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ローレンツの均衡

ローレンツの均衡


スミス・アンド・ウェッソン・チーフスペシャル。持つとすずっしりと重く、ひんやりと冷たい。そして硬質である。本物のピストルはモデルガンとは感触が違う。
僕の手元になぜ本物のピストルがあるのか。その経緯を説明するには少々の長い話が必要だ。国境なき医師団に参加してアフリカに行った時に、僕と友人の命を救ってくれた記念品だ。僕がまだ新米の医者だった頃、医学部を卒業して研修医としての2年間と、さらに外科に入局してからの専門研修医としての2年間が終わったころから話を始めよう。


専門研修を市立病院でした僕は、その後、母校の大学病院に戻された。国立栃木大学・医学部付属病院、人口16万人ほどの地方都市にある、栃木県唯一の国立の大学病院だ。学生時代を過ごしたキャンパスと付属病院は懐かしかったが、付属病院は市立病院とは違っていた。
僕は当時、まだ28か29歳だったと思う。僕の名前は大地大典、語呂の良い名前だが、母親が再婚して苗字が変わったわけではない。生まれた時に両親に付けられた名前だ。小学生の頃には友達にからかわれ、〝ダイダイ〟とあだ名を付けられた。でも、僕は自分の名前を気に入っている。両親は健在で、離婚も再婚もしていない。中学に入るとそのあだ名は消滅したが、高校に入ると新たなあだ名が出来た。〝ダイテン〟だ。大典をダイスケと読める者は少ない。しかし、こちらのあだ名には悪意は含まれていなかった。
 あの頃は市立病院での仕事を懐かしく思い出していた。市立病院は忙しく、そして、楽しい職場だった。市立病院での外科医の仕事は多かった。一口に外科と言っても色々とある。例えば整形外科は外科とはまったく違う。彼らは腕と脚と背骨を扱う外科で、骨折の整復が主な仕事だ。僕が所属する外科は一般外科と言われることもあって、お腹の中の内臓の手術をする外科だ。ただし、お腹だけではなく胸も外科の領域で、胴体全部だ。しかし、首から上はさらに細かく分かれていて、目の下までが耳鼻咽喉科、目は眼科、その上は脳神経外科の領域だ。
一般外科と言うだけあって扱う臓器は多い。例外は生殖器で、女性なら産婦人科、男性なら泌尿器というところか。そんなわけで、外科の手術は多かった。
市立病院での外科の手術日は週に4日あって、1日だけ手術のない日があった。しかし、緊急手術があれば手術日でない日でも手術をしなければならない。病棟の患者の管理は手術の合間にすることになる。公立病院だから土日が休みの週休二日制だが、正規の勤務時間だけでは病棟の仕事にまでは手が回らない。早朝と夜と、そして休日に病棟の仕事をした。自分で手術をした患者の術後管理は自分の仕事だ。手術が多ければ、術後管理に割かれる時間も多い。
そんな職場で自分の仕事をこなすだけの毎日だったが、それなりに張合いがあった。患者を治療し、社会に貢献しているという実感があった。どこの病院で誰が手術をしても、同じようにうまくいく手術。そんな普通の手術を確実に安全に行う。それが僕の仕事で、当たり前のことだと思っていた。
しかし、それが当たり前ではないことを、僕は大学病院で知ることになった。


大学の付属病院で最初に面食らったのが、外科が麻酔科と対立していることだった。市立病院では麻酔科医は仲間だったが、大学病院の麻酔科医は僕らを敵と思っている。
 その訳は、最初の日に先輩の執刀する手術に助手として入ったときにわかった。幽門側胃切除という簡単な胃がんの手術だったが、朝から始めて終わったのは午後の4時だった。市立病院ならお昼には終わって、午前と午後で二例出来る手術だ。
医学部付属病院での手術は市立病院の三倍の時間がかかる。まったく同じ手術なのに、なぜそんなにかかるのか。上手な外科医と下手な外科医、かかる時間が1.5倍なら話はわかる。しかし、三倍となると、余計なことをしているとしか思えない。実際に、余計としか思えない操作が多い。慎重で丁寧と言えば聞こえはいいが、臆病なだけだ。
