった。

「名前は」と聞くと、「オ・・・・・・・」といったが、よく聞き取れなかった。

「えっ? もう一度」と聞きなおすと、そばにいた現地人の看護師が答えた。

「オタンムスコナス」と、はっきりと言ってくれた。

 僕はもう一度聞き直して、カタカナで紙に書き留めた。そして復唱した。オタンムスコナス、オタンムスコナス。・・・・おたんこなす。

 その黒人の看護師が患者のところへ案内してくれた。

「おじいちゃん、手術してくれる外科の先生ですよ」

 一見、優しそうな親切な態度に見えるが、この看護師は、この老人の孫ではないはずだ。〝おじいちゃん〟は老人に対して失礼だ。しかも、幼児に話しかけるような言葉使いも良くない。認知症は精神発達遅延ではない。人生の先輩に対する敬意が欠けている。

 「オタンムスコナス様ですね。外科の大地と言います」僕は無意味と思いながらも、初対面の老人に対しては必ず敬語できちんと話しかけることにしている。それで相手の反応を確かめるためだ。このボケボケのはずの老人は意外な反応をした。つむっていた目を開いて、じっと僕を見つめた。ドキッとした。

「肝臓の腫瘍を取ります。お腹を見せて下さい」

老人は右手でパジャマの裾を上げた。麻痺しているはずの右手で。しかも、僕の言葉を理解している。完全にボケているわけではない。

 僕は老人のお腹をさすった。こんな診察は無意味だが、患者とのコミュニケーションには役立つ。

「よろしくお願いします」老人ははっきりと言った。脳梗塞から4年経っているから、リハビリをすれば失語が回復していてもおかしくはない。しかし、ここには神経内科の医者はいない。リハビリはしていないはずだ。ベッドの脇に10才ぐらいの女の子がいて、僕を見つめていた。

 やる気のなかった手術だが、ちょっとやる気が出た。手術は順調に進んで、出血量も少なく、無事に終わった。切除した肝臓の腫瘍は、病理診断では原発の肝臓腫瘍で、前立腺がんの転移ではなかった。完全に切除できたはずだ。


翌日の朝、中央手術部に入ると騒然としていた。5番の部屋の奥で死体が発見されたという。警察には連絡したらしいが、まだ到着していない。僕は直ぐに見に行った。

5番の手術室の片隅にある、機材置き場の大型のポリグラフの陰に男性が仰向け横たわっていた。顔がはっきりとわかる。見覚えのある顔で、ここの職員の現地人の男性だ。しかし、話をしたことはないし、名前も知らない。カイトド族だそうだ。

ポリグラフは前時代的な機械で、今は使用されることはない。心電図や呼吸のモニターなどの生体の反応の変化を記録する機械で、ウソ発見器などにも利用されたものだが、今はそれを上回る性能の小型の生体情報モニターがあるので、医療現場でのポリグラフの利用価値はない。この陰に死体を置いたということは、ポリグラフが移動させられることがないことを知っている者の仕業ということになる。

しかも、服の腹の部分に大量の出血が見られ、服には鋭い刃物で切りさいた跡がある。にも関わらず、床にもその周囲にも血液はなかった。他の部分で殺して、出血が止まってからここに移動させ、その血を拭き取ったに違いない。犯人は手術部の関係者だと直感した。僕は一瞬、チコが頭に浮かんだ。チコでないといいが。

市街戦でホグマ族やカイトド族が死ぬことは日常茶飯事のようで、誰が殺したかは深刻な問題ではない。それは犯罪ではなく、戦闘の英雄的な行為だ。うっかりすると勲章をもらえる。しかし、手術室に死体があると話は別だ。これは立派な殺人事件だ。セント・ジョージの警察署から捜査員が到着し、殺人事件として捜査が開始された。

手術室の床の血痕が調査されることになった。最初の作業は、拭き取った血液の跡を浮かび上がらせるルミノール反応の検査だろう。しかし、手術室の床は血痕だらけに違いない。

中央手術部は捜査のために全体が封鎖された。手術は出来ない。手術室の封鎖は24時間以上と聞いていたので、丸一日が空いた。日本の病院ではこんなことはありえない。緊急手術が出来るように、必ず一部屋は用意しておく。まあ、殺人事件の捜査で封鎖などという話は聞いたことがないが。

突然、暇になった。貴重な機会だから今日一日を楽しもう。とりあえず、市庁舎の庭へ行きビールを飲んだ。朝のビールは美味い。ビールは午前中に飲むのが最高だ。

アンディとフランソワーズも暇になったはずだが、彼らは見当たらなかった。そこにエドワード中尉が来た。

「朝っぱらからビールですか。いい御身分ですね」

「仕事が突然なくなった。中尉もお暇ですか」

「いや、仕事中だ。でも、私の仕事は情報収集だから、ここをフラフラするのも仕事のうちだ。私もビールをもらおう」

「いい御身分ですね」

「まあね。君も今朝の殺人事件の容疑者で、事情聴取をしていることにしよう」

「えっ! 僕が容疑者?」

「冗談ですよ。さし当たっての容疑者はホグマ族の職員でしょう。殺された若者はカイトド族でした。市街戦で現地人が死んでも、それは戦闘行為として処理され、誰が撃ったかなどは問題にしません。でも、今回は国連軍の憲兵隊までが捜査に協力するそうです。犯人は直ぐに捕まるでしょう」

「それにしても、なぜいつまでも殺し合うのですか。大国とか、国際的な企業とかが裏で糸を引いているのですか」

「違います。復讐です。こういう長引く戦争はプライドか復讐です」

「というと」

「大国の利害とか、企業の利害とかだと、経済的な利益が目的ということになります。そういう争いはすぐに収まるか、初めから戦争になりません」

「どういうことですか」

「ナッシュの均衡点という言葉をご存知ですか」

「いえ」

「二者の利害が対立したとき、どちらかが破滅するまで戦うというのは合理的ではありません。なぜなら、勝ったとしても、自らも消耗するからです。敵が戦いを止めれば、それ以上戦い続けて破滅させる必要はない。敵にとっても、破滅する前に戦いを止めた方が合理的です。どこで戦いを終結させるか。それは、それ以上戦いを続けると、勝ったとしても、損失の方が上回る時です。つまり、損失を最小限に留め、利益を最大にするのは、適当なところで戦いを止めた時です」

「なるほど。それで」

「敵の行動はこちらの行動に影響され、こちらの行動は敵の行動に影響される。双方が利益だけを目的に行動し、お互いに敵の状況を正確に認識していれば、互いに敵の行動を正確に予測できます。なぜなら、敵は最大の利益を得るように行動するはずだからです。そして、自らも最大の利益を得るように行動する。敵がこちらの状況を正確に認識していれば、敵はこちらの行動を正確に予測できます。つまり、こちらが攻撃を止めれれば、敵も攻撃をやめるはずです。そして、こちらが攻撃を止めるのは、最も利益を得るポイントです。

この場合、双方が最も利益を得るポイントは一致する、という理論です。話し合う必要はありません」

「よくわかりません」

「たとえば戦争ですが、戦闘行為は破壊行為ですから、敵の損失は増える。そして、攻撃するためにはこちらにも経済的な損失が出る。しかも、攻撃すれば反撃される。そして経済的な損失はさらに増える。つまり、戦争はしないほうが双方にとって経済的に利益です」

「それは良くわかります。でも、それじゃあ戦争なんて起こるはずがないじゃないですか」

「その通りです。実際に、現在では先進国同士の武力戦争はほとんど起きていません。ロシアとアメリカでさえも」

「確かに。でも、実際には戦争は起きている」

「そうです。ナッシュの均衡点が存在しない争いがあります。経済的な利益ではなく、プライドをかけた争いです。ロシアが大国としてのプライドで派兵をする。アメリカは侮辱されると反撃する。経済的な利益を犠牲にして」

「わかった。アラブ人はアメリカに侮辱されたから自爆テロをするわけだ」

「かも知れません。彼らは常にそう主張しています。自爆テロは経済的な損得では説明できません」

「じゃあ、ここの戦争は」

「復讐です。家族を殺されたから復讐する。しかし、復讐は何も生み出さない。生産性がなく、経済的に利益を得ることもない。得るのは名誉だけです。だから、途中で終わらせるための妥協点がない。つまり、ナッシュの均衡点が存在しません」

「お金よりも名誉を欲しがるとろくなことがないですね」

「そうです。順位闘争です。わかったみたいですね」

「いえ、ちょっと言ってみただけです。もしかして、あなたは数学が専門だと聞きましたが、それが数学ですか」

「そうです。ソヴィエト連邦とアメリカ合衆国との冷戦時代に盛んに研究された数学の分野です」

「そんなこと、僕に言っちゃっていいんですか。軍事機密だと聞きましたが」

「これは軍事秘密じゃありません。ジョン・ナッシュがノーベル賞をもらった理論です。それに、ここの平和維持軍での仕事は軍事機密じゃありませんよ。軍事機密は合衆国空軍での任務です」

「そういうことですか。それは良かった」

会話は一対一で二人でするのが有意義だ。三人目が同席していると真剣に会話は出来ない。


手術室の床の多くの血痕から、手術患者のものを除外する作業は難しい事ではなかった。患者の血液は検査室にサンプルが保管してある。術前検査の時に採血したものだ。

三日後に結果が出た。アンディとエドの三人で話しているときに、エドが結果を教えてくれた。

「凄いですね。平和維持軍の憲兵隊の鑑識が血液を分析したんですか」

「まあね。しかし、憲兵隊の鑑識じゃない。情報部のラボです。遺伝子学的に民族間の紛争を研究している。そこがついでに科学捜査の手伝いをしました」

「ああ、例の民族間の交雑の話ですね」

過去2週間に手術をした患者の血液が除外され、それらと被害者以外の血液が2種類検出されたそうだ。一つからは女性の膣液と子宮内膜の脱落上皮と男性の精液が確認され、殺人事件とは無関係とされた。生理中の女が手術室で誰かとセックスをした。

中央手術部にはビデオカメラが各部屋に設置されている。しかし、それは防犯のためではなく、ナースステーションで手術の進行状況を把握するためのものだ。業務中以外は撮影をしていない。被害者の血痕はカメラの視野内にあったが、犯行の映像は残っていなかった。犯行は深夜で、それは死亡推定時刻とも一致した。セックスの場所はカメラからは死角で、どちらも、中央手術部をよく知る者ということになる。仕事中にセックスをした者がいる。

もう一つの血痕が殺人犯のものと断定され、被害者の傷口に残された被害者以外の血液と一致した。犯人も床に血を落とした。我々国境なき医師団の医師も含めて、職員全員のDNAが採取された。もちろん僕も口腔粘膜の細胞を取られた。僕も容疑者の一人になった。

事件は意外と簡単に解決した。傷口は料理用の包丁で刺されたものと推定され、調理場の包丁から同じ血液が採取された。銃がなくても、包丁でも人は殺せる。しかし、包丁には格闘用のナイフの様な鍔がない。包丁で人を刺すと、刃の後端で自分の人差し指の根元を傷付けてしまう。自分の血液も現場に残すことになる。

犯人は掃除夫で、カイトド族の48歳の男性だった。犯行に使用した包丁を調理場に戻していたのだ。中央手術部と調理場は共に、その男の掃除の担当区域だった。カイトド族の男がカイトド族の男を殺した。やはり、これは殺人事件だった。チコでなくて良かった。

「手術室でセックスをした男と女も確認できた。ホグマ族の既婚男性とカイトド族の既婚女性だ。これでカイトドとホグマの交雑の具体的な事例が確認できた。誰だか知りたいか」とエドが言った。

「止めてくれ、知りたくない。セックスは秘め事だ。犯罪に関与していないのなら、公表すべきじゃない」

「確かに」エドも納得した。

セックスは婚外交渉でも違法ではない。合法的なだけではなく、病院の服務規定でも業務中のセックスの禁止は明文化されていないはずだ。院内での喫煙の禁止は明文化されていても。


午後、仕事が早く終わって暇ができたので、市庁舎の庭に行った。そこでフランソワーズに出会った。彼女も今日は仕事が早く終わったらしい。朝食や昼食で一緒になることはあるが、こんな時刻に偶然出会うの初めてだ。なんだが、ドキドキする。ゆっくりと二人きりになりたいのなら夕食に誘えばいいことだが、それをしてしまうと、なんらかの結果が出る。それが怖くて誘えなかった。

誘って断られれば、それでおしまい。オーケーなら、二人の関係がワンステップ進展する。それで夕食を楽しく過ごせば、そこで別れると、それは否定的な意思表示になるかもしれない。何しろ、夜は二人とも一人で過ごしているのだから。行くところまで行くしかなくなる。それも怖かった。その後は、辛い別れが待っている。

本当に好きになってしまったら、気軽にセックスは出来ない。最後は、愛する女性を悲しませる。

そんな風に躊躇していて、もう既に6週間が過ぎた。今日のこのチャンスを逃してはならない。ここで誘わなければ、これもまた、否定的な意思表示と受け取られるだろう。

決断を躊躇していると、僕らのすぐ後ろの禁煙席に二人の中年の太った白人女性が座った。わざわざ傍に来る必要もないのにと思ったが、喫煙席との境界が禁煙席の特等席である。僕はたばこに火をつけて、深く吸って、ゆっくりとはいた。そのデブのババアが咳をした。失礼なババアだ。

そこへエドワーズ中尉が来た。彼が「ご一緒してもよろしいですか」と言うので、「もちろん」と答えてしまった。自分が情けなかった、〝意気地なしめ!〝。しかし、ホッとしたのも事実だ。フランソワーズとの関係を、このまま進展も後退もさせずに、ペンディングにしておくことが出来る。

彼は席に座ると胸のポケットから葉巻を出した。親指ほどの太さで、長さは15センチメートルほどある。そこに巻かれた帯は黒とオレンジと白の柄で、この距離からでもキューバ産のコイーバであることがわかる。アメリカでは当時は禁輸品だったはずから、ヨーロッパで入手したのだろうか。ポケットからスイス製のヴィクトリノックスのナイフを出して不器用に吸い口を切り、フランス製のデュポンのライターで火をつけた。今時デュポンはないだろうと思ったが、まあ、アリゾナの田舎者だから仕方ないか。

しかし、このサイズのシガーは日本で買えば一本3000円以上の高級品だ。〝取って置き〝に違いない。僕の目の前で取って置きに火を付けたことが妙に嬉しかった。僕に自慢したかったのだろうか、あるいは、フランソワーズにか。この男もフランソワーズに気があるのか。ちょっと心配になった。僕はフランソワーズをこいつに譲るつもりはない。

エドがシガーを吸い出したら、さすがに図々しい後ろの席のババアも臭いに耐えられなかったようだ。立ち上がった。席を移動してくれるのか。

僕が振り向いてその二人を何気なく見たら、銃声がして、一人のババアの頭から血しぶきが飛んだ。僕は銃声がした庭の方向に振り向いた。

「あそこよ」とフランソワーズが庭の茂みを指差した。

一人の兵士の姿が僕にも見えた。狙撃兵がいる。キツネが隠れるには十分な茂みでも、人間を隠すようには設計されていない。

「逃げろ!」とエドが叫んだ。僕は立ち上がってフランソワーズの手を取り、狙撃兵から反対方向の一番近い建物の入り口を目指して走ろうとした。

「そっちはダメだ。こっちだ」と、エドが横の建物を指差して走り出し、手招きしている。そっちの建物の方が遠かったが、僕はフランソワーズの肩に手をまわしてエドの後を彼女を抱えるようにして走った。銃声が鳴り響いていたが、とりあえず走った。それしか考えられなかった。

目標の建物の角に辿り着き、その陰に身を隠した。一安心だ。今走ってきた方向を見ると、数人が倒れていた。

「銃を持った人間から逃げるときは、直線的に遠ざかるように逃げてはいけない。それだと相手は狙いやすい。しかし、横に走る人間に銃弾を命中させるのは難しい」とエドは言った。

僕は最初に目指した建物の入口の方を見た。二人の人が倒れたいた。彼の指示に従って良かった。エドが急に頼もしく見えた。実戦の経験はないそうだが、さすがに軍人だ。

市庁舎の中から数人の警備兵と国連軍の兵士が飛び出して来た。建物の前に並んだプランターの陰に入り込むと銃撃戦が始まった。

「ここに居てはまずい。建物の中に入ろう」と言うエドについて、そばの建物の扉を開けて入った。そして奥に進んだ。適当な部屋があったので、中に入った。

フランソワーズが真っ先に言った。「私、はっきりと見たわ。私たちに向かって銃を撃って来たのは、あなたがたばこをあげた黒人よ」

「えっ、何の話?」

「あなた、病院の玄関の前で三人の黒人と一緒にたばこを吸ったでしょ。あの時の三人よ。顔がはっきりとわかった。あなたがたばこをあげた背の小さい男の子」

「あの子がいたのか」

「間違いないわ」

「・・・・・それにしても、何でそんなことを知ってる」

「・・・・・窓から見ていたの。私、あなたに興味があったから」

「えーぇ。あれは確か、君と知り合う前だったと思うけど」

「何言ってんの。私たちが知り合ったのは発足式の時よ」

「まあ、それはいいとしも、うん、確かに、黒人の若い男に吸いかけの一箱をあげた。七~ハ本残っていて、僕が一本取ってからあげたから、少なくとも六本ぐらいはあったはずだ。三人いたから一人二本づつだ」

「細かい事を言わないで。あなた、もう一人の黒人から、一本貰って一緒に吸ったでしょ」

「ああ、でも、彼も、僕のたばこを一本吸った」

「問題は本数じゃないの。まったく、性格が悪いんだから」

「ハイ、性格が悪いのは認めます。頭がいい、顔がいい、育ちがいい。でも、性格だけは悪いんです」

フランソワーズはポカンと僕を見つめた「本当に性格が悪いわね。そんなことを言ってる場合じゃないでしょ。」

「その通りだ。命の危険が差し迫っている」

「それはわかってるんだ。妙に冷静ね」

「ところで、何が言いたいんだ。僕が現地人と一緒にたばこを吸ったからって、この銃撃戦は僕の責任じゃない」

「そうじゃなくて、つまり・・・」

そこへアンディが現われた。息を切らせていた。

「無事だったか。市庁舎は占拠された。庭の連中はおとりだ」

「そういうことか・・・」とエドワーズ中尉は言った。さらに独り言のようにしゃべり出した。しかし、それは独り言ではなく、イヤーフォンと胸に付けたマイクのハンズフリーのインターコムで国連軍と連絡をしている声だった。

「建物の中にいるのはまずい。庭に出よう。数分で国連軍のヘリコプターが来る」

 庭からの銃声は聞こえてこなくなっていた。銃声が聞こえてくるのは建物の奥だ。

「我々を狙った狙撃地点に行こう。あそこはもう安全だ」

「ダイテン、これを渡しておく。君の銃だ」と、アンディが僕にスミス・アンド・ウェッソンと予備の弾の紙箱を渡してくれた。

「ここに来る前に君の部屋を覗いたら、デスクの上にこれがあった。扉に鍵も掛けずに、こんなものを出しっぱなしにするのか、君は。しかも、弾が入っていない。弾を抜いてオモチャにして遊んでいたんだろう」

「ハイ」

「これだからオモチャのガンしか知らない奴は困るんだ。護身用のガンには常に実弾を装填しておかければいけない。そうしないと、いざという時に役に立たない。しかも、常に実弾が入っているからこそ、銃を慎重に扱う。弾が入っていないと勘違いして、気軽に触れて暴発させることもなくなる」

 僕は黙ってうなづいてスミス・アンド・ウェッソンと弾の箱を受け取り、シリンダーを開けて見た。弾が5発込められていた。アンディが入れてくれたのだ。着ていた手術着のポケットに入れようとした。手術着には上着に三つ。ズボンに一つのポケットがある。上着の裾の右側のポケットに入れていた鍵を左側に移し、そこにスミス・アンド・ウェッソンを入れた。左は、たばことライターと鍵と、そして予備の弾の箱で一杯になった。両側とも重たい。

