ソロルの歌とハンカチーフ
八島清聡
第1話 ソロルの歌とハンカチーフ
随分と大きな星だ……と翔太は空を見上げながらぼんやり思った。
しかし、よくよく目を凝らせば、星は横断歩道の先にある信号機だった。
それは、チカチカと点滅しながら赤から青に切り替わった。
翔太は信号を数秒見つめた後、ふらふらと歩きだした。
一歩踏み出すたびに、視界がぐらぐらと揺れる。足もとはふわふわして雲の上を歩いているようだ。
「あ~どいつもこいつもよォ……」
もごもごと毒づきながらも、彼にもかすかに自覚はあった。
今夜はいささか飲みすぎてしまったようだ、と。
今さっき出た店が確か三軒目……いや、四軒目だったか。
腕時計を見れば午前二時。
寂れた地方都市の、寂れた繁華街の人通りはとうに絶えている。
翔太は行くあてもなく、ふらふらと通りをさまよった。
不意に人の声が聞こえてきた。甲高い女の声だった。
ゴミ袋が積み上がった路地裏をのぞき込むと、複数の影が見えた。
十代とおぼしき若い男が三人、それから女が二人ほどいた。
翔太は、ヘヘ……と下卑た声を洩らした。
何も考えずに男の一人に近づくと、肩に馴れ馴れしく手を置いた。
酒くさい息を吐きながら彼は言った。
「なんだよお前ら。楽しそうじゃねえか。俺もさァ、混ぜてくれよォ……」
「あ? なんだテメ」
と、男は露骨に顔をしかめた。
「いいじゃねえかよォ。俺と一緒に飲もうぜェ~なあなあなあ!」
尚も肩を揺さぶりながら絡むと、
「キモ」
と女が短く吐き捨てた。同時に、男は肩に置かれた手を乱暴に振り払った。
翔太はよろけ、男たちに向かって毒づいた。
「へっ、小便くせぇガキどもが。チャラチャラしやがって、死ねよ」
「ハ?」
次の瞬間、ヒュンと風を切る音がして、翔太の鼻に鈍い痛みが走った。
さらに思いっきり腹を蹴られた。
翔太はぐっと呻き、その場に倒れた。鼻からは生温かい液体があふれ、口もとを濡らしていく。
「ウゼ。マジウゼ~」
「何このおっさん。お前の知り合い?」
「んなわけねーだろ」
さらにドン、ドンと何度も顔と胸を蹴られる。
翔太はゲホゲホと咽せ、先程飲んだばかりの酒を戻してしまった。
辺りには酒の匂いが広がった。キャハハハと、女たちは笑った。
「ちょっと、やだ。やめなよぉ! 汚いし。も~ほっときなって」
「これくらいで死にゃしねーよ」
と言いつつも、男たちはコンクリートに円状に広がっていく血に怖じ気づいたようだった。
翔太から距離を取ると、忌々しげに舌打ちし、彼を置いて足早に去っていった。
「ち、くしょ……」
男たちが行ってしまった後、翔太はなんとか起き上がろうとした。
アルコールと出血のためか意識が朦朧とする。
とにかく鼻血を止めなくては……と思い、上を向いた。
上を向いたままで立ち上がり、二、三歩後ろに下がって、ゴミ袋の上にどうっと倒れた。薄白い蛍光灯の光が、情けない姿を照らしだした。
「あ~」
と翔太は小さく呻いた。かざした右手は微細に震えていた。
脳裏に浮かんだのは、一通の簡潔な通知書だった。
続いて、同じゼミ仲間から向けられた憐れみの視線。そして、「バイバイ」と言った彼女の、冷たく醒めきった顔。
「……ヤベ」
翔太は呟きながら、目を閉じた。
まったくもって今日は最悪の日だ。最悪の夜だ。
もう何もかもがどうでもいい。
このまま寒空の下でのたれ死んでもいいと思った。どうにも自暴自棄になっていた。
「ねーねーあんた。こんなとこでさ、何してんの。大丈夫?」
―?遠くから、それとも近くからか、声が聞こえる。
翔太は声に気がつくと目を開け、軽く頭を持ち上げた。
視界に丸みを帯びたものが映る。
自分のすぐ傍に女がしゃがみこんでいた。
翔太は目を凝らした。
茶色のウェーブがかった髪にぱっちりとした瞳。胸元が大きく開いたピンクのミニワンピースの上に白のガウンを着て、黒のロングブーツを履いている。化粧は濃いものの、かなりの美人だった。
年齢は翔太とさほど変わらないようだ。仕事帰りのOLや大学生……のようには見えない。
「ひどい血じゃない」
女は膝に抱えたバッグからヴェルサーチのハンカチを取り出し、翔太の鼻に当てた。そのままハンカチをぎゅっと握らせた。
「喧嘩でもしたの?」
人懐っこい声に翔太は戸惑いながらも、ハンカチで鼻血をぬぐった。
血は乾いていなかった。殴られて倒れてから時間はそれほど経っていないようだ。
「喧嘩……?」
冷気のせいか、血が沢山出たのが良かったのか、翔太は冷静に自分の行動を振り返った。。
たむろっていた地元の連中に自分から絡んでいって殴られただけとわかると、急に羞恥がこみ上げてきた。
「いや、そうじゃないっていうか、なんかムシャクシャしてて。あ、でも違う。殴られたし蹴られたけど、俺がよくなかった……部分もあると思う」