 市立病院の外科部長が言っていた。「多くの先輩の手術を見て、それまでに他の人に教わった手順を省略している外科医がいたら、それを真似ろ。それが洗練された術式だ」。
 それで患者が無事に退院すれば、その手術が正しかったことがわかる。10年後に手術の合併症で腸閉塞になるかどうか、そんなことはわからない。それを防ぐために色々なことを言う人がいるが、それらは実証されていない。
 手術操作は単純で少ない方がいい。余計な所をいじくりまわせば、不必要な傷をつける。そして出血が多くなり、止血にも時間がかかる。挫滅する組織が多くなり、患者は術後に痛がる。悪循環だ。
大学病院の偉い先生は口が達者だ。しっかりと理論武装をしている。しかし、理論的考察だけで実証されていない。それも、一つか二つの事実を迷信と憶測で修飾して、自分に都合のいいように組み上げた論理だ。実証されないから間違いだと証明されることもない。まあ、医学なんて95パーセントは憶測と迷信だ。正反対の治療をして患者の身体を傷めつけても、患者が自力で回復しているに過ぎない。
経験的に上手く行くとわかっている実績のある治療法はいい。最悪なのが最先端医療と称される治療法だ。最先端医療も、症例を重ねて有効性が客観的に認めれれば、保険適用になって普通の治療法になる。しかし、最先端と称されているうちは有効性が認められていない証拠だ。そんな最先端の手術が大学病院では横行していた。教授か准教授か講師か、偉い先生が執刀して、患者の二人に一人は殺してしまう。それでも許されるのは、栃木県で唯一の国立大学という権威とブランドか。
 もう一つの疑問が夜中の緊急手術だった。うちの医局には手術がしたいのにさせてもらえない先輩が何人もいた。手術を執刀させてもらえるのは教授のお気に入りの数人の外科医たちだけだ。他の先輩は手術に飢えていた。そして、彼らのストレス解消の場が夜中の手術室だった。自分が当直をしていたときに来た患者は絶好の獲物だ。広い中央手術部を我が物顔で占有するチャンスは夜中の緊急手術しかない。翌日の朝まで待って、複数の医者が関わったほうがいいのが明らかなケースでも、彼らは強引に手術をする。主治医となった外科医が緊急手術を決定したら、他の者はその決定に口を出せない。助手として付き合わされることになる。
そんな緊急手術や最先端医療は禁止すべきだと思うが、問題は、そんな手術とまともな手術、あるいは、すべき手術とすべきではない手術、その間に明快な境界線を引けないことだ。グレーゾーンがある。だからこそ、おかしな手術も許される。なぜなら、彼らは、それをグレーゾーンに引き込む理論武装をしている。
そんな手術の麻酔をやらされている大学の麻酔科医が、外科医を敵と思うのは当然かもしれない。助手として一緒に手術をしている僕でさえ、そんな先輩を仲間とは思いたくなかった。しかも、そういう外科医は、手術中も麻酔科医に色々と注文を出す。そして、手術の結果が悪いと麻酔が悪かったと言い出す。結果が悪いのを他人の所為にして、反省しないから学習もしない。僕も同類と思われているに違いない。そんな先輩の下で働くのは、犯罪行為の片棒を担がされているような気がした。
一般外科として一つの科である外科学教室も、臓器別に細分化されている。主任教授は一人だが、准教授が心臓外科のトップで、彼らは心臓の手術しかしない。肺は胸部外科、その他は消化器外科と言われるが、その中も、食道班、肝臓班、大腸班、血管班、乳腺班に分かれていた。外科学教室は七つに分かれていて、准教授が三人、講師が四人いて、それぞれのトップになっていた。