「モデルガンだって、弾を入れずに遊んでいるとろくなことがない。空打ちするとハンマーが折れるんだ」

アンディが意外だという顔で僕を見た「実銃も同じだ。空打ちするとハンマーが折れる」

「君らは呑気だな」エドが真顔で僕らを睨み付けた。「行くぞ」

四人で庭に出た。広い芝生の上を走り、狙撃手がいた茂みに入った。三人の黒人が倒れていた。

三人の顔は良く覚えている。たばこを吸っていた男、僕のたばこを嬉しそうに受け取った少年、僕にダビドフをくれたリーダー格の長身の男だ。

 エドがわきに転がっていたライフルを取り上げた。アメリカ軍の制式のアサルト・ライフルに似た、オートマティックの狙撃銃だった。大きなスコープが装着されていた。

「ミス・フランスの言う通りだ。この銃だと、この距離から的を外すはずがない。100mほどしかない」

 僕はその言葉の意味がわからなかった。それにしても、ミス・フランスとはいい呼び方だ。ミス・ユニバースのフランス代表みたいだ。

「そうよ。この人は私たちを撃てなかったのよ」

「何の話だ。二人で納得するなよ。僕にもわかるように説明してくれ」

「鈍いわね。この三人はあなたのことが好きだったのよ」

「そのとおりだ、ダイテン。君はこの男とたばこを交換して、お互いに一緒に吸ったのか」

「ああ」

「友好の儀式だ。このスコープは5倍から25倍のズームで、メイド・イン・ジャパンだ。この高性能のスコープで私たちの席を見れば、君の顔がはっきりと見えたはずだ。多分、国連平和維持軍の制服を着た私が標的だったのだと思う。しかし、君と同席していたので私を撃てなかった」

「何の話ですか」

「北米の先住民族の和平の儀式だ。対立する部族の酋長同士が、お互いのパイプを交換してたばこを吸うことだ。この儀式を行うと、その部族は相手の部族を攻撃できなくなる。つまり、君はこの男と和平の儀式を済ませた。だから、私は君の仲間と認識され、私を撃てなかった。それで後ろの席にいた白人女性を撃ったのだ」エドワード中尉が説明した。

「僕はそんなつもりで彼らにたばこをあげたんじゃない。」

「そうだろう。でも、彼らに好感を持ったのは確かだろう」

「まあ」

「君が彼らに好感を持っただけではなく、彼らも君に好感を持った。・・・人間としての本能だ」

僕は言葉が出なかった。「・・・・・・それも数学ですか」

「いや、動物行動学だ。君と知り合えて命拾いをした」

僕は動物かよ。自分の心を読まれたようで不愉快だった。「軍事機密じゃないんですか」

「これもノーベル賞学者の説だ。1960年代にコンラート・ローレンツが自分の著書に書いている。重要な情報の99%は既に出版されている書物の中にある」

フランソワーズが何か言いたげに僕を見たが、再びエドが口を開いた。

「この男は二流だ。我々三人の陰いた女性の胴体ではなく頭を正確に狙撃したのだから、射撃の腕は一流だったのかも知れない。しかも、立ち上がってからだ。座っている我々に当てたくなかったのだ。心の優しい男だったのだろう。そんな男は一流の狙撃手にはなれない。高倍率のスコープで標的の顔をはっきりと見て、命令があれば自分の知人の命をも奪う。それが狙撃手の仕事だ。心の優しい男は豚を撃つのが精一杯だ」

・・・・・・あのババアは豚かよ。確かに、肥えた白豚だった。それにしても、エドワーズ中尉に豚呼ばわりされるのは彼女にとっても心外だろう。エドだって小太りだ。

「しかも、スポッターも二流だ」エドは続けた。「ミス・フランスに狙撃地点を発見され、顔まで見られている。二流のチームがおとりとして庭に配置されたんだ」

「こんな所には居たくないわ。死体がゴロゴロしてる」フランソワーズが言った。

「直ぐにヘリが来る。兵士を降ろしたら、君たち三人はそのヘリで国連軍の基地へ行きたまえ。そこなら安全だ」

爆音が聞こえてきた。音のする方を見ると3機のヘリコプターがこちらに向かって来る。ホッとした。ワグナーのワルキューレが聞こえてきそうだ。

しかし次の瞬間、僕は嫌な予感がした。飛行機をも撃ち落とせるという、アンチ・マテリアル・ライフルの存在だ。

予感は的中した。先頭の一機が傾いた。あれ? っと思った瞬間、後ろの二機が左右に散開した。先頭のヘリはみるみる高度を下げ。地面に激突して炎上した。

「まずい。国連軍の兵士から死者が出る」エドが独り言のように呟いた。

二機のヘリコプターは遠ざかった。もう、この庭に着陸する意思はなさそうだ。つかの間の希望は消えた。

「ここも安全じゃない。元いた建物の中に戻ろう」。僕らは同じ所を二度往復した。

「君らの宿舎はどうだ」とエドがアンディに聞いた。

アンディはすかさず「とんでもない。僕はあそこから逃げて来たんだ。宿舎のロビーにはカイトド族の兵士が陣取っている」と言った。

「どこへ身を隠そうか。国連軍と政府軍の地上部隊が到着するのは15分後だ。それまでここで様子を見るしかない。もう少し奥の部屋へ進もう」エドの指示で僕らは歩き出した。

急に怖くなってきた。死の恐怖が現実になった。たばこを一緒に吸った三人の黒人の顔を思い出していた。一歩一歩、先に進むのが恐怖だった。廊下の曲がり角、扉の陰、すべてに兵士が隠れていそうな気がした。振り向いてフランソワーズの顔を見た。そして手を握った。彼女も強く握り返した。僕は彼女の肩をしっかりと抱き、寄り添ってゆっくりと歩いた。


 銃撃の音が急に激しくなった。

「地上部隊が到着したな。これで制圧されるだろう。もうしばらくの辛抱だ」とエドワーズ中尉が言った矢先に、爆発音が聞こえた。

「まずい、あの音はロケット弾だ。彼らが国連軍の車両を攻撃したに違いない。ロケット弾まで持っているとすると苦戦するかもしれない」

 僕らは顔を見合わせ、しばらく沈黙が続いた。「中央手術部はいいかもしれない。あそこにはカイトド族も手を出さないだろう」と再びエドが言った。「この先に救急外来がある。そこを通りぬけて、さらに廊下を進むと正面玄関だ。玄関ロビーの階段を上がって右に行けば中央手術部だ」

 しばらく行くと救急外来の表札があった。救急外来のことはよく耳にしていたので、なんとなく親しみがあった。しかし、そこに入ると、僕が想像していた救急外来とはおよそかけ離れたところだった。

広い。舞踏会でも開けそうな部屋だ。広い部屋には柱が一切なく、白い布を張った金属パイプ製のつい立がまばらに置かれていた。その陰にはストレッチャーが並んでいる。そして、その上には血だらけの服を着たままの患者が何人も横たわっていた。悲惨な光景だった。しかし、これが、僕がアフリカに期待していた病院そのものなのかもしれないとも思った。ここは実際にかつては舞踏会に使われていた部屋だろう。壁にはそれらしい装飾がある。薄汚れていたが、綺麗だったら素晴らしいものだろう。

「これがこの国の現実だ。君らには見せたくないと、彼らは思っている」

「なぜ? 僕らはこういう患者の治療に来たんじゃないのか」

「始めはそうでも、こういう悲惨な光景を見ると、先進国の医者たちは参ってしまう。途中で帰国してしまうんだ。だから、中央手術部を最新設備にして、君たちが働きやすいように精一杯歓迎している。そして、戦闘とは関係のない病気の患者や、治って社会復帰できそうな軽症の怪我人だけを君たちに託す。たとえ助かっても障害が残り、労働力になりそうもない患者はここまでだ」

僕は複雑な気分だった。ボランティアをしているつもりでいい気になって、何も知らなかったということじゃないか。

「君らはドワイエ国の希望だ」

「現実じゃなくて、希望ね」と僕は言い返した。

「そう卑下するな。本当に希望なんだ。ここは出生率が高い。でも、お産で母親が死んだり、無事に産まれても、10人に一人は1才の誕生日を迎えられない。それを君達が助ける。

 「そう言われてみると、帝王切開がやたらに多い」アンディが言った。「普通のお産はもっと多いということだ。しかも、医師団の中には小児科医が4人もいる。他の科は一人か二人なのに。外科系では整形外科と産婦人科だけが3名の医師がいる。そういうことだったのか。僕は内科系の医者が何をやっているのかは知らないが」


 救急外来で働いている医療スタッフのほとんどは現地人のようだ。白人のスタッフは見当たらない。壁際には所々に銃を持った兵隊がいる。警備兵か。僕が中に入ろうとすると、エドに止められた。

「ダメだ。ここも既にカイトド族の支配下にある」

「どうしてわかる。平常に患者の治療をしているようにしか見えないけど」

「壁の兵隊を見ろ。カイトド族の兵士だ」

「顔を見てもどっちも真っ黒っで、僕には見分けがつかない」

「軍服だ。迷彩の戦闘服を着ている兵士はカイトド族だ。ホグマ族の警備兵は私のような儀礼用の軍服で、色はサンドベージュだ」

あらためてエドワーズ中尉の軍服を見た。色はライトブルーで、黒い肩章には金色のトリミングと金属製の星がついていた。派手だ。

「私はダメだ。国連軍だと直ぐにわかる。でも、君たちは大丈夫だろう。手術着だからここの医療スタッフの中に紛れ込める」

「ダメよ」とフランソワーズが言った。「肌の色が違う。すぐに見分けがつくわ」

「そのとおりだ。ここには黒人のスタッフしか働いていないようだ」とアンディが言った。

「でも、国連軍の制服を着た私よりはましだ。君たちだけで行け。ここを通り抜けるしかない。建物の中を通って中央手術部の棟へ行く道は他にはない。向こうの扉を目指して進むんだ」

「あなたはここに残るの?」フランソワーズがエドに聞いた。

「私は軍人だ。ここで死んでも名誉の殉職だ。しかし、君たちは違う。君たちの中から一人でも死者が出たら、国際問題になる。向こうについ立で囲まれた区域が見えるだろう。あそこは手術をする場所だ。あの中に入れば周囲からは見えない。その向こうに出口があるはずだ」

「・・・・・」僕は言葉が出なかった。

「ドクター・ダイチ、私はあなたに命を救ってもらった。あなた方をお守りします」エドワーズ中尉が言った

「・・・・・・・・、タバコの話?」

僕らはかがみこんで、並んでいるストレッチャーの陰を進んだ。背後からは騒がしい足音と叫び声が聞こえてくる。


手術をする場所とおぼしき区域があった。高いつい立で囲まれた空間で、手術台が7~8台、それぞれに移動式のスタンド型の無影燈が二基づつ。手術野を照らす照明器具だ。その区画の中に入るとちょっと安心した。つい立で周囲からの視線が遮られている。それでも身をかがめて進んだ。古い全身麻酔器が置いてあった。

「英国製の古い型だ。こんなものを使っているのか」とアンディがつぶやいた。「現代の全身麻酔器はコンピュータ制御で、それがいかれると、交換する基盤が手に入らなければ修理不能だ。20年前の高級な全身麻酔器はもう使えない。しかし、40年前の全身麻酔器には耐用年数という概念がなかった。細かなゴムの部品の交換などで修理可能で、今でも使える」

 僕は後ろを振り向いてフランソワーズの手をしっかりと握った。床には全身麻酔器に繋がるガスのパイプがあちこちに這っていた。それに無数の電源コード。それらに気を付けながら進んだ。しかし、一本のコードに足を引っ掛けてしまった。しまった。僕が引っ掛けたのは心電図のコードだった。心電図の上に置いてあった缶が大きな音を立てて床に転がった。・・・そして静寂・・・。

左側のつい立ての隙間に扉が見えた。そこに向かおうとしたら、一人の兵士が僕らの目の前に立ち塞がった。迷彩色の軍服を着て銃をこちらに向けている。僕は床に座り込んだ。フランソワーズの肩をしっかりと抱いて自分に引き寄せた。しまった。抱き寄せるべきではなかった。これだと二人が一つの的になる。フランソワーズを突き飛ばして、すぐ横にある全身麻酔器の陰に放り込むべきだった。もうダメだ。

その時後ろで銃声がして、目の前の兵士が倒れた。エドが今来た入口の陰からその兵士をピストルで撃った。「走れ」エドが向こうから叫んだ。

僕は立ちあがって、フランソワーズを抱きかかえて走った。アンディは前を走っていた。つい立ての隙間を出るとその先に扉があった。そのときに目の前の壁に弾が当たるのを見た。僕らの後ろから別の兵士が撃って来た。扉を開けて駆け込んだ。そこで振り向くとエドが孤立しているのが見えた。

ここを抜ければ救急外来の反対側の廊下に出れるはずだ。しかし、その扉の先は廊下ではなかった。部屋だった。

行き止まりだ。僕らが今入って来た扉に迷彩服の兵士が現われ、部屋の中をめくら滅法に乱射した。アンディがその兵士をコルト1911で撃った。兵士は倒れた。別の扉から二人の兵士が駆け込んできた。アンディは続けざまにその二人も撃った。アンディの銃のスライドがオープンになって止まった。マガジンが抜けて床に落ち、アンディは既に左手に持っていた別のマガジンをグリップの下から差し込んだ。スライドが前進してシャキーンと音を立てて閉じた。アンディは銃を構えたまま二つの扉を交互に凝視していた。目の前には三人の兵士が倒れている。

静寂・・・・・・・・。

「まだ来るはずだ。ここにいたカイトドの兵士が全員でこの部屋を包囲したはずだ」。

・・・・・しかし、次は来なかった。


人が走る音がした。銃声は遠くの方で激しくなっているように聞こえた。

ホッとした瞬間、一人の兵士が駆け込んできた。小柄な兵士だった。アンディはその兵士に銃を向けたが、なぜか、撃たない。

その兵士は持っていたサブマシンガンの銃口を下に向けていた。しかし次の瞬間、それを上げてアンディに向けて撃った。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ・・・、他の銃とは違う、ゆっくりとしたフルオートの連射だった。アンディは動かない。

僕はスミス・アンド・ウェッソンを握って、その兵士に向けて引き金を引いた。1、2、3。アンディに言われた通り、3発の弾丸を発射した。その兵士は倒れた。

 アンディを見ると、まだその場に立っていた。「大丈夫か?」

「大丈夫だ。弾は当たらなかったようだ。サブマシンガンは10メートル離れると当たらない」

 エドが駆け込んできた「大丈夫か」。エドも無事だったようだ。

「国連軍と政府軍が市庁舎と病院に突入した」エドはインターコムで国連軍の動きを把握していた。「ここの兵士は全員がそっちに向かった」

「この子は?」とアンディがエドに聞いた。

「逃げたんだ、逆の方向に。それでこの部屋に入った」

「・・・・・・・」

〝この子〝という表現が気にかかった。「なんで撃たなかったんだ。三人は簡単に倒したのに、なぜ四人目は撃たなかった」

「最初の三人は単なる兵隊だ。悪漢の写真が貼られたコンバット・シューティングのべニア板の的と大して変りはない。だからゲームのように撃てた。しかし、この子とは目が合った」

「えっ!」

「見てみろよ」と言われて、僕は自分が殺した兵士の顔を見た。少年だった。

「この子と目が合った。恐怖に怯えたつぶらな瞳だった。撃てなかった」

「でも、この子は君を見て、美形の顔に恐怖におぼえて思わず引き金を引いた」と僕は言ってみた。ナチスドイツのゲシュタポのような冷酷な顔を見て、とは言わなかった。

「そうかもしれない。僕の顔は怖いと、よく言われる」

 僕は、アンディがいつもニコニコして、妙に愛想が良いのが気になっていた。そういうことだったのか。アンディは自分の顔が冷酷な印象を他人に与えるのを知っていた。だから、それを打ち消すためにいつもニコニコしていたのだ。彼の印象がまた変わった。三度目だ。

「ありがとう。君は命の恩人だ」。僕はアンディのこの一言を聞いて、〝君がこの子を殺したんだ〟と非難されているような気がした。しかし、僕はそんなことで自己嫌悪に陥ったりはしない。あれは正当な行為だ。それで十分だ。僕は善人ではない。

「三発撃ったのか」

「ああ、君の教え通りに」

「補充しておけ」

 僕はスミス・アンド・ウェッソンのシリンダーを開け、銃口を上に向けた。まだ発射されていない2発が左手の掌に落ちた。さらに左手の指でエジェクターを押すと、空の薬莢が三個排出されて床に落ちた。二発を元に戻して、ポケットの箱から新しい弾を3発を出して銃に込めた。


 建物の中が静かになっていた。銃声は止んでいた。

「終わったのか。どっちが勝ったんだ」

「我が方がほぼ制圧したようだ」とエドがインターコムから得た情報を言った。

アンディが扉の外を見ようとしたとき、男が一人駆け込んできてアンディに激突した。迷彩の戦闘服ではなく、濃いグレーの儀礼用の軍服を着た黒人だった。その黒人は持っていたアサルト・ライフルの銃床でアンディの顔を殴りつけた。アンディは床に倒れた。そして、そのライフルでエドのブルーの軍服をめがけて2発連射した。エドが倒れた。兵士ではなく将校だと軍服でわかった。しかも、国連軍やホグマ族の警備兵の制服とは色が違う。敵だ。

次にそのライフルは僕に向いた。しかし、弾は発射されなかった。弾切れのようだ。その将校はライフルを投げ捨てた。僕は一瞬ホッとしたが、彼は腰の革製のホルスターに手をやり、ピストルを取り出して僕に向けて、撃った。僕は手にしていたスミス・アンド・ウェッソンを彼に向けて、夢中で引き金を引いた。ただひたすら、その男に向けてトリガーを引き続けた。そして、トリガーを引いても弾が出なくなった。5発全てを撃ってしまったようだ。男は目の前に倒れていた。

僕は自分の身体を点検した。何所にも銃弾は受けていないようだった。しかし、エドとアンディは倒れている。フランソワーズの姿を探した。彼女は僕のすぐ後ろにいた。

「私は大丈夫。怪我はしていないわ」。

僕は彼女の肩に手を回して、しっかりと抱きしめた。そして、額にキスをした。

 そのとき数人の足音がして、扉の前で足音は止まった。僕は空になったスミス・アンド・ウェッソンを見た。ポケットにはまだ予備の弾があるが、詰め替えている暇はない。もうダメだ。空のピストルは持っていないほうがいいだろう。床に放り投げた。そして、もっと強くフランソワーズを抱きしめた。この部屋には遮蔽物になる物が何もない。彼女を抱きしめるしかなかった。

 三人の兵士が入って来た。迷彩の戦闘服を着ていたが、それはさっき見たカイトド族のものとは色が違う。グレー系の迷彩だった。どこか垢ぬけている。

「ドクター大地」と一人の兵士が僕の名前を呼んだ。聞き覚えのある声だった。

「キース軍曹です。ご無事でしたか」味方だった。

「とりあえず」と僕は言って、倒れているアンディとエドの方を目で指した。

二人の兵士がそれぞれに向かった。アンディが起き上った。顔に酷いあざを作っていたが、怪我はないようだ。エドも返事をした。死んではいない。

アンディがふらふらと歩いてエドのところへ行き、「大丈夫か」と声をかけた。

「ああ、ボディ・アーマーを着ている」と言って、エドは起き上がろうとした。しかし、「痛い」と叫んでまた横たわった。起き上がるのは無理なようだった。

「それは良かった。でも、ボディ・アーマーを着ていても衝撃はまともに受ける。しばらく横になっていろ」とアンディは言って、僕が放り投げたピストルのところへ行き拾い上げた。シリンダーを開け、エジェクターを押して空の薬莢を排出した。「全部撃ったのか」と言って僕にスミス・アンド・ウェッソンを渡してくれた。

 僕は何も言わずに受け取った。

「僕を助けてくれた時は冷静に3発だったのに、自分の時は全部か」

「あの時は冷静でいられたが、さっきは夢中だった」

「当然だよ」とアンディは笑った。「弾はまだあるだろう、入れておけ」と言われたが、僕はもう、銃に弾を込める気にはなれなかった。「いや」と言って空のままポケットに入れた。

キース軍曹は僕が撃った将校の横に立っていた。「クソソコドナチャチェチコ将軍だ。この男が今回の暴動の首謀者だろう。こいつは過激な男だ。君が撃ったのか、ドクター大地」

「そうみたいだ。この男は将軍なのか」

「カイトド族のナンバー2の将軍だ。ここに駆け込んだということは、部下を見捨てて自分だけは助かろうとしたのだろう」とキース軍曹は言った。

「この部屋の扉はいかにも安全地帯への出口のように見える。だから僕らも駆け込んだ。あの少年も。そして、この男も」とアンディが言った。

「これでカイトド族も大人しくなるかもしれない。お手柄だった」とキース軍曹が言った。死体のわきにかがんで、その死体から何かを取って僕の所に来た。

「ルガーP‐08だ。作動不良を起こしている。君が欲しがっていたアンティークの銃だ」

 トグルが持ち上がって、中途半端な所で止まっていた。

「君に向かって一発撃って来たのか」

「ああ、でも、二発目は記憶がない」

「二発目は撃てなかった。一発目の薬莢が薬室に張り付いて、排莢出来ていない」

「それで助かったのか。この男を撃つ必要もなかったということか」

「まあ、それは仕方がないでしょう。この男は君を撃ち殺すつもりだったのだから」

「・・・・・・」

「しかし、この男はマニアだな。このルガーだけじゃなくて、軍服もナチスドイツの親衛隊の物だ。ご丁寧に、襟には〝SS〟の文字まである」

「・・・・・・」僕は、アンディならさぞかしこの軍服が似合うだろうと思った。口には出さなかったが、つい、笑ってしまった。しまったと思って、アンディの顔を盗み見した。彼は僕を凝視していた。僕の心を読まれたか。

