三十一

 店内を漂うBGMの音が小さくなって、二人のチューニングの音が静かに響く。ターンとアンプを通さない一音が二人の手に整えられて、ピタッと合わさっていくのが心地いい。


「なんか弾きたい曲ある? ないなら適当にフレーズ弾いてよ。俺合わせるから」


「ん、じゃあ適当に弾く」


「オッケー」


小声で二人が会話しているのを、美紗子はテーブル席から眺めていた。三人で会話していた時から大して距離は変わらないのに、美紗子だけが二人の世界からはじき出されて全く別の世界で呼吸をしているような気になった。それがなんだかライブの始まりを待っていたあの時と似ていて、妙な高場感が胸を支配する。


 ジャーンと今度はアンプを通したコードが店内に響

きわたる。そのあと尚人の指がネックの上を軽やかに踊ってジャブをうつみたいに音が並んだ。即興の音楽か、誰かのフレーズかはわからないが、短いそのフレーズはライブハウスで聴いたギターの音よりも丸みのある柔らかな音色で美しい。いつの間にかBGMはぴたりとやんでいて、二人の演奏を空間自体が待っているようだった。


「とりあえず今日はギター二本しかないんで、軽くセッションってことで弾かせてもらいます」


尚人がたった三人の聴衆に挨拶をする。先ほどの男女が拍手を送ったのを追うように美紗子も控えめに拍手を送った。その拍手が自然に鳴りみ沈黙が店内を支配すると、誰かの呼吸音さえリアルに聞こえる。

 その沈黙が合図だった。三井の見慣れた綺麗な手が、ギターの上を不規則に動いて洒落たフレーズを奏でていく。バンドの曲とはまた違う、独特のリズム感がお洒落な音だ。美紗子は太ももの上に乗せた手の、人差し指だけをトントンと動かしてリズムをとりながら曲に揺られる。三井のギターに重なるように尚人の奏でる音が合わさり、まろやかなメロディが店内に広がった。

 淡いオレンジ、細めのウエスト、ふわりと広がるスカートのワンピースを纏ってテラス席でコーヒーを一杯。季節は秋、空は空色、カップの中にはやわらかなクレマが広がっている。靴は少し窮屈だけど同系色のピンヒール、鞄は小さな長方形。少し背伸びをした、若い女の子の綺麗な服を美紗子は曲から連想する。歌詞のない曲はイメージがどこまでも自由だった。

 すると今度は尚人がメインとなってメロディを奏で始めた。代わりに三井が伴奏を演奏する。コーヒーと秋の空は変わらないけれど、柔らかな肌触りのルームウェアを連想するようなリラックスしたイメージに様変わりする。少し冷えた秋の空気と暖かな陽の光、白いカップとコーヒーの湯気、新しいルームウェアは誰にも見せないけれどお気に入り。そんな曲。

 しばらくすると二人の掛け合いが次第に盛り上がりを見せていく。それから目を合わせて拍を取り、タイミングを合わせてぴたりと音を静止させた。一瞬遅れて拍手が鳴る。「ありがとうございました」と頭をぺこりと下げた尚人が言うと、三井も長い髪を指らしながら頭を下げた。


「ギター二本なんで、今日はこんな感じです。いかがでしょうか? ミサちゃん、どうだった?」


テーブルから少し離れたステージの上で尚人が問う。三人でテーブルを囲んだ時よりも少し声を張って、ステージの上の二人に向かって美紗子は言った。


「おしゃれですごくかっこよかったです。Ricの時とはまた違った感じ」


「ジャズ特有のリズム感があるからね。お洒落でいいでしょ」


そう答える尚人はギターをスタンドへそっと戻していて、もう演奏はやめるようだった。もう少しだけ聴いていたかった美紗子は少しだけ残念に思う。それから三井の弾いたフレーズに即興で重ねて曲を創り出す尚人は、美紗子から見ても格好良いと思った。これが三井に嫉妬させる男なのだと納得させる。彼には『スマート』そんな言葉がよく似合った。


「どう? あの子たちの演奏は。なかなか様になってるでしょ?」


次に訊いてきたのはオーナーだった。手には綺麗に盛られたサラダが乗っている。


「はい。バンド曲以外の演奏は初めて聴いたんですけど、かっこよかったです。それにあれ、即興で弾いてるんですよね? そこもすごくかっこいい」


「まあ、そうだね。さっきの曲はすごく有名なコード進行を繰り返し弾きながら、それをベースに旋律を作り出してるんだ」


「なるほど、基本の型を使ったアレンジか…かっこいい」


「最初はなかなかにひどい演奏で面白かったんだけど、最近はかっこよくなっちゃって、少し面白味に欠けちゃうね」


サラダをテーブルに乗せるとオーナーは、爽やかな顔でいたずらっぽくそう言った。


「ミツイくんの演奏ですか?」


「二人ともだよ。まあそれも二人が楽器を始めた頃の話で、今はこんな感じなんだけど。二人とも練習の虫だから」


「へぇ」と返しながら、やっぱりなんだって才能だけでできるものではないのだなと美紗子は考えた。


「じゃあせっかくなんで、次はギターとドラムで一曲行きます」


オーナーと話しながら、ぼんやりと思考していた美紗子の耳にそんな言葉が届く。気が付けば尚人はドラムセットの前に座っていた。


「もう一曲弾くみたいだから、先に食べちゃいなよ。ポテトももうすぐだから」


オーナーの言葉に「はい」と答えながらも美紗子の目線は既にステージの方を向いている。三井がよく言う「ナオは何でもできるから」という言葉の通り、尚人は軽やかにドラムスティックを操っていた。ああこれは、確かにミツイくんも嫉妬しちゃうよ、とそう思う。

 美紗子自身もここ最近は誰かに嫉妬してばかりだった。どうしてあんなデザインを思いつくのか、なぜ自分には創り出せないのか、そんな感情を止めることができない。私は私だからと自信を持てばいいのだろうか、あの人に負けないようにと努力の時間を増やせばいいのだろうか、くるくると巡る思考を美紗子はシーザーサラダに混ぜて飲み込んだ。

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BON. 石橋めい @May-you

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