後半は私の実動的なフィールドワークと考察が主となります。もう一度言いますが、この小説はフェイクにまみれています。何一つ真実など無い、という心構えで繙読して下さい。


 …さて、これから語るのは私の的外れな仮説についてです。もっと正確に言うと「妄想の域を出ず、勘違いや考えすぎかもしれない仮説」についてなのですが。


 私には民俗学の知識が多少はあれど、造詣が深い訳ではありませんので、やはり専門の方に話を伺うのが正解だと思い、大学時代に民俗学を専攻していた後輩にも意見を伺うことにしました。


 そんな青二才2名で導き出した結論から言いましょう。

 あの神社には神聖な神様など祀られていません。加えて、逆さ神社では「悪霊を集めて閉じ込める儀式」が行われていたのではないかと、私たちは推測しました。以下は我々が話した中で出た重要なポイントを適宜かいつまんだ論考になります。


 神道における神様とは八百万の神、すなわち信仰形態も様々です。豊穣を司る目出度い神様もいれば厄を司る不吉な神様も居ます。雑な説明にはなりますが、名前の付いているものに神が宿っているというのが神道の基本理念です。

 そのため、皆様がふつう連想するような唯一的な神は存在せず、もっとポピュラーな神様であるという認識が正しいでしょう。


 神道の死生観は「命の始まりは祖先の神様から肉体と霊魂を与えられる事であり、死とは肉体から霊魂が離れる事」といった感じです。

 また、死は最上級の穢れとされますが、葬儀でしっかりと霊魂を弔うことで穢れが浄化され、祖先の霊と融合を果たす事で「祖霊」となると考えられています。


 祖霊とはすなわち守り神です。

 すなわち、これも神様なのです。


 では霊魂は肉体の死後、どこへ向かうのでしょう。

 山中他界という考えがあります。例の古書にも載っていましたがこれは、霊魂は死後、近くの山の麓へ向かい、適切に弔われるにつれて山頂高くまで登っていき、祖先の霊と出会うという他界観です。

 「死後、霊魂は山へ行き、先祖の霊魂と融合することで守り神となる」…この考え方は重要になるので、頭に留めておいて頂きたいと思います。


 では次に、逆さ神社の外観に感じた違和感について話しましょう。

 まずは、参道がないことについてです。

 参道とは神様や人が通る道であると簡単に説明しました。人が神社へ参詣する際、参道には玉砂利などが敷いてあるのですが、これには浄化作用があるとされ、これにより邪な心を持たずして参る事が出来るはずです。それが存在しないということは、あろう事か「邪悪な客」すらも招き入れてしまうことに他なりません。またこれは人間にのみ適用されるという訳ではないのです。


 次に後ろ前になっている紙垂についてです。注連縄についても簡単に説明しました。要するにあれは「境界線」なのです。

 紙垂の魔除けにより、本来であれば神社には不浄が立ち入ることは無いのですが…逆さの紙垂はまるで意味が違います。何となく想像が付くでしょうが、魔除けとは正反対の効果を発揮するのです。


 柊にも魔除けの効果がありますが…何故ここへ来て魔除けの効果を発揮するものをびっしりと神社を囲むように植えたのでしょう。

 神社の構造を見た時、その意図を見る事が出来たような気がしました。


 この逆さ神社。全体図をよく観察すると、鳥居から悪霊や不浄を取り入れたとき、柊と、内側から見た時に正方向となる紙垂で取り囲み、「決して外へ逃がさない」という造りになっていたのです。

 境内の中に閉じ込められたあらゆる不浄は、逃げ出す事なく次第に濃縮されていく仕組みなのでしょう。


 では、何故このような神社が建てられたのかを考えてみます。言うまでもなく地方病が関わっていると考えた私は図書館へと赴き、地方病の歴史が記された冊子をいくつか読み漁り、蔵で読んだ書物の文面との関連性を、半ばこじつけのようなものを含めながら見つけようとしてみました。


が例ならざる様 泣きとよもう かかる話が在りますが 臓腑水腫りただならず 胞衣えな纏ふ民枯草もほんびたくす


・例ならず→おそらく病や妊娠。地方病には妊婦のように腹が膨れるという症状があるので、それを指している?