 僕は食道班を希望したら、すんなり受け入れられた。食道班は食道がんの手術がメインだが、胃と十二指腸と小腸の手術もする。ここを選んだ理由は、食道班のトップの講師に学生時代から憧れていたからにすぎない。いい男でオシャレで、なにしろ、立ち居振る舞いから講義の仕方までがカッコいい先生だった。四人の講師の中で最も年上の筆頭講師だ。地味な4ドアの古めのBMWに乗っていたが、後ろのエンブレムが外されていて、モデル名がわからない。しかし、よく見ると高性能版のM5であることがわかって、それもカッコ良かった。なんでエンブレムを外したのか、後で知ったのだが、情けない理由だった。
 他の班もちょっと紹介しておこう。小腸の先は大腸だが、その境目には盲腸がある。いわゆる盲腸の手術、虫垂切除術は全ての外科医が行う。盲腸から先は大腸で、大腸班は肛門までを担当し、痔の手術も彼らの領域だ。大腸班のトップは主任教授だったが、事実上のトップは一番若い講師で、この講師は教授のお気に入りだったらしい。ここに入るのが出世コースだと言われていたが、毎回ウンコまみれになる大腸班だけは勘弁だった。乳腺班もつまらなそうだ。ほとんど乳がんだけで、甲状腺の手術もするが、ここは耳鼻科と重複している。甲状腺は胴体と頭の境界領域にあるから、そこから上を担当する耳鼻咽喉科と、そこから下を担当する一般外科の、どちらもが自らの領域と主張する臓器だ。
 市立病院で、耳鼻科の甲状腺がんの手術の助手に入ったことがある。人手が足りないと気軽に他科に応援を依頼するのが市立病院の慣例だった。耳鼻科の部長は手術が上手かった。そこで痛感した。洗練された術式とはこういうものだ。一般外科医が手を出すべきじゃない。
ちなみに血管班は腹部大動脈瘤の人工血管置換術がメインで、血管吻合は全ての手術の中で最も難しい技術とされる。血管吻合をマスターするのも魅力的だったが、最近はステントという技術が発達して血管吻合の手術が少なくなった。この班も魅力を感じない。
そんな訳で食道班に入れたのは希望通りで幸運だったが、大学病院の外科は内部が最悪だった。僕の憧れの筆頭講師は、筆頭と言えば聞こえはいいが、要するに万年講師で、それ以上の出世の道を断たれた男だ。自分よりも年下が先に准教授になっている。BMWのM5のエンブレムを外していたのは、教授よりもいい車に乗るといじめられるからしい。教授はメルセデス・ベンツのEクラスのワゴンだった。仕事に興味を失っていたようで、趣味だけに生きているような男だった。でも、趣味に没頭するならまだましだ。他人に迷惑はかからない。
 医局内では仲間同士でいがみ合っていた。助手、講師、准教授。彼らは自分の地位を上げることしか頭になく、目標は教授になることでしかない。順位闘争だ。偉くなるためにライバル同士がお互いに頑張るのなら、順位闘争は生産的で社会に貢献する。しかし、順位は相対的なものだから、頑張らなくても、ライバルの足を引っ張れば目的を達成できる。敵は身内の中にいる。
大学病院は教育機関であるとともに、アカデミックな学究の最先端の機関だ。しかし、僕が知る限り、近年の医学の進歩は薬屋と機械屋の功績で、臨床医の役割りは彼らの下働きでしかない。最先端の医療器具で手術をしたからと言って、自慢にはならない。それが使えなければ恥だが。
地道に研究をしている様子の先輩もいたが、注目される成果を出した先輩を知らない。それらは基礎医学系の医者の仕事で、臨床医の仕事じゃない。ちなみに、研究で成果を出す必要はない。研究は論文の数だけで評価される。誰も他人の論文を読まないから、内容は評価されない。
 名誉だけが目標の人生で、清貧を良しとし、開業して金を稼ぐ医者を馬鹿にする。本音は自分の名誉のはずなのに、彼らの口から出るセリフは、決まって「患者のため」だ。しかし、患者のためにあるのが医療の前提で、そんな当たり前のことが医者の口からわざわざ出たら、その医者には他意があると思っていい。しかも、陰では金稼ぎに夢中だから始末が悪い。金が欲しければ堂々と働けばいい。
 大学病院に勤務して半年を過ぎた頃から、僕は自分が医者であることに疑問を感じ始めていた。医療行為とは何だろう。患者のためにあるのではなく、医者のためにあるのか。あるいは、僕が不真面目な怠け者だから、学究というアカデミックな道で努力している先輩たちを理解できないのか。