 キース軍曹の部下の若い兵士が叫んだ。「血です。中尉の身体に血が」

 エドの脇の下に血がにじみ出ていた。アンディがエドのところに行き、軍服を脱がせ始めた。僕もそばに行った。

 上着の前を開け、シャツを広げると防弾チョッキが見えた。胸のところに二発の弾痕があった。その防弾チョッキを脱がせると、左の胸に一か所傷があった。そこから出血している。一発はボディ・アーマーを貫通していた。エドは筋肉質で締まった身体をしていた。意外だった。小太りに見えたのは防弾チョッキを着ていたからか。

「大丈夫か、息は出来るか」とアンディがエドに問いかけた。

「大丈夫だ。でも、息を吸うと胸が痛い」

「ダイテン、エドを中央手術部に運ぼう。弾を取り出さないと」とアンディが言った。

「そうだな。それがいい、急ごう」。僕は救急外来に戻って、空いているストレッチャーを調達してエドを乗せた。

 救急外来から正面玄関への廊下は広く、かつ、長かった。そこを進んでいる最中に思った。このストレッチャーを階段で2階まで運び上げることは可能か。屈強な兵士が3人いるから、僕らも手伝えば何とかなるか。

正面玄関に着き階段を見上げると、ストレッチャーを横向きにして運び上げることは可能だ。階段は幅が広く、十分に余裕がある。しかし、2階まではかなりある。古風なゴシックの宮殿のような造りだから、一階分の高さが常識外れだ。

「確か、エレベーターがあるはずだ」アンディが言った。「救急外来からの患者の搬送が遅くなると、エレベーターがなかなか来なかったとか、故障していたとか、現地人のスタッフがよく言い訳をしている」

「そんなエレベーターかよ。でも、あったほうがいい」

「こっちにあったわ」と、フランソワーズが階段の向こうの角から手招きしていた。そこに向かってストレッチャーを移動させた。扉がスチール製の柵になっていて、中の動きが見える古風なエレベーターだった。幸いにしてエレベーターは1階に止まっていた。

「当たり前だな。エレベーターがなければ中央手術部を2階にするはずがない」アンディが呟いた。

僕は中に入って2階のボタンを押そうとすると、フランソワーズに止められた。彼女は〝1〟のボタンを押した。その下に〝G〟というボタンがあるのを見て僕は納得した。

僕はこの建物にエレベーターがあるのを初めて知った。古風なゴシック建築とエレベーターはイメージが合わない。ないものと決めつけていた。外科の病棟は中央手術部と同じフロアーにあるので、僕は今までエレベーターを必要とする患者の移動をしたことがなかった。

 中央手術部にはスタッフが一人もいなかった。全員避難したようだ。救急外来はあんなときでも正常に機能していたのに。

「誰もいない。これじゃあ手術は出来ない」アンディが言った。

「なぜ、医者が3人もいるんだぞ。麻酔科医もいる」僕は咄嗟にアンディに反論した。

「医者が何人いようと、看護師が二人いなければ手術は出来ない。それも、トレーニングされた手術室専門のナースが二人」とアンディは言った。確かにその通りだ。

「私はダメよ。女だからよくナースに間違われるけど、彼女たちの仕事はわからない」と、フランソワーズがすかさず言った。

「救急外来に戻そうか。あそこはスタッフがそろっていた」アンディが言った。

「ダメだ。開胸が必要かも知れない。あんな野戦病院みたいなところで清潔な手術が出来るとは思えない。とりあえず、ここには最新の設備が全部ある」僕は言った。

アンディが手術室の中を見渡して言った。「麻酔はかけられそうだ。電源とパイピングをつなげば全身麻酔器は使える。しかし、呼吸回路がない。呼吸回路はディスポーザブルの一回限りの使い捨てで、新品の回路がどこに保管してあるのかを僕は知らない。ダイテン、君は手術器具や滅菌したガウンがどこに置いてあるのか知っているのか」

「そんなものはいつも看護師が用意している。知るわけがないだろう」

「・・・・・・」やっぱり。

 もう一度、エドの容態を見た。痛そうだが、呼吸は正常そうに見える。

「エド、息は苦しくないか」アンディが問いかけた。

「ああ、息をすると痛いだけで、苦しくはない」

「気胸にはなっていないのかもしれない」とアンディは言って、全身麻酔器の隣に置いてある生体情報モニターのスイッチを入れ、パルスオキシメーターのプローベでエドの左手の人差し指を挟んだ。動脈血の酸素飽和度は98%だった。「呼吸は問題ない。弾は胸腔を貫通していないのかもしれない」

「レントゲンを撮ろう」と僕は言ってみたが、放射線技師もいない。

「C‐アームがあるはずだ」とアンディが言った。整形外科の手術でよく使う透視の機械だ。僕が探しに行こうとすると、それは廊下に出しっぱなしになっていて、すぐに見つかった。それを運び込み、電源のコンセントを差し込んだ。でも、メインスイッチがどれだかわからない。

「私が使えるわ」とフランソワーズがスイッチを入れ、大きな半円形のアームの両端に付いているエックス線の照射部と受光部でエドの胸を挟むようにC‐アームを移動させた。このアームの形が〝C〝の字に似ているのでC‐アームと言う。

彼女は手際良く操作した。「私、これ、たまに自分で使うの。技師が不足している病院でアルバイトをしているから」

「イギリスの医者もアルバイトをするんだ」

「だって、必要とされるから」

 エドの胸の映像がLEDのビデオモニターに映し出された。心臓の真上に弾が見える。透視は普通のレントゲン写真と違って動画を見れる。心臓が正常に拍動しているのが確認できた。しかも、心電図と血圧計は既に装着していたので、心肺系が正常なことはそちらでも確認していた。

「側面を見よう」C‐アームを90度回転させて、エドの胸を横から見る画像を出した。弾は胸の前面の筋肉の中で止まっていた。肋骨で止まったのだろう。胸腔内には達していない。

「なんだ、これなら局所麻酔で取れる。開胸する必要もない」僕はホッとした。

「良かった。局所麻酔薬なら麻酔カートの中にある。問題は手術の道具だ。もちろん君は知らないよな、ダイテン、どこに置いてあるのか」

 そこへチコが現われた。「ドクター、何をしているんですか。お見かけしたので追いかけてきました」

「いいところへ来た。エドワーズ中尉の弾を取り出すから、手術器具を出してくれ」アンディがチコに指示した。

チコが中央手術部の奥へ走って、大きめの滅菌したパックを持って来た。消毒薬は手術室の壁に備え付けられた温蔵庫の中にあった。意識のある患者を消毒する時に、冷たい思いをさせないために消毒液は温めてある。

僕は傷口の周囲の30センチ四方を消毒してから、滅菌した手術用のノン・ラテックスの手袋をした。手袋の保管場所はアンディが知っていた。麻酔でも使うからだ。

チコが持って来た手術道具の滅菌パックは幽門側胃切除のセットだった。「まあ、十分だ。十分過ぎる。でも、ドレープがない」手術野の周りを覆う滅菌した不織布のことだ。「まあいいや。なくてもいいや。でも、メスもない。メスがないと始まらない。針と糸もない」。それらはセットの中には含まれていなかったし、チコもそういう物については詳しくなかった。

「ハイ」と、フランソワーズが針付きの糸のパックを差し出した。あそこの棚にあるのよ。いつも看護師が出してくるのを見ていたから。でも、メスの場所はわからない」

「あった。糸の隣にあったわ」とフランソワーズが三本のメスのパックを出して僕の目の前に扇状に広げた。「どれがいいの」

「真ん中」

 フランソワーズはメスの滅菌パックの縁を両側に開いて、中身に触らないように慎重に僕に差し出した。看護師の手付きとは違う。慣れていない。僕は受け取る時に緊張した。

 アンディが麻酔カートの中から局所麻酔用の1%リドカインのプレシリンジのパックを出して、中身を不潔にしないように開けて僕にくれた。プレシリンジとは薬液を注射器に詰めてラベルを付けて包装してあるもので、薬の誤用を防ぐためのものだ。なぜなら、薬はアンプルから注射器に吸ってしまうと見分けがつかない。薬液を詰めた注射器をテーブルに置くと、次に注射器を取り上げる時に隣りの注射器を持ってしまう可能性がある。使うべき薬品をあらかじめ注射器に吸って、テーブルの上に用意しておくのは良くない。ミスの元だ。それを防げるのが薬液を初めから注射器に収めてあるプレシリンジで、リドカインのプレシリンジには、ブルーの地に白抜きで〝LIDOCAIN〝と大きく書かれたラベルがプリントしてある。薬によってラベルの色が違うので、間違い難い。

エドの傷口の周りに1%リドカインを注射して、痛みを感じなくなったことを確認してから皮膚の上を触った。皮膚の上から弾を触れた。ここにある。傷口から鉗子を入れると、すぐに弾は見つかった。弾を鉗子で摘んで、取り出した。

「取れたぞ」と、僕は鉗子をエドの目の前に掲げて見せた。

簡単だった。これで終わりだ。後は一針か二針かけて、射入口の傷を閉じるだけだ。しかし、どうせなら、跡が目立たないように傷口を閉じたい。傷口の上下の皮膚を指で引き寄せて、皮膚のしわの具合を見た。皮膚のしわに沿って傷口を閉じれば、傷が治った時に目立たない。

「そこから先は私がやりましょうか」とフランソワーズが申し出た。僕の仕草を見て、僕が何をしようとしているのかを察したようだ。

「そうだな、それがいい、君に任せよう」皮膚の傷を綺麗に縫い合わせるのは形成外科の専門領域だ。

 フランソワーズはさっきの棚に行き、針付きの糸を三つ選びだした。メスももう一本出してそれらの包装を開け、広げてあった胃切用のセットの隅に慎重に落とした。そして、手洗いをせずに滅菌の手袋をした。

 僕がしたのと同じように上下の皮膚を引きよせしわの具合を見ると、メスで横に大きく切った。次に別のメスに持ち替え、弾痕の部分の端を細く切り落とした。傷んだ部分は切り落とさないと傷が奇麗に治らないということか。

 さらに、皮膚を持ち上げて内側に切り込みを入れ、皮膚を二層に分けた。内側を太めの糸でしっかりと寄せて縫い。次に外側の皮膚の内側に小さい針の付いた細い透明の糸をかけ、引き寄せて縫い合わせた。胃の手術用の受針器はその針にはいかにも大き過ぎたが、彼女は器用に受針器を使い、傷口は閉じられていった。フランソワーズが新たに切った皮膚の裂け目は盛り上がって縫い合わされた。糸は内側にかけられているので、隠れて見えない。これで終わりかと思ったら、さらに黒い糸で盛り上がった傷口の外側を縫った。

「何でそんなことをするの」と僕が聞くと。

「こうして両側の皮膚をしっかりと寄せておかないと、隙間からケロイドが表面に出てくるのよ」と言いながら手術を終了した。かなり面倒な作業だった。

 アンディが言った「君は手際が良くて指先の動きが奇麗なので、見ていて飽きない。しかし、これをもし、僕が全身麻酔をかけている患者にやられたらイライラするだろうな。さあ終わりだと麻酔を覚まそうと思った瞬間に、術者が交代してさらに時間がかかることになる」アンディは不機嫌だった。自分の出番がなかったからか。

「あなたのお友達でしょ」とフランソワーズは一言いった。

その場の雰囲気を感じて、僕は話題を他の方向に向けようと「そうすれば傷が奇麗に治るんだ」と言ってみた。

「目立たなくはなるけど、完全に奇麗にはならない。皮膚は一度傷つけたらダメ」と彼女は言って、エドの顔を見た。

「いいよ。僕は男だ。男の胸に傷があったって、誰も気にしない。むしろこれは名誉の負傷だ。軍人にとって弾痕は勲章みたいなものさ」

「じゃあ、星型に縫ってあげれば良かったわね」とフランソワーズはムッとした。

 でも、僕は何故か嬉しかった。皮膚の機能だけを優先して、傷跡の醜さを無視する手術しかしていなかったフランソワーズが、見た目の美しさにもこだわっているのが嬉しかった。

 エドが起き上がった。「痛みが和らいできた。立てそうだ。でも、息をすると胸が痛い」

「肋骨にひびが入ったのだろう。放っとけば治る」とアンディがつっけんどうに言った。

僕はアンディの態度を不審に思いながら、エドに手を貸して手術台から降ろした。「歩けそうですか」とたずねると、エドは黙って歩き出した。

4人で歩いて手術室を出た。中央手術部の入り口にはキース軍曹以下3人の兵士が心配そうに待っていた。

「中尉殿、御無事で」。キース軍曹がエドワーズ中尉を見て嬉しそうに言った。次に僕の方を見て、「ドクター大地。あなたの戦利品です」と、ルガーと木製のストックを差し出した。なんと、口のきき方が前よりも丁寧になっている。さっきまでは君呼ばわりだったのに。

「あの男はルガーのストックも持っていました。貴重なものです。お持ち下さい」

「・・・・・、殺した相手から物を奪うのか」

「この銃はそういう運命の銃なんだ」と、エドが横からコメントした。「敵兵にも愛された唯一の軍用ピストルだ。これが今ここにあるのだって、第一次世界大戦か第二次大戦で、殺したドイツ兵からイギリス兵かアメリカ兵が奪って本国に持ち帰ったからだろう。それが回り回って、ここにある」

「でも、もらってもしょうがない。日本には持ち帰れない」

「そうですか。残念です」とキース軍曹は言った。

「でも。まだ二週間あるから、その間だけは貰っておこう。帰国する時に君に渡すよ」と僕はキース軍曹に言った。

「では、焼きついた薬莢をはずしておきます」

「どこでやるの」

「基地の保管庫の作業場で、戻ったらすぐにやります」

「後にしないか、僕にも一緒にやらせてくれ。僕はP‐08の分解なら出来る。モデルガンを持っているから」

「イエッ・サー」キース軍曹は完全な軍人言葉になっていた。僕は彼の上官になったような気分だった。

アンディが無口なのが、ふと、気になった。

「あら、アンディの様子がおかしいわ」フランソワーズが後ろを振り向いて言った。

僕も後ろを振り向くと、アンディは壁に手をついて立ち止まっていた。そして、その場に倒れた。

僕はアンディに駆け寄った。

「アンディ! アンディ!」返事はなかった。アンディは意識を失っていた。

エドとフランソワーズ、三人の兵士とチコ。全員の目がアンディに向けられた。アンディは起きない。

僕はアンディの目を診た。左右の瞳孔の大きさが違う。

「急性硬膜外血腫だろう。さっき頭を強く殴られた、あのせいだ」

「4階の病棟に行けば脳外科の先生がいらっしゃいます。カイトド族の医者ですが、それでもよろしければ」チコがすかさず言った。

「もちろん、脳外科医なら安心だ。あれから2時間以上が経つ。今までは正常だったのだから、多分、血腫だけだ。血を抜けば治る。脳挫傷はないはずだ。急いで脳外科医に見せよう」


 「とりあえずCTを撮りましょう」と黒人の脳神経外科医は言った。

 CTの結果は急性硬膜外血腫に間違いなかった。

「血腫除去をしましょう。救急外来よりも中央手術部がいいでしょう。開頭ですから」

「お願いします。でも、中央手術部には看護師が一人もいませんよ。麻酔科医も」

「ここに来てますよ、中央手術部の看護師は。二人連れて行きましょう」

「麻酔科医は? アンディが患者だ」

「大丈夫ですよ、救急外来でいつも全身麻酔をかけている麻酔科医がいます。我々の仲間の麻酔科医が。それでもよろしければ。」

「もちろんです」

「2時間ぐらいで終わる手術です。手術に立ち会われても結構ですが、外でお待ち頂いた方がいいと思いますけれども」

「おまかせします」


 手術部の入り口の外で手術の終わりを待つというのは、初めての経験だった。僕らはいつも患者の家族にこういう思いをさせているのだ。

 2時間は長い時間だった。しかし、2時間を過ぎてもアンディは出てこなかった。手術に手間取っているのか。

 更に1時間以上の時間が過ぎた。考えてみれば当然だ。手術が正味2時間かかれば、その前後に麻酔その他で更に一~二時間はかかる。

最初に出てきたのはアンディではなく、黒人の脳外科医だった。ドキッとした。手術は失敗だったのか。

「手術は終わりましたよ」と、その脳外科医は一言言った。

どういう意味だ。どのように終わったのか? 「・・・・・・」僕は言葉が出なかった。

「明日の朝には意識が回復するはずです」

「つまり、手術は上手くいったということですね」

「もちろんです」

 ホッとした。

「それは良かった。」エドが言った「私は国連軍基地の司令部に戻る」

「じゃあ、僕らは宿舎に戻るよ。もう安全なんだろう」僕はフランソワーズの顔を見た。彼女も同意した。

「とりあえず市庁舎と病院は安全なようだ。しかし、外には出ないほうがいい。カイトド族の武装勢力を完全に制圧できたわけではないし、ポグマ族にも過激な連中がいる。まだ戦闘状態は続いていると考えたほうがいい。君らの宿舎には警備の兵士を二人配備しておく。安全だと考えてくれ」

 フランソワーズと二人で宿舎に戻ると、宿舎には人の気配がなかった。

「やだ、みんなどっかに避難したみたい」

 3室のドアを続けざまにノックしたが、返事がない。僕は大声で叫んでみた。

「誰かいないか」

「・・・・・・」

 シーンとしていた。携帯電話で医師団の仲間に連絡しようとしたが、携帯は通じなかった。「呼び出さない。どういうことだ」

「携帯電話の中継機が破壊されているのかもしれない。病棟へ戻ってみよう」

 もう一度、さっきの四階の病棟に行った。顔見知りの看護師を見つけて聞いた。

「他の連中はどこかに避難したのか」

「ハイ、医師団の先生方は国連軍の基地に避難されました。残っているのは私たちだけです」

「つまり、この国の人たちだけということね。君たちは安全なのか」

「ハイ、私たち医療スタッフには彼らは危害を加えません。ホグマ族の患者もカイトド族の患者もいますから。皆さんは外国人ですから、避難した方がいいと思いますよ」

「国連軍に通じる電話はないか、僕らの携帯電話は通じない」

「電話と無線機は全てカイトドの兵士が破壊していきました。どことも連絡は取れません」

「わかった、とりあえずエドの言っていた警護の兵士に会ってみよう。宿舎の玄関にいるはずだ」

 玄関の前には二人の国連軍の兵士が倒れていた。一人は背中から血を流し、もう一人は首から血を流していた。既に死亡しているのを確認して、うつ伏せの死体を起こしてインターコムを探した。二人ともインターコムは持っていなかった。奪われたようだ。

 そこにチコが現れた。僕ら二人を追いかけてきたようだ。

「カイトドの兵隊が病棟に来ました。先生方を見かけて追いかけてきたようです。駐車場へ行って、救急車で逃げてください。救急車なら彼らも攻撃しません」

「何で僕らまで追いかけられるんだ。関係ないのに」

「もう、関係してしまったの。あなたは彼らを二人殺しているのよ」フランソワーズが言った。

「あれは仕方なかった」

「それが戦争よ」

「でも、僕が撃ったとは知らないはずだ」

「あの部屋に入って、生きて出て来たのは私たちだけ。私も容疑者よ」

「・・・・・」

 チコが駐車場の運転手控え室に案内してくれたが、そこには誰も居ず、駐車場に救急車は一台もなかった。

「七、八台あったはずなのに、全て出払ってますね」

「そのようだね」と僕は言って、そばに止まっていた車のドアに手をかけた。鍵はロックされていた。次の車のドアの取っ手に手をかけようとした時、フランソワーズに止められた。 「盗難防止装置のついた車に触ると面倒なことになるわ。とりあえず窓を覗いて、キーの差してある車を見つけましょう。キーがなければ、ドアが開いても無意味だから」

 二人で手分けして車の窓を覗いた。キーが挿しっぱなしの車は見当たらなかった。

「見つけた。キーがなくても動く車を見つけたわ」フランソワーズが指差す方向に古いロールスロイスが駐まっていた。 そこでチコが言った、「あれはダメです。オタ・・・大統領の車です」

