空を張る

針間有年

空を張る

 三十年前、そらがはがれた。

 それはまるで、空き家の壁が落ちるように、乾いた粘土が崩れるように、ぱらぱらとこぼれ落ちてきた。

 死者は出なかった。空は柔らかく、軽い素材でできていたからだ。

 空がはがれた天は、真っ暗な闇だった。人々は不安に駆られ、やがて、人工的に空を作り出す。


 空職人そらしょくにんの私は、今日もアトリエで「晴れの空」を作っていた。

 空がはがれたのは私の生まれ年。私が生きてきた三十年の間で空を取り巻く制度はずいぶん変わった。

 はじめの十年、空は国が管理するものだった。闇を簡易な布で覆っていたのだ。だが、人工空じんこうそらを作り出せるようになってから話は変わった。

 国は水不足が常態化している地域に「雨の空」を張った。

 確かにその地域で水不足はなくなった。だが、その頃の技術では、一つの「空」に一つの天気しか反映できなかった。

 雨しか降らなくなった地域。気が滅入るのも無理はない。住人は空の張替えを求めた。

 そのようなことが度々起こり、空は土地同様個人が所有するものとなった。人々は空を自由に扱うことができる空中権くうちゅうけんを手に入れたのだ。

 空中権の及ぶ範囲は個人の空。フローリングのように自由に空を張りかえることができる。

 私は「晴れの空」をひとつ仕上げ、薄いそれをくるくると巻き、アトリエの端に置いた。

 それは契約している小売店に引き渡され、店舗に並べられる。私の作る空は、面白みはないが品質は良く、なかなかに好評だ。おかげで、それなりの稼ぎはある。

 売れ筋は「晴れの空」。洗濯物は乾くし、土地も痛みにくい。何より、気分がいい。

 日によって天気を変えることができる空もあるが、それはかなりの値段がする。公共施設か余程のお金持ちしか使えない。だから皆「晴の空」を選ぶのだ。

 

 ある日のことだった。夏の晴れた空の元、洗濯物を取り入れていると、はらりと水色の柔らかい羽根のようなものが落ちてきた。触り慣れたその質感。

 私は天を見上げる。

 案の定、空がはがれてきていた。天に見えるのは黒々とした闇。

 洗濯物がふわりと空に引かれた。私は慌てて洗濯物を取り入れる。

 バックドロップが起こっている。

 バックドロップ。それははがれた空の隙間から、天に物が落ちていく現象だ。天の闇は物を引き込む。

 とはいっても重量のある物が天に落ちる心配はなく、それこそ洗濯物のような軽いものにしか被害は及ばない。だが、バックドロップは空職人にとって大敵である。

 空の材料は酷く軽い。少しでも窓を開けようものなら、それらは天に落ちて行ってしまう。

 この土地の天を張りかえたのは二十年前のことだと前の住民に聞いている。そろそろ張替え時だとは思っていたが。

 私は部屋に入り、カレンダーを見やる。

 今日は水曜日。材料屋は休みだ。ため息が出る。部屋にある材料は全て仕事用のもの。私用に使えるはずもない。

 アトリエから自室に戻る。物置を覗くが目ぼしいものはない。いや、一つだけ「空」があった。

 私は埃をかぶったそれを取り出す。

 タイトルは「夜の空」。

 学生の頃作った代物だ。

 恥ずかしいものが出てきた。私は苦笑する。だが、バックドロップを起こさないためには至急、空を張る必要がある。とりあえずこれを張って、近々「晴れの空」を作り出し、張替えに行こう。

 作業着から外出着に着替える。私はトートバックに「夜の空」を丸めて入れた。


 空を張りかえるには上空百メートルまで行かねばならない。

 時速五十キロのエレベーターに乗り込む。中は空いていて、座席につくこともできた。ほっと息をつく。だが、まあ、平日の昼から空を張り替えに行く人間などそういないだろう。

 私はエレベーターの窓から外を見やる。どの空にも「晴れの空」が並んでいた。

 幼い頃から晴以外の空に惹かれてやまなかった。特に気に入っていたのは月。図書館に通い、月の写真や、それに関する本ばかり読んでいた。

 竹取物語、狼男、月に住む兎。

 どれも不思議で心が躍った。私はそのうち望むようになる。月を見てみたい。

 そして空職人になることを決めた。

 専門学校に通い、基礎を学び、卒業制作。

 渾身の「夜の空」だった。

 自信はあった。だが、それは生徒からも教師からも酷評された。

 技術は認める。だが、こんな空を誰が張りたいと思う?

 エレベーターが空の張替えセンターに到着する。

 張替えを申請し、空の張替えを専門とする張替え師と共に、私の所有する空まで電車で三十分。

 張替え師の男性が私ににこやかに尋ねる。

「どんな空を張るんですか?」

 私は言葉に詰まった。だが、空を張りかえるのは彼だ。隠しても意味はない。

 「夜の空」を軽く広げて見せると、彼は目を見開いた。

 ちょっと、買い替えるまでのつなぎに――。

 私は言い訳がましい言葉を口にし、目を逸らした。彼もそれ以上、何も言わなかった。

 担当の張替え師は優秀で、「晴れの空」をあっという間に「夜の空」に張り替えた。

 作業中も気まずかった。通りかかった張替え師と客が私を怪訝な目で見ていた。顔に血が上った。

 明日にでも「晴れの空」を完成させ、張替えに来よう。

 私は張替え師に代金を払い、逃げるようにその場を後にした。

 

 エレベーターから降りた私はぐったりと自宅に向かった。苦い思い出に羞恥。様々なものが混ざり合い、家に着く頃には涙さえ浮かんでいた。

 庭に足を踏み入れる。

 そして、その明るさに空を仰いだ。

 満月だ。満月が浮かんでいる。

 空が剥がれ落ちても月は存在している。ただ投影できていないだけ。私の作った作品は月に焦点を当て、映し出すスクリーン。

 頬に涙が伝った。

 それはあまりに美しかったのだ。

 輝かしくて、柔らかくて、穏やかで、全てを包み込む。

 見るたびに胸を抉られる。だけど、捨てられなかった。何故か。

 そう。それは、月が美しいから。

 誰に何と言われようとも、美しいものは美しいのだ。

 私は家から折り畳み式の机と椅子を庭に引っ張り出した。そして、アイスティー用意し机に置く。

 満月を見ながら紅茶を飲む。あまり優雅だ。思わず笑みが浮かんだ。

 明日、材料屋に行こう。

 誰にも見向きされないような材料を買って、ちょっと変わったものを作ろうではないか。

 売れなくてもいい。そう思いながらも、どこかで私と同じようにまだ見ぬ空に憧れている誰かに期待して。

 私は作る。

 己が美しいと思う空を。

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空を張る 針間有年 @harima0049

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