・かかる話→"斯かる話"という解釈であれば、訳すと「こんな話」。"罹る話"という解釈も出来るが、この場合は「(そんな病に)罹る話」と訳すべきか。

・ただならず→そのまま「普通ではない」という意味だが、目的語が女性ならばこれも「懐妊状態」を示す言葉。

・胞衣→胎児の衣という意味で、すなわち胎盤のこと。

・民枯草→民草は「民衆」という意味だが、わざわざ枯草と表現しているところから、活気の無さや命が枯れる様を示唆しているのでは。

・ほんびたくす→この地における独特の方言。「ほんびたく」が動詞に語形変化したものと推測でき、ほんびたくとは「水に濡れない格好」という意味。地方病が水を媒介にして発症することから来ているのだろうか。


 以上の語句の意味を踏まえつつ、不明点を省きながら訳すとこうなります。


「いったい誰が(目出度いはずの)妊娠の様子を泣き喚いて悲しむのでしょう。こんな話がありますが、臓器に水が溜まる症状が普通ではなく、まだ母の胎内に居ります胎児すら、濡れないような格好をいたします」


 地方病の苦しみを伝える俗謡や諺などはいくつか残されています。「竜地りゅうじ、団子へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け」「水腫脹満、茶碗のかけら」などは有名な例です。

 これもおそらく、似たような記述なのでしょう。記入者が以前の神主なのか、などは到底知り得ませんが、その悲嘆が強く伝わってきます。しかし、あくまでもこれは単なる人の心内の殴り書きに他なりません。真に恐ろしかったのは、私が新しく発見した「孕リ水子縁切リ咒」の章だったのです。




疫癘胎中えきれいたいちゅうイジヤシボコニ、寄セヤあつメヤ、逆サ鏡ノ逆サ事」

「四方堅牢ニシテ此レ極メテ穢多えた。左ギツチヨノオンナシヲ慈シミ育テヨ。六ツカラ鏡見セル事勿なかレ」

「腹削ゲヤ、腹削ゲ。山中他界往クコトあたワズ、魂呼ビ要ラズ、縁切リ縁断チ」


 これはとある一連の儀式、或いは葬儀における絶縁儀礼の一種なのではないかと、我々は読み取りました。

 民俗学者の八木透曰く、人の死後、その霊魂を弔う儀礼の段階は「蘇生」「絶縁」「成仏」「追善」の4つに分類出来るそうです。これらは通夜、葬儀、野辺送り、埋葬など供養の過程において達成され、長い時間をかけて丁寧に弔う事で、死者の霊魂は祖霊(守り神)へ変化していくとされています。

 ではこれらのうち何れかを欠いた葬送儀礼を行った場合、霊魂はどうなってしまうのでしょう。想像に難くありませんが、醜悪で邪な悪霊と化して一家に祟りを下すようです。


 ではまじない方法を順番に読み解いていきましょう。

疫癘胎中えきれいたいちゅうイジヤシボコニ、寄セヤあつメヤ、逆サ鏡ノ逆サ事」

 疫癘とは疫病、すなわち流行り病の総称です。疫癘胎中ということですが、これはきっと疫癘を受胎する…というような意味だと考えられます。

 「イジヤシボコ」とはおそらく「いじやし」「ぼこ」でしょう。山梨の方言で「食い意地の張った子供」という意味になります。

 「逆サ事」とは、神道的に極めて不吉とされる死を日常と切り離すための行為のことです。葬送中は推奨して行われるものもあれば、常に生者がやってはいけない事まであります。

 「逆さ」とは「生の逆さ」、すなわち死であり、死に関連する事柄はあらゆるものが逆さまになっていると、現代に伝わっています。

 手の甲を叩き合わせる裏拍手。普段とは逆さの襟を前に出す白い着物、死装束。ぬるま湯を作る時、お湯に水ではなく水にお湯を入れて作る逆さ水。

 死者を連想させるものに逆さ向きのものが多いのはこの為です。

 「逆さ鏡」はどういった儀式かというと、葬儀中、妊婦の腹に鏡を仕込むというものです。逆さと言うくらいですから、鏡面を外側に向けて腹の内側に鏡を入れます。鏡にも厄災を跳ね除ける効果がありますので、まだ未成熟の胎児を葬儀のあいだ穢れから守る効果があるのです。

 そして更にその「逆さ事」ですから…ちょうど神葬祭のときの中割さんのように、鏡面を胎児の方に向けて鏡を服の中へ入れることを言うのかもしれません。

 そうです。あの時感じた気持ち悪さの正体は、逆さ鏡の逆さ事。すなわち彼女があの儀式を逆に行なっていたことに対するものでした。


「四方堅牢ニシテ此レ極メテ穢多えた。左ギツチヨノオンナシヲ慈シミ育テヨ。六ツカラ鏡見セル事勿なかレ」

 これはおそらく不可解な神社の形状についての指示です。四方堅牢は邪気や穢れが逃げ出さないような措置のこと。そして「左ギツチヨノオンナシ」とは「左ぎっちょのおんなし」…こちらの方言で左利きの女性を指す言葉です。これを慈しみ育てよ、とのこと。