「えっ? 誰?」

「オタン・・・・・大統領です」

「もう一度言ってくれ」

「オタンムスコナス大統領です」

「誰だ、それは」

「内戦が起こる前まで大統領だったお方です。今はこの病院に入院しています」

「ほーお」

「カイトド族の長老ですが、ホグマ族にも尊敬されています。閣下がお元気だったときは平和でした」

「というと?」

「閣下がお倒れになって直ぐです。ゲリベントリマハウンコ将軍が大統領代行を宣言して、それからカイトド族のホグマ族への暴行が公然と行なわれるようになりました」

「その将軍というのが、僕が撃ったカイトド族のナンバー2か?」

「国連軍の兵隊がナンバー2と呼んでいるのは、クソソコドナチャチェチコ将軍のことです。過激で残忍な男です。ゲリベントリマハウンコ将軍は温厚だと言われていますが、無能で意気地がないだけです。残忍なことに変わりありません。いうなれば彼がナンバー1です」

「なになに、名前が難しくて全然わからない。入院中の大統領はなんて言ったっけ?」

「オタンムスコナス大統領です」

「オタン・・・・、オタンコナス、思い出した。似たような名前の患者がいた」

「はい、ドクターが肝臓の手術をなさった患者です」

「あれが元大統領か。そういえばVIPだとか言ってたなあ。大統領代行を宣言したという、ナンバー1の方の将軍はなんだったっけ」

「ゲリベントリマハウンコ将軍です」

「もう一度言ってくれ、ゲリベン・・・ウンコ」

「ゲリベントリマハウンコ将軍です。現在のこの国の混乱は、彼が無能で嫉妬深いからです」

チコが政治的な意見をこれほどはっきりと言うとは意外だった。「もう一人は誰だっけ。ナンバー2の」

「クソソコドナチャチェチコ将軍です」

クソ・・・・、あの時、キース軍曹もそんな名前を言っていた。

「ところで、この車はなんでダメなんだ。どうせ盗むんだから、どの車だって同じだろう」

「あのお方の車だけはダメです。あれには誰も手を出しません」

「それは好都合ね。あれにしましょう」フランソワーズは言った。

 フランソワーズはロールスロイスのところへ行き、運転席のドアの取っ手に手をかけた。ドアは開かなかった。次に後部のドアに手をかけた。ドアは開いた。

「ここの鍵は掛け忘れている。このドアは忘れやすいの。クラシックカー・イベントでキーを失くした人がいて、その人もこのドアだけはロックを忘れていた」

「これは1950年代のファンタムだ。ボディはジェイムズ・ヤング。フォーマルなパーク・ウォードよりも、こっち方がスポーティな感じがして僕は好きだ」

「あら、詳しいわね。じゃあ、運転できる」

「したことはない。写真で見たことがあるだけだ」

「私はできるわよ。エンジンだってかけられる」

「キーがなくても?」

「キーなんて問題じゃないの。問題なのは儀式なの」

「儀式?」

「まあ、見てて」

その時、後ろを振り向くとチコが後ずさりをしていた。

「チコ、あなたも一緒に来てくれない。道案内をお願い」

「いえ、それは出来ません。この車には乗れません」

「大丈夫だ。道なら僕が知っている。行ったことがある。一本道だ」

「それは頼もしいわね」フランソワーズは不信そうな顔で僕を見た。「仕方がないわね。あの様子じゃとても無理」

 チコは恐怖におののいた表情をしていた。「チコ、行っていいよ」

チコは今来た入口に向かってまっしぐらに走り出した。

「あの様子だと、この車ならホグマ族に攻撃されることはなさそうね」

「カイトド族の方はどうだろう」

「その、オタン・・何とか大統領はまだ生きているの」

「ああ、無事に回復しつつある。下半身不随だけれど」

「じゃあ、大統領本人が乗っていると思うかもよ」

「だといいね」

 フランソワーズは運転席に入るとハンドルの下に潜り込んで、なにやらモゾモゾやりだした。僕はフロントに回って車を眺めた。立派なラジエーターグリルと、その両側に大きなヘッドライトが二つ。ルーカスのヘッドライトだ。直径が大きく、三本の支柱で真ん中のバルブを覆う遮光板を支えている。英国製のクラシックカーには、この三本の支柱が付いたルーカスのヘッドライトがよく似合う。

 フランソワーズはダッシュボードの下に潜り込んだまま出てこない。

「どれかのコードを繋ぐとセルモーターが回るんだな」と僕は彼女に問いかけてみた。

「そうよ、でも、暗くてよくわからない」と言いながら彼女はゴソゴソと作業を続けた。

 それにしても素晴らしい木目のダッシュボードだ。ウォールナットの根だろう。渦を巻いた木目は、濃い部分が赤みがかったこげ茶で、明るい部分は黄色味を帯びている。この色が魅力的だ。現代の車の木目のダッシュボードにはない、英国の昔の高級車特有の色だ。

 フランソワーズは6本のコードを引っ張り出した。そして運転席に座り、美しい木目のダッシュバードの真ん中の下の方にあるノブを引いた。

「あなた、ストップウォッチのついた腕時計をしていたわね」

「ああ」

「30秒間を計って」と言いながら6本のコードの二本ずつをつなぎ合わせ、アクセルペダルをゆっくりと一杯まで踏んで、離した。

「・・・・・・・・」

「そろそろ30秒だ」

「今よ」と言って、彼女は残りの二本のコードを接触させた。セルモーターがグォングォンと苦しそうに回り始めた。

 しかし、なかなかエンジンがかからない。セルモーターのグォングォンという音が心なしか頼りなくなってきた。バッテリーが弱くなっている感じだ。ダメか、と思った瞬間、エンジンがかかった。

フランソワーズは軽くアクセルを踏んでエンジンの回転を少し上げると、次にダッシュボードのさっきのノブの隣にある、同じ形のノブを引いた。エンジンの回転計を見ながらノブを引き出す量を微妙に調節すると、アクセルペダルから足を離した。エンジンは1,200回転で回り続けた。

「ハンドスロットルよ。今度は5分間を計って」

「オーケー、ところで、最初に引っ張り出したつまみは何?」

「チョークよ」

「何のためのものなの」

「エンジンをかけるため」

「はあ?・・・・」質問の答えになっていない。つまり、彼女も何だか知らないということか。

「あなた、マニュアル・ミッションの車、運転できる」

「もちろん。自分の車はマニュアルだ」

「それは良かった。この車はハンドルが重くて、私には大変なの」

「でも、これはオートマティックじゃないか。ハンドルの前にオートマティックのインジケーターがある」

「ペダルを見て、3本あるでしょ」

「確かに」

「クラッチよ。このインジケーターはプリセレクターのもの。ちょっと変わったシフトなの。まず、次に入れたい段にレバーを合わせて、クラッチを切って、離すと、その段にシフトする」

「ほーお、やってみよう。〝L〝がローだね」

僕が5分間が経過したことを告げると、彼女はハンドスロットルとチョークを戻した。エンジンの音が静かになった。

「これで儀式は終わりよ」


 僕はドライバーズシートに座って、ハンドルの横に飛び出した小さなレバーでLをセレクトしてクラッチを踏んだ。そして、ハンドルを右に回そうとした。しかし、ハンドルはビクとも動かない。

「ハンドルがロックされている。ハンドルロックを解除していないだろう」

「ハンドルロックなんて元々ないわよ、この時代の車に。少し動きながらでないとハンドルは回りません。パワーステアリングの付いていない車で据え切りは無理」

「あっ、そうか」ゆっくりとクラッチを緩めて、半クラッチで車が少し動き出した時にハンドルを回してみた。重いが、なんとか回る。これでは、女性には辛いだろう。

 駐車場の出口に向かって進路が直線になった時に、セレクターで〝S〝を選択して、クラッチを踏んで、離した。スムーズに2速に変速した。走り出せば快適だ。プリセレクター式は初めてだが、それなりに良くできている。しかも、変速はL、S、Tの3段しかない。しばらくはセカンドのままでいいだろう。

 ゆっくりと表の道路に出てスピードを上げた。病院の前のメインストリートに人影は全くなかった。夜の八時半だ。セント・ジェームスの繁華街に比べれば小規模だが、普段は夜も営業している店がある。しかし、今夜は全ての明かりが消えていた。不気味だが、この車なら、いきなり銃撃されることはないだろう。

「そろそろトップでいいかな」

「いいわ。その上にオーバードライブがあるのよ」

「えっ?」

「ダッシュボードに〝OD〝と書いてあるスイッチがるあでしょ。それを下げるとオーバードライブに切り替わる。3速には効くはずよ」

 すぐに街並みが切れて、周囲に人家が全くなくなった。街灯も無い。

「わかりました。もう少しスピードを上げて試してみよう。それにしてもライトが暗いね」

「本当ね。こんなもんだったのかしら、昔の車って」

「乗ったことあるんだろ」

「昼間しか運転したことはないわ。私がクラシックカーを運転したのはイベントの時だけだから。夜の走行会はないの」

「君はクラシックカー・イベントによく行くみたいだね」

「そう、よく誘われるの。私、美人でしょ、スタイルもいいし。ドレスを着せると映えるのよ」

「それはそれは」

「いい車にはいい女が乗っていないとサマにならないでしょ」

「おっしゃるとおりで」

「ジバンシーのオートクチュールのワンピースを着たこともあるわ。車の年式と同じ年のデザインだったんだって。サイズはピッタリだった。私はモデル体型なの」

「つまり痩せ過ぎね」

「・・・・・、犬と同じよ」

「えっ?」

「犬を一緒に参加させないといけないイベントもあるのよ。素晴らしいアフガンハウンドを連れている老夫婦が私たちの隣にいて、私に一緒に写真に入って欲しいと言われたの。私の連れは嫌な顔をしたけど、奥様が素敵な人で、頼まれたら断れなかった。プロのカメラマンが車の前で犬と私にポーズをさせて撮影した。後で写真を送ってくれたけど、一番目立っているのが犬だった」

「車はなんだったの」

「確か、スペイン製とか言ってたわ。名前を聞いたけど、忘れた」

「スペイン製のクラシックカーというとイスパノ・スイザかペガソだ。どんな車だった」

「フェラーリをダサくしたような車」

「ペガソだ。フェラーリよりも貴重な車だ」

「へーえ、詳しいわね。なんか、悪趣味でグロい車だった」

「そんなもんか」

 まっすぐの道を順調にドライブしていたら、突然、真っ暗になった。

「ヘッドライトが切れたみたいだ」

「ウソ、2灯とも同時に?」

 降りてヘッドライトに触ってみると、片方は熱かったが、もう片方は冷たかった。

「こっちは最初から切れていたんだ。だから暗かったんだ。やっぱりルーカスだね」

「何の話?」

「気にしないでくれ」

「どうしよう、これじゃあ走れない」

とりあえず表に出て、二人でタバコを吸った。アフリカの夜はヒンヤリとして気持ちが良い。

フランソワーズの横顔が月明かりに照らされてほんのりと輝いている。フランソワーズもこっちを見た。目が合った。フランソワーズの瞳が遠くの光を反射して光った。ドキッとする美しさだった。僕はハッとして道路を見た。

目が慣れて来て、センターラインがはっきりと見える。空を見上げると、満月ではないが半月よりは大きい。そして、満天に星が輝いている。日本では見たことのない星の数だ。快晴だ。

「目が慣れれば月明かりでセンターラインが見える。ゆっくり走れば大丈夫だろう」

どうせヘッドライトがないのだから、スモールライトも全て消した。これなら、追っ手が来ても見つかり難い。

平らで真っ直ぐな道を順調に走ると、上り坂になりカーブが多くなった。フランソワーズは無口になっていた。ロマンティックなドライブは終わった。

下り坂になると、フランソワーズがいきなりヒステリックに言った。

「もっとゆっくりと走って」

下り坂のカーブが終わって直線の平らな道になっても、もう、さっきのようなスピードでは走れなかった。フランソワーズは神経質になっていて、今にも泣き出しそうだった。「なんで、こんな事になっちゃたの」

僕は答えずに、ただひたすらロールスロイスをゆっくりと走らせた。それにしても、こんなにゆっくりのスピードでもスムーズに走るのは流石にロールスロイスだ。国家元首がパレードをするためには欠かせない性能で、この時代の車では超高級車だけが持つ特別の性能だ。静かに、まるで幽霊(ファンタム)のように走る。

向こうに国連軍の基地らしき灯りが見えた。一安心だ。

「あそこに見える灯りが国連軍の基地だろう。もうすぐだ」

「まだ遠いじゃない」フランソワーズは不機嫌に言った。

「もうすぐ、基地に向かう脇道の標識があるはずだ。気をつけていてくれ」

「見えないわよ。真っ暗で、何も」

基地の所で明かりが動くのが見えた。車のヘッドライトだ。こちらを照らしている。こっちに向かって基地から車が走って来る。国連軍の兵士かも知れない。

「国連軍の車がこっちに向かって来るようだ。助けを求めよう」

「何処?」

「あっちの方」と指した時、バックミラーに光が見えた。「後ろからも車が来る」

山道のカーブから突然ヘッドライトが現われた。追っ手だ。もうすぐそこだ。直線道路に出てしばらく走ったと思ったが、まだちょっとしか走っていないようだ。マズイ、すぐに追いつかれる。

僕は車を止めた。「降りよう」

「なんで? これに乗っていた方が安全じゃない」

「乗っているうちはそうかも知れない。でも、止められて中を覗かれたら引きずり出される」

ダッシュボードの下でつながれていた4本のコードを解くとエンジンは止まった。車から降りて、フランソワーズの手を引いて脇の草むらの中に走り込んだ。暗いのでそれほど先には進めない。直ぐに追っ手の車は追いついて、ロールスロイスの直ぐ後ろに停まった。ライトが消えた。一瞬、全てが真っ暗になった。

「かがめ。向こうにも見えないはずだ」ドアが開いて、数人が降りて来たのがわかる。「じっとしているしかない」

「あなた、あのピストル、まだ持ってるの」

「持ってるが、弾が入っていない」

「弾は無いの」

「左のポケットにある」

「じゃあ、さっさと込めなさいよ」

「ダメだ。もう手遅れだ。銃を操作すれば金属音がする。気付かれる」

「意気地なし!」

「相手は少なくとも二人以上はいる。ピストルで僕が全員を倒せると思うか。使わないほうがましだ」

「じゃあ、どうするのよ」

「静かに、じっとしているしかない」

「ねえ、ここにはヘビとかトカゲとかがいるんじゃないの」

「余計な事を考えるな。一番恐いのが人間だ」

「・・・・・・」

「ゆっくりと後ろに下がろう」

「・・・・・、 ギャッ! ・・・・何か、踏んだ。・・・・柔らかい物」

「僕の足だ。痛いから早くどけてくれ」僕は院内用の柔らかい革のモカシンを履いていた。

目の前に黒い人影が現われた。

「ロボット・・・」フランソワーズが小声で言った。

暗視ゴーグルをしてヘルメットを被った大男だった。暗視ゴーグルの二つのレンズが月の光を反射して、こっちに向いているのがわかる。手に持ったライフルから赤いレーザー光が僕の胸に照射された。暗視ゴーグルをつけて完全装備した兵士の姿は、まるでSF映画のロボット兵士のようだった。

すぐに10mほど先からもレーザー光が僕に向かって照射された。そして、さらに三つ目のレーザー光も。真っ暗闇の中で、三本の赤いレーザー光が僕の胸に集中しているのだけが見えた。

もうダメだ。救急外来で兵士に銃を向けられた時を思い出した。あの時もフランソワーズを抱き締めていた。しかし、あの時はそばにエドがいた。そして、エドが目の前の兵士を倒してくれた。ここには僕とフランソワーズの二人しかいない。そして、敵は三人だ。


目の前のロボット兵士がドスッという鈍い音とともに倒れた。後ろの二本のレーザー光が左を向いた。もう一人の兵士も倒れた。残った一本のレーザー光が向こうを向き、次に空に向かって乱れて動き出した。銃のレーザーサイトをオンにしたまま抱えて走り出したようだ。エンジンのかかる音がして、車が走り出す音がした。車はライトを点けずに走り去った。

僕は目の前に倒れている兵士の暗視ゴーグルを取って自分の目に当てた。別の車の音が反対側から聞こえてきたので、そちらを振り向くといきなり視野が真っ白になった。車のヘッドライトに照らされた。

車が止まって兵士が二人降りてきた。

「国連軍の者です。ドクター・ダイチとドクター・フランスですね」

「そうです」助かったようだ。

「あなた方の宿舎に配置した警備兵からの定期連絡がないので、他の兵士を向かわせたところ、彼らは殺されていました」

「ああ、僕も確認した。インターコムも奪われていた」

「それで調べたら、あなた方が元総督のロールスロイスでこちらに向かったとわかりました。それでお迎えに来ました。間に合って良かったです」

「元総督? 元大統領じゃないの」

「元々はイギリス領だった時代に、総督が公用車にお使いなっていたロールスロイスです。この車はここに置いていきましょう。お二人は我々の車で基地までお連れします。明日、誰かに取りにこさせます。キーを下さい」

「キーはないよ」


二人で国連軍のランドローバーの後部座席に乗った。この国連軍の兵士はイギリス兵のようだ。助手席に座った兵士は太くて長い消音器と大きな暗視スコープの付いたボルトアクションのライフルを抱えていた。この銃で暗闇の中であのロボット兵士を狙撃したのか。敵も味方も、同じレベルのハイテク兵器を持っている。

 フランソワーズはうつむいていた。泣いているようだ。

「ありがとう」と、僕は兵士にお礼を言った。

「拉致されて人質にされると面倒なことになります」兵士は事務的に言った。

僕はフランソワーズの肩を抱き寄せた。「もうだ丈夫だ」

フランソワーズはいきなり僕に抱きついてきた。今度は大きな声を出して泣いた。

「思いっきり泣いていいんだ」そういいながら僕はさらに強く彼女を抱き締めた。

「ごめんなさい。取り乱して」

「いいんだ。何も言わなくていい」

「あなたが好き。あなたが頼もしかった」

「嘘つけ、意気地なしって言われたぞ」

「怖かったの。許して」

「ああ、いいんだ」

彼女は微笑んだ。フランソワーズを抱きしめてキスをしたかったが、このランドローバーの後部座席でそれはできない。ただ、肩を強く抱いた。

「僕も君が好きだ」

フランソワーズは何も言わなかった。

 国連軍の基地に着いた。建物の前で車を降りると、将校が出迎えてくれた。

「医師団のダイチ先生とフランス先生ですね。エドワーズ中尉から伺っております。将校用の宿舎でお休みください。むさ苦しいところですが」

「ありがとう」そう言って、手招きされる方へフランソワーズと二人で歩こうとすると。

「ご婦人の宿舎はこちらです」と、フランソワーズは別の方向に案内された。僕は彼女を見た。フランソワーズも僕を見た。

 僕は何を期待していたんだ。ここは軍事施設だ。当然だ。僕と彼女は離れ離れになった。

 将校用の個室は確かにむさ苦しいところだった。しかし、小さなテーブルの上に酒が用意してあった。美しいクリスタルのデキャンターに琥珀色の液体が入っている、ウイスキーか。隣には同じ柄のカットの大小のグラスが一つずつ。タンブラーとオールドファッションドグラスだ。氷もあった。小さなペットボトルが二本。一本はミネラルウォーター、もう一本はクラブソーダだった。気の利くことをしてくれる。二つ折りにしたカードが添えてあったので、開いて見た。

「置き去りにして済まなかった。E.E.E.」エドからだ。

 デキャンターの液体をオールドファッションドグラスに少し注いで香りを嗅いだ。ウイスキーだ。ひとくち口に含むと、口の中に香りがスゥーっと広がった。でも、刺激がない。いいウイスキーだ。21年物以上だな。水やソーダで割るのは惜しい。

 オールドファッションドグラスにウイスキーを注ぎ足して、タンブラーには氷を入れてミネラルウォーターを満たした。ストレートで一気にウイスキーを飲んで、水は別に飲んだ。こういう飲み方は口腔や食道の粘膜に良くない。初めからウイスキーを水で割って飲むべきだ。しかし、美味い。

 真空パックされたチーズが二つあった。そういえば、昼食だけであれから何も食べていない。このチーズだけでは空腹は満たせない。でも、無いよりはましだ。電話があるので食事を頼むことも可能かもしれないが、ここはホテルではない。遠慮しよう。

 タバコに火を点け、デキャンターの中の液体をもう一杯注いだ。三杯目を飲んだときに思った。こんなに素晴らしいデキャンターに入っているのだから、飲み残しても、明日、デキャンターごと残りをもらっていくわけにはいかない。遠慮することはない、もっと飲もう。酒は空腹の時が美味い。

