序章_4 そして、少年は眠りについた

 安宿の一室。部屋はもう暗くなり、カンテラの光のみが静かに部屋を照らしている。

 アルバントが年季の入った、木で組まれたベッドに腰かけると、きぃ、ときしむ音がする。


「結構雰囲気があるね。なんだか、海外旅行に行った気分だよ」

「それは重畳。しかし、海外旅行というのは間違いという訳でもないだろう」


 事実、世界は違えど、日本以外の国という観点からは外国と同じと言える。

 落ち着いた場所に来て安心でもしたのだろうか、腹に手を当てると、きゅう、と音がする。


「まぁ、貧血が酷かったからなぁ」

「食堂に行くのもその体では酷だろう、何か食事を用意させよう」


 アルバントのつぶやきに応じて、ロバイドは頷き、部屋を出ていった。

 それを見送ってからネツァが「ふふっ」と笑う。


「なんだい?」

「いえ、大鷲の君も備えに不足した場面に遭うと顔を顰めるようになるのが面白おかしく思いまして」


 恐らくネツァの言うことは、宿をとる際の受付での出来事のことだろう。

 ロバイドの契約の後、すぐさまこの世界にきたアルバント達は当然ながらこの世界の通貨を所持していない。そこでロバイドはどこから取り出したのか、宝石一つを通過代わりに支払ったのだ。勿論受付をした女将は目を丸くした。目立たないようにするロバイドにとって、宝石で支払うという行為は豪奢な馬車しか用意できなかったこと同様、良い考えとは思っていないだろう。横顔をみると確かに彼は少し渋るような顔をしていたのを覚えている。


「それは申し訳ないことをしたかな。少し待ってあげればよかったかもしれない」

「ですけど、それを提案しなかった点で大鷲の君の落ち度と言えますわ。わたくしとしては、大鷲の君があのように上手くいかないことを気にするのは中々みませんから面白いですけど」


 ネツァの言葉を受け、アルバントはロバイドについて記された書物の内容を思い出す。

 ロバイド。伯爵階級にして”智を備え、あらゆる位置を把握し、あらゆる過去を見通す”職能を持つ悪魔。大鷲の顔と猿の手、蜥蜴の尻尾を持ちながらも人の姿をした高貴なる存在。8の軍団を従え、冥界のカルパドクの枯れ地一帯における総指揮官。


『かの悪魔の最たる特長はその誠実さにある。悪魔とは普遍に傲慢であり、狡猾、悪徳であり、栄華を極めたソロモンでさえその特性を鑑み、72柱の王侯を真鍮器に封じ込めた。されど、かの伯爵は契約を重んじ、召喚者への誠実さを示さんとする。かつて、伯爵と契約した者にはクリル=ファーネア、トロント=ロッガルドなどがおり、彼らもまた自身の日記において、その誠実さを指摘している』


『伯爵はあらゆる過去を見通す一方で未来を見通す力は備えていない。それ故、かの悪魔は何事も事前の備えを召喚者に告げている。伯爵自身先の見通しを立て行動することが殆どであり、当時性急な性格であったクリルはその都度行いを諫められ、「あの悪魔の、一歩ごとに石橋の建付けを確認するような性格だけが不満だった」と述べている』


「もしかして、あの時、少し慌てたりしてたのかな」


 そっと呟く。

 契約を交わした後、ロバイドは決して異世界への準備を促すことはしなかった。


「どうなのでしょうね。ですけど、わたくしでしたら慌てていたでしょうね。だって、ご主人様は今の時代、恐らくどの世界にも存在しないような高貴な血と魂を持つお方。ご主人様と契約を交わすということはそうですわね……人の世で言う、突然宝くじにあたるような感覚でしょうか」

「それは表現が陳腐な感じになってしまうかな……」


 アルバントが苦笑するとネツァは含み笑いを返す。


「大鷲の君とは旧くからの知己でありますけど、いつも飄々淡々としておりましたから、本当に楽しいですわ。恐らく翌日までには今日のような顔を見せることはなくなるでしょうけど」


 そうなのだろう。事前の準備を行動の前提とするならば、この夜の間に必要な準備は終わらせるかもしれない。その準備がどれほどの規模であるのか、何を準備するのかは分からないが、あの伯爵悪魔であれば確実に調えるだろうという信頼が不思議とあった。

「今戻った」とプレートを持って部屋の扉を開けたロバイド。彼を見てネツァはやはり笑みをこぼしていた。

 嗅ぎなれない食事の匂いに腹を空かしながら、アルバントは苦笑した。


 ・

 ・


 食事の後、アルバントはベッドに寝かされていた。


「主よ、見えぬ疲れはあるものだ。今は睡眠も必要だろう」

「わたくしなら疲れも癒すことはできますけど、おすすめはしませんわ。何事も自然の摂理に従うことが良いというのは確かでしょうから」


 そのように言う悪魔2体がいたからだ。


「まぁ、そうなのかもしれないけど……生憎と、僕は中々眠ることができない体でね」


 恐らく、ロバイドを喚ぶまでの無茶で自律神経をおかしくしてしまったのだろう。目の下に隈があるのはうつや絶望、精神的な苦痛もあるのかもしれないが、一番に影響があるのは不眠症の為だろう。


「それでしたら、わたくしにお任せくださいませ」


 ふと、ネツァはしわがれた3本目の手をアルバントの顔の前に移動させる。

「ネツァ?」と聞くまでの束の間にしわがれた手から甘い香りがした。それは、今様色の花園を思い起こさせ、体が自然と緩んでいくのを感じる。視界がくらくらとしはじめ、続いて視界が点滅する。

