契約

 暗い森だった。

 遠くには梟の鳴く声が聞こえる。

夜の帳の中、何処までも続く鬱蒼とした木々は魔女達の踊りのように不気味にねじれ、歪み、集っている。濃密な闇はまるで重さを持つかのようにまとわりつく。

聞こえてくる音は自分の呼気と足音のみ。

荒く乱れた息。

 喉から漏れる呻きに時折血の匂いが混じる。

もう、どれくらい走ったのか――。

 走り続けていた足は急激に重くなっていき、やがて二の足を許さぬ程になる。全身が綿の様になり、杖代わりしていた槍に縋りながら身体全部をずるずると地に落とす。

「はぁ――」

 呼気を整えようと大きく息を吸う。吸い込んだところで軽く咽込み、また喉を傷つけ血を吐いた。だめだ、もはや休まずにはいられぬようだ。

 肩に担ぐ革袋を置き、草の上に仰向けに寝転がり四肢を伸ばし切る。見上げると夜空の代わりに生い茂る枝葉だけが見えた、より気分が暗くなり目を閉じる。

 少年は、落ち人だった。

追手がかかり、それから二日二晩を走り続けた。敗残兵の何をそこまで追うのかと問い質したくなる、執拗な追跡だった。

放たれた犬を迎え撃ち、その生肉を齧りながら尚も走った。けだものの血で喉の渇きを誤魔化しながら、少年はずっと自問していた。

『何故、こうまでして死から逃げる?』

 そうだ。戦場で朽ち果てる覚悟があるなら敗残兵となるを由とせず、矜持と共に果てるまで戦えば良かったのではないか。

そう思いながら、しかし足は逐電する事を止めなかった。

問いへの答えは未だ出ない――何故だろう? 死は怖くない。寧ろ、優しいのではないかと思っているのに。

「はぁ――」

 今度はゆっくりと、大きく息を吸う。今度は咽込まずに済んだ。溜まり込んだ闇を吸い込む不気味さは変わらないが、身体を休めての深呼吸は少年の疲弊しきった身体に見る間に生気を戻していった。

 うっすら目を開けると山吹色の癖毛がちくちくと煩い。手で髪をかきあげ緩んでいた頭帯を締め直す。

髪が随分伸びてきている。余裕があったら切りたいが今はそうもいっていられない。

ふと気が付いて掌を見れば、手の腹が乾いた返り血でどす黒く染まっていた。夜闇の中だというのにも関わらず、その濁った赤は何故かはっきりと目に焼き付いて離れない。

「恨むなよ、互い様じゃないか」

 掌に向けて言う。こびりつくそれは物言わぬままで少年の記憶を苛んだ。

 ――激しい戦いだった。

 敵方、反乱軍の勇者アーディンを先頭にした騎馬部隊の突撃が、自軍の重装歩兵が作る密集陣形をなんと真正面から打ち破り、本陣へと一直線に進軍された。混乱に包まれ陣の回復もままならぬ王国軍を嘲笑うかのように大将首は奪われた。

 その光景は今尚脳裏にこびりつき記憶から離れない。アーディンの持つ槍斧の振るった後に舞い上がった、哀れな年若い貴族の首。

それが、自分の首に重なって――。

 そこから先は記憶がはっきりしない。

混乱の中で少年は主とはぐれてしまい、誰が敵で誰が味方かも判別できぬ戦場の直中を逃げ続け、気が付いたら森の中にいたのだった。

「皆無事だろうか」

 掠れる声で独りごちた。あの混乱だ、誰がどうなっていてもおかしくない。現にいま自分だってこれからどうなるか解らないじゃないか。

 ……自分だって。

目を見開き、四肢に力を籠める。

そうだ、こんな所で寝ている訳にはいかない。なんとか落ち延びて主の元へ戻らねばならぬ。追手だってまだ諦めていないかもしれない。

 動く事を拒む筋肉の痛みを堪え、上半身を起こす。視界の端に地に突き刺さっている槍が見えた。震える手で掴み、それを支えに立ちあがった。大丈夫、身体中が悲鳴をあげてはいるが、まだ心のままに動いてくれる。

 荷物を抱え、一歩。

 踏み出す足が軋むように痛んだが、大丈夫、歩く事は出来る。一歩、また一歩と足を踏み出す。寝転がった身体を優しく抱き止めてくれた草を踏み躙り、少年は再び生への足掻きを始める。