 翌日、目が覚めたのは10時過ぎだった。バスルームに入って用を足して、手と顔を洗った。それだけして、ソファーに座ってタバコに火を点けた。ドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けると若い兵士が立っていた。

「お目覚めですか」

「ああ、ぐっすり寝てしまった。フランソワーズは」

「ご婦人は、先ほど病院にお送りしました」

 僕はテーブルの上のデキャンターを見た。空だった。しまった、飲みすぎた。


中央手術部は戦闘の被害を受けなかったので、翌日には既に通常の業務が開始されていた。僕は出遅れた。その日は休ませてもらって、次の日から勤務に出ることにした。

とりあえず、僕はアンディの病室に様子を見に行った。意識は回復していた。

「良かった。意識が戻って」

「ありがとう。君のお陰だ」

「僕は何もしていない。手術をしたのは黒人の脳外科医だ」

「そう言う意味じゃないよ。まあ、ありがとう」

アンディはまだ話をするのが辛そうだった。僕は自分の部屋へ戻った。

翌日は通常の仕事に戻った。午前中の仕事がひと段落してお昼休みを取ろうとした時、僕は市庁舎の食堂に行くのをためらった。フランソワーズに会いたいのだが、会った時にどんな顔をすればいいのか。何と言えばいいのか。なぜか、会うのが怖かった。

以前よりも仕事は忙しくなった。通常の患者の他に戦闘での外傷の患者の手術が加わったからだ。あっという間に四日間が過ぎた。その間に、二回、フランソワーズと顔を合わせた。お互いに無言で挨拶をした。思いっきりの笑顔をしたかったのだが、顔が引きつった。彼女を見つめるのが精一杯だった。

あれから一週間が過ぎた日の午後、ルガーP-08の事を思い出した。午後の手術が終わった後、キース軍曹に電話をした。これから行ってもいいかと尋ねると快諾してくれた。市庁舎に駐留している兵士の交代があるので、基地に帰る兵士と一緒に来るようにと言ってくれた。

急いで食事を済ませ、部屋に戻ってスミス・アンド・ウェッソンをプラスチックケースに入れて持った。キース軍曹に命令されているという兵士がハンビーで基地まで連れて行ってくれたが、こんなに近かったのかと改めて思った。あの時はとても遠く感じた。

「こんばんわ」

「お待ちしておりました」とキース軍曹は直立不動で敬礼した。ルガーは既に作業台の上に出されていた。

 トグルが中途半端に持ちあがっているルガーを観察した。発射済みの薬莢が排莢されずに薬室に残っている。トグルがそのまま後退して、次のカートリッジを薬室に送り込もうとしたところで止まったようだ。次のカートリッジが排莢されなかったカートリッジに邪魔されて前進できない状態だ。残った薬莢のリムがエジェクターの爪で引っ掻かれたように欠けている。次のカートリッジが半分だけマガジンから飛び出しているので、マガジンを抜くことも出来ない。

 「このままスライドをショート・リコイルさせて、このレバーを下げればスライドが前に抜けるんじゃないか」

「ハイ、その通りだと思います」

 僕は左手の掌を銃口に充てて、銃身とスライドを後ろに押そうとした。

「お止め下さい」とキース軍曹に止められた。「トラブルのあった銃の銃口の先に手をやってはいけません。お貸し下さい」と言って僕からルガーを取り上げると、銃口から細い木の棒を差し込んだ。奥まで挿して、止まったところで木の棒を指で挟み。抜き出して外側から銃身に当てた。木の棒の先端は薬室に残っている薬莢の底と一致した。

「火薬は残っていないようです。銃口をテーブルに押し当ててスライドを後退させて下さい」

「ハイ」と僕は言って、木の作業台に銃口を押し当ててスライドを後ろにずらし、トリガーの前にあるレバーを90度回転させた。スライドが前に抜けた。

「ところで、なぜなの?」

「この場合はトラブルのあったカートリッジに火薬が残っていないのは明らかですが。トラブルは千差万別です。パウダーが燃焼せずに残っている可能性があります」

「それで」

「不発のピストルの銃口を覗いた人の話を知っていますか」

「いや」

「遅発という現象が起こったのです。トリガーを引いたが弾が出ない。おかしいと思って銃口を覗いたら、遅れて火薬が燃焼した」

「それでどうなった」

「目を撃ち抜かれたそうです」

「聞かなきゃよかった」

「何が起こっているのかわからない状況では、慎重になって下さい。あらゆる可能性を想定して」

「わかりました」

 スライドがはずれて、フレーム側に残った弾とマガジンははずれた。これで一安心だ。キース軍曹が木の棒を銃口に差し込んで、テーブルで叩いた。薬莢が薬室から抜けた。

 出て来た薬莢を見ると、表面に焦げた様な茶色い跡があった。

「これが焼きつきの原因です」

「やっぱり、アンティークだね。実用には向かないか」

「そんなことはありません。この銃は第一次世界大戦と第二次世界大戦の二つの大戦で使用された名銃です。銃に問題はありません。問題はこのカートリッジです。リムが弱すぎます。リムがしっかりしていれば、エジェクターに強引に引っ張りだされたかもしれません。もう一つが、ドクター・アンドリュースがおっしゃるように、真鍮の表面の錆です。あの男が使っていたような革製で銃を包み込むようなタイプのホルスターだと、中に湿気が溜まりやすいんです。一週間も入れっぱなしだと真鍮は錆びます。軍隊や警察官が使用する銃なら使用頻度が高いから問題ありませんが、護身用やバックアップ用だと話は違います。ニッケルメッキしてあるカートリッジの方がいいでしょう」

それにしても、キース軍曹はアンディのことを言うときも敬語になった。あの時は僕とアンディをピストルを欲しがる若造としか見ていなかったようだが、今は違う。僕らはエドワーズ中尉を助けた名医だ。何しろ、起き上がることも出来なかった中尉が、中央手術部を出るときには歩いていた。

「銃が悪いんじゃなくて、弾が安物だったということですか」

「そうですね。このカートリッジは粗悪品です。マガジンに残ったものを見ても、刻印が何もありません。アンティークの名銃には似合わない安物です」

 僕はさらに細かいパーツに分解して行った。一つ一つの部品を見ると、〝08〝と刻印が打ってあった。銃の製造番号を見ると、下の二ケタが〝08〝だった。やっぱり。

「ルガー・P‐08は部品に互換性がない。全てが職人による現物合わせで、一丁一丁調整してある。だから、他の銃の部品と間違わないように、製造番号の下二ケタの数字が一つ一つの部品に刻印してあるという話は本当だったね」

「はい、自分も訓練の講義で聞いたことがあります。実物を見るのは初めてですが」

「それにしても、08というのがいいね。たまたまなんだろうけど、あの男はそうとうなマニアだったようだな」

「沢山の中から捜したんでしょうかね」

「かもしれないな、百丁に一丁しかない。ところで、部品の標準化を最初に成し遂げたのは誰だか知ってますか。キャディラックの創始者です。1908年だから、ルガーP‐08がドイツ陸軍に制式採用されたのと同じ年です。実際に大量生産に応用したのはT型フォードで、やはり1908年です」僕は自分の知識を自慢したくなった

「自動車業界ですね。面白い話ですね。フォードとキャディラックはライバルなのに」

「今はブランドとしては競争相手でも、創始者の当人同士は縁が深かったそうですよ」

キース軍曹は興味がないという顔で僕の話を聞いてくれた。「銃は遅れていたんですね」

僕は軍曹が興味を持ちそうな知識も披露した。「キャディラックの創始者が部品の標準化を思いついたのはライフルのカートリッジかららしいですよ。それ以前に銃器工場で働いていて、銃身の口径と弾の直径を一致させる方法を学んでいたんです。それで部品の標準化を完成させたそうです」

「銃の方が先ですか。詳しいですね」。軍曹は嬉しそうに笑った。

そこへアンディが現われた。

「あれっ! もういいのか」

「うん、退院したので君に挨拶しようと思ったら居なかった。丁度エドに会って、ここに居ると知って、エドに連れて来てもらった」

頭の手術の傷は長い髪で隠されてた。髪は剃らずに手術をしたようだ。

「おめでとう。髪は剃らなかったんだ」

「包帯を取った時に自分の髪を見てホッとしたよ。丸坊主にされているかと思っていた」と言いながら、アンディはバラバラになったP‐08のスライドを持ち上げて、銃身の後ろ側から中をのぞいた。

「ライフリングが奇麗だ。それほど傷んでない。こんなに状態のいいルガーなら、アメリカでも1万ドル以上は出さないと手に入らない。最近はアンティークの銃の相場が高騰している。しかも、この銃は特別に人気がある」

アンディは元気になったようだ。

「機能美って言葉があるでしょう」僕はアンディとキース軍曹の二人に向かって話しかけた。

「はい、機能的に優れたものは美しいということですね」答えたのはキース軍曹だった。

「そうです。でも、僕はあの言葉はウソだと思います」

「そう言われますと」

「このルガーはまさに機能美です。機能的に満足できて、しかも見た目も美しい。そういうものが完成して、初めて実用品としてヒットするんです。しかし、一旦それが市場に出回ると、機能と美は別々に進化します。この銃よりも機能的に優れた銃はその後にいくらでも出てきますが、これよりも美しい銃は出てこない。つまり、機能と美しさには関連がない。たまたま一致した時だけ、商品としてヒットするというだけのことです」

「僕は1911の方が美しいと思う」とアンディが言った。

「1911だって100年前のピストルだ。その後の100年間で、1911よりも優れたオートマティックは出て来たと思うが、もっと美しい銃は出て来たか」

「・・・・・。そう言われてみると、そうだな」

「P‐08と1911に好みが分かれるのは、銃身が露出しているピストルが好きか、カバーされているピストルが好きかの違いだ」

「でも、1911は細かい改良だけでいまだに現役だ。1911の方がはるかに優れた銃だ」

「機能的に優れているかどうかは、今は問題にしていない。機能と美しさは別々に進化する。つまり、機能美という言葉はウソだ、というのを話題にしている」

「そうか、確かにその話題だった。じゃあ、P‐08よりも機能的に劣るが、美しさでは優っているピストルはあるのか」

「ある」

「何だ」

「ベビー・ナンブだ」

「・・・・・・。そうか。そうかもしれない。さすがに日本人だな。何の役にも立たないオモチャのようなピストルだが、オークションに出てくるとP‐08よりも高額で落札される」

ベビー・ナンブは帝国陸軍の南部麒次郎が1902年に完成させた南部式大型拳銃を1903年に小型化したもので、日本のオリジナルの自動拳銃である。

「それにしても、君にとって銃は完全にオモチャだな。撃つという視点が一切ない」

「当たり前だろう。日本人なんだから」僕はムカっとした。

そこでキース軍曹が言った。「お好きなんですね、本当に、このピストルが。お持ち下さい、数日間だけでも」

「いや、いい。これも返そう。もう必要はないと思う」と、僕はケースに入れたスミス・アンド・ウェッソンを渡した。

「そうですか。残念です」と言って軍曹はそれを受け取った。

アンディと言い争いをして、ちょっと気まずい雰囲気で別れた。趣味の話は最後は意見が分かれる。喧嘩になる前にキース軍曹が割って入ってくれてよかった。


携帯電話が鳴った。ディスプレーを見るとアンディからだった。何でまた電話をしてくるんだ。あの話の続きをしようと言うのか。しかし、出ないわけにはいかない。

「大地だ」

「アンディだ。緊急手術だ。君の出番だ」

あの話の続きではなかった。「何の手術だ」

「開腹手術」

「ああ、そう。どんな患者だ」。アンディは興奮していた。

「エドが直接僕に連絡してきた。カイトド族の将軍が腹部を撃たれて重傷だそうだ」

「腹腔内出血か」

「多分、腹腔内に大量に出ている。血圧が下がっている。絶対に助けてくれと、エドからの依頼だ」

「患者はもう病院に来ているのか」

「救急外来にいる」

「急いで中央手術部に上げてくれ。僕も直ぐに手術部に行く」、

 中央手術部に入ると看護師が既に手術室の準備を始めていたが、そこにはまだ患者はいなかった。

 入口の方を見ると自動ドアが開いてストレッチャーが運び込まれるところだった。すぐに駆け寄って患者を見た。救急外来で一応の処置はしてきたようで、患者は裸にされ、腹部がガーゼで覆われていた。点滴ラインが一本取られ、携帯用の心電図がストレッチャーの隅に置かれていた。準備が整った2番の手術室に運び込む途中で、その心電図が心室細動の波形に変わった。心停止だ。

 僕は直ぐに心臓マッサージを始めた。そこでアンディが、「アドレナリンを1mg。それと除細動器を用意して」と看護師に指示した。看護師が1アンプルのアドレナリンを注射器に吸うと、長い注射針を付けて僕にくれた。僕が胸の上から直接心臓に針を刺そうとすると、アンディに止められた。。

「ダメだ。静脈投与でいい。既に点滴が入って静脈路が確保されているのだから、その途中の三方活栓から投与すればいい」

「えっ?」

「心臓に穴を開けちゃダメだ」

 僕は注射器に付いた針をはずして看護師に渡し、注射器を三方活栓に差し込んでアドレナリンを投与した。点滴を全開にして流速を早め、すぐにアドレナリンが体内に入るようにした。そして心臓マッサージを続けた。

 心臓マッサージでも通常の半分以上の心拍出量が出る。静脈に投与された薬剤はマッサージを続ければいずれは心臓に達する。胸の上から針を刺して直接心臓にアドレナリンを投与したほうが効率的なのは確かだが、問題は心臓の筋肉に針穴を開けてしまうことだ。そんな小さな穴は普通なら直ぐに血液が固まって塞がる。しかし、今回のような場合はその保証がない。これから大量の輸血が必要だろう。輸血で補える血液の成分には偏りがある。補充が難しいのが凝固因子だ。大量出血の後は血液が固まり難くなる。

 心臓は心嚢(しんのう)という袋の中で動いている。心筋の外に血液が漏れだすと、心嚢の中に溜る。心臓の周りに血液が溜まって心臓を押し潰し、心タンポナーゼという状態になって心臓は動けなくなる。そうなったら最悪だ。胸を開けてその血液を排除するという、さらなる手術が必要になる。心臓外科医に世話にならなくてはならないが、ここには心臓外科医はいない。アンディの言う通りだ。

1分もしないうちに心臓は正常の拍動を始めた。除細動器を使うまでもなかった。除細動器とは、駅やスーパーマーケットの壁に備え付けられているAEDと同じ物だ。しかし、AEDは自動だがこちらは手動だ。つまり、プロの道具だ。

 ストレッチャーは既に手術台の横に到着していたが、手術台に移す前に、アンディはストレッチャーの上で薬を何も投与せずに気管内挿管をした。そして気管内挿管チューブを全身麻酔器の呼吸回路に接続して、人工呼吸器に切り替えた。

 アンディは一息ついて言った。「患者を手術台に移して、モニターを全て付け替えよう。それから、点滴をもう二本取るから、リンゲル液で点滴ラインを2セット作ってくれ」

 アンディは冷静だった。患者の心臓が止まっても冷静なのは、自分の患者の心臓を止めた経験があるからだ。

血圧は160mmHgに上昇していたが、アドレナリンの投与による一時的なものだ。とりあえず血液量を補充しなければならない。この心停止の原因が、腹腔に銃弾を受けたことによる腹腔内出血による、血管内の血液量の不足であることは明らかだ。

 点滴でリンゲル液を急速投与して、血液の量を補充しなくてはならない。しかし、点滴ラインは一本しか取れていない。しかも、それは20ゲージと細い。

「16か18ゲージで、もう一本取ってくれ」とアンデは周囲に指示し、自分も点滴を刺す静脈を探し始めた。

 看護師が500mlのリンゲル液のボトルを二本出して点滴ラインをセットして準備をした。僕は患者の腕にゴムの駆血帯を巻き、針を刺すべき静脈を探していた。「静脈が出ない」

 「大量出血で循環血液量が不足している。腕には血液が流れていないのだろう」とアンディは言った。彼は首の静脈を見ていた。血液が不足したとき、最後まで血流が確保されるのが脳だ。脳を循環した血液は頚静脈を通って心臓に戻る。首の静脈は膨らんでいるかもしれない。

「ここなら針を刺せる。16ゲージのテフロン針を」とアンディが看護師に指示した。

「ドクター、18ゲージしかありません」と答えが返ってきた。

「18でいいよ」と彼は言って、首の静脈の周囲を触って動脈の位置を確認していた。静脈と動脈は隣り合わせにある。

「ありました。16ゲージです」と、別の看護師が16ゲージの太い針をアンディに渡した。彼は一発で点滴ラインをとった。

僕は足に刺せそうな静脈を見つけて、18ゲージで静脈路を確保した。

「3本あれば大丈夫だ」とアンディは言って、全てのラインからリンゲル液を全開で流した。20ゲージと18ゲージのラインはポタポタと落ちる水滴の速度が速くなっただけだが、16ゲージのラインは一直線に流れた。

アドレナリンの効果が切れて70mmHgにまで下がった血圧が、リンゲル液の投与量が1000mlを越えたころから徐々に上がり始めた。

僕は既に手洗いを済ませ、いつでも手術を開始できる準備ができていた。

「患者の収縮期血圧が90mmHgにまで上がればとりあえず大丈夫だ。もうちょっと待ってくれ」とアンディは僕に言った。二分半置きに血圧を測定して、血圧が上がるのを待った。リンゲル液が血管内に入るのを待つだけだ。他にすることはない。この時間はじっと待つしかない。

収縮期圧が90mmHgに上がった。アンディが僕に手術の開始を合図した。腹壁にメスを入れた。腹が開くと、出血した血液でパンパンになった腹の中から血の塊がはみ出してきた。

 腹の中からゼリーのように固まっている血の塊を手ですくい出し、ステンレス製のお盆に載せた。看護師がそれを受け取り、重量を計測した。「出血量は800gです」という声が聞こえたが、そんな量は途中経過でしかない。僕は無視した。

 アンディが輸血をオーダーする声が聞こえた。「赤血球液を6単位」と言ったが、電話で輸血部と連絡している看護師が「4単位しかないそうです」というと、「それでいい」とアンディは言った。それっぽっちじゃ足りないだろうと僕は思ったが、僕の役目は出血を止めることだ。僕は出血部位を探すのに必死だった。

 救急外来で既に輸血はオーダーしてあったようで、クロスマッチを済ませた赤血球液が10分ほどで上がって来た。直ぐに輸血を開始したが、一本のパックが大きい。ここに来て輸血をしたのは初めてだったので忘れていたが、日本とは一単位の量が違う。日本の一単位は200mlの血液に由来していて、2単位で1パックになっている。しかし、ここの一単位は500ml由来だ。アンディが4単位でいいといった意味を理解した。2000ml分あればとりあえずなんとかなるだろう。

僕は脾臓をチェックした。脾臓に出血箇所を見つけた。脾臓は血管の塊だ。ここが傷付くと止血は出来ない。丸ごと取ってしまうのが鉄則だ。脾臓は取っても特に支障はない。

「脾臓から出血している。脾臓を取る」とアンディに告げた。脾臓に血液を供給している脾動脈を見つけて結紮した。

脾臓は取れたが、アンディが僕に言った。「血圧が落ち着かない。収縮期血圧は90mmHg台と70mmHg台の間で変動している。輸血をしても追いつかない。まだ出血しているところがあるはずだ」。確かに、腹腔に溢れ出してくる血液のスピードが少々遅くなったに過ぎない。脾臓を取っても出血は止まっていない。

「腸管膜からも出血している。小腸を切除する」とアンディに告げた。出血している腸管膜の動脈を縛った。腸管膜の血管は小腸に血液を供給している。そこを縛ってしまうと、その血管の領域の小腸も切除しなくてはならない。血管の走行をたどって血流が遮断される区域を見極め、その両端を鉗子で挟んで切除した。残った両端の吻合をしなくてはならない。小腸の吻合は消化器外科で最も難しい技術とされる。上手くやらないと術後に縫合不全になり、小腸内の消化酵素を含んだ内容物が腹腔に漏れ出し、重篤な腹膜炎になる、僕は小腸の内側の粘膜を小さな針と細い糸で細かく縫い、次に外側の漿膜を縫い合わせた。手間のかかる作業だ。その間にも、腹の中には血液が溢れ出していた。