 先の「疫癘胎中」の儀式を終えて授かった女児のことでしょうか。ともするとナカさんも同様、胎内に居る時に「逆さ鏡の逆さ事」を受けているということになります。

 鏡に映る彼女の姿が不気味だったことと無関係と言うにはたいへん心許ないです。中割の奥様の胎内にいた時、もし誰かの神葬祭などがあったのだとすれば、彼女はその穢れが集まる儀礼の最中、あろうことか鏡面を常に向けられていたことになります。

 もしかすると彼女は、一種の「鏡」のような状態になっていたのではないでしょうか。

 それらしい根拠などなく、これは本当に妄言です。しかし「六ツカラ鏡見セル事勿レ」との記述もあるように、彼女の身体には、極めて異端な鏡に関する何かが備わっていたとしか考えられないのです。自分の体と実在の鏡が向かい合い、合わせ鏡のような状況が作られたせいで彼女の姿は歪に映ったのかもしれません。


「腹削ゲヤ、腹削ゲ。山中他界往クコトあたワズ、魂呼ビ要ラズ、縁切リ縁断チ」


 魂呼びとは前述した葬送儀礼の4要素である「蘇生」の段階にあたる行為のことであります。生死の境に居たり、死の直後であれば、名前を呼ぶことで霊魂が戻って来て肉体が復活すると信じられていたのです。

 それが「要ラズ」…ということは、あえて丁重に弔わず、悪霊の類を意図的に生み出すというプロセスなのではないでしょうか。

 すぐに「縁切リ縁断チ」をするという事は、葬送儀礼の「絶縁」に関する何か。或いは悪霊との繋がりを断ち切る準備があるという事なのかもしれません。


 加えて「腹削ゲ」の言葉。何かの腹を切開して殺せ、という意味でないことを願います。


 ここまでの考察から、この神社には境内に溜め込んだ邪気や穢れを決して逃さず、留めておく作用があるということが分かりました。

 しかし、謎はまだまだ残ります。結局、疫癘胎中の儀式を済ませ、左利きの女の子が生まれたとして、その子は儀式にどう関わるのでしょう。何かの腹を削ぐのでしょうか。それとも腹を削がれるのでしょうか。

 この儀式の名前は「孕リ水子縁切リ咒」でした。水子とは流産などで亡くなった子供のこと。或いは「7歳以下で亡くなった子供」と拡大している地域もあります。

 昔の民間風習では「7才までは神の子」とされ、7才以下で亡くなる子供を水子と同様に扱うこともありました。


 ナカさんが鏡の異常に気付いた時、彼女は既に10才。仮に疫癘胎中の儀式を受けた女児が腹を削がれる立場だったとして、それならば彼女は「孕リ水子」と呼ばれるに値しません。

 そもそも「孕リ」とは何でしょう。水子が妊娠していたという話はありません。もしかすると、地方病により腹が膨れ、幼いうちに亡くなってしまい水子となった子供の事を指すのでしょうか。

 すると何故わざわざ、そんな水子たちの腹を削ぐのでしょう。あの神社が災いを蓄えるための形状をしているのですから、そもそも穢れは水子の腹を削がずとも流入し続けます。


 さて、ここで皆様に問いましょう。

 皆様の日常に溶け込んでいるモノ。それは本当に、正しい形をしているのでしょうか。少し歪ではありませんか。そして、自分がそれに対して無知ではありませんか。

 だとしたら、皆様は正しいです。やはり知らない方が良い事も、この世にはあるのですから。


 私は、この儀式にはもっと、もっと深い何かがあるのだと考えております。

 しかし、おそらく私に、再びこの儀式を探究する気など微塵も起きないでしょう。

 去年の初春。少し離れた場所で一人暮らしを始めようとしていた私の元へ一通の封筒が届きました。宛名を確認しようとしましたが、その直前、私の携帯電話が鳴りました。

 母からでした。

「もしもし?」

「あ、○○(私の名前)? あのねぇ、昔にアンタが遊んでた中割さんとこの神社って合ったじゃない」

「…ああ。あったね」

「あそこの2人目の娘さん、知ってる?」

「いや、中割さんが妊娠してた時期は知ってるけど、顔を合わせたことは無いよ」

「亡くなってたんですって。あの神社で」

「…え?」

「しかも他殺。で、中割さんは失踪ですって。物騒ねぇ…」

 そういえば、疫癘胎中の他にも解明できていない謎がありました。

「何かね、遺体を見つけた人が言うには、お腹がズタズタにされてたんですって。怖いからアンタも戸締りちゃんとしなさいよね?」

「…お袋も気を付けなよ」

「分かってるわよ。…ああ。これは言おうかどうか迷った事なんだけどね…」

「ん? 何の話?」

 本殿の中に鎮まっていた、あの、人の名前が彫られた夥しい数の水子地蔵は、一体何だったのでしょう。地蔵を扱うのは神道ではなく、主に仏教の領分。ましてや「孕リ水子縁切リ咒」のような方法で、遠ざけるべき人間の死後をどうこうするなど、神道の考え方にはまるでそぐいません。