 遠くには梟の声。近くには確かに脈づく己の鼓動、踏みしめる草の音。

「死ぬものか」

 掠れた声が勝手に飛び出した。槍を杖代わりにゆっくりと、確かな歩みで進む。

 ――そんな時だった。

耳が梟の声以外の何かを拾った。

 水だ、何処かで水が鳴った。

 目を閉じ耳を澄ます。もう一度、水音を聞いた。

 足が動きだす。

水だ、水がある。渇きを満たす事が出来る。この焼けついた喉を癒す事が出来る。つい先程までの気怠さが嘘のように晴れていた。

 少年の足取りは知らず軽くなっていく。鬱蒼と茂る木々の狭間、その先に、何か煌めくものが見えた。

 唐突に木々が退く。そこに、静まり返る泉があった。

 開けた空から落ちる月光が泉を白銀色に染め上げていた。水面は物言わぬままでそこにあり、一条の波紋すら無い水鏡の様を示している。

「あ、ぁ」

 脳裏の何処かで警告が聞こえているのだが、目の前に佇む水の誘惑に少年は勝つ事が出来ない。両膝をついて水面を覗く――血と泥で汚れきっている幼いままの輪郭に、大きな青碧の瞳がぎらぎらと輝いていた。山吹色の髪も血で汚れ、元の顔立ちがまるで残っていない。

 槍を地に刺し恐る恐る手を水面につける。水音も無く沈んでいく掌から血であろう色が滲み出る。見た目の通り、心地よい冷たさが少年の手を包んだ。

それでもう、堪らなくなった。

 乱暴に両の手を水で洗う。掌の血が落ちるや両手で器を作って水を掬う。ぶるぶる震えるその器を口に持っていき、口の中へと流し込む。

 それは、聖なる教えにある神が与えた天上の美酒如き、比べ物にならぬだろう程の美味さであった。もう一度掬い、飲む。もどかしくなり顔ごと泉にぶち込こんだ。水中で嚥下する度に喉を甘美な悦びが駆け抜けていく。

やがて満足して、顔を水から上げ大きく息を吸い込んだ。

 現金なものだ、水をすっかり味わった喉は空気を美味しく飲み込んで咽込む感じが無くなった。四肢には生気が漲り、今なら追手の一人くらいなら道連れにしてやれそうだ。

「ああ、そうだ」

 思い出したように身体中をまさぐり、調べる。軽傷は無数にあったがどうやら欠けた部分は無い。また主の為に戦場を駆ける事が出来る事に安堵した。

 それから革袋を肩から外す。

革袋の中を開いて食器や予備の武器達の中から戦場用の保存食を取り出す。干し肉と堅焼き麺麭を一食分。

地に降ろした革袋を背凭れにして泉の端に座り、水を掬って口に含んでから硬い麺麭を噛み切る。水が染み込んで段々柔らかく、甘くなっていく麺麭を心行く迄楽しんだ。

「ん、ん」

 追われている時には取り出す余裕も無かった数日ぶりに口にするまっとうな糧秣は、少年の身体と心の飢えを存分に満たしてくれた。

 咀嚼しながら頬を流れる涙に気が付く。何故涙が流れるのか自分にも分らなかった。兎に角言える事は、この麺麭の甘さと干し肉の旨さを、きっと一生忘れる事はないだろうと言う事だ。

 食事を終え、一息付く。

 食べている間も周囲に気を配っていたが、どうもしんと静まり返る魔女の舞踏場には少年以外の客はいないようだ。それは水に心奪われる前に感じた違和感だ。静か過ぎる、辺りに獣の気配も無い。

安全だと、判断していいのだろうか。ならば、少し寝ても大丈夫だろうか……? 緊張を解いた身体に訪れてきたのは睡魔であった。戦場に立つ時間から数えれば丸三日は寝ていない、今必要なのは休息だ。だが……今意識を失て大丈夫だろうか……。


 がさり


「!」

 草のざわめきに目を見開く。身体に鞭打って立ち上がり、槍を引き抜き構えをとった。

 確かに物音がした、動く気配すら感じた。だが何故こんなに近い音を聞くまで気付けなかったのか。

 がさ、と再び草の音が聞こえる。今度は間違いない、泉の向かい、茂みの先、闇の向こうから音が近付いて来る。

「誰だ!」

 声を上げ槍を向ける。

獣だろうか、いや、獣にしては動きに意図があり過ぎる。恐らく此方の様子を窺っていた何かなのだ。だが、それは何だ? もしもそれが追手なら、此方はいくらでも殺せる隙を見せていた。味方なら既に声をかけてきているだろう。では、誰だ? 何だ?

