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限りなく負けに近い引き分け

 先日、とある人の小説を読みました。カクヨムにありますが、あえてここでは名前を出しません。

 察しの良い方はお判りでしょう。タイトルどおりです。私には書けない。私はかなり書くのが遅く、私の小説欄を見ていただければ分かるとおりです。言い訳をさせていただけるなら、一応書いています。気に入らないとか、オチまでの道筋で悩むなどしていますが、一つたりとも投げ出したとは思っておりません。そのうえで言います。

 無理だ。

 あんまりにもひどい話で笑えますが、読んですぐにそう思いました。
 平たく言うと私の頭の悪さが露呈したとでも言いましょうか。構成能力にまず違いがあり、表現力にも違いがあった。
 こんなところでそんな内省的な話をされても困るでしょうか。
 
 まあ、人それぞれ得意分野はあります。しかしながら、すべてが不得意という壊滅的な人間もいるわけです。私の敬愛する森見登美彦氏の小説、四畳半神話大系に出てくる「私」が、非常に卑屈でプライドだけは高い残念なキャラという点で同じでしょうか。しかし、あれは見る人を打ち抜く人間的な魅力、「私」視点で軽妙に飛び出す豊かな語彙力のおかげで、卑屈な中にも彼に共感し、応援したくなるそういった魅力にあふれているわけです。

 こんなろくに小説を書きもしないミジンコでは到底達しえない境地。そこまでとは言わなくても、その人の小説にはきれいな、人間的な魅力があるように感じられたのです。

 ではなぜ、「限りなく負けに近い引き分け」なのかと言うと、某小説のタイトルに引き寄せられたわけではなく、当然に私の意地であり、次は圧倒してやるという非常に見る者をやるせなく、いたたまれない気持ちにさせる抗議文なのです。

 これを読んだ方が思ったことは想像に難くないですが、これ以上は私が死んでしまいますので聞きません。

 一つ一つの言葉にもう少し意識を向け、こんなくだらない駄文ではなく意味のある文章を書きましょうと、義務教育にカリキュラムとして組まれていないのが残念でなりません。もしかしたら常識だと思って、官僚の方は含めなかったのかもしれませんが、非常識なバカもいるということを覚えておいてもらいたいものです。

 失礼話がそれました。
 見る人が面白いと思えばそれで一つの完成形だとは思いつつ、そもそも面白くないうえに完成させられず、理想とのギャップで悶えるのもつらいものです。そしてその発散としてこんな文章を出力されるデバイスやサーバー、そしてお目汚しされる皆様のことを考えると、罰が当たるかもしれませんが、どうしても書いておきたいと思い、こんな犯行に及んだ次第です。

 きっと数年後、こんな気持ちの悪い文章を書いた私は、私からの呪詛の言葉で悶え死ぬかもしれませんが、こんな大きな大きなネットの海では些末な出来事なのでしょう。

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