序章_5 そして、少年は世界の常識を少し知る
ゆっくりと目を開ける。視界に映るのは木板の天井。一部はしみ込んだ雨にでもやられたのか腐食している。
まだ頭がぼやけており、上手くまわらない思考を動かしながら、アルバントは何故ここにいるのかを思い出そうとする。
「……ああ、そっか」
この世界に来た時と目覚めの感覚が違うのは気絶と自然な睡眠の違いだろうか。
それでも、自分が異世界にやってきたことは夢ではない、という現状は再認識できた。
首だけを横に向けると、そこではネツァが椅子に座って、じっとこちらを見詰めていた。なんというか、玩具を前にしたにした子どもの様に猫目が輝いている。
そして、アルバントと目が合うと、にこりと笑みを浮かべる。
「ご主人様、お目覚めはいかがでしょう?」
「悪くないと思うよ。でも、少し体は怠いかな」
「多くの血を失いましたから、当然ではありますわ。そうですわね、少しだけなら」
そう言ったネツァはしずしずとアルバントに歩み寄り、そっと彼の腕に触れる。
少し注意を向けてみると、そこから何か心地好い感覚が流れ込んでくる。
やがて全体を薄く覆うと、体の怠さが消えていくのが分かる。
起き上がって確認してみると、さきほどまでの思考の鈍重さも鳴りを潜めており、快調と言っても差し支えないほどだった。
「ありがとう。かなり楽になったよ」
「昨日も申しましたように、あまりに多用するのは危険でしょうけど、時々でしたらお任せくださいませ」
そう話したところでロバイドが朝食を持って部屋に入ってきた。
渡された食事は固めのパンと具の殆どない薄味のスープ、それと僅かばかりの肉。決して美味とは言い難い味ではあるが、胃袋が満たされる感覚は心地よいものだ。
その食事の合間に、ロバイドが今日の予定をすらすらと述べていく。
「街をでるのは明日にする。今日は主の休息の合間、世界の常識について、主に記憶してもらうことがある」
「世界の常識っていうけど、覚える必要はあるのかい?」
アルバントとしてはこの世界のことなどどうでもよい。肝心なのは友達になってくれる存在であり、源界で社会にうまく適合することを目的としているのではない。
「どちらみち、主がこの世界の悪魔と友誼を結ぶならば、その先の人生をこの世界で過ごすことになる。その時、通貨の見分けすら覚束ないのであれば、それなりに苦労することにはなるだろう」
「確かに、そうだね。本当はすぐにでも出発したいけど……でも、ロバイドが計画してくれたことだし、素直に従うよ」
事前準備を怠らないロバイドがそう言うのだ。従わねば損をするというのは明白だろう。
「それは重畳」と頷いたロバイドは懐から何枚かの通貨を取り出すと、それを机の上に置く。
「さすがだね、もう準備したんだ」
「さして価値のない宝石も無知な人間にはさぞ魅惑的に映ったのだろう。随分と懐は満たされた」
そうして、ロバイドは通貨の説明を始めた。
曰く、これらの通貨は世界共通であり、鉄貨10枚で銅貨1枚に、銅貨100枚で銀貨1枚に、銀貨100枚で金貨1枚となる。凡そ人間は銅貨3枚で1日を生きるだけの食料を得ることができ、日雇いの仕事で銅貨10枚ほどを得る。
銀貨1枚もあれば、ひと月を慎ましく生きることができ、金貨1枚もあれば凡そ10年を生きることができる。
その為、価値の高さから金貨だけ手に入らなかったという。その気になればそこらの商人などから盗むこともできただろうに律儀だと思う。いや、目立つ目立たないで考えれば悪手か。
「魔力に満ちた地であることも関与しているのだろう、この世界には人間以外にも自我のある生物が多種存在する」
「それって、ファンタジーにあるようなエルフとかドワーフとか?」
「その通り。かつて地球にも同種は存在していたが、地球の魔力の減衰に伴い、やがて世界への適合が適わず絶滅した」
そのようにさりげなく言うものだから堪らずアルバントは笑ってしまう。