 悩みこむ少年の前に答えは呆気なく姿を現した。

 ――人、だった。

 頭巾を目深に被ったままで長上着にすっぽり身体を覆っている、一見すると修道者のような出で立ちだった。

「こんばんは」

 女の声。

「え……こ、こんばんは」

 挨拶されたので思わず答えてしまう。そして、気を呑まれている事に気が付き慌てて首を振る。

「貴女は、何者ですか」

 女性には常に紳士であれ、例えそれが怪しげなる者であろうとも。騎士を目指すもの、騎士たるもののそれがきまりだ。

 女は、姿を見せたその場から動く事なく――何か、笑っているようだった。それは少年の自尊心をいたく傷つける。

「な、何がおかしい、んですか」

 それでも語気を荒げないのは女が漂わす妖しの気配を感じ取ったからだ。この女はどこかおかしい。こんな森の奥、夜中に女の旅人が一人でいるものだろうか。

「おかしくはないよ。だけど人に何者か問うのなら、先ずは自身の身を明かすのが礼儀ではないかね」

 女の声は涼やかで、胡琴の音色が響くが如く心地良い旋律だった。言葉をつまびいた後は沈黙し、その場に佇み返答を待っている。

「僕の名はルーシャス・スリード、ルースと呼ばれています。騎士イングウェイ・ロアンに仕える従士です。今は、先日のカリオテ平原での戦から帰還中です」

 身を明かし、槍を構えから解いて簡易騎士礼を行った。戦場に立つ事を許されるようになった従士は騎士礼を使って良いきまりなのだ。ルースは少しばかり誇らしげにその礼を見せつけてやった。

 遠くに梟の声、近くには虫の声、草のざわめき。先程までより森に生命を感じるのは何故だろう? 木々の織りなす魔女の舞踏も今では只の暗い森へと姿を戻している。

女はルースの言葉が終わると少ししてから「ふむ」と鼻を鳴らす。

「では、返礼しようか。我が名はアリクナシア、アリクと呼んでほしい。此処に現れた理由は……ひみつ」

「ひみつ?」

「うん、ないしょ」

 怪しい、妖しい上に怪しい。はたしてどう応えるものかと考えているとアリクが此方に向け泉の淵を辿って来る。制止するのは失礼だが不審なものに接近を許すのもどうしたものかと頭を捻っているうちに、アリクは目の前にやって来た。

 まだ齢にして十四のルースだ。アリクとは頭半分程の背の差があって、自然彼女を見上げるようになる。それがどことなく悔しくてこころなし背伸びをした。

 見上げる女の顔は目深に被る頭巾に隠されて良く見えない。

身体をすっぽりと隠すみすぼらしい長上着は彼女に酷く相応しくない気がした。僅かに見える輪郭と、薄桃色の唇だけでこの女の形容し難い美貌を窺い知れたからだ。

 言葉を失い見上げていると、アリクの方から沈黙を破る。

「何故、泣いている?」

 胡琴の音がすぐ傍で響く。頬に付く涙の跡の事か、ルースは慌てて顔を擦る。

「泣いてなど――」

 声を失ってしまったのは、自分を見下ろす頭巾の陰になっている瞳が――血の如く真紅の色をしていたからだけではない。月の光を吸ったように白くしなやかな指先が、ルースの頬を撫でたからだ。