 体が浮くような感覚。段々と瞼が下がってきていることまでを自覚したところで、アルバントは静かに眠りについた。


 ・

 ・


 悪魔2体の仕える主がすう、と寝息を立てている。あどけない、少年の顔だ。目の隈を除けば。今まで随分と根を詰めていたのだろう。きっと揺り動かしても起きることはないとネツァは感じた。

 そんな今日契約したばかりの主人を愛おしそうな目で眺める。


「本当に、今日一日じゃとても足らないくらいにお美しい方……」


 アルバントは確かに地球において美少年であった。影で女子が憧れ、男子からは嫉妬を買い、されど、アルバント自身が持つ気品には誰もが畏れを抱くしかなかった。

 しかし、ネツァの言う美しさとは顔のことを言っているのではない。その魂、血の一滴に至るまで持つ高貴な格。そうして紡ぎだされる黄金色の魔力。それはいわば世界有数の宝石だ。人間の赤子は美しいものを見ると口に入れてしまうことがあると聞くが、その気持ちはネツァも痛いほどに理解できた。

 今までは主の手前、不躾に視線を向けることは控えていたが、こうして眠っている今、遠慮することは何もなかった。先ほどアルバントに疲れを癒すことはすすめない、と述べたが、実のところ、ネツァの力で癒してしまうと、このように眺める機会を失ってしまうと考えたから、というのが大部分を占めていたりする。


「……今様色の花園の姫君、気持ちは理解できなくもないが、その前にしなければならぬことがある」

「もう少し、と言いたいですけど、もう……」


 横合いからの声に不満たらたらの姿勢でロバイドに顔を向ける。


「ご主人様の過去を共有するのですわね? 一体、いつの間にご主人様に触れたのかしら」

「この世界に来た際、貴殿を喚ぶ前に主の過去を見通した」


 旧くからの知己だ。数多の戦と交流の中で、ネツァはロバイドの職能についてそれなりの知識があると自負している。

 ロバイドの”智を備え、あらゆる位置を把握し、あらゆる過去を見通す”職能。位置に関しては殆ど制約はないが、過去の見通しについてはその者の体に触れなければならないという制約がある。遠い過去になるほど触れなければならない時間は増すため、相手に気づかれずに過去を見通すためには相手が睡眠中などでなければならない。


「まぁ、恐ろしい方。その間、ご主人様は残り少ない血を必死に流していたでしょうに」

「これも主との契約を確実に果たすための手段だ。いや、貴殿ならば問題ないと信頼していた、と述べたほうが喜ばしいだろう?」


 ネツァは肩を竦めることで返答する。上手いこと返されてしまった。


「それじゃあ、お願いしますわ。わたくしも、ご主人様の過去には興味がありますから」


 ロバイドからも、返答は言葉でなく行動だった。

 そっとネツァはの額にロバイドの指を当てる。

 瞬間、脳内に流れ込むアルバントの過去の情報。彼の生年月日、家族構成、育成傾向、人間関係、欲望、トラウマ、喜怒哀楽、心理的状態、思考傾向、性癖、知能水準、行動履歴……恐らく、初めてこれを経験した者ならばあまりの情報量に目を回しているか、気分を悪くしていただろう。しかし、ネツァは何度かロバイドから他者の過去を共有されたことがある。そのため、自然に情報を整理し、欲につながる道筋を辿っていく。 


「ふうん……そうでしたの」


 悪魔が人間に抱く情はさして存在しない。それは、悪魔にとって人間とは糧、つまりは餌であるためだ。人間が目の前の食材に情愛を殆ど感じないように、悪魔もまた人間に情愛を感じることは殆どない。

 それでも、今回は訳が違う。ネツァもロバイドもアルバントをただの契約者ではなく主として仕えている。主が侮辱された過去には怒りを感じ、絶望した過去には同情を感じるのは、従者として自然なことであるだろう。


「整理はついたようだな」

「ええ、貴方からは何度もしていただきましたから。さすがになれるというものでしょう?」

「それは重畳」


 ロバイドは頷く。

 彼もこの過去は知っている。そう考えると、つい口から言葉が漏れた。


「大鷲の君はこの過去を知って何か思うことはあったのかしら」

「さて。私は契約の忠実に履行するだけのこと」


 湧いた疑問には端的にそう返されるだけ。


「素直じゃありませんのね」


 誠実さを信念とする彼だ。他の悪魔よりは道徳的であるだろう。ネツァがアルバントに対して感情を抱いたのに、ロバイドが抱かないなんてことはあるだろうか。

 まったく、といった様子でネツァは目を細める。


「それよりも——」


 ロバイドが虚空を見詰めていた。

 いや、その視線は壁の向こうを見詰めていた。


「3人。我々の姿に金を見出した愚者どもだろう。それとも、どこからか面倒な話が漏れたか」

「でしたら、わたくしが処理しておきますわ。貴方も、この夜にしなくてはいけないことがあるのでしょう?」


 言外に事前準備をしたいのではないか、と伝えると、一瞬考えたであろうロバイドは「……任せる」と次の瞬間その姿を消す。

 安らかな寝息を立てるアルバントと2人きりの部屋。本当ならば、朝になるまでずっと見つめていたかったが……


「まずは、愚か者を片付けないといけませんわね。どうせなら勿体ないですし、魂も食べてしまいたかったのですけど。ただ、魂の扱いは死神にしか許されおりませんし……世知辛い世の中ですわねぇ」


 そうして、ネツァもまた虚空に姿を消した。

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