「そろそろ出血傾向が出てくる頃だ。血液は固まっているか」とアンディが僕に聞いた。

「まだなんとか固まっているようだ」溜まった血液はゼリーのように固まっているが、さっきよりも緩い。

「そろそろ新鮮凍結血漿を入れよう」と言うアンディの声が聞こえた。赤血球液には凝固因子が含まれていない。赤血球液とリンゲル液の投与で血液が希釈されると凝固因子の濃度が薄まる。それを補充するには新鮮凍結血漿が必要だ。

「新鮮凍結血漿を4単位上げて、解凍してくれ」とアンディは指示した。新鮮凍結血漿は冷凍保存で凍っている。

 僕はお腹の中の血液を吸引して排除し、生理的食塩水で洗浄した。後腹膜に傷を見つけた。その奥の脊椎の上に銃弾があった。そばに大動脈と大静脈が通っているが、その二本を避けて脊椎で弾は止まったようだ。どちらかを傷付けていれば、とっくに死んでいただろう。

出血箇所が他にないかを確認した。もう2箇所、銃弾が貫通したらしい跡を後腹膜に見つけたが、そこには銃弾はなかった。背中側に抜けたのか。切れている血管を見つけて糸で縛り、小さな出血個所は電気メスで血液を凝固させた。

用意された赤血球液と新鮮凍結血漿がほぼ入りきった頃、血圧は収縮期圧で90mmHgに落ち着いた。

「90mmHgにまで上がれば、一応は循環血液量が確保されたと判断していい。一安心だ」とアンディは僕に告げた。しかし、徐々に、血圧はまた70mmHgにまで下がった。まだ出血は止まっていない。

「後腹膜から血がにじみ出てくる」後腹膜が膨らんでいた。「門脈から出血しているようだ」僕はアンディに告げた。門脈は細い血管が網の目のように走っている。血液が固まらなければ門脈からの出血は止められない。

「血液が足りない。血小板も必要だ」とアンディは看護師に告げた。

「はい。血液センターに依頼します」と返ってきた。

 しばらくして、「ここには届けられないと言っています」とその看護師が言った。

「なに・・・?」

「普段はヘリコプターで運んでくるんですが、戦闘地区だからヘリコプターを飛ばせないそうです」

「バカな。戦闘は終わっている」アンディの声はヒステリックだった。アンディのそんな声を聞くのは初めてだった。

「でも、向こうがそう言うんです」

「しょうがないな。どうしよう」とアンディはそう言って黙った。流石のアンディも手詰まりか。

 「生血を入れよう」と、彼は静かに言った。次の一手を思いついて、アンディは再び落ち着いた自信に満ちた口調に戻った。

 「この患者はA型だろう。僕もA型だ」と僕はアンディに申し出た。

 「君から血は取れない。君は手術に専念してくれ。医療スタッフからは血液を取るべきじゃない」彼はそばにいた看護師長に向かって「エドワーズ中尉に連絡して。A型の兵隊を二人、できれば三人連れてきてくれと頼んでくれ」と言った。

 生血を入れると出血は見る間に止まった。健康な人から採血した血液をそのまま輸血すれば、全ての血液成分をフレッシュなまま補給出来る。生血の威力は話には聞いていたが、目の当たりに見たのは初めてだった。凄い。ただ、現在では生血は気軽には使えない。血液は成分に分ければ有効に使える。赤血球、血漿、血小板に分けるだけではなく、貴重な薬剤の原料になる。しかも、健康に見える献血者といえども、病原性の細菌やウイルスを持っている可能性がある。こんな緊急時でなければ、生血をそのまま使うべきではない。

腹を閉じる前に腹部のレントゲン写真を撮って、取り残した銃弾と、置き忘れたガーゼのない事を確認した。

 手術は終わった。カイトド族の将軍は一命を取り留めた。

患者を集中治療室に移した。この患者が大統領代行を宣言したゲリベントリマハウンコ将軍であることは、その時に初めて知った。

集中治療室での患者の管理は麻酔科医であるアンディが引き受けてくれた。集中治療室の患者管理は病院によって習慣が違う。大学病院では麻酔科の仕事だったが、市立病院は各科の主治医の仕事だった。麻酔科医には、集中治療室の仕事を好んで行う者と、嫌う者とがいる。アンディがどっちのタイプなのか、彼の態度からは判断できなかった。

僕の仕事は終わった。宿舎に帰ってベッドに入った。


 ドクター用携帯電話のベルが鳴っていた。夢ではなかった。時計を見ると朝の6時半だった。電話に手を伸ばしディスプレーを確認せずに受けた。

 「将軍が目を覚ましました」看護師のようだが、誰だかわからない。

 「あっ、そう。アンディに任せて」と言って電話を切った。患者が目覚めるか否かは麻酔科医の責任だ。僕は患者が生きていればいい。一々報告するな、と心の中で言って、僕はまた眠った。

 再び電話が鳴った。今度は携帯電話のディスプレーを見た。アンディからだった。

 「将軍の奥さんが見つかった。30分位でここに来る。君も来てくれ」

 「えっ? ・・・・」

「家族への説明は外科医の仕事だ」

「わかった、行くよ」

ベッドから出て、たばこに火を付けた。自分の個室まで禁煙にされていなくて良かった。日本の病院で当直をしていたときの朝は、目覚めの一服は表に出なくてはならなかった。

僕が集中治療室の将軍のベッドに着いた時には、既にその横に黒人の女性と二人の子どもがいた。女性は将軍の妻だろう、肌は真っ黒だった。一般的にアフリカ系と呼ばれる、僕らが知っている褐色の肌ではない。紫色に輝く、まさしく漆黒の肌だ。美しい女性だった。端正な顔立ちで、意志の強そうな眼が光っている。

子どもは男の子と女の子だった。男の子の方が兄だろう。10歳ぐらいか、もうちょっと上か。女の子は二〜三歳年下だろう。三人とも、硬い表情で父親を見つめている。将軍は穏やかに三人を見詰めている。今、ご対面したばかりなのだろう。

その時、廊下が騒がしくなった。誰かが叫んでいる。人が走る音が響いた。僕は後ろを振り向いた。チコだ。チコが刀を振りかざしてこちらに向かって走ってくる。ここに入って来て、僕の目の前を横切り、将軍のベッドの上に立ち、刀を振り上げた。

その刀は将軍の右腕に振り下ろされた。将軍の腕が肩から離れ、床に落ちた。次に左腕に振り下ろされた。左腕も切断された。そして次に、その刀は将軍の首に振り下ろされた。血しぶきが八方に飛び散った。チコが将軍の両腕と首を切断した。

僕は振り返って、将軍の妻を見た。彼女はピストルを真っ直ぐに構えていた。そして、その銃は発射された。続けざまに発射された。その銃口の先にはチコがいた。チコが倒れた。銃声が止んだ。彼女が構えたオートマティックのピストルのスライドが後退したまま止まった。彼女は全ての弾を撃ち尽くした。

僕は彼女の顔を見た。鋭い目つきで眉間にしわを寄せ、眉の両端は大胆につり上がっている。アフリカ系には珍しい細く尖った鼻と薄い口唇、口は固く結ばれている。惚れ惚れするような美しい顔だった。

彼女の顔が右に傾いた。なぜ? と思った瞬間、傾いた頭の右側に何かが飛び散った。僕は理解した。彼女の頭を銃弾が貫通した。そして、彼女は倒れた。すべてが一瞬の出来事だった。


 将軍のベッドは真っ赤に染まっていた。切断された右肩から血が垂れている。その先の部分は床に落ちて、掌は半開きで上を向いてる。直角に曲がっている部分が肘の関節だとわかる。関節から10センチメートルほど上のところで腕は切断されていた。左腕も同じような所で切断されていたが、左腕はそのままの場所に横たわっていた。しかし、肘の関節が不自然な方向に向いている。床に落ちて身体から離れた右腕よりも、本来あるべき場所にあって、あり得ない方向を向いている左腕の方が不気味だった。取り返しのつかないことが起こったことをリアルに物語っている。首を見ると、チコの刀が三分の二のところまで食い込み、そこで止まっていた。頸椎に当たって止まったのだろう。切り口から血が断続的に噴き出している。まだ心臓は拍動している。

 次にベッドの脇に横たわったチコを見た。仰向けに倒れている。顔面に二発の弾痕、服の胸と胴の部分には数発の穴と、布地に滲む血があった。

次に床に倒れている将軍の妻を見た。首を横に向け、下になった部分に少し血が流れ出しているが、顔には出血はなく奇麗だった。銃弾が頭部を貫通したはずだが、何所が射入孔なのか、ここからはわからない。目はしっかりと開いていて、壁のどこかを見つめている。死んでもなを、美しい女性だった。その顔はツタンカーメンのマスクを彷彿とさせた。

彼女の右手に握られたピストルを見た。スライドが開いたままの銃はコルト1911だった。マガジンに7発、チェンバーに一発の弾を込められるはずだから、彼女はあの一瞬に8発の弾丸の全てを撃ち尽くしたことになる。もう一度チコを見たが、弾痕の数を数える気にはなれない。しかし、彼女の弾丸は全てがチコの身体に命中したようだ。

 コルト1911は扱いが難しい銃で、僕には勧められないとアンディが言っていた。その銃を一瞬でかまえ、躊躇なく発射した。しかも、弾丸は45口径で反動が大きい。それをあのスピードで連射して正確に全てをチコの身体に命中させたのだから、彼女は相当の腕前だ。厳しい軍事トレーニングを受けていたのだろう。

「美しい女性だ。誰が彼女を撃った」とアンディが独り言のように言った。

「あの警備兵だ」。そう言ったのはエドだった。エドが隣にいた。いつの間に来たのか。エドは、集中治療室の入り口に立つ、ホグマ族の警備兵の制服を着た若者を顎で示した。


 チコの妻と息子はカイトド族に殺されたと聞いていたが、それはゲリベントリマハウンコ将軍が率いる部隊だったそうだ。そして、両手両足を切断されていた。しかし、チコは将軍の足は切断しなかったが、首を切断した。これは信仰ではない、恨みだ。彼は妻と子どもの復讐を成し遂げた。そして、目の前にいた将軍の妻に殺された。当然だろう。しかし、将軍の妻まで殺す必要はなかった。

「殺す必要はなかっただろう。彼女は全ての弾を撃ち尽くして、銃にはもう弾がなかった。それは銃のスライドがオープンのまま停止していることでわかる」とアンディが言った。

「彼は警備兵としての義務を果たしただけだ。弾が残っていたか否かは問題じゃない」エドが言った。

「刀を振りかざしたチコは見逃してもか」アンディが言った。

エドワーズ中尉はアンディの顔をじっと見た。そして言った「こんな話をここでするのはまずい。表に出よう」

 三人とも黙ったまま、しばらく歩いた。最初に口を開いたのはエドだった。

「あの後、また戦闘があった。クソソコドナチャチェチコ将軍が死んだのを知ったホグマの部隊がゲリベントリマハウンコ将軍の家を襲撃しようとした。しかし、その情報を事前に知ったゲリベントリマハウンコが待ち伏せをして戦闘になった。ゲリベントリマハウンコ将軍が最後の希望だった。クソソコドナチャチェチコがいなくなったので、今度こそ和平交渉が成功すると期待していたのに。残念だ」

「ところで、エド。今まで聞けなかったんだけど、素朴な疑問がある」

「なんだ?」

「クソソコドナチャチェチコもゲリベントリマハウンコもどっちも将軍なんだろう。なぜ、ゲリベントリマハウンコの方が偉いんだ」

「・・・ん? そんなことも知らないのか」

「うん、知らない」僕は正直に言った。

「我々アメリカ軍は准将から上を全てを将軍と言うんだ。ゲリベントリマハウンコは元帥で、クソソコドナチャチェチコは大将だ、つまり、元帥の方が偉い」

「恥ずかしくて今まで聞けなかった。ありがとう」

 エドと僕の会話を無視して、アンディが呟いた。「僕らがこの患者を助けなければ、こんな事態にはならなかった」

僕はその言葉を聞いてハッとした。

「その通りだ。将軍が戦闘で死んでいれば、チコの復讐はそこで終わっていたはずだ。将軍は本来は戦闘で死んでいた。軍人は戦場で死ねば名誉の戦死だ。人の命よりも大切なものがあるとすれば、それは名誉だ。僕らは彼を蘇生し、その名誉ある死を不名誉なものに変えてしまった。そしてチコを殺人者にし、将軍の妻を死に追いやった」。医療行為とは何なんだと、またいつもの疑問がうかんだ。

アンディは無言だった。しばらくして彼が言った。「目の前にいる患者を助けるのが僕らの仕事だ。あの時、目の前で心停止した患者を、僕らは見殺しにできたか」

「・・・・・」

「僕らには蘇生する技術と手段があった。だから蘇生した。こんな事態を予測して、それをしないという判断を、あのときにできたはずがない」

「たしかに」

「僕らがすべきことは、身に付けた医療技術で人の命を救うことだ。それだけだ。助かった人のその後の人生に関わる必要はない。それは別の問題だ」とアンディは言った。

僕は男の子の目を思い出していた。強い決意を見たような気がする。大人になったら両親の復讐をするのだろうか。その怒りの矛先はホグマ族全体に向けられるのだろうか。その疑問は口に出さずに、「あの二人の子どもはどうなるのだろう。父親を失っただけではなく、母親までも失った。彼らは生きていけるのだろうか」と言ってみた。

「大丈夫だ。ユニセフが育てるさ」アンディが言った。


 朝から嫌なものを見てしまったが、あれは昨日の患者だ。今日は今日の患者がいる。昨日のことは忘れた。一例目の患者の手術をした。仕事をすれば気分は落ち着く。一例目の患者を手術室から出して病棟に搬送すると、僕の思考は二例目の患者に切り替わった。午前中に2例。昼休みを取って午後に2例。最後の手術が終わって患者を病棟へ移してから、中央手術部の更衣室に戻って着替えた。そこを出るとエドがいた。

「アンディはここに居るか」とエドは僕に聞いた。

「もう出て来るんじゃないか。みんな終わったはずだから」

 そこへアンディが私服に着替えて出てきた。黒いT-シャツに黒い短パン。長身で美形、金髪の長い髪。白い肌が黒い服に映える。シンプルな格好だが、それ以上の装飾は必要ない。アンディは自分が何を着れば映えるのかを知っている。

 「アンディ、話がある」エドが切り出した。

「嫌な話?」とアンディは聞き返した。僕もその場の雰囲気を感じとった。

「とりあえずたばこが吸いたい。市庁舎の庭に行かないか」アンディが言った。

「ああ、いいよ」エドは同意した。

三人で庭の喫煙席に座った。ビールが飲みたくなった。「サワーの生」と僕はウエイターに注文した。

「将軍の妻を撃ったホグマ族の警備兵が死体で発見された。首の動脈を小さな刃物で切断されていた」エドが言った。

「ふーん、手際がいいね」僕は言った。

「見事な腕前だ。正確に頸動脈を切断している」

「君なら出来るな」僕はアンディに向かって思わず言ってしまった。

「えっ!」アンディが怪訝な顔をして僕を見た。

「首に点滴の針を刺した時は見事だった」

「あれと殺人とは全く別だ」アンディが真顔で反論した。僕は冗談のつもりだったのに。

「植え込みから手術用のディスポーザブルのメスが発見された。中央手術部から盗まれた物だ。指紋はなかった」エドが言った。

「ちょっと待った。何が言いたいんだ?」アンディが言った。

「君は将軍の妻に好意的な発言をして、撃った警備兵を非難した。動機はある」

「・・・・・・」

「ドクター・アンドリュース、君を逮捕する」エドが無表情で言った。


 翌日の朝、エドに連れ添われてアンディが帰って来た。

「容疑は晴れたんですか」

「犯人は捕まった。カイトド族の男性の医者だ。まあ、アンディの可能性は低いと思っていた。でも、アンディが将軍の妻を美しいと言ったこと、警備兵を非難したことは、あそこにいた全員が聞いた。ホグマ族の職員もいた。アンディが彼らに疑われ、復讐される危険があった。だから安全な留置場で一晩過ごしてもらった」とエドが照れくさそうに言った。

「君でないことを祈っていた」と僕はアンディに言った。

「やっぱり、僕を疑ってたのか」

「ごめん。ところで、殺人犯はこの病院の現地人の医者ですか」僕はエドに聞いた。

「そうだ、ポン・・・・何とか言う脳外科医だ」

「もしかして、アンディの硬膜外血腫の手術をしてくれた男かな」

「そうなのか? そういえば、ポン・・・とかいう名前だった。現地人の名前は難しくて覚えられない」アンディが言った。

「その男は将軍の長男の父親だと言っている」とエドが言った。

「なになに? どういうことですか」

「その医者は将軍の妻の元の恋人だっそうだ。しかし、彼女は自分から去って、将軍と結婚した。でも、その時既に自分の子供を身ごもっていたそうだ。将軍は常に妻を疑っていた。しかし、自分は一向に疑われなかったっと言っている。将軍の妻は頑なに秘密を守り通したようだ」

「元恋人を本当に愛していたのかな」

「かも知れない。男の子は自分の子で、彼が引き取りたいと言っていた。下の女の子は自分の子ではないが、一度は愛した女性の子だから、あの子も自分が育てたいとも言っていた」

「その男は逮捕されないのか」

「勿論、逮捕される。だから、あの子たちを引き取ることは出来ない」

「やっぱりユニセフか」と、アンディがつぶやいた。

「それも難しい。戦争孤児を保護するユニセフの施設があるが、あの子たちは戦争孤児とは認定されないだろう」

僕は言葉が出なかった。「・・・・・、ところで、将軍の妻はどっちの民族だったんだ」

「どちらでもない。カイトド族の子どもとして育てられたが、彼女はエジプトのファラオの末裔だそうだ」


昨日で僕ら医師団の仕事は終わった。今日は国境なき医師団の解散パーティーがあるだけだ。僕は荷物の整理をした。

 お昼ちょっと前に、エドが僕の部屋に訪ねてきた。

「面白いことがわかったぞ」

「何の話?」

「ゲリベントリマハウンコ将軍の子供は、二人ともDNA鑑定で将軍の実の子とわかった」

「ふーん、それでどうするんだ。あの子の父親だと名乗り出た男に教えるのか」

「それはしない。する必要もないだろう。これは軍事機密で、表に出せる情報じゃない。情報部の仕事は必ずしも合法的じゃないからな」

「ありがとう。軍事機密を僕に教えてくれて」僕はもう、そんな話に興味はなかった。

「こんな話でわざわざここに来たんじゃない。実は、ドワイエ共和国の正式の大統領の意識が回復した。君にお礼を言いたいと言っている。君が肝臓の手術をしたそうだな」

「オタンコナスのことか?」

「・・・ん? オタンムスコナス大統領だ」

「ああ、でも、お礼を言われるほどのことじゃない。僕は医者として自分の仕事をしただけだ」

「お礼というのはそのことじゃないらしいぞ」

「・・・・?」

「これで本当に戦争を終わらせることができるかもしれない。彼に会えばわかる。会ってみろ。あっ、それから、さっきの軍事機密。大統領には言っていいぞ。彼は軍事機密を知る立場にある」

病棟へ向かう途中で思った。〝意識が回復した〝とはどういうことだ。意識は元々あった。まあ、会えばわかるか。

オタンムスコナス氏の個室の扉をノックした。「こんにちは。外科の大地です」

「どうぞ」と、ハッキリとした男性の声だった。病室に入ると、オタンムスコナス氏は車椅子に座っていた。

「お元気になられたようですね」

「ああ、君には感謝している」

「僕は医者としての仕事をしただけです。お元気な姿を見せて頂ければ、それで十分です」

「そうじゃない。そんなことでワザワザ君を呼び出したりはしない。私が君に礼を言いたいのは、私を人として扱ってくれたことだ。みんなワシをボケていると思って幼児のように扱う。だからボケたままでいた。しかし、君に会って気が変わった」

「失語は完全に回復しているようですね。リハビリはしていないと聞いていますが」

「この子お陰だ」と言って、そばにいる女の子を右手で指差した。「私のひ孫だ。この子だけだ、こんなボケ老人に優しくしてくれたのは。あの時はまだ5才だった。今ではもう9才だ。毎日学校から帰るとここに来て、私の話し相手になってくれる。それがリハビリになったのだろう。右手だって動くぞ」

そう言って大統領は右手を上げて指を動かした。「ミッシー、紐を出してごらん」

ミッシーと呼ばれた女の子が輪になった紐を出すと、二人で綾取りを始めた。

「君は日本人だろ。アヤトリは得意だろう」

「できませんよ。そんなにお上手には」

「情けない日本人だな。この子は私よりも上手に出来るのが嬉しかったらしい。どんどん上手くなる。私も上達したが、いつまで経ってもこの子には敵わない。ミッシー、あれを見せてごらん」