「ほうら、泣いている」

「な、泣いてない!」

 手を払いのけ睨むように見上げる。

穏やかなままに見下ろしてくる真紅の瞳。触れられていた場所からじわりと熱が広がるのを感じる。

「ん、男子はそれくらい元気な方がいい」

 からかわれているのだろうか。苦い顔になるとアリクは優しげに微笑んだ。やっぱり、からかわれているに違いない。

「僕はこの森から抜けて急ぎ主の元へ戻りたいのです。ア……アリクさんはこの森の道を知っていませんでしょうか」

「まるで道を知らないような物言いをするな? 此処にどうやって彷徨って来たのだ」

「……夢中で走ったので道を把握していません。敗残兵なんです、僕は」

 落ち人である事を語るにはずいぶん勇気が必要だった。

それは、アリクを用心しているからというよりも、眼前の美女に見栄を張りたいと言う気持ちが強いからだという事にまだ幼い少年は気付けない。

「ふむ、では案内をしてあげようか」

「いいんですか? あ、いや、駄目です。僕は追われているかもしれない身、迷惑をかけるかもしれません」

 そんな言葉に、アリクは微笑むままで頷いた。

「構わんよ、別にお前の言う追手とやらは怖くない。ただし、いくつか聞いて欲しい条件がある。それを守れると約束するならばだが」

 不敵な美女の笑みとは実に凄絶なものだ。気を怯ませそうになりつつ問う。

「条件、とは?」

「……ひとつ、私と会った事を他の誰にも明かさない。ひとつ、この森の中では我に従う事。もうひとつはそうさな、後で話そう」

 首を捻る。見下ろすアリクがころころと笑いだした。

「そんな顔をするな。我にも色々と都合があるのだ……案内は任されたから安心おし。此処からなら一日要らず森の外まで案内してやれる」

 そう言って座り込み、勝手にルースの革袋を開いて中を弄りだす。

「ちょ、ちょっと待ってよ。それは大事な主の戦道具入れなんだ」

 思わず素で話しかける。

アリクはそんな抗議を聞いてか聞かずか革袋の中から大きめの毛布を取り出し、草地に広げ敷く。

「今結んだ契約をもう破る気か? 道具とは、必要な時に使わねば意味が無い。敗残兵と言ったか。こんな重い荷物、放って逃げれば良かったのだ。道具に替えはあるが命の替えは効かぬというのに」

 そんな呟きをしてから見上げてくる。

「それとルース、我に話しかけるのは素の言葉のままで良いぞ。短い間とは言え我等は旅の伴侶なのだ――よろしくな」

 頭巾を目深に被ったままだのに、その女の美しさは匂い立つように伝わってくる。そんな微笑みを受けたならば、幼い少年兵でも男の性に逆らえない。

「……よろしく、アリク」

「ん、素直な事は美徳と知れ。では先ずは休憩だ。早く横におなり」

 案内があるのに休めというのか、急ぐと言ったばかりだのに。

「休んでいる場合じゃないんだ、僕は」

「何度も言わせるな、条件が飲めねば案内の話も無かった事にするぞ」

にべもない。どうやら言う通りにしないといけないようだ、諦めてアリクの横、敷かれた毛布に腰を下ろす。そして、草の匂いを感じる余裕が出来ている事に安堵した。

「鎧も脱いでしまえ」

「そ、それはできないよ。一日前まで僕には追手がかかっていた、いつ追いつかれるかわからな――」

 言葉の途中で身体が横に転がる。アリクに組み伏されたのだと気付いたのは月を背にして見下ろしている真紅の瞳に射抜かれてからだった。

「休め、お前の身体は最早疲労の困憊。女如きに簡単に転がされる事でも明らかであろう? まだ立っていられるのは気が張っているからだ。休めルース、見張りは我がする」

 優しげな囁きに素直に頷いてしまう。アリクの進言よりも、間近に見上げる事で明らかになった美貌の全てのせいだ。

 すらりと整う顔立ち、今まで部分でしか把握していなかった真紅の瞳、桃色の唇が絵画の如く理想的な位置に座っている。垣間見える髪は月光に透き通るような白銀色。その美しさは正しく魔性のものだ、こんなにも心を震わせる美女をルースは知らない。

「でも、僕は……」

 反論しようと口を開きかける――が、声が出ない。アリクの紅い瞳が此方を見下ろしている、それが最後の記憶だった。

 少年は、まさしく魂を吸われたように意識を失い眠りについたのである。


 夢を見た。

母の夢だった。

 もう思い出す事はあるまいと思っていた母の顔は、思い出の中とは違い優しく微笑んでいた。それが辛くて、悲しくて目が覚めた。

 目を開けば夜空があった。空には月が登っている。まだまるで寝ていないのだろうか。

 大きな青碧の瞳を瞬きさせると「覚めたか」と声がして、さかさまになったアリクの顔が上から間近に覗きこんで来た。

「あ……お、おはよう」

「もう夜だがな、おはようルース」

 妙に柔らかいのが頭の下にある。手で触れると布の感触。それがアリクの太股だと気付き慌てて手を引っ込めた。つまり枕にしているのはそれか、ルースはがば、と身体を起こす。