自己嫌悪になって大学を止めたくなっていた時に、国境なき医師団に参加してアフリカから帰って来た同級生に会った。彼からその話を聞き、国境なき医師団に参加するのもいいかもしれないと思った。ボランティアをするいい子ちゃんを装って、大学から脱出するには絶好の名目だ。


 申し込みをして決定するまでに二カ月がかかり、正月明けにアフリカのドワイエ共和国に派遣されることに決まった。国境なき医師団からの書面を教授の所へ持っていくと、さすがに教授も即座には言葉が出なかった。
「何で事前に私に相談しなかった」と言って、苦虫を噛み潰したような顔で許可してくれた。事前に相談したら許可してくれなかっただろう。医局長は不機嫌だった。働き手が一人減るのだから当然だろう。
 国境なき医師団は無報酬ではなかった。大学病院の非常勤医師としての給料よりもむしろ高額をくれる。アルバイトが出来ないからトータルでは収入が減るが、アフリカ滞在中は生活費から交通費までまったく金がかからないというから、出費も減る。
出発は1月の寒い時期だったが、赤道よりも南で南半球だから、夏の真っ盛りのはずだ。2ケ月間だから、帰ってくるのは3月の中旬だ。大学病院勤務は3月の末で終わるから、直ぐに何処かの関連病院に転勤させられるはずだ。万事思惑通りだ。


期待に胸を膨らませて成田空港を発った。快晴で空には雲一つない。幸先が良い。途中パリでトランジットして、ドワイエ共和国の首都、セント・ジョージのチッペンデール空港に着くまでには丸一日以上がかかった。着陸のためのシートベルト着用のサインが出て、座席から外を眺めているとセント・ジョージの街並みが見えてきた。意外だった。普通の都会だ。ジャングルを切り開いた未舗装の滑走路を期待していたわけではないが、あまりにも普通で、日本やヨーロッパの都会と変わらない。ビルの立ち並ぶ景色に少々ガッカリした。
空港には国境なき医師団が用意してくれた車が待っていた。車は空港の正面玄関の前のロータリーを回って市内に向かって走り出した。ロータリーの真ん中に銅像があった。その銅像は鳩の糞で汚れていた。どこの都会でも同じだ。いや待て、ここはアフリカだから鳩じゃないかも知れない。もっと珍しい鳥を期待したが、やはり鳩だった。ドバトだ。道の脇の広場には見慣れたドバトがいた。
しかし、市内を通過したときに僕の印象は変わった。空からは普通に見えたビル群は荒れ果てていて、ここが2年前までは戦場だった事を思い出した。停戦が成立して2年とちょっとしか経っていない。ビルの壁には銃弾の跡が生々しく、街中には多くの人々があふれ、スラム化している。気の滅入るような風景を通り過ぎて橋を渡ると郊外へ出た。木々が立ち並ぶ郊外の風景は気が休まる。しばらく行くとゴシック風の古風な建物が見えてきた。英国の植民地時代の総督府だった建物だ。ここは戦場にならなかったらしく、建物は戦火を免れていた。総督府が現在の市庁舎で、その隣のかつての総督の公邸が病院になっていた。
この病院にもガッカリした。ジャングルの中のテント張りの野戦病院を期待していたわけではないが、建物はゴシック風なのに内装はリフォームしたらしく現代的で、日本の病院と変わりない。
しかし、我々医師団の発足式は魅力的な場所で行われた。市庁舎の庭で、そこは素晴らしい英国式の庭園だった。日本人は僕一人で、見渡すと年齢は様々だ。定年退職して参加したのかと思われる医者もいれば、まだ医者に成り立てのホヤホヤだろうとしか見えない若い人もいた。
東洋系の男性が二人いたが、韓国と台湾の医者だろう。名簿で見た覚えがある。その時に美しい女性医師に気付いた。東洋系か西欧系か、どちらともとれる顔だ。アフリカ系には見えないが、肌はやや褐色だ。僕が彼女を見ると、彼女も僕を見た。目が合った。僕は目をそらすことが出来ずに見つめてしまった。彼女は微笑んだ。そして、僕は恋をした。