女の子は紐の輪で器用に塔を作った。東京タワーか。いや、エッフェル塔だったかな。

「トウキョウ・タワーだ。上手いもんだろう」

「素晴らしい。僕にはとてもできません。ところで、小さいお子さんが病室に見舞いに来ると、老人は入院期間が短縮するというデータがあります。他人の子供でも効果があるそうですから、ご自分のお孫さんなら尚更でしょう。大統領がお元気になられたのはこのお嬢さんの功績です」

「そうか、そうかも知れん。ミッシーは私に生きる希望をくれた。しかし、孫じゃない、ひ孫だ」

「失礼しました。ところで、気が変わってどうするおつもりですか」

「国の現状は知っているつもりだ。それなりに情報は得ている。もう一度、国民の前に立つ。まあ、立つと言っても車椅子ということになるが、それでも彼らに勇気を与えられるかもしれない」

「それはいいお考えだと思います。ゲリベントリマハウンコ将軍がお亡くなりになって、和平の道が閉ざされたと国連軍の将校が落胆していました」

「情報部のエドワーズ中尉のことだろう。彼は全く勘違いをしている。ゲリベントリマハウンコが今回の騒動の原因だ。奴が死んだからこそ、和平の道も開ける」

「どういうことですか」

「奴を温厚でリベラルな人間だと言う者がいるが、目が節穴だ。温厚に見えるのは気が弱くて意気地がないからだ。リベラルに見えるのは決断力がなくて優柔不断だからだ。本性は嫉妬深く卑怯な男だ。私が倒れたのをいいことに自分が政権を握り、自分では何もできないものだから、弟のクソソコドナチャチェチコに何でもやらせる。弟は行動的だからな。・・・・勇気があるというか、馬鹿というか」チコも似たようなことを言っていたのを思い出した。

「クソソコドナチャチェチコ将軍はゲリベントリマハウンコ将軍の弟なんですか。そんな話はエドワーズ中尉からは聞いていませんでしたが」

「国連軍の情報部は肝心なことは何も知らん。あの二人は異母兄弟で、父親も違う。だから彼らにはわからなかった」

「・・・? 母親が違って父親も違う。それで兄弟とは、どういうことですか」

「君ら先進国の人間にはわからんだろうな。ゲリベントリマハウンコの父親が他の男の女房に生ませた子がクソソコドナチャチェチコだ。つまり、種は同じだから兄弟だ。しかし、弟の正式な父親はその女の亭主だ。みんな知ってるが、口には出さない」

「はあ」

「君はゲリベントリマハウンコの女房を見たらしいな」

「はい」

「すごい美人だったろう」

「はい」黒人でも美的感覚は僕らと同じか。

「あの女は出来た女だ。ゲリベントリマハウンコが軍のトップに上り詰めたのは妻のおかげだ。でも、奴には過ぎた女だった。奴は自分の女房に嫉妬した。その美貌にか、能力にか、あるいは血筋にか。いずれにせよ、自分よりも妻の方が優れていると認めざるを得なかったのだ。だから、妻の産んだ子が、他の男の子かもしれないと常に疑っていた」

「妻が本当に愛しているのは、自分よりもイイ男に違いないと思っていたわけですね」

「まあそんなところだが、あいつは妻の過去の男関係にこだわっていた。そこに、妻の元恋人だという男の噂が出た。ホグマ族の男で、長男の実の父親はその男だという噂だ。それが最初に殺された男だ。若者の騒ぎを利用してな」

「はあ?」

「しかし、妻の元恋人だという噂のあるホグマの男は一人ではなかった。それでさらにクソソコドナチャチェチコをけしかけて、戦闘という名目で次々にそれらの男を殺させた」

「でも、将軍の子供は二人ともに将軍の実の子に間違いないそうですよ。国連軍がDNA鑑定で確認しました」

「そうなのか。国連軍も役に立つな。しかし、手遅れだ。奴が妻の元恋人だったと噂のあるホグマの男を片っ端から殺す前に教えてやれば、今回の騒動は起きなかったかもしれない」

「ちょっと待って下さい。今回の戦争の発端はゲリベントリマハウンコ将軍の嫉妬ですか」

「そうだ。しかし、あの子が奴と結婚したのは16歳の時だ。仲のいい男の子がいたとしても、単なる子供の遊び友達に過ぎん。奴の妄想だ」

「戦争の陰に女あり、ですね」

「そんな諺が日本にはあるのか」

「いえ、知りません。ちょっと言ってみただけです。ところで、将軍の長男の本当の父親だと自ら名乗り出たカイトド族の男がいますよ」

「あの子の元恋人がホグマ族の男だという噂が広がってから、自分だと名乗り出るホグマ族の男が後を絶たん。とうとう、カイトド族からも名乗り出たか。あの子はエジプトの王家の末裔らしい。あの子が産んだ子供の父親になれば、自分もエジプト王家の末裔の一員になれる。それでありもしないことを言うんだ。みんな、ゲリベントリマハウンコとクソソコドナチャチェチコの部下に殺されてしまったらしいがな。しかし、二人とも死んで、あの子も死んでしまえば、誰でもあの子たちの父親になれる。エジプト王家の子孫の父親だ」

そう言われみると、あの女性の顔はツタンカーメンのマスクを彷彿とさせた。彼女は、本当にファラオの子孫なのか。

「生き残っている男を一人だけ知っていますよ。さっき言ったカイトド族の男です。ポン・・何とかと言う脳外科医です」

「知らんな、そんな男は。疑われなかったというわけか。よっぽどブサイクな男だろう。ゲリベントリマハウンコの嫉妬の対象にならなかったのだから」

「そう言われてみると・・・。ところで、ゲリベントリマハウンコ将軍がDNA鑑定の結果を知っても、内戦は防げなかったと思いますよ」

「なぜだね」

「科学的に証明されても、不安は解消できません」

「そうだな・・・、不安とはそういうものかも知れん。しかも、奴は、そういう噂が立つだけでプライドを傷つけられたのだから」

「・・・・・・」

「奴は、私が倒れたので都合が良かったのだ。我が国の憲法には大統領に任期がない」

「どういうことですか」

「私が辞意を表明するか死亡しない限り、新たな大統領選挙は行われない」

「珍しい大統領ですね。大統領というよりも、王か皇帝か、あるいは共産党の書記長みたいな立場ですね」

「私を独裁者と一緒にしないでくれ。あくまでも大統領だ、私は選挙で選ばれたのだからな。私はイギリスの支配下から独立したときの無血革命の指導者だった。それで国民の圧倒的な支持で大統領になったのだ」

「そうなんですか」

「その憲法は私が大統領になる前に定められたものだ。その憲法に則って私は大統領になった。ただ、急遽定められたので、大統領の任期を忘れたようだ」

「・・・・・」

「私は死んではいない。私が生きている限り、選挙をする必要はない。それがゲリベントリマハウンコに都合が良かった」

「そして、あなたには手を出さない」

「そうだ。私は意識を回復した時には言葉を喋れなくなっていた。すぐに二度目の脳梗塞を起こして右手も使えなくなった。辞意を表明することも、字を書くこともできない。しかも、周囲からは呆け老人扱いされる。じっとしているのが一番安全だと考えた。私は臆病だった。私の意識が回復すれば、ゲリベントリマハウンコは今度は私を殺しかねない。実際に、奴の政敵は都合よくホグマとの戦いで死んでいる。奴が弟に暗殺させた疑いもあるのだ」

「弟は兄の命令に絶対服従だったのですか」

「いやいや、そうじゃない。ゲリベントリマハウンコは狡猾で卑怯な男だ。命令などという、自分が責任を負うようなことは一切しない。弟のクソソコドナチャチェチコをそそのかすだけだ。弟は馬鹿だから、自分の意思で行動していると思い込む」

「そういうことだったのですか。ところで大統領、あなたはホグマ族からも尊敬されています。あなたが国民の前にお元気な姿をお見せになれば、この内戦を終わらせることができるでしょう」

「私もそう願っている。こんな気にさせてくれたのは君のおかげだ。感謝している」

「とんでもありません。ところで、国連軍は新しい大統領を任命しているらしいですよ」

「そんなものは無効だ。私が生きている限り、この国の大統領は私だ。憲法を変えることはできない。国民投票や議会で新しい憲法を制定しても、それを施行するには私のサインがいる」

「・・・・・・・」

「たばこが吸いたい。持ってないか」

「ありますよ」いきなりでびっくりしたが、僕はポケットに持っていたザ・ピースを出した。彼は一本取って口にくわえた。僕はライターでそのタバコに火をつけた。

「美味いたばこだ。雑味がない」

「気に入って頂いて良かったです」

「いや、私には軽すぎる。いいたばこだが」

「ところで、ここは病室ですよ。たばこを吸っても大丈夫ですか」

「私がたばこを吸っている姿をナースが見たら、彼女らは喜ぶ」

「確かにそうですね」

「それより、君は医者だろう。私がたばこを吸うのを許すのか」

「僕はもうあなたの主治医ではないし、ここの医者でもないんです。昨日で勤務は終わりました」

「そんなもんか」

「医者という立場を離れれば、僕は個人的にはたばこは好きです」

「君も吸うようだな」

「あなたの場合は、むしろ吸った方がいいと思いますよ。前立腺がんと肝臓がんは完治していますし、そもそも喫煙との関連さえ疑われていない疾患です。脳梗塞は喫煙と関連がありますが、リハビリにはニコチンが役立つと思います」

「本当か?」

「確証はありません。医学を勉強した者としての個人的な意見です。僕は学生時代からたばこには興味がありましたから」

オタンコナスは疑わしげな目で僕を見た。

「私はたばこを吸わない奴は信用しない。ゲリベントリマハウンコはタバコ嫌いだった。弟のクソソコドナチャチェチコは奴の目の前でスパスパと吸っていたがな。ところで、君は、私のロールス・ロイスを盗んだらしいな」

「ハイ、すみません。閣下の車なら安全だと思ったもので」

「愛する女のためか?」

「まあ・・・・」僕はそれ以上の言葉が出なかった。

「良かった、無事で。・・・・ぶつけなかったろうな」

「もちろんです。慎重に、ゆっくりと走りました」

「・・・」

「あのロールス・ロイスは、英国の元総督の車だとイギリスの兵士が言っていましたけど」

「そうだ、チッペンデールだ。この国にいれば、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう」

「・・・・・・」

「元のイギリスの総督だ。しかし、あれはチッペンデールの車って訳じゃない。1950年代から代々総督が乗り継いできた車で、それを私も乗り継いだだけだ」

「チッペンデールって、思い出しました。空港の名前ですね。もしかして、自分の名前を空港に付けちゃったんですか」

「そうだ。銅像も立ってたろう」

「それは気が付きませんでしたが、嫌な奴ですね。自分で自分の銅像も立てさせたんですか」

「そういう男だ。見栄っ張りの俗物だ。しかし、潔い、なかなかの男だった。なにしろ、状況が決定的になると、あっさりと政権を私に譲ってくれた。そして、自分はさっさと英国に帰ったよ」

「それで無血革命を?」

「その通りだ」

「そういえば、空港の正面玄関の前に銅像が立っていましたが、あれがチッペンデール元提督の像ですか」

「そうだ」

「鳩の糞で汚れていましたが」

「クソまみれは不本意だろうな。オシャレな男だったから」

「その人もタバコ嫌い?」

「いやいや、奴はタバコを吸う。ロンドンのタバコ屋に特注でブレンドさせたかというシガレットを吸っていた。一箱もらったことがあるが、美味いタバコだった。君がくれたタバコに似ているが、巻がきつくてもっと強かった」

「これは日本製の最高級のシガレットですが、軽いのは最近の流行です」

「そんなもんだろうな。奴のタバコはフィルターの根元に3本の金線が入っていて、自分の名前が金箔で押してある紙箱に入っていた。洒落た紙箱にな」

「そこまでするのは立派ですね」

「そういう意味ではな。しかし、そんなことにしか興味のない男に国を統治されたら、国民は迷惑だ」

「確かに」

「そうそう、平和が達成出来たら、君の銅像を作ってチッペンデールの銅像と置き換えよう」

「エッ・・・、まさか」

「平和を達成出来たらの話だが、本気だ。この子のためにも、私は必ずこの国の平和を取り戻す。この子は、この国が平和になって、この国で暮らすのが一番幸せだ」オタンコナスはミッシーと呼ばれていた女の子を指差して言った。

大統領のタバコの灰が落ちそうなので、僕は携帯用の灰皿を差し出して言った。

「あなたなら出来ると思います。でも、僕の銅像は勘弁して下さい」

「クソソコドナチャチェチコを倒したのは君なんだろ。一対一で面と向かって、正々堂々と正面から射ち殺したそうじゃないか。エドワーズ中尉が話してくれた。目の前で見たそうだ。君はこの国の英雄だ」

「少々ニュアンスが違います」クソの銃が作動不良を起こしたことはエドも知っているはずだが、それは伏せたようだ。僕も言う必要はないだろう。

「ニュアンスなんかどうでもいい。大事なのは結果だ。クソソコドナチャチェチコが先に撃ったが、君は一発で奴の心臓を撃ち抜いたそうじゃないか」

僕は5発撃ったはずだが、当たったのは一発だけだったのか。何発目だったんだろう?

「自分の姿が鳩の糞まみれになるのは想像したくありません。銅像は止めて下さい」この国の戦争の英雄になっても日本では自慢出来ない。変人扱いされるのが落ちだ。まあ、二週間しか経っていないのに僕の行動がここまで美化されるのなら、100年後には日本でも評価されるかも知れないが。

「そうか、そう言うなら仕方ない」

そこへ黒人の看護師が入ってきた。

「おジイちゃん、タバコなんか吸っちゃダメでしょ」

大統領はナースの顔をジッと睨みつけた。ナースは後ずさりして、立ちすくんだ。そして大統領を見つめた。無言だった。

「私のことをおジイちゃんと呼ぶな」

「・・・・・口がきけるんですね。意識が回復したってさっき聞いたんですけど、本当なんですね」

「すまなかった。君には世話になった。だいぶ前から言葉が出るようになってたんだ」

「良かった。本当に良かった」彼女はそう言いながら、涙ぐんだ。「でも・・・・・・、ここは禁煙ですよ」

「いいんだ。ここの禁煙を解除する。大統領令だ」

「・・・・・・・そういうわけには」

「私はまだこの国の大統領だぞ」

「ハイ。失礼しました」

「よろしい。でも、私がここでタバコを吸ったことは内緒だ、国家機密だ」大統領はニコッとしてナースにウインクした。

「はい、機密を厳守します。閣下」ナースはニコッとして立ち去った。

僕は、看護師が病室から出るのを待って言った。

「ところで、この国の英雄はチコです。チコは妻と息子の復讐のためにゲリベントリマハトウンコ将軍を自らの手で殺しました。しかし、彼は、ゲリベントリマハトウンコに対して大統領と同じ意見を持っていました」

「誰だね、チコというのは」

「本名は知りません。病院の中央手術部のスタッフです。既に死んでいますが」

「そうか、調べてみよう」

さっきのナースが灰皿を持って戻ってきた。灰皿をベッドの脇のテーブルに置くと、白衣のポケットからそっとタバコの箱を出して、ライターと一緒に灰皿の横に置いた。見たことのない銘柄だった。


国境なき医師団の解散パーティーの会場は市庁舎の庭だった。僕のお目当てはもちろんフランソワーズだ。今日が最後のチャンスだ。しかし、最初に会ったのはエドだった。

「オタンムスコナス大統領に話を聞いたか」

「ハイ、だいたい理解出来しました。ゲリベントリマハウンコ将軍がエジプト王家の血筋を嫁にしたのが根にあるみたいですね」

「それもガセネタだった。彼女のDNAのデータはすでにあるので、うちのラボがデータベースで確認した。ほとんどあり得ないそうだ」

「でも、あの女性の顔はツタンカーメンのマスクに似ていました。ファラオの直系だと言われると納得しちゃいますよ」

「ツタンカーメンは男性だぞ」

「でも、一番有名なエジプト王家の顔でしょ。ところで、エジプト王家のDNAもわかっているということですか。ミイラのDNAですか」

「詳しいことは知らない。しかし、エジプト周辺の民族と、ここの周辺の民族のDNAは明らかに違うらしい。しかも、現在でもほとんど交雑がないらしく、DNAではっきりと区別出来るらしい」

「全てが事実無根の噂で、その噂にゲリベントリマハウンコが翻弄されたということですか」

「そういうことだ。ゲリベントリマハウンコは気のちっちゃい男だったようだ」

エドと別れて、遠くにフランソワーズを見つけた。でも、近寄ることができなかった。

今までは平気でフランソワーズと人前で仲良くできたのに、何故か、今は、恥ずかしい。自分に下心があるのを周囲に見抜かれそうな気がした。こんな気持ちになったのは、高校生の時に同級生の女の子を好きになったとき以来だ。

遠巻きに他の連中と雑談をしていたら、フランソワーズの方がこっちに来た。彼女はいつもとは違っていた。

手術着以外のフランソワーズの私服を見るのは発足式以来だった。あの時は他の連中が皆地味なスーツ姿なのに、一人だけカジュアルなジーンズだった。しかし、オシャレな女性であることが一目でわかった。

今日は艶やかなワンピースを着ていた。ややグリーンがかった薄いブルーのシルクで、タイトに身体にフィットしている。襟はスタンドカラーで、その幅広く高い襟には全周に渡って凝った刺繍がある。生地と同色の刺繍だからレースのようにも見えるが、透けてはいない。その刺繍は肩から胸まで続いていて、袖にも繰り返されている。下に行くほど刺繍の密度が少なくなって、一部はスカートの裾にまで続いていた。

肌を隠した禁欲的なファッションだが、清楚というイメージではない。むしろ退廃的で、フランソワーズの内に渦巻いているであろう色気を強烈に感じさせた。裾は膝丈で、見えているのは膝から下の脚だけだが、フランソワーズの脚を初めて見た。想像した通りの美しい脚だ。もしかして、これがジバンシーのアンティークのオートクチュールか。

長い髪は後ろにまとめられ、はみ出したところがなく、完全にその端正な顔を露出していた。後ろにまとめられた髪は内側に巻き込まれ、いわゆる夜会巻きというスタイルだ。夜会巻きというと旅客機の客室乗務員の定番のスタイルというイメージがあるが、どこかの航空会社はキャビンアテンダントに夜会巻きを禁止したという話があるから、男を惑わすヘアースタイルなのかもしれない。夜会巻きというぐらいだから、夜のパーティーにはうってつけのヘアースタイルということか。

メイクアップもいつもとは違っていた。眉は太くはっきりと弧を描き、ブルーのアイシャドウ。濃いアイラインは眼尻から横に伸び、丸く膨らんで止まっている。ツタンカーメンのマスクようだ。こちらは禁欲的とはいえない。むしろ扇情的だ。帽子とマスクで顔を覆ってしまう手術部の看護師が良く使う手で、眼だけで自分をアピールするためのメイクだ。しかし、今日のフランソワーズはマスクはしていない。唇には前時代的な真っ赤なルージュが塗られていた。古風だが、古代エジプト風ではない。アール・デコ風で、彼女を妖艶な悪女に変身させていた。そして、行動もいつもとは違っていた。

「こんばんわ」

「やあ」

「何を飲んでいるの」

「これ」と、カットしたライムが飾ってあるグラスを見せた「ジンのカクテルのようだが、もう空だ」

彼女はニコッとして、横のテーブルを見た「ああ、これね」と言って、テーブルの方に向き、同じようにライムの飾りのあるグラスに手を伸ばした。その時、彼女の腰が僕の腰に触れた。

僕は避けようとしたが、彼女が僕を押したので、僕はバランスを崩し、人混みの中で動くことが出来なかった。彼女がテーブルの方に上半身を傾けた時、腰が回転して、僕の腰に押し付けられた彼女の腰骨の硬い感触が、柔らかく弾力のある臀部の感触へと変わった。ドキッとする感触だった。僕はその感触を楽しんだ。そして、ペニスが勃起した。

フランソワーズからジンとライムのカクテルを受け取ったが、有難うとお礼を言うのが精一杯で、他に言葉が出なかった。やっと、「あっちへ行って一服しないか」と彼女を誘った。

灰皿があるテーブルに行き、腰掛けてタバコに火をつけた。彼女もたばこを点け、僕のほうを見て、身体の向きを変えた。椅子に座って両脚を揃えたままこちらを向いたのだが、僕はつい、タイトなスカートの裾から出た膝を見てしまった。ドキっとした。ミニスカートではないから、太股が露出してるわけではない。膝から上の部分の少しだけが、ぴたりと閉じられてタイトスカートの下縁から見えているだけだ。しかし、何か、見てはいけないものを見てしまった様な気がした。