「よく休めたか?」

 起き上がった身体に毛布がかけられる。自分が裸になっている事に気付いたのはその時だった。

「わあうっ」

 慌てて毛布を掻き集めて丸まった。そんな背中に女の楽しそうな笑い声がかかる。

「横になったらたちまち眠ってしまったのでな、悪いとは思ったが着ている者は我が脱がしたのだ。気に障ったのなら謝ろう。ほら、これは着ていたものだ」

 アリクが毛布の傍に衣服と帷子を置く。

「もう夜……って、僕はどのくらい寝ていたの?」

「丸一日程だな。余程疲れておったのだろう、まるでしかばねのようだった」

 一日を休憩に使ってしまった事に驚くが、それ以上に驚いたのはアリクだ。

「僕が寝てる間ずっと此処に?」

「見張りは我がすると言ったであろう? 我は嘘はつかぬ……空音は出すがな。追手とやらの近付く様子は無かったよ」

 アリクは何でもないように言って立ち上がる。謎めいた人物だが、信用に値するのはもはや疑い様も無い。

「あ……ありがとう、アリク。君は眠らなくていいの?」

「ああ、大丈夫だ。起きたのなら着替えるがいい、我は食い物を用意しよう」

 アリクは木々の群れへと歩きだす。

「食い物って……干し肉があるよ、これで済ませよう」

「お前は弱ってる、新鮮な肉と野菜を用意するからそこで大人しく着替えておれ」

 目だけで振り向きそれだけを言い残して木々の狭間へと姿を消した。一人取り残されてから、やっと自分を取り戻す。彼女は何者なのだろう? なんでこんなに親切なのだろう? 母性に触れた事の殆ど無い少年には彼女の一挙一動が新鮮で、驚きの連続だった。

或いは夢ではなかろうか、とも思う。だが確かにあの麗人は此処に座っていて、ルースに人の温もりを教えてくれたのだ。

「新鮮な肉……って、アリクは狩りが出来るのか?」

 危険な獣がいないとは限らない深い森の中だ、女を一人にさせたのは間違いではないだろうか。跳ね起きて綺麗にまとめられた装具を身に帯びる。

下衣、革の服を着たら膝近くまである薄手の鎖帷子に頭を通す。小剣の収まっている帯革を腰に素早く取り付け木に立てかけられた槍を取る。

 身体の疲れはすっかりとれているようだ、彼女の消えた方向へ足を進めようとするとがさがさと茂みを分けて探そうとした張本人が野兎と玉菜を手にして現れた。

「む、早かったな。着替える最中に戻って驚かせようと思ったのに」

 そう言って薄く微笑むアリク。力が抜け、自然に安堵の笑みを返していた。

「――ルースの笑顔は可愛いな」

「な」

「冗談だよ。暫し待て、調理する」

 呆けるルースの横を通り「器具を借りるぞ」と言って革袋の中から鍋を出す。

「ん、おあつらえ向きの鍋だな。塩気は漬け肉でいけるか……ルース、火を起こしてはくれないか?」

「あ、あぁ、解った」

 言われるままに火口箱を出して火打金と石を打ち合わせ出す。アリクはその隣で手際よく兎の皮を毟っている。

「手慣れてるね」

 感心して言うと、アリクははらわたを取り出しながら「箱入りの修道女のようにでも見えたか?」と笑う。

「うん、正直そうかと思ってたんだ」

 木屑に付いた種火を消し炭へと移し、火が安定してから近くの木から小剣を使って枝を集め出す。夜の森も焚火の御蔭で随分見通しがいい。程なく良く燃えそうな枝を集める事が出来た。

