三十

 「おそい」と三井が眉間に皺を寄せながら口にすると「ごめん」とナオが困った顔をした。「一杯ずつ奢ってよ」と三井が冗談まじりに言い放てば「奢らせていただきます」とナオが軽く返して上着を脱ぐと席に着く。やりとりが纏う気配がステージ上とはまた異なっていて少し笑えた。


「あ、はじめまして。美紗子です」


二人の会話の隙間を縫って今度は美紗子が口にする。


「初めまして、椎野尚人です。遅れてすみません」


すると尚人は申し訳なさそうな顔で謝罪した。スラリと伸びた手足にシャツを纏う姿はシンプルで均整がとれていて、ブラウンの髪は少し長いのに綺麗にセットされたお陰か清潔感がある。一言で言ってしまえば異性にモテそうで、悪く言ってしまえばどこか軽薄そうに見える、尚人はそんな男だった。ステージの上とはまた違った色気があるのに、その軽薄さと色気を丁寧で柔らかな物腰が真面目な印象へと変えていくから不思議だ。

 「レコーディングだったんですよね? おつかれさまでした」と美紗子が労うと「俺から会いたいって言ったのに、遅れて本当にすみません」とまた困った顔で微笑んだ。二人の隣で「とりあえずビールを三つください」と三井が注文すれば「この注文は、こいつのバイト代から引いとくよ」とオーナーの男が白い歯を見せて笑った。すると「おう、飲め飲め」と尚人は投げやりに手を振って、了承してくれたらしい意を示す。その時の三井は美紗子の隣に居る時とも、ステージの上にいる時ともまた違っていて、やっぱり面白いと美紗子は思った。


「今日のレコーディングどうだった?」

「うん、上々。でもやっぱあいつらの曲はポップでキャッチーだね。俺らとは毛色が違いすぎて、大変けど楽しい」

「そっか。よかったな」


 会話の隣にビールが三杯、静かに並べられていく。ついでに「何か食べる?」と訊かれた美紗子が少し狼狽えていると「ピザおいしいよ」と尚人が優しく教えてくれたので美紗子はそれを一つ注文する。


「レコーディングの時に聞いたんだけど、あいつら今度、九州の方まわるらしいよ。福岡、熊本、長崎の三都市だからツアーってほどじゃないけど、向こうでやってる同年代のバンドと対バンするんだって」

「へえ、いいね。俺らもやる? 何個か声かけて貰ってた話あるし」

「やりたいけど、お金がなー」

「だよね。移動費とか、馬鹿にならない」


二人のため息がテーブルの上に着地した。それを払いのけるみたいにグラスを掴んで、三人は掛け声も無く静かにグラスを寄せる。カチと心地良い音が鼓膜を揺らした。


「そういえば、ミサちゃんもクリエイターさんなんだっけ?」


雑にナッツを口に放った尚人が言う。アーモンドとカシューナッツ、それからピーナッツがまとめて口の中で砕かれた。


「クリエイターって程じゃないですけど、服とか作ってます」

「へえ。素敵だ」

「うん。ミサは服作るの上手だよ」


何故か三井が得意げに言ったが「全然。普通だよ」と返した美紗子の言葉は照れ隠しと言うよりも本心だった。できなくて嫉妬はするし、自信を砕かれて嘆くこともある、と心の中では答えている。尚人はそんな美紗子の言葉に「そっか」と人当たりの良い笑顔で返した。


 そうして一通りの挨拶を終えた後、尚人は食べ物を欲していたのかポテトフライトとサラダを追加する。オーナーに向かってひらひらと振られる手を見ながら、美紗子はこの人も綺麗な手をしていると思った。オーナーは「お前はここまで言いに来いよ」と笑って怒りながらも来てくれて、四十代くらいの男女が来店したのに併せて鈴が鳴る。常運なのか、男女は席に向かう途中で「今日は二人ともお客さんなのか」と尚人たちに笑顔を見せて、演奏の予定が入ってないなら二人に弾いほしいと言葉を続けた。それを耳にした美紗子は静かに期待を寄せたが、尚人は「そうですね」と暖味な言葉を軽く返すだけだった。それに男女も建前だったのか、それ以上は何も言わずにテーブルへと向かって行った。


「あの、わたしRicのファンなんです。初めて聴いたときからずっと」

「お、それは嬉しい」

「ライブもミツイくんに誘われて、人生で初めて行ったんですよ」

「そうなんだ。楽しかった?」

「はい。それはもう、とても」

「よかった。ぜひまた来てよ。ミサちゃんなら楽屋の方にも歓迎するし。それによかったら、物販の手伝いとかして欲しい。ね、ミツイもそう思うでしょ?」

「…うん…まあ。でも、ミサ来ると緊張してミスりそうだからな…」


突然話を振られた三井は、いつものように鼻の頭を指先で撫でながら目を逸らす。


「何言ってんの。だいたい普段からミスしまくってんだから大丈夫だって」

「うっさいなあ。これでも練習してんの」


初めてみる二人のやり取りが楽しくて、美紗子は思わず笑みをこぼした。


「私、もう一回Ricのライブに行きたい。ミツイくんにはバレないように、こっそり行くから」

「うん。おいでおいで。俺はいつでも歓迎だから、堂々とおいで」

「俺だって、来てほしくないわけじゃないんだよ。だけどさ、恥ずかしいじゃん」


ぼさぼさの黒い髪に触れて、鼻先に触れる。三井の見慣れたいつもの癖だ。


「何が恥ずかしい、だよ。お前がミスんなきゃいいだけじゃん」

「わかってるって」


それからテーブルに肘をついて頭を抱えると少し唸った。


「まあでも、うまくはなったよな」

「…まじ?」

「まじまじ。初期の目も当てられなかった頃に比べたら」

「…はいはい。まあ、変わんないよりマシだな」

「うん。ミツイくんは、ちゃんと上手だよ」


大きなため息をつく三井を眺めなから、美紗子は本当に上手なのに、と思っていた。だけど本人にしかわからない、足りないものがあるのだろう。それはきっと、誰が美紗子を褒めるたびに「まだまだ、全然」と謙遜でもなく答える

美紗子の気持ちと同じなのだ。


「マルゲリータピザ、お待たせしました。このピザはレストランのシェフが作ってるから、うちのメニューの中でも特に美味しいよ」


 その時唸り声とため息が散らかったテープルにチーズが光るピザが届く。この店が入るビルと同じビルに入ったレストランで特別に作ってもらっているものらしい。


「飲み物のおかわりはどうする? それからステージも使ぅなら使って構わないよ。お客さんいるから生半可な演奏してもらっちゃ困るけど」

「私ね、本当にRicのファンなんです。だから演奏、聴きたいです」


 オーナーの言葉に答えたのは美紗子で、ニコニコと楽しそうに言った。純粋に二人演奏が聴きたかったし、三井が嫉妬する尚人の演奏を聴きたかった。尚人は美紗子の言葉に一瞬驚いた顔をした後で、ははっと楽しそうに笑みをこぼす。


「Ricのフロントマン独り占めなんて贅沢なファンだ。でもいいよ。三井もいいだろ?」


 それから軽やかに頭を抱える三井の肩を叩いた。三井は気だるげに「うん」と答えて、渋々といった様子で指先や手首のストレッチをする。長くて綺麗な指のどこかが、パキリと乾いた音を立てた。

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