かさこじぞうを思い出して

にほんしゅ

これはひねくれもののくだらない考えです。

 先日、ひょんなことから「かさこじぞう」を思い出したんですよね。ご存知の方も多いと思います。簡単にあらすじを書くと、その日暮らしの老夫婦が正月の準備のために笠を編んでお金を稼ごうとします。おじいさんが正月前の市に出て笠を売ろうとしますが売れません。仕方なく家に帰ろうと歩いていると、野ざらしで雪が積もってしまった6体のお地蔵様が。おじいさんはかわいそうに思い売れ残った笠をかぶせてあげます。笠が足りなくて自分の手ぬぐいもあげてしまいます。そうした後に手ぶらで帰るわけです。おばあさんはおじいさんに対して暴言を吐くわけでもなく、良いことをしたと労って床に就きます。その夜、物音で目を覚ました夫婦は奇妙な歌を聞きます。様子を伺っていると、家の前に何かを置いた音がし、歌声は離れていきます。見てみると家の前にたくさんの食料と財宝がありました。そして遠くにおじいさんの手ぬぐいと笠をかぶった集団が歩いていました。それを見届けた老夫婦はめでたいお正月を迎えましたとさ。まあ、幾つかバリエーションはあるみたいですが、私が教科書で読んだときはこんな感じでした。

 


 確か最後に読んだのは小学生だったと思います。小学生の時に読んだ話で覚えているのはこれともう一つだけです。ちなみにもう一つはそんなことあるか?って物語でして、ケチをつけたから覚えているだけです。そういった意味ではかさこじぞうは面白かったんでしょう。だから思い出したときにへんてこなことを考えたんでしょうか。

 何が言いたいかと言えば、あのお地蔵さまたちはどっからあの財宝やら食料を持って来たんでしょうか?すごく野暮な話ですけれど。普通に考えればお地蔵様の不思議なパワーで出てきたんでしょう。そしたら一つ気になることがありまして、じゃあ持ってくる必要ないじゃんと。不思議なパワーで家の前に置けばよいのではと思うんですよね。可能性としては、宅配機能が無いか、やたらと自己顕示欲の高いお地蔵様か。宅配機能に関して私は否定的なんですよね。物を生み出せるのにそれが出来ないからえっちらおっちら運ぶというのが……。こうやくんみたいなのが運んでたらそれはそれでかわいいですけれどなんか違う気がします。

 では自己顕示欲ですか?これは違うと信じたい。そんなのがあるのにお地蔵様はだめでしょう。仮にそんなお地蔵様があるんならもっと立つ場所は考えるでしょう。それこそ清水寺とかでしょうか。まあ、それ以前に不思議な力を使えと思いますが。

 不思議なパワーでないなら、金銀財宝はお供え物かもしれませんね。どれほどの量かはわかりませんが、かなりあったと記憶しています。野ざらしのお地蔵様はそんなにため込んでいたのかとも思います。少なくとも一年分はありそうなほど運んでいました。税金大変そうだなあなんてことは当時全く思っておりませんでしたが、今は少し思っています。宗教法人なら税金面で優遇されますが。

 食料はわかりません。お米は保存できますが、米俵を供える人っているんでしょうか。お餅は正月限定だと思いますがこれもわかりません。案外、お金で買ったのかもしれませんね。



 実はもう一つへんてこなことを考えまして、老夫婦はなぜに置いてあった財宝や食料を躊躇わずに使ったんでしょうか。深夜寝ている時に不思議な歌と物音で目を覚まし、お地蔵様が帰るまで何が起きているかわかっていなかったはずなんですよね。帰ってから何があったのかをある程度把握するわけです。もしかしたらお地蔵様が来たのかもしれないと思う大きな理由は、おじいさんが笠が足りなくてあげた自分のつぎはぎだらけの手ぬぐいを遠くに見たからです。それだけで信じるというのは本当に信仰心に篤かったんだろうと思います。もう数日早かったらキリスト教徒になっていたでしょう。

 冗談はともかく、怖くないですか。皆さんのご自宅に深夜突然歌を歌う集団が荷物を置いて去って行ったわけです。この時代に警察だのテロだのという概念は無いかもしれませんが、人ならざる者が置いて行った可能性が高いわけですよ。もっとも、この老夫婦が非常に貧しいということは考慮する必要がありますが、それでも腑に落ちないなぁと思ったのであります。



 私が思ったことは間違いなく野暮なことですし、面倒くさいことだと思います。まあ、だからこそ、ひねくれもののくだらない考えなんですが、こういう読み方をした方はどれくらいいたんでしょうか。私みたいな人とは映画を一緒に見ても楽しくないと思いますが、多様な見方は大事だとも自己弁護しておきたいと思います。

 さて、私みたいな見方というのは小学生のときに先生の前で開陳すると、とんでもない目に遭うこともあるそうですね。学校というのは社会性であったり共通の価値観を養成しますから、ある意味では当然なのかもしれません。かさこじぞうを読んでかわいくないことを考えたのが先日の私ではなく、小学生の私であればかわいげのない子だと自嘲しただろうとも思います。しかしながら、自分が野暮なことを考える、周りとは少し違うことがある種のステータスだと思っていた時期が誰しもあったと思います。いわゆる中二病とも呼ばれるものですが、なんだかんだと気が付けば周りと同じことに安心する訳です。



 いい加減にまとめろという声が聞こえてきそうですので着地点を目指します。

 人って違うものを求めるじゃないですか。何事でもそうです。就活では個性を出せと。その一方でスーツを同じように着こなせとか。私はスーツでよかったと思ってる人ですが、理由は考えるのが面倒だからなんですよね。面接の内容をどれだけ個性を出すか頑張ってるのに服装で変なことになりたくない訳です。絶対安定な価値観を持ちつつ、うまいことそのラインから魅力的な外れ方をする。それが就活です。働いてからも、基本的には他者との違いが重視されます。しかしその違いも明後日の方向なら困るのです。魅力的な外れ方をしないとウケナイんですよね。もちろんそれだけじゃありませんがね。お仕事にもよります。

 人と違うことがステータスなお年頃は終わったのに、違うことが求められる。一方で違うことをすると協調性が無い。かさこじぞうのお話も、良いことをしましょうという教育的観点や、各地の土着的なお地蔵様への信仰から伝わったという話があるそうです。この話を否定するのはひねくれているでしょう。やはり何となく言いづらい。

 んー、いつから他人と違うのが怖くなったっけ?って思いながらかさこじぞうを思い出しています。別に日本の教育がどうとか言うつもりは全くありません。単純に人間ってそういうものだと思います。どうにかなるものでもないでしょう。この野暮な考えが小説書くうえで活かせないかなぁと考えるだけです。

 

 他人と違うのが何となく怖いので、ネットの隅っこでかさこじぞうの野暮な考えを垂れ流しながら高尚なようで薄っぺらいことを考えてみました。

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