「残念、その予想ははずれ……気になるのか? 我の事」

 アリクを見る、悪戯そうな眼でまっすぐ此方を見詰めていた。

少年に駆け引きと言う知識は無い。真正直に見詰め返して頷いた。

 アリクは顔を隠す頭巾を指で更に深くする。

「……我は、魔女だ」

「ま、魔女?」

「そう、魔女。最近この森に来たばかりのな……これもないしょだぞ?」

 からかわれているのだろうか? 空音で騙すとさっき言ったばかりだし。しかし微笑みかけてくる顔、その魔性の笑みにはそんな言葉をも信じさせる魅力があった。

「解ったよ、ないしょだね」

「ん、いい子だ……火は出来たかな、さてさて」

鍋の中には切られた兎肉と塩漬け肉、玉菜の葉があり、それに泉の水を加えて蓋をする。ようやく火勢の強くなってきた焚き火の横に器用に木を組み針金を木と木を繋ぐようにかけてから、それに鍋を吊るして見せた。

 調理と言えば肉に火を通すくらいしか知らない。今から何ができるか楽しみだ。

「すぐには出来ないから、それまでは麺麭でも食んで我慢してくれ」

 それだけ言って革袋に背を預ける。

ルースもアリクに習って反対側に座る。

「色々とありがとう、アリク」

「礼などいいよ、まだ案内も始めておらん。それに、我も久方振りに人と話せて楽しい」

「久しぶり? なんで?」

「魔女とは孤独なものなのだよ。この世から魔は去ってしまったのだし、する事も無いからどこかしらかに籠っているのでね」

 応えに一瞬窮してしまう。

なんだか身につまされる話だ。栄枯盛衰と言うものだろうか、昔語りにはかつてこの世は魔が満ち溢れ、それを使う者達が世を治めていたと聞く。

 そして、自分が魔女などと言う突拍子も無い言葉をすっかり信じている事にも驚いた。

「なんで、魔は去ったの?」

「さて、何故だろうなあ。我にも解らぬ」

 そう言って笑うアリクの心は見えない。

出会ってまだ少しも経っていないのに、ルースはこの女が気になって仕方が無かった。謎めいた口調と姿は興味を引き付けられるに充分であったし、なにより今まで味わった事のない優しさを向けてくれる。

「ルース、今度は我が聞いていいか」

「うん、いいよ」

 ぱちぱちと木の爆ぜる音がする。辺りは暗いのにすっかり目が冴えていた。

「お前は、今までに何人の敵を屠ったか憶えているか?」

「……」

 喉から唸り声だけが出た。

正直、憶えていない。数える意味すら感じていないというのが本当だ。敵は斃すべきもので躊躇は己の死に繋がるのだから。

 だが、戦わない人にこの道理は通じない事をルースは知っている。

 時として、それが嫌悪や憎悪の対象になる事も知っている。

 唐突に思い出す母の視線――だめだ、思い出してはいけない。

「……ん、嫌な質問であったか」

「いや、憶えたりしないんだ。戦場では夢中になっていて余裕なんてないし……沢山手にかけた事しか、わからない」

 正直に答える。

 アリクは少なくとも「戦う人」ではないだろう。今の答えは彼女と自分を遠ざける事になるのだろうか。折角の良き出会いだったのに、どうしてそんな質問をするのかと恨めしくすら思う。

「世は乱れているのだな……立派な事だ、余程の苦労であったろう」

「え」

「ん、どうした?」

「……僕はいっぱい敵を倒したんだよ?」

「うむ、汗馬の労であったな。その歳で、実に見事だ」

 ぽかんとする。その表情に気付いたアリクが顔を向けた。

「なんだ、我が怖がるとでも思ったのか?」

「だってそんな事を聞いてくるからさ」

 ぐつぐつと、湯の泡立つ音が聞こえてきた。

アリクは立ち上がり、鍋を焚火の組み木から取って蓋を開けた。もあっと旨そうな匂いの煙が立ち上り、思わず生唾を飲み込んだ。

「まだ熱いから気を付けるのだぞ」

 アリクは背袋から出した木の皿に汁をよそって渡してくれた。皿を受け取り懐から従士の印の入った短剣を出して、汁をぐるぐるかき混ぜだす。

 この短剣は一番大事なものだ。身分を明かす事にも食事にも使う。一番刃に気を使っているからいつでも銀製の刀身はぴかぴかになっている。

「アリクは、怖くないの?」

「怖い? お前をか?」

「……うん」

「可愛いとは思うが」

 手が止まる。

「僕は……自分が怖いよ。戦いになると血が冷えていくんだ。驚くくらい身体が自由になって、心じゃなく、別の何かの赴くままに身体が動くんだ。その声に従い過ぎると自分が変わってしまうような気がして、それが……怖い」