古代の地球では幻獣や精霊などと呼ばれる仮想と思われていた存在がいたというのだ。考古学者、生物学者、哲学者、科学者、多くの人間がその事実に驚愕するだろうに、この悪魔はさも当然というように話す。それがなんとも面白かったのだ。
「……彼らは人間とは異なる価値観をもつことが殆どだ。もしかすると、主の存在を正しく理解し寄り添ってくれる者もいるかもしれぬな」
そっと告げられた言葉。
その言葉にアルバントは食事の手を止めて目を見開いた。
「そ、れは。それは、すごく良いことを聞いたかもしれない。ロバイド、面倒だと思うけど人間以外の種族にもできるだけ会えるように手配してもらえるかい?」
「既に組み込んでいる」
元から予測はしていたのだろう。ロバイドが言った事にアルバントは「さすがだよ」と手を打ち鳴らす。
「そもそもではあるが、地球の人間と比べ、この世界の生物は比較的血と魂の格が高い。主と比較するには些細な差異でしかないだろうが、それでも主を徒に畏れぬ人間も現れるかもしれないな」
「そうだとしたら、僕はすごく嬉しいけど。でも、どうだろうね。人間は散々どうしようもないって地球で学んできたから。正直期待はしないけど縋りはすることにするよ」
第一、関所の兵士たちが既にアルバントを畏れる様子を見せているのだ。ならば、まだ見ぬ種族へ期待をかけたほうが精神的にも健全だろう。それでも、僅かばかりの可能性に縋るのは癖のようなものだろう。
その他、細かいことをロバイドは説明していく。人々の習慣や流行り、職業の種類、周囲の街についての情報、宗教、娯楽など。
そうして説明を受けていく中でアルバントにひとつの疑問が浮かぶ。
「そういえば、君たちはともかく、僕はこの世界の人間と問題なく意思の疎通ができているけど、これはどういった理屈なんだい?」
国が変われば言語が変わる、というのは珍しいことではない。これまで殆どを日本で過ごしてきたアルバントは満足に外国語を話せたことはない。そんな彼が国どころか世界も異なる場所にいるのに不自由なく話し、聞くことができるのはどうしてか。
「この世界の神がそのように定めたのだという。この世界に生きる者は知性と理性を備える限り、何者にも同様の言語を獲得する恩恵を賜る、というものだ」
「なんだかバベルの塔を思い出すね」
「似たようなものだ。地球では愚かにも神に迫らんとした。この世界ではそれを行わなかった。それだけの違いだ」
「それだけの違いで、本当に世界を歩きやすくなるとしみじみと思うよ」
恐らく、すべての人類が同じ言語を話していれば無駄な苦労もないだろうに、と考える者は多いに違いない。そんな人からすればこの世界は随分生きやすいと言えるだろう。
「神かぁ。実際、いるのかい?」
「いるのだろう。そうでなければ天界の存在価値はないようなものだ」
「そうなのかい? まぁ、どうせ会うことはないだろうし、いいか」
気付けばもう昼を過ぎていた。
「ねぇ、少し外を出歩いてみてもいいかい?」
アルバントがそう言うと、ロバイドは悩むように口を閉ざす。ロバイドとしてはそのまま安静にしてほしいのだろう。
すると、横合いからするりとネツァが言葉を挟んできた。
「よいではありませんの。ずっと部屋に籠るだけと言うのもつまらないでしょうし、ご主人様も興味があるようですから」
「貴殿が部屋に留まり続けたくないだけではないのか?」
ロバイドが睨むように問うと、「あらあら、どうでしょう」とネツァは笑ってごまかしていた。
嘆息をも漏らす音が聞こえる。
「……まぁ、少しならば主の負担になることもないだろう」
しぶしぶ、といった声音だが、ロバイドが外出許可をだしてくれた。
そもそも、本当に外に出たいのであれば従者たるロバイドに止める手立てはないだろう。それでも、自身を慮って言ってくれていたことなのだから、無理強いはせずに解決できる方が精神的にもよろしいだろう。
「ありがとう」
そう言って、アルバントは空になった食器にスプーンを落とした。
そして、僕は心臓を差し出した 雨草悠々亭 @saayu
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