「ふーん」
女はゆっくりと立ち上がった。
翔太は鼻からハンカチを離した。ブランドものらしきハンカチが自分の血で真っ赤に染まっている。
「あの、すみません。このハンカチ、弁償しますので」
「いいよ別に。貰いものだし」
「でも、悪いですから……本当に」
しょんぼりとする翔太に、女は微笑んだ。
「さっきまでとは全然違うねぇ。酒飲むと豹変するタイプ?」
「そんなことは……ない、かな……?」
と言いつつ、翔太は自分の酒癖の悪さを知らないわけではなかった。
普段は礼儀正しく真面目な性格で通っているが、酒が入ると人が変わってしまい、大抵面倒なことになる。しかも記憶だけはしっかり残り、後日猛烈に後悔するのが常だった。
「あんた、学生?」
「はい。大学四年です」
「じゃ成人してるか。でもちょっと血出すぎだし、念のため通報しよう」
「いや、そこまでは……ちょっと。勘弁してください」
警察沙汰なんてとんでもないと翔太は慌てた。病院にも行きたくなかった。
しかし、女は「ダメ」と強く言いきった。
「あんたが良くてもさ、何かあったらこっちが困るの。最近はこの辺も物騒だし、事件があったんだから。怪我した子を放置して、死なれでもしたら最悪。寝覚め悪すぎ」
「そんな、大袈裟ですよ……」
「大袈裟じゃない。あんたが気づいてないだけで頭打ってたり、鼻の骨が折れてるかもしれないじゃん」
「折れてませんて。たぶん……」
「その顔も今すぐ写メった方がいいよ。証拠になるから」
「シャメ? えっと事件にする気も、犯人探しする気もないんで……」
「でも手当くらいはしないと。いいから携帯出して。私が電話する」
翔太は言われるままズボンのポケットを探り、スマートフォンを差し出した。女は翔太のスマートフォンをしげしげと眺めた。
「あ~これか。ボタンがないのは使いにくくない? 間違ったところ押しそうだしさ」
「そうですか?」
女はおっかなびっくりタッチパネルに触れ、なんとか110番した。
怪我人がいると告げると救急車も来るという。
それを聞いて翔太はハアと大きく溜息をついた。まさかこんな大ごとになるとは……自業自得の部分もあるが、今夜はついてない。
とにかく助けてもらったお礼はしなければと思い、女に言った。
「あの、本当にありがとうございます。迷惑かけてしまってすみません。今度ちゃんとお礼をさせてください。名前と連絡先も……ラインやメッセンジャーでいいんで」
「お礼? そんなのいいのに。私? 私はミカ」
「……ミカさん」
「つっても源氏名だけど」
ミカはどうやら水商売の仕事をしているようだ。
彼女は続けて言った。
「ごめん、名刺は切らしてるんだ。でも職場は近いよ。この通りをまっすぐ行くと、T字路に郵便局があってね、その隣のビルの地下にある『ソロル』が私の店なんだ。バーなの。良かったら今度遊びに来て」
「バーのオーナーさんなんですか? すごいな」
ミカはそこで翔太から視線を外し、空を仰ぎ見た。
「まーね。半分だけど」
「半分?」
「店の権利は半分しか持ってないの。あとは、ハンシンのもの」
「ハンシンて?」
「からだの半分の、半身」
なんじゃそりゃ、と翔太は思った。
また鼻血が出てきてしまい、慌ててハンカチで押さえる。
「えっと、それって……つまり『男の人がいる』って意味ですか?」
男性であるならば、彼氏、恋人、パートナー、つまり男女の仲にある人との共同経営ということだろうか。もしくはバーの出資者、パトロンのことかもしれない。
ミカはフフフと意味深に笑った。
「……そういう色気のある話だったら良かったね」
その時、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
ミカは顔を強張らせると、さっと身を翻した。
「パトカーも救急車も来たみたい。じゃ、私は行くね」
ミカは手を振りながら、軽快な足取りで大通りの先へと歩いていった。
どうやらこの場に留まり、警察まで付き合ってくれるわけではないようだ。
去りゆくミカの背中を、翔太はじっと見つめた。
ミカはゆっくりと歩きながら、上機嫌に歌を歌っている。
「金色の星、銀色の星、二つはいつも……」
童謡のようだが、聞いたことのない歌だった。
不思議な女の、不思議な歌が、ゆるりと闇に溶けていった。
***
翌日の昼、翔太は自宅アパートのベッドの上で目を覚ました。
まだ頭が少し痛かったが、アルコールはすっかり抜けていた。
酔いが醒めると、彼の肩には苦しい現実ばかりが重くのしかかってきた。
翔太は奨学金をもらって大学に進み、弁護士になるために四年間必死に勉強してきた。しかし、努力は報われず法科大学院の受験には失敗してしまった。大学院に落ちたからには卒業後の行き場はない。今からでは就職活動も難しく、浪人するにしても金がかかる。八方ふさがりだった。