 言葉をそれ以上紡げなくなったルースに、アリクは暫しの沈黙の後に口を開く。

「お前は剣の導きを聞けるのだね、ルース」

「剣の導き?」

 魔女と名乗る女は頷き、腰にある小剣を指さした。

「その剣と喋っているのだよ、お前は。戦場にある時、剣は主を勝利に導く為にずっと話かけている。お前はその声を聞いたのさ」

 ぱき、と薪が鳴る。赤く彩られたアリクの姿が炎の揺らぎと共にある。その焼ける赤よりも、もっと紅い瞳が此方を見据えていた。

「剣の声を聞けるのは古代より勇者の資質とされてきた。自信を持てばいい、その声はお前のきっと助けになろう」

「アリクは知っているの? この声に従い過ぎたものがどうなるか」

「剣の声を聞ける者が唯一つ注意する事は己の心を失わぬ事。それに魅かれた戦士は狂戦士となり、最悪戻ってこれなくなる。だが畏れる事は何も無い、強く意思を持てばいいだけなのだから。ルース、お前は騎士を目指しているのだろう? なれば心の鍛錬など、基礎の根元ではないか」

 確かにその通りだ。頷き、短剣を握る手を見つめる。

 狂戦士……南の地方に伝わる伝承だ。心を失うが故に痛みを失い、闘志あるがままに戦う恐るべき戦士の事と聞く。かの勇者アーディンも戦場に於いては狂戦士と呼ばれていた。

「己の意志のままに戦い、剣の意志に導かれ揮えばいい。それが勇者の気骨となろう」

 アリクの言葉は静かに深くルースの心に染み入った。


己が意志で戦い、剣の導きを聞く。


「それができたら、きっと強くなれそうだ」

「なれば目指せ。天の月を掴もうとしている訳でもあるまい、信じて貫けば徹せぬ盾など有りはせん」

 此方を見据える真紅。その眼から視線を外さないまま小さく一度だけ頷いた。それから、ようやく温くなってきた汁に口を付ける。

「……美味い」

「それはよかった。よく食べ、精をつけよ。それも勇者の資質の一つさ」

 そんな言葉を待たずにがつがつと口に運ぶ。ただ塩辛いだけの肉を噛むのではない、柔らかい肉と甘い野菜の奥深い味わいを楽しめた。

「食べたら出発にするか?」

「ん、ん」

 答えるのももどかしくどんどん口に運ぶ。流し込むと言ってもいい程だ。アリクが呆れ顔で苦笑するのさえ気にならない。

 食事を終え、二人は出発の準備をする。無意識に前を歩きだすとアリクが背中でくすりと笑うのが聞こえた。

「案内だったら後ろからでも出来るだろ」

 笑われた事に少し傷つきながら言うと「ではその背についていこう」と後ろからアリクの声。嬉しさを隠しきれずにルースは強く一歩を踏み出した。

 

朝が来た。

 陽光は枝葉に隠されたままだがそれで闇を追い払うには充分だった。周囲に生い茂っていた不気味な影達は朝の訪れと共に姿を隠し、辺りに朝靄の湿気と草の匂いがたちこめる。

 その生命の匂いをたっぷりと吸いながら、二人は道なき森の中を進んでいた。

 二人はずっと話している訳でもなく、ただしまったくの沈黙と言う訳でもなく、のんびりと会話を楽しみながら歩き続けていた。とりとめのないやり取りではあったがそれがルースにはとても新鮮で嬉しかった。

