おなら 完結

おなら 完結



「ある日あたしは、電車の中でイヤホンをしていたの。基本的にあたしは異物を身体に入れるのが嫌だから、イヤホンは滅多に付けないんだけどね。その日は本当に嫌なことがあって、音楽で気を紛らわそうとしていたの」


彼女の生まれたままの耳に目をやった。アイドル時代も例外なく、彼女はピアスの穴すら開けていなかった。


「もちろん、おなかにはいつものようにガス溜りの心地がして、おならを我慢していたのよ。実際、おなかからあの寿命が擦切れるような音が出ていたのかもしれない。いや、本当は出ていたんだと思う。内臓に響くような感覚があったから。だけど、気にならなかった。聞こえなかったから」


「イヤホンをしていたから?」


僕は問うた。彼女とようやく、目が合った。潤んだ瞳が、僕を映し出している。


「そう。イヤホンをしていたから聞こえなかったの。多分あたしは、音楽によって別に世界に導かれていたんだと思う。背広で身をくるんだ熊が、あたしを奇怪な目で見てきたの。だけどね、何も気にならなかった。あの憂鬱な思い込みが、脳内で展開されることもなかった。だってあたしは聞かなかったんだから。その音を」


彼女は「わかば」の煙を、美味そうに吐き出した。


「つまり、原因はあたしにあったの。

あたしは<おならのような音を出している自分の体裁>を気にしていたの。あたしを憂鬱にさせたあの思い込みの悪循環は、<あたしがその音を聞いている・確認できる>ことが大前提で成り立ってた。

だから<音を聞かなくなった>ことで、一連の思い込みは破綻するの。それであたしの憂鬱は晴れたも同然よ。その日以来、あたしは積極的にイヤホンをするようになった。<気にしない>ためにね。

理論は、コカインも同じ。アイドル時代に色んな誹謗中傷を書かれて、すっごい気持ちが病んだの。ダンスが下手、歌が素人、胸が小さい、よく見たらさほど可愛くない。誹謗中傷って褒め言葉の百倍刺さるから、一度見たら絶対に忘れないの。だから、永遠に蓄積されていくの。返すことの出来ない負債みたいなもの。対処法は、本人が<気にすること>をやめるしかない。それを助けてくれたのが、あたしの場合はコカインだったわけ。あたしは、生きるためにコカインを始めたの」


峰子は、ブラジャーを外して照明を二段階落とした。再開の合図である。


「こんな話の後で興奮できる?」


彼女は、ミネラルウォーターを乱暴に飲み干して言った。


「努力するよ」


僕は、繋がったコンドームを小分けにちぎった。



彼女は再び、ダブルベッドに潜り込んだ。その際、ベッドが軋む音がした。その音に対して、僕は少々疑念を抱かざるを得なかった。

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おなら ほてー。 @hote-

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