僕はすぐに目をそらせたが、フランソワーズは僕の視線気付き、スカートの裾を手で押さえた。

「御免、素敵な脚だ」

フランソワーズは悪戯っぽく微笑み、たばこの煙を上に吐いた。

彼女は立ち上り、たばこを消すと僕の手を取った。そして、庭の奥の大きな菩提樹の下に僕を誘った。そこは会場からは陰になっていて、二人きりの世界になった。僕はフランソワーズの肩に手をまわして引き寄せ、おでこにキスをしようとした。しかし、彼女は顔を上げ、僕の唇は彼女のおでこではなく、唇に接した。長いキスだった。フランソワーズの唇は柔らかく、身体は暖かかった。

二人で彼女の部屋に行った。

部屋に入ると明かりも点けずに立ったまま抱き合った。彼女はワンピースを脱ぎ、自分でブラを取った。小さいと思っていたが、小山のように盛り上がったメリハリのある乳房だった。

ベッドに入って再び抱き合った。彼女は下半身の下着を脱ぎ始めた。

「ちょっと待って、コンドームあるかい」

「えっ? ないわよ。そんなもの」

「じゃあ待ってて、自分の部屋から取ってくるから」

「やだ。ここまで来て中断するの。大丈夫よ」

「でも・・・」

「私、エイズのウイルスもC型肝炎のウイルスも持ってないわよ。ここへ参加する時に検査したから。あなただってそうでしょ」

「そういう問題じゃ・・・・」

「いいの、早く!」

僕と彼女は結ばれた。


終わった後、彼女はすぐに身支度を整え、乱れた夜会巻きをほぐして束ねて後ろに一本にまとめた。バッグから輪ゴムを取り出して髪を後ろにきつく縛ったので、彼女の顔は引き締まり、きりっとした顔つきになった。美しい。広い額も、顎のラインも。

良い心がけだと思った。終わった後に、乱れたままのだらしない姿を男の前にさらす女がいる。性的に興奮している時は魅力的に見えていた身体も、スッキリして冷静になると、汚らしく卑猥に見えることがある。そんな姿を見せられると、幻滅して自己嫌悪に落ちる。そして、その女が嫌いになる。

フランソワーズはそんな男の心理を計算して身支度を整えたわけではないだろう。羞恥心という、持って生まれた本能的な感性がそうさせたに火をつけて火をつけて違いない。育ちの良い女性だ。僕は立ちあがってテーブルに行き、たばこに火を付けた。

フランソワーズもバッグから自分のたばこを出して火を付けた。彼女は吸った煙を吐く時に、ちょっと上を向いて下唇を突き出して、煙を上に吐いた。コケティッシュという表現は、こんな情景を意味する言葉にちがいない。僕は心を決めた。この子と結婚しよう。国籍なんて関係ない。しかし、親を説得するのは無理だろう。外国人との結婚を僕の親が許すはずがない。勘当されるかもしれない。まあ、勘当されるのも悪くないか。

その時、フランソワーズが口を開いた。

「私、英国に婚約者がいるの。帰国したら結婚するわ」

「・・・・・」僕は自分の耳を疑った。「えっ!」

「あなたと知り合えて幸せだった。今まで決心が着かなかったの」

どういう意味だ・・・。僕と一発やったら、前の男の方が良かったということか。

「誤解しないで。本当に好きな人に抱いてもらったのだから、これでいいの。あなたのことが好き。でも、結婚は違う。私はあの人と結婚しなくちゃいけないの。こんなに素晴らしい思い出が出来たのだから、これでいいの」

何なんだ? 僕はもう思い出かよ。

「でも、今、生でやっちゃったじゃないか。妊娠してたらどうする」

「私、明日帰国するの。午後には着くから、婚約者の彼と直ぐにするわ。だから妊娠していても大丈夫」

「・・・・」

「彼も東洋系の血が少し混ざっているのよ。あなたにちょっと似ている」

僕に似た子が生まれても大丈夫ということかと思ったが、それは口に出さずに、「僕は君の好みのタイプの男ってことか」と言ってみた。考えてみれば、僕がフランソワーズを好きなったのだって、好みのタイプだったからなのかもしれない。

「あなたの方がいい男。それに、あなたの子種の方が、頭が良くて度胸のある子が生まれそう」

「・・・・・」僕は、この子にプロポーズしなくてよかったと思った。

「彼も医者なのか」僕は話題を変えたくなった。

「耳鼻科医よ。彼と二人で美容形成を開業する予定なの」

「・・・・美容形成は専門外だと言ってなかったかい」

「あれは仕事上の方便よ。あの場で美容形成が専門だと言ったら、馬鹿にされそうだったもの」

「ふーん」

「男性はそうでもないらしいけど、女性の美容形成外科医は美人じゃないとダメなんだって」

「そんな気もする」

「当たり前よね。私は美人だから、私みたいな顔になれると患者に期待させるのよ」

「えっ! その顔は形成だったのか」

「まさか。これは私が親からもらった天然の顔よ。こんな美人に出来るわけがないじゃない。美容形成なんて、そこまでは進歩していないわ」

たしかにその通りだ。しかし、自分の口からそこまで言われると抵抗がある。

「でも、せっかくの美しい顔だから、利用しない手はないでしょ」

「美しい顔の利用法なんて、他にもいくらでもあるだろう。美人は得だ」

「とんでもない。美人は男にモテないのよ。美人は損よ」

「まさか」

「セックスのチャンスが少ないの」

「えっ!」

「あなた、看護師のインゲちゃんとやったでしょ。胸が大きくて色っぽい子。さすがに手が早いと思ったわ。でも、私には2カ月たっても手を出さなかった」

「彼女がオーストラリアに帰るというから、つい」

「オーストラリアじゃなくてはオーストリアでしょ。インゲっていうのはドイツ語圏の名前よ。オーストラリアとオーストリアを間違わなで。イギリス人もよくごっちゃにするけど」

「でも、何で知ってるんだよ」

「有名よ。あの子が自慢げに言いふらしたから」

「・・・・・。君との関係は大切にしたかった。君とセックスがしたかったけど、切っ掛けがなったんだ」

「そんなことはないわ。チャンスはいくらでもあったし、切っ掛けなんて作るのは得意でしょ。・・・・あなたは可愛かった」

「うっかり軽率なことをしたら、股間を蹴飛ばされそうな気がして」

「フフッ」彼女は笑った。「あなたと私は発足式の日に恋をした。あの時に、私たちはこうなると決まってしまったのよ。でも、あなたは私と仲良くたばこを吸いながらお話しをするだけ。カッコつけちゃって、本当に可愛かったわ。でも、歯がゆくてイライラした」

「・・・・・」

沈黙の後に彼女は言った。「私が美人だからよ」

「えっ?」何とも傲慢で、自信過剰な女だ。しかし、正確な分析だ。

「インゲちゃんは可愛くて色っぽいけど、はっきり言ってブサイクよ。だから男は気楽に手を出すの。でも、男は美人にコンプレックスがあって、いざとなると躊躇する」

「たしかに、そう言われてみるとそうかもしれない」

「だから世の中には美人が少ないの。男から子種をもらってどんどん子どもを産んで、自分の遺伝子を繁殖させるのはブサイクな女ばかりだから」

「そういうことか。理に適っている。男は?」

「男は美形がモテるわよ」

「そうかい。男だってブサイクなほうが繁殖力が強いような気がする。だって、ブサイクな男のほうが圧倒的に多いぜ」

「そう言われてみるとそうね。確かに、アンディぐらいの美形だと怖いかも。女も躊躇するかもしれないわ。美しい顔と魅力的な顔は違う。美しい顔にはセオリーがある。でも、魅力的かどうかはセオリーがない。どうも、それは時代の流行に左右されるの。私は美しい顔の専門家よ。でも、魅力的な顔の作り方は化粧品会社の研究員には敵わない。彼らはいいわよ。メイクアップは気に入らなければ落とせるから。でも、美容形成は一度やったら一生よ。一生は永い。その間に流行はどんどん変化する」

「美しいものが必ずしも魅力的じゃない。その通りだと思う。でも、魅力を感じるかどうは受け取るほうの問題なんだ。美しい物は美しい。それは誰が見ても同じだ。しかし、それを欲するかどうかは別の問題だ。誰もが美しい物を欲するわけじゃないんだ」

「そう言うことね。一理あるわね」

「こんな話をするのは初めてだね」

「そうね。男と女は、セックスを済ませなきゃ落ち着いて話は出来ないの。その前は、やりたくてやりたくて、そのことしか考えられないから」

「女でもそうなのか」

「当たり前じゃない」

「でも、セックスが済んでしまうと、口もききたくない子もいる」

「インゲちゃんはどうだった」

「後者」

「それを聞いてホッとしたわ。私、あの子に嫉妬した」

「・・・・・・・」僕はますますフランソワーズが好きになった。頭の良い女性だ。でも、いまさらプロポーズしても無駄だろう。

「ねえ、警備兵に撃たれたゲリベントリマハウンコの奥さんって、凄い美人だったんだって」

「ああ。エジプトのファラオの子孫という噂があって、そう言われると信じてしまう」

「その話は私も聞いた。私とどっちが美人?」

「・・・・比べられない。君は育ちの良いお嬢さんという感じだが、あっちは違う。何か、厳しい環境の中で常に神経を研ぎ澄ましている、野生の黒豹のような気品があった。」

「とても敵わないわね。張り合いたくないわ」

「僕も、交雑したいとは思わない」

「コウザツ? 何の話?」

「・・・気にしないでくれ。まあ、言うなれば、チンポが立たないってこと」

「よかった、ペニスは嘘をつかない」

「ところで、今日のメイクはツタンカーメン風だけど、彼女と張り合ったの」

「そう言う訳じゃ・・・・・・、まあ、そう」

「ところで、そのワンピース、例のクラシックカー・イベントで着た物」

「そうよ、1962年のパリ・コレでジバンシーが使った物らしいわ」

「じゃあ、1962年製の車は何だったの。名前を覚えている」

「ファセル・ヴェガ」

「凄い、ペガソは忘れても、ファセルは覚えているんだ」

「だって、素敵な車だったもの。運転席が凄いの。綺麗な木目の一枚板で、ロールスロイスよりも凄いの」

「残念ながら、あれは本物の木目じゃない。アルミの板に木目をプリントしたものだ」

「まさか、だって、凄い高級車よ」

「ファセル・ヴェガはファセル・メタロンという金属の会社の製品で、自社の金属加工技術を誇示するために、あえてアルミ板に木目のプリントをしたらしい」

「あらそう。つまんない事に詳しいのね」

「ああ、こういう話は嫌がられる」

「このドレス、借りるだけのはずだったんだけど、私があまりに似合うので、奥様が下さったの。サイズがモデルサイズだから、着れる人が少ないのよ。オークションで安く落としたから遠慮しないでと言われた」

「君は女性に好かれるんだな」

「年上の女性と年下の女性には好かれるわ」

「つまり、全部」

「そうじゃない。同年輩は私に敵意を燃やす」

「ライバルね」

「私、自分のチゴマティークが前に出過ぎているのが嫌だった」

「えっ? 何の話」

「ごめんなさい、専門用語を使っちゃった。頬骨よ、この目の下の部分の頬骨弓」

「ほおぼねのことか」

「そう、出っ張ってるでしょ。これが嫌だったの」

「ふーん」

「形成外科に入って、教授に削ってくれって言ったのよ。そうしたら説教された」

「・・・・・・」

「自分の顔をいじっちゃいけないって言われたわ。美容形成のはずなのに、とんでもない科へ来たと思ったわ。そうしたら、コンピューターグラフィックで私の顔をシュミレーションして、術前術後を見せてくれたの。それで納得したわ。この頬の出っ張りは私の顔のチャームポイントであって、欠点ではないと」

「そんなもんか、君みたいな自信過剰の女が。僕も自分の顔は嫌いだけど」

「たいがいの人は自分の顔の美点を認識していない。欠点と勘違いして、その美点を台無しにする手術を希望する患者は多いわ」

「それでどうする。コンピューターグラフィックで説得するのか」

「まさか。そんなことをしたら患者が逃げちゃうもの。患者の希望通りの手術をする。そして、患者はまた来る。たいがい三回は手術をするわ。お得意様よ」

「・・・・・・。頬骨を削ってくれという患者も?」

「それは説得する。自分が教授から言われたように。でも、半々ね。私の説明が下手なのか、患者の頭が悪いのか。でも、頬骨が平らな人に、高くするように勧めると上手く行くわ。手術も簡単だし、皮膚を切らないから結果もいいの。美容形成は皮膚をいじっちゃダメ。皮膚の傷は絶対に綺麗にならない」

「ふーん」

「形成外科は戦争で発達したけど、戦時下の皮膚移植は火傷をした兵士をいかに早く戦場へ戻すかが課題だった。だから、皮膚の機能を優先して、見た目は犠牲にされたの。ひどいものよ、あなた、火傷をして皮膚移植された顔を見たことがある?」

「ある。化け物だ」

「あんな顔にされたら、生きていても社会生活は難しいわ。鬱になる人も多いのよ。でも、美容形成は違う。あくまでも外見を優先する。たとえ本人が自分の美点を台無しにするような手術を望んでも、それをかなえてあげれば、本人は明かるくなって前向きになる。だから、もう一度手術をする決断も早いの」

「・・・・・」僕は無口になった。フランソワーズのこの一言を聞いて、僕は何かが吹っ切れた。

医療は希望だ。その結果は僕らの手の届かないところにある。僕は自分が共感できない手術が嫌だっただけだ。僕は肝心なことを忘れていた。「医療は患者のためにある」。その希望とは、僕の希望ではなく、患者の希望だ。希望はあくまでも本人のものだ。そして、結果が保証されていないからこそ希望なんだ。だから最先端医療も許される。一番馬鹿だったのが僕だ。

「やだ、結局、仕事の話になっちゃった。たばこばかり吸ってないで、お酒を飲まない。この部屋にあるお酒、全部飲んじゃいましょうよ。残っても明日捨てるだけだから」

酒を少し飲んで、また彼女と結ばれた。夜が白んできた。

「ねえ、もう帰って。私は寝ている時間がない。出発が朝早いの、荷物の整理をしなきゃ。あなたはどうするの」

「僕は明日、いや、今日か。ゆっくりでいい。夕方までにセント・ジョージへ行って、ホテルに一泊してパリへ行く」

「あら、リッチね」

「そうしなきゃ日本へは帰れない。費用は全て国境なき医師団が出してくれる」


 翌日は昼まで寝て、行っても仕方がないと思いながらも、フランソワーズの部屋の前に行った。

扉が開いていて、部屋は空っぽだった。わかりきったことだ。来るべきではなかった。かえって寂しさが増した。

激動の二週間だった。忘れたくても忘れられそうもない思い出と。忘れたくないけれども忘れなくてはいけない思い出の二つが出来た。

 アンディが日本へ一緒に行くと言いだした。

「パリで一泊して遊ぼう」

「かまわないけど。日本便の予約を一日ずらせば済むことだ。パリのホテルを予約しないと」

「もう、した」

 成田空港に着くと彼は税関の手続きを済ませて入国したが、空港のホテルに一泊するだけだと言った。翌日、米国に発つそうだ。何のためにわざわざ日本に来たんだ。観光はしないのか。ホテルの部屋に一緒に来てくれと言われた。

 そこで彼はトランクを開けた。ビニールに包まれた、大きい包みや小さい包みをいくつも出してテーブルに並べた。

「開けてみろよ」

僕は一番大きい包みを開けた。スミス・アンド・ウェッソンのプラスチック製のケースだった。ケースを開けると銀色に輝くステンレス製のリボルバーが入っていた。あの銃だ。

「君のために持ってきた。君と僕の命を救った記念品だ。キース軍曹に、君から受け取ったがどうしようと相談されたんで、僕が引き取った」

「それでわざわざ通関して一泊するのか」

「こっちも明けてみろよ」

小さい包みを開けると、バラバラにされたルガーP‐08だった。

「万が一レントゲンで見られた時に、なるべくわかり難いようにバラバラにした。でも、リボルバーは分解しても無駄なんだ。フレームがそのまま拳銃のシルエットになっているから」

僕はルガーを組み立てた。

「ストックも持って来たぞ」

ルガーにストックを付けて、トグルを引き上げてトリガーをセットした。肩に当てて、窓の外に見える鉄塔に狙いを定めて、引き金を引いた。カチッと小さな音がした。この銃はストライカー式でハンマーがない。空撃ちをしてもハンマーが折れる心配はない。

「こんなものは受け取れなよ。日本では銃は持っているだけで違法なんだ」

アンディが僕の顔を見てニヤッとした。

「君は善良な市民じゃないんだろう」

「・・・・・・、貰っとくか。せっかくだから」

「良かった」

「でも、ルガーはいいよ。君がアメリカへ持って行ってくれ。高く売れるアンティークなんだろう」

「僕は金には困っていない。アメリカでは欲しければ金を出せば手に入る。君が持っていたほうがいい」

「それにしても、何でこんな危険を犯したんだ。税関で見つかったら大変だった」

「君は命の恩人だ。それに僕は米国籍だ。本国に持って帰ると言えば、税関に保管されて出国の時に返してくれる。そうなったら君には渡せなかったが」


これが、僕の手元に本物のピストルがあることの経緯だ。というわけで、もう一丁ある。

アンディは弾は持って来なかった。僕が実弾を欲しがらないことを知っていたようだ。しかも、撃針はキース軍曹が短く削って、実弾を発射出来ないように改造してある。さらに念を入れて、オタンムスコナス大統領の贈呈品であるという、大統領の署名のある手紙まで添えてある。エドの差し金だろう。しかし、こんなことをしても無意味だ。僕が銃の不法所持で日本の法を犯していることに変わりはない。しかし、彼らの心遣いが嬉しかった。

大統領のサインは綺麗なアルファベットで、オタンムスコナスとはっきりと読める。格好の良い美しいサインだ。彼の右腕のリハビリが完璧なことを感じさせる。このサインがあれば、ドワイエ共和国も変わるだろう。

僕はルガーのマガジンを抜いてモデルガン用のダミーカートを入れた。このダミーのカートリッジは一発30セントの安物の実弾とは違う。真鍮の無垢の丸棒から旋盤で削り出した物で、旋盤特有の同心円状の削り跡がある。職人が手作業で削り出したのか、コンピューター制御のNC旋盤で自動的に削り出されたのか。いずれにせよ、このダミーカートはニッケルメッキのホロー・ポイントよりも高価だ。

マガジンにダミーカートを7発入れて、銃に装填した。トグルを引き、離した。トグルは前進してダミーのカートリッジはスムーズにチェンバーに移動した。そこでマガジンを抜き、6発になったマガジンにもう一発カートを入れて、再び銃に装填した。これで8発の弾が銃に装填されたことになる。

もう一度トグルを引くと、カートリッジが勢いよく飛び出した。ダミーカートは真鍮の無垢だから重い。フローリングの床に落ちて大きな音をたてた。またトグルを引くとカートリッジが勢いよく飛び出し、離すと次のカートリッジがチェンバーに滑り込んだ。トグルを引いて、離した。それを繰り返した。全弾がスムーズに装填され、スムーズに排莢された。日本の工業製品はオモチャでも精度が高い。8発のダミー・カートリッジは全て床に転がり、その都度大きな音をたてた。実用的な価値が一切ないこのダミーカートは、僕に密かな幸福を与えてくれた。しかし、夜中にこんなことをしたら、明日、階下の住人から苦情が来そうだ。。

スコッチをグラスに注いで、ミネラルウォーターで二倍に薄めて飲んだ。両切りのピースが吸いたくなった。確か、買い置きがあるはずだ。

棚を探すとすぐに見つかった。50本入りの丸い缶入りのピース、ピー缶だ。蓋を開けてシールをはがし、面一に並んだたばこの真ん中に出ている白いボール紙を少し持ち上げると、3本が出てきた。一本を取って軽く唇にくわえた。両切りは吸うのにコツがいる。唇の内側にまでたばこを入れてしまうと、たばこの端が唾液で濡れる。そうなると始末が悪い。葉がほぐれて口の中に入ってくる。葉がほぐれてきたら親指の爪で平らに整える。爪でやるのがコツだ、指の腹でやってはいけない。両切りを吸う作法だ。

国連平和維持軍のジッポーで火を付けた。美味い。「ピース」、「平和」、シンボリックなネーミングだ。

フランソワーズのことを思い出していた。男が幸せに出来る女は一生に一人しかいないという。フランソワーズが僕にとってのその女かと思ったが、フランソワーズにとってのその男は僕ではなかったようだ。僕はフランソワーズの幸せを祈った。

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ろーレンツの均衡 葦原佑樹 @ashiharayuuki

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