二十八
それから美紗子はいつも通りに授業を受けて、友人と会話して、お腹が空いたら食事をして、そうやって時を過ごした。こうしていると自然に流れていく時間に、美紗子は自分自身が学校という集団の中に存在するシステムの一部にでもなってしまったような錯覚を覚える。
午後二時過ぎ、そんな美紗子は集中力を失っていた。手元に広げた布をほとんど無意識のうちに撫でながら、ぼんやりと漂う視線を窓の外に向けている。見つめられた窓枠の奥の世界では、紅葉の赤を過ぎて茶色く乾いた葉が、吹き抜ける風に吹かれて揺れていた。ゆらゆらと不規則に揺れるその枝から振り落とされた葉が軽やかに飛んでいく。飛び立つ葉を見送った美紗子の視界の端には、親しくはない友人の頭が重力に逆らったり従ったりしながら、カクカクと揺れ動いているのが映っていた。彼女の揺れる長い巻き髪は、風に揺られる枝の軽やかさにも似ていた。
そういえば、病気になった女が窓の外に見える枯れ葉の数を数えながら「あの葉がすべて落ちたら私は死ぬんだわ」と嘆く物語があったよな、と美紗子は思い出す。結末はどうだっただろうかと考えてみたが答えは出なくて、たぶん死ななかったよね、と簡単に結論づけた。
そんなどうでもいいようなことを考えていると、美紗子のスマートフォンがポケットの中で控えめに震える。一瞬驚いた後でこっそりと画面を確認すれば『ご飯ありがと。お邪魔しました。鍵はポストに入れておくね。』という文字が浮かんでいた。美紗子は反射的に『鍵、持っててもいいよ』と打ち込んだが、すぐに『了解』と打ち直して送信した。窓の外ではまだ枝が揺れている。あの枯れ葉が全て落ちる頃には、合鍵も受け取ってくれるだろうか、となんとなく考えてみたが、そもそもなんで受け取って欲しいんだろう、という思いが湧き出て少し笑えた。
美紗子は二度、左右に頭を振るとまた布を手にする。ハサミを入れると布が切れていく音と感触が美紗子の身体に入り込んできて、慣れた心地よさを感じた。ふうと短く息を吐いて、集中する。どこか後の方からカランと何かが落ちる音がして、視界の端で揺れ続けていた友人の頭がぴたりと静止した。
チャキンと布を端まで切り終えた時、また控えめにスマートフォンが震える。『今度の日曜日、空いてたらナオとご飯行かない?』。美紗子は『いいよ』と返す。しかしすぐに、そっけない気がして『楽しみしてる』と付け足した。すると『よろしくね』とまるで目の前で会話をしているようなテンポで返ってくる。美紗子はそれを確認するとスマートフォンをポケットにしまった。窓の外で揺れていた枝はぴたりと動きをとめて、風がやんだことを伝えた。風の流れを見届けた美紗子はペンをとる。美紗子の視界からは切り離された窓の外で、動きを止めたはずの枝から一枚の葉が落ちた。
「美紗子、帰る?」
呼びかける声に美紗子は顔を上げた。随分と時間が経過したらしい。
「うん。千恵は?」
散らばったものをまとめながら、美紗子は口を動かす。
「帰るよ。帰って、一瞬寝て、速攻でバイト」
「そっか。じゃあ途中まで一緒に行こ」
朝とは反対の方向に、二人並んで足をすすめる。陽光のおかげで朝よりも寒さは随分と和らいでいたが、吹き抜ける風は冷たかった。
「そういえば鍵の件なんだけどさ、あんまり深い意味はないと思うんだよね」
吹き抜ける風に肩をすくめたせいで、首を失った彼女が口を開く。美紗子は何の話か理解ができず「何が?」と口にしながら首を傾げた。揺れた頭につられて美紗子の黒い髪が揺れる。夏頃には肩のあたりだったはずのそれも、今では縛れるほどに伸びていた。
「美紗子が言ってたんじゃん。合鍵、受け取ってくれないって」
「ああ、うん、言った。確かに、言ったね」
美紗子の頭が、納得したように下の位置に戻る。
「もう、何それ。せっかく相談に乗ってあげようと思ったのに」
彼女は口先を不満げに尖らせて言ったが、朝とは違って目元はどこか楽しそうだった。静かに吹いた弱い風に乗って、茶色の葉が彼女の足元を這うように並走していた。
「ごめんごめん。それと、ありがとう」
答えながら美紗子は、転がる葉を目で追う。それから、
「まったくだよ。でも本当に、浮気とかではないと思うんだよね。向こうの鍵はこっちにくれてるわけだし」
歩きながらまた言葉を紡いだ彼女の口は、いつの間にか元に戻っていた。
「うん。私もそれはあんまり疑ってないよ」
「何それ、惚気話?」
彼女は楽しそうに口を開いて、今度は意図的に落ち葉を踏んだ。カサッと乾いた音がした。
「そんなんじゃないよ。でもさ、疑ってはないの」
美紗子の隣で彼女が「ふうん」と声を出した。美紗子も落ち葉を踏んでみた。
「それに今日、千恵に話してみたらさ、私はどうして彼に合鍵をもらって欲しいんだろって思い始めちゃった」
「そんなのあれじゃん『恋人としての意地』」
彼女はふんと鼻を鳴らしながら言った。それは落ち葉も飛ばしそうな勢いで、美紗子は思わず笑みを零す。
「でも、確かにそうかもね。私、意地張ってるんだ。何でもらってくれないの?って」
「拒否されたから、余計に貰って欲しくなっちゃってるんだね」
彼女の言葉に「きっとそうだ」と美紗子が同意したとき、メッセージでも受信したのか彼女はスマートフォンを取り出して画面を眺めた。しかしすぐにポケットに仕舞うと、また前を向いて歩き出す。そんな彼女を横目に見ながら美紗子は言葉を続けた。
「さっきね、理由を訊いてみよって思ったんだ。何で受け取ってくれないの?って」
「いいじゃん。でもこういう『なんでだろ』って話はさ、理由を訊いてみると案外、あっけない答えだったりもするよね」
「わかるわかる。よし!って意気込んで訊いてみたのに、答えは、あれ?って肩透かしを喰らう感じ」
彼女は「あるよねぇ」と同意しながら、またスマートフォンの画面を確認した。今度は何度か画面をタップしている。
「理由、わかったら教えてね」
彼女はそのまま、画面に向かって言った。
「うん」と返事をしながら美紗子はまた落ち葉を踏んだ。踏むたびに、秋が砕けて冬が広がるような気がした。
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