「結局、神社は壊されちゃうことになったんだけどね…工事中、神社の隅から、とんでもない量の人骨が出てきたんですって」

「…」

「しかも全員、小学校低学年くらいの子供。いまこっちは大騒ぎよ。こういうこと言うのは何だけど、アンタ大丈夫? 前はずっとナカちゃんと一緒に遊んでたじゃない」

「俺、そういうのあんまり感じないから。まあ、それはちょっと怖いけど」

「鈍くって困るわね。まあ、要件は終わりよ。じゃあね。段ボールは早めに全部開けなさい」

「はいはい。じゃーね」

 私は放置していた封筒に目をやりました。送り主の住所として書かれていた場所は、逆さ神社でした。

 結局私は、今もそれを開けるかどうか迷っています。そしてその事件のことを聞いた私は、仮説をもう一つ立ててしまったのです。


 それを語るというのは、絶対にやってはいけないことなんだと感じております。私の本能が、直感が、そう言っています。

 ですので私はこの新たな解答例を、心の内に仕舞っているのです。


 禁忌というものは、今となっては簡単に使われてしまう言葉ではありますが、実在します。

 もし皆様の中に、この虚構にまみれた文面に何かの手掛かりを見つけてしまった方が居る場合、詮索はお勧めしません。それはきっと、あまり言葉の重みが無くなるのでこれ以上繰り返しは言えませんがきっと、禁忌に繋がっているでしょうから。








 人の好奇はタブーにも勝ることを私は知っています。私の記した文字の羅列のせいで、何かをくすぐられてしまった方も少なくないでしょう。

 なので万が一、これ以上読むのだとしたら、私の虚構を掻い潜り、真実に辿り着きたいというそんな皆様には、ここまで読んでいただいた感謝の意味も込めつつ、「断片」をお話しした方が良いのかもしれません。


 それに際して、注意点がございます。

 まず一つ。私は虚構を虚構のままにします。断片を伝えようと、これまでのフェイクを明かすような真似は一片たりともする気はありません。

 次に、これから皆様にお伝えする断片についても、それは私の中の仮説に過ぎません。それが真実であると言う保証はありませんし、非常に明確な意味を持った言葉にする気もありません。


 以上のことに納得していただけた場合、閲覧を続けてください。










 私は、あの儀式がただの悪霊封じには思えないのです。逆さ鏡の逆さ事…あれが胎内の子供に、何かの性質を付与しているのだとすれば、それは何なのでしょう。

 未熟な時期から穢れを吸い取らせる意味とは何なのでしょう。

 もしそこに意味などなく、胎児の体が穢れを吸い取ることが目的だとしたら、その目的は何に繋がってくるのでしょう。

 中割の一族は、力があった訳でも有名であった訳でもありません。ならばどうして、いきなりそんな「不浄なモノが溜まる逆さ神社」の神主を任されてしまったのでしょう。

 マッチポンプという言葉がありますが、私にはどうにもその気配がいたします。地方病に苦しみ喘いでいた民衆は、病苦を何処かへやりたいと願ったはずです。最も楽で、最も血の通わないやり方があったとしたら、彼らはそれを選択してしまうほどに。


 …中割の次女は、なぜ去年というタイミングで殺される必要があったのでしょうか。悪霊を閉じ込める作用を持った境内で亡くなってしまった人の霊魂が、過程を欠いた弔いを受けた場合、その穢れた魂は、他の不浄と同じく神社から出られなくなってしまうのではないでしょうか。

 もしそんな流れが脈々と、中割家に続いてきたのだとしたら、彼らの祖先の霊魂はずっと神社に居るのではないでしょうか。正しく弔われた祖先の霊魂の融合体が祖霊という守り神なら、あの神社の境内で濃縮された穢れに侵された霊魂の融合体は何なのでしょうか。


 参道が無くとも神様はいます。

 それは造られたものです。


 注連縄は右綯でした。

 それは女神を示します。


 中割家の祖先は、実は「穢多」でした。

 それはもはや人扱いされません。


 もしも貴方がこの儀式を知り、歪んだ好奇か何かで実践しようとしたならば、貴方は「ナカさんを使って何をしますか」?


 私が貴方なら、そうですね。

 まずは失敗例を学びます。

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