二十九
日曜日の電車は混み合っていた。吊り革に捕まり、ぼんやりと外を眺めながら電車に揺られる。傾き始めた陽光が、ビルの隙間を縫うようにしながら電車内に入り込み、美紗子の顔をオレンジに染めていた。まだ四時も回っていないというのに夕方を思わせるその光の眩しさに、思わず美紗子は形のいい一重の目を細める。
二人で夕日を見て過ごした日以来、二人は顔を合わせてはいなかった。それはやりたいいこと、やらなければならないことが多い二人にとって、特段珍しいことではない。
徐々に電車は速度を落としていく。大きなビルに遮られて、突然、射し込んでいた光が途絶えた。緩やかなカーブを描く線路に沿って進む電車に揺られ、美紗子の耳を彩る大ぶりのピアスが揺れる。吊り革に伸びる手首には、同じデザインのブレスレットが光っている。千恵の手が作り出したそのピアスの僅かな重みとブレスレットの光を感じながら、美紗子は結局、未だ合鍵の謎に迫れていないことを思い出していた。それから「どうして合鍵を貰ってくれないの?」と直接訊いたら思い女に見えるだろうか、と考えてみた。しかし答えが出る前に電車の扉がプシュウと開いて人が流れる。美紗子も続いて改札で待つ三井を探した。
*
サックスの洒落たメロディーと間接照明に照らされた重厚感溢れる丸テーブルが大人の色気を漂わせている。薄暗いカウンターの奥にはボトルがぎっしりと並んでいるがほとんどが初めて見る名前で、美紗子はどうにも場違いな場所に紛れ込んだ気がして肩に力が入った。向かいに座る三井は慣れた雰囲気でテーブル上のミックスナッツからアーモンドを拾いながら、美紗子の緊張を感じ取ってか「お店、ここでごめんね」と少し困った顔をした。「大丈夫、一度は来てみたかったから」と答えた美紗子のそれは本心だったが、来てみたいことと緊張することは別物であるのだと静かに感じた。
「ナオもうすぐ着くって。待たせてごめん」
「気にしないで。人を待つことも案外有意義だったりするんだからさ」
腿の上に乗せた両手をにぎにぎと落ち着かなさそうに動かしながら美紗子は答える。それからこの待ち時間のうちにこの空間に慣れてしまわねばと、きょろきょろと視線を店内で彷徨わせていた。
店内は美紗子たちが座るテーブルの他に五つのテーブルが等間隔に配置されているが、まだ早い時間帯なおかげか他に客はいない。その並んだテーブルの先には大きな黒いピアノが間接照明の橙を優しく反射させなが一人静かに佇んでいて絵になった。
「あそこで演奏するの?」
「そうだよ。でも本当ごくたまに」
「へえ。かっこいいね」
「だけど誰も奏者がいない日に、ごくたまーに、だよ」
「でもきっとそれもかっこいいよ。レアキャラみたいでさ」
「レアキャラかぁ。それっていいもの?」
「うん。きっとね」
三井の長い指に、カシューナッツが拾われる。小さな皿の中はピーナッツの比率が高い。
「ナオさんもレアキャラ?」
沈黙を破るためだけに美紗子が口を開いた。
「うーん、俺よりはレアじゃないかな」
答える三井は「うーん」と思案するふりをしながらサラリと答えた。
美紗子は皿の中のバランスを整えるようにピーナッツを口に運んだが、それを拒むように三井がマカダミアナッツを取り上げる。美紗子はもう一つ、ピーナッツを食べた。
「ナオの奴はまだ来ないのか? 俺の店を勝手に予約しておいて遅刻すんのはいい度胸だよなぁ」
そう声がしたと思ったら、皿にミックスナッツが降ってきた。カラカラと綺麗な音がなる。ナッツを降らせるのはこの店のオーナーであり、今到着を待つ人物の叔父にあたる人で、サービスだと笑っていた。無精髭を蓄えた少し焼けた肌と目尻に皺を描いたくっきりとした二重が印象的で、精悍さの中に少しの可愛らしさを混ぜた人だ。
「うん。でももうすぐ着くみたいです」
「そうか。あいつが着いたら一杯奢ってもらうといい」
「はは、そうします」
三井が答えると、オーナーの男は白いシシャツを纏った背を向けてカウンターの方へと歩いて行った。スラリとした体躯は背筋がしっかり伸びている。
「オーナーさん、かっこいいね。女の人がほっとかない感じ」
「モテるよ、すごく。だけど愛妻家だから誰にも靡かない」
「へえ。余計にかっこいい」
「ちなみに奥さんは三つ歳上なんだけど、奥さんもすごくかっこいい」
美紗子は「へえ」と相槌を打ちながらカシューナッツを口に放った。それを飲み込んでから「ミックスナッツの中で何が一番好き?」とただ頭に浮かんだことを口にする。「アーモンドかカシューナッツ」と答えた三井に「王道だね」と笑っていたら、徐々にこの空間にも慣れた気がした。
「ナオさん、今日はレコーディングなんだよね? Ricの新曲?」
「ううん、Ricはまだ新曲でないよ。今日はナオがサポートで入ってるバンドの方のレコーディング。アイツ、サポートとかヘルプで結構いろんなことに顔出してるから」
「へえ。人気者だ」
「ムカつくことにね」
ナッツを軽快な音で咀嚼しながら三井が言った。強い口調とは反対に、目元は一つもムカついてなどいなくて美紗子は少し笑えた。
「なんでムカつくの」
「人気者だから」
「つまりあれだ、嫉妬」
「違うよ。ミサと俺を待たせたから」
「二十分くらいの遅刻は許容範囲だよ」
くすくすと笑いながら美紗子もアーモンドを口に入れた。三井はピスタチオを丁寧に剥きながら口を開く。
「でもまあ、本当はちょっと嫉妬してる。アイツは楽器が上手いから」
「私も、ちょっとわかるよ。そういうの嫉妬しちゃう」
嫉妬してると素直に言えるところ、上手いと素直に褒めるところは、やっぱり三井のいいところだと美紗子は思った。それと同時に誰だって自分にないものには嫉妬するんだと思った。
「三井くんと初めて会った公園、久しぶりに来たけどもう完全に冬だったね。緑の木陰はないし、蝉もいない」
「早いね、時間の流れって」
「早いね」と同意してから、美紗子は合鍵のことを聞こうとした。どのくらいの時間が経ったら合鍵を受け取ってくれるの? って。
その時、カランと重たい扉が鈴を鳴らした。
「ごめん、お待たせ」
ナオが来た。
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