式が終わった時に、白人の長身の男が僕に近付いてきた。透き通るような白い肌にブルーの瞳、ウエーブのかかった美しい金髪、細く尖がった高い鼻、角張った顎、端正な美形で、まるでナチスドイツの親衛隊かヒットラー・ユーゲントようだ。ちょっと構えた。
「君は外科医だね、僕は麻酔科だ、よろしく。アンディと呼んでくれ。米国人だ。君は日本人だろ」
「ああ、消化器外科の大地大典と言う。よろしく、アンディ」
麻酔科医の方から先に挨拶されたのは初めてだ。麻酔科医は無愛想な人種だ。〝俺が麻酔をかけてやらなければ、お前は手術ができないだろう〟と言わんばかりに、恩着せがましい態度をとる。しかも、麻酔科医はチビかブサイクと相場が決まっている。美形でカッコいい男は麻酔科医にはならない。それにしても、やけに愛想の良い男だ。ニコニコして、ナチスのような印象は一気に崩れた。
礼儀正しく愛想の良い医者は、自分の腕に自信がない。信用できない。腕に自信があれば、医者は横柄になる。
「ドクター・ダイチ、君のことは何と呼べばいいのかな」
既にドクター・ダイチと呼んでいるのだから、それでいいだろうとも思ったが、愛称で呼び合うのが彼らの習慣だ。
「僕のニックネームはダイテンだ、そう呼んでくれ」。ダイダイと言おうかダイテンと言おうか迷った。どちらも子どもの頃以来呼ばれたことのないあだ名だ。でも、僕はダイテンの方が気に入っていた。いずれにせよ、ダイスケとそのまま呼び捨てにされるのは避けたかった。
「オーケー、ダイテン」
アンディは自分が先に下手に出たが、ここで立場が逆転した。僕はフルネームを名乗ったが、彼は苗字を名乗らなかった。まあ、名簿があるから秘密ではないが。


仕事の二日目に、早速、僕が執刀する手術の麻酔をアンディが担当した。胃潰瘍の穿孔の緊急手術だった。医師団にはもう一人麻酔科医がいるはずだが、まだ顔を知らない。
僕が中央手術部に入った時には、患者はもう運び込まれていた。急いで手術着に着替え、どの部屋でするのかを看護師にたずねた。7番の手術室だと聞き、部屋に入ると患者は手術台の上にねかされていた。アンディは準備が整っているようで、先端にマスクを付けた呼吸回路を片手に、現地人の男性スタッフに何か指示をしていた。二人の女性スタッフが患者に心電図や血圧計を装着している最中だった。手術部の看護師だろう。自動血圧計が患者の血圧を表示すると、アンディはそれを確認して患者の顔にマスクを載せた。すぐに全身麻酔機のほうに手を伸ばし、吸入麻酔薬の気化器のダイアルを回した。
そのまましばらく、アンディは患者が呼吸をする様子をじっと観察していた。静脈麻酔薬を投与する様子がない。吸入麻酔薬だけで患者を眠らせるつもりのようだ。左手でマスクを軽く押さえたまま、じっと動かない。僕はとりあえず、「よろしく、アンディ」と挨拶をした。
するとアンディは僕の方を見て、空いている右手の人差し指を立てて、マスクの上から自分の口元にあてた。声を出すなという意味か? その時に患者の手が動き出し、マスクを払いのけようとした。
「押さえて」と彼はスタッフに指示して、マスクを強引に患者の顔に押し付けた。三人のスタッフはすでに心得ているようで、患者の両腕と脚を押さえた。1分半ほどで患者は大人しくなった。そこでアンディは女性スタッフに患者の容態を説明させた。まだ聞いていなかったのか、順番が逆だろうと僕は思った。
アンディはマスクから手を離すと、全身麻酔機のテーブルの上に用意してあった薬液の入った5mlの注射器から4mlとちょっとを点滴ラインの途中の三方活栓から慎重に投与した。あの薬液は筋弛緩薬だろう。静脈麻酔薬ではなさそうだ。だが、それでも彼はマスクを持つだけで、人工呼吸はしなかった。患者の自発呼吸に任せている。
ちょっとアンディに不信感を持ったが、そこから先は手際が良かった。筋弛緩薬の効果で患者の呼吸が止まると、マスクをどけ、左手に持った喉頭鏡で口を開け、右手で女性スタッフから気管内挿管チューブを受け取って、気管内挿管を済ませた。