 だが、それが楽しければ楽しい程、心の中に暗い雲が湧いてくる。彼女との関係はもうすぐ終わる、それはルースにはどうしようもない事だった。

 早く帰らなければいけないのに、この森がどこまでも深く続けばいいとルースは思っていた。そうすれば、いつまでも歩く事が出来るのに。

「……そろそろ森が開けるな。追手はどうやら諦めてくれていたようだな」

そして、別れは唐突にやって来た。

アリクが足を止める。

背後に動きを感じ、足を止めて振り返った。

「――ああ、そうか。結構早く着いたね」

「一日もかからないと言っただろう?」

 沈黙。

初めて二人の間に訪れた、言葉を続けるのが難しい時間だった。彼女も同じだろうか? もしそうだったら、少し、嬉しい。

「あ……ありがとう、アリク。本当に、助かったよ」

 見上げると、今まで見た中で一番優しい笑顔があった。穏やかに見下ろす瞳があった。

「お別れだルース。この道をあと少し進むと街道に出る。そこから南に向かえばやがて人の住まう場所に出る。後は一人でもいいだろう」

 魔女は笑顔のままでそう言った。

ああそうか、これで別れるんだ。解っているのに、何故だろう? 心が軋む。

「アリク、僕は――」

「ルース、聞いていいか」

 言葉を途中で遮ってアリクは言う。高く登って来た陽光に、木漏れ日が微かに彼女の身体に降り注いでいた。

「なに?」

「生と死とは、なんだ?」

 問うてくる静かな声。

「生と、死?」

「そう、お前にとって生きる事、死ぬ事とは何だ?」

 何処か遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。もう梟はどこかで眠りについたのだろう。

 草の匂い、鳥の歌、陽の光、それらに包まれながらルースは首を巡らせた。

「生きる事は殺す事だ。死ぬ事は殺すのを終える事だ……いや、違うな。生きる事は、何かを感じる事だ。死ぬ事は何かの一つになる事だ、そう思う」

「何か、とは?」

「解らない。それを探すのも生きる事だと思う」

 アリクは「見事だ」と呟きルースの肩を叩く。

「若き戦士よ。我の最後の条件を聞いてはくれないか? 頼みが二つばかりあるのだ。厭なら聞かなくても構わない」

「僕に出来る事なら何でも聞くよ」

 即答した。当然だ、彼女に受けた恩はとても言葉には言い表せない。

「そうか。では――『チワレサケテワレヲクラワヌカギリワガキキュウトマルコトナシ』この言の葉を憶えてくれ」

「ち、ちわれさけて……?」

 二度三度、繰り返していたら憶える事が出来た。韻律を持った言葉だから憶えやすいというのもあっただろう。

「ちわれさけてわれをくらわぬかぎりわがききゅうとまることなし、これでいいい?」

「うむ、上出来だ。ルーシャスよ、今教えた言葉は『呪文』だ。お前が道を失いそうな時、深淵に臨む時、この言葉を唱えるのだ。きっとお前に力を授けてくれる」

 アリクはそう言って、ルースの髪を一度撫ぜる。

 くすぐったいが、心地よい。照れ笑いを浮かべる。

「そしてこの言葉に力を与えるにはルースよ、剣を使ってはならない。剣を捨て、他の武器だけで身を立てる事が出来るか? それが、もう一つの頼みだ」

 ……不思議な問いではあった。だが、それを一笑に付すにはあまりに彼女は魔女だった。

「ひとつだけ、聞いていい?」

「答えよう」

「それを守れたら、また会える?」

 頬を染め見上げる少年の、初めての少年らしい願いだった。

「……魔女に魅かれると、呪い殺されるぞ?」

「かまうものか。戦場で死ぬより、それはいい死に方かもしれない」

 陽光が雲に陰ったのか、アリクの目深に被る頭巾の奥が影に消える。

「……約束しよう」

「なら、守るよ。いや、誓うよ。今この時からルーシャス・スリードは剣を使わない。ちわれさけてわれをくらわぬかぎりわがききゅうとまることなし、この言葉もずっと忘れない」

 顔の見えない魔女の首が盾に揺れた。

「天、落ち来たりて我を砕かぬ限り我が忠誠破れる事無し。我クラウソラスの娘にして郷」

「……?」

「誓いの返答さ。我等は今この時より確かな繋がりを持つに至った。ルース、さあお行き。我はお前の道と交わりを持った。いずれまた、見えよう」

 そして魔女は背を向け森の奥へと歩きだす。少年は、その背を消えるまで見送った。

 やがて見えなくなる背中。独り森に立つルースは、大きく息を吸い込んだ。

「約束だ!」

 叫びはきっとあの優しい魔女に届いただろうか。

確かにアリクは魔女だった。あんな小さな出会いだったのに、こんなにも大きな楔を心に深く刺していったのだから。

少年はもう一度だけ「約束だ」と呟いて、森の外へと歩きだして行くのであった

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無剣騎士物語 まんぼ @manmanbou

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