気管内挿管チューブを呼吸回路につなぐと人工呼吸器のスイッチをいれ、そこで初めて、アンディは僕を見て会釈をした。
「よろしく、ダイテン。セボフルランだけで眠らせようとすると、最初の2分15秒間は興奮期がある。悪かった、失礼な態度をとって」
「こっちこそ悪かった。そういう麻酔導入法は初めて見たので知らなかった。失礼した」
アンディは一流だ。あのさりげない気管内挿管はなんなんだ。気管内挿管は全身麻酔をかける時の一つの儀式だ。しかし、アンディには衒いがなく、躊躇もない。さりげなく済ませてしまった。僕はアンディを見直した。愛想の良い医者は腕が悪いという、僕の持論に一つの例外が出来た。アンディの印象は二転した。
気管内挿管は麻酔科医の特殊技術だ。これが出来るがゆえに、奴らはデカイ顔をしている。僕だって気管内挿管ぐらいできるが、あれほどスマートにはできない。口の中を血だらけにして結局挿管出来ずに、駆けつけた麻酔科医に助けてもらった事がある。あれ以来、手を出す気になれない。
人間は眠ると呼吸が出来なくなる。睡眠時無呼吸という症状がその典型だが、その一歩手前がいびきだ。いびきをかく人は多い。人間は眠ると喉の前の壁と後ろの壁がくっつき、空気の通り道が塞がれる。気道の閉塞だ。そこを無理に空気が通るから〝いびき〝という音が出るのだが、この時の呼吸の量は通常の半分以下だ。換気量が足りない。普段の睡眠なら、息が苦しくなれば寝がえりを打ったり目が覚めたりして自分で気道を開通させる。しかし、薬で眠らせるとそうはいかない。そのまま放置すれば患者は死亡する。
眠った患者の気道を開通させる手段は色々とある。一番確実なのが、口から気管までチューブを入れてしまう気管内挿管だ。小指の太さほどの気管内挿管チューブだが、これを確実に気管に入れられば、患者は眠ってもこの管を通して息が出来る。死ぬ事はない。
小さな子供や精神的に不安定な患者では、簡単な検査でも、眠らせて行った方が良いケースはいくらでもある。鎮静薬や睡眠薬を静脈投与すれば簡単なことだ。ちょっと眠らせただけでは、そう簡単には気道は閉塞しない。しかし、気道が閉塞して呼吸停止する患者がたまにいる。滅多にいないが、たまにいる。ここが問題だ。日常的に睡眠薬を静脈投与して仕事をしていれば、いずれはそういう患者に出くわすだろう。一人でも患者を死なせると面倒なことになる。麻酔科医に依頼した方が無難だ。それで麻酔科医に頭を下げることになる。
市立病院の麻酔科医は簡単な検査程度の麻酔でも二つ返事で快く引き受けてくれた。しかし、大学病院の麻酔科医はそうではなかった。〝なんでそんなことで、いちいち呼び出すんだ〟と言わんばかりに、恩着せがましい態度をとる。病気の治療は一切しない中途半端な医者のくせに、気管内挿管を確実に出来るというだけで態度がデカい。不愉快な連中だ。アンディがそういう人種ではないことを祈った。
僕は急いで患者のお腹の皮膚を消毒して、手洗いをして、手術の準備をした。アンディに「いいですか」と声をかけると、彼は「お願いします」と答えた。
僕は電気メスで一気に患者の腹を開いた。10cmほどでいいだろう。大きく開ける必要はない。プラスチック製のディスポーザブルの開創器で傷を丸く開き、胃の穿孔部を探した。胃に開いた潰瘍の穴はすぐに見つかり、数針かけて閉じた。他の部分を点検して異常がないのを確認して、お腹の中を洗って傷口を閉じた。
昔は、胃潰瘍の手術は胃を取ってしまうことだった。穴を閉じても、すぐに新しい穴が開くからだ。しかし、現在では優れた内服薬があるので、薬を飲めばもう穴は開かない。この患者のように実際に穴が開くのは、胃が痛いのを我慢して医者にかからなかった患者だ。
「速いな、手術時間は19分間だ」とアンディは言って、僕にウインクをした。
僕は何も言わずに微笑んだ。一流の麻酔科医に手術の腕

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