どうすればいいのか悩み、不安と焦りから愚痴ってばかりいたら同級生の彼女にも振られてしまった。
もっとも、彼女はかなり前から同じゼミの男と浮気しており、翔太は影で笑いものにされていたのだが……。
浮気を知ってすっかりヤケになった翔太は浴びるように酒を飲み、男たちに絡んで殴られ……通りすがりのミカの通報により、病院で手当てを受けた。幸いにも鼻の骨は折れておらず、胸も腹も捻挫程度ですんだ。
その後、警察署へ行って事情聴取を受け、自宅に帰ったのは午前五時近くだった。本当に散々な夜だった。
翔太は昨夜のことを思い出しながら、ズボンのポケットを探った。
ミカから借りた、そしてもはや返せないほど汚れたハンカチがあるはずだった。金と黒の鎖の模様が目立つ派手なハンカチだった。
しかし、ポケットは空だった。
「あれ? おかしいな」
捨てたはずはない、どこかで落としたのだろうかと翔太は訝しんだ。
あのハンカチは、病院についた後もずっと握りしめていたのに……。
財布やスマートフォンはすぐに見つかった。
スマートフォンの履歴を見ると、確かに深夜の二時二十二分に110番している。あれは夢ではない、彼女は確かにあの場にいた。
翔太はミカの言っていたことを思い出し、ネットで「バー ソロル」と検索した。
昨日繰り出した繁華街の近くに、バー「ソロル」は存在していた。
入れ替わりが激しいあの界隈では、長年地元民に親しまれている店らしい。昼の営業はしておらず、開店は夕方の五時だった。
翔太はソロルの存在に深く安堵した。店に行けばミカと会えると思うと嬉しかった。
それから彼は勢いよく起き上がった。
シャワーを浴びたらショッピングセンターに行き、女性用のハンカチと菓子折りを買うつもりだった。
日が落ちて、バー「ソロル」に灯りがともった。
開店して十五分ほどした頃、コートを着た中年の男が店に入っていった。
店内は酒を飲むにはそぐわない童謡のような歌が流れていた。
『金色の星、銀色の星、二つはいつも同じ、離れても同じ……』
不思議なBGMを聞きながら男はカウンターに腰掛けた。
一呼吸おいて、カウンターの奥で手を合わせている着物姿のママに声をかけた。
「やあ、ママ。……って呼んでいいのかな。浅田さんの方がいいですかね」
ママは声に振り向き、男の顔を見て微笑んだ。
「あら、木下さん。いらっしゃい。随分とお久しぶりですね。お店に来てくださるなんて……。私のことはなんとでも呼んでください。あ、でも仕事中だからママの方がいいかも」
木下は頷き、ウイスキーのロックを注文した。
琥珀色の液体を湛えたグラスを差し出しながら、ママは尋ねた。
「どうです? あの後、進展はありましたか」
「いえ、それが相変わらず手がかりはなく。犯人の足取りは消えたままです」
「そうですか……」
「まことに面目ない。さらには……どうも来月には捜査が打ち切りになるようなんです。それでお詫びに来たというか、なんと言ってよいのやら」
「いいえ、謝らないでください。思えば、もう長いことたちますものね。残念ですけれども、木下さんには感謝しています。本当にお世話になりました。署に足繁く通った日々が懐かしいです」
ママは深々と頭を下げ、諦めたように首を横に振った。
木下はしきりに恐縮し、薄くなった頭をかいた。
「本当にひどい話だ。いまだにこんなひどい事件を担当したことはありません。怪我した人を助けようとしたら、まさか指名手配中の殺人犯とはね。それも前科六犯の極悪非道で、口封じにめった刺し……。そして仏さんは一週間も見つからなかった。やりきれないですよ」
「そういう人なんです。困っている人を見たら、誰であっても放っておけなくて。それが仇になったのでしょう」
「あの事件以来、あなたはこのお店を一人で切り盛りされてきた。さぞかしご苦労もあったでしょう」
「ええ、まあ……それなりに。たぶん木下さんが想像されている苦労とは少し違うかもしれませんが」
ママは少し困惑気味に答えた。二人はこうべを垂れ、しばらく沈黙した。神妙な空気が流れた。
そこにバーの扉が開き、新たな客が入ってきた。翔太だった。
木下は翔太を見ると、さっとグラスを飲み干し、二千円を置いて店を出ていった。元々長居をするつもりはなく、またママとの会話を他の客に聞かれたくなかった。
翔太は、ママを見るとハッとした。
今日は落ち着いた着物姿だが、まぎれもなく昨夜(今朝)会ったミカ本人だった。
再会が叶って嬉しかったが、彼はすぐに気がついた。
ミカは確かに美しかったが、その目尻や口もとには幾つもの皺が刻まれていた。彼女は翔太よりもかなり年上の中年女性だったのだ。昨夜は若々しい服装と化粧で同年代に見えただけか……と翔太は少しがっかりした。
それでも彼は気を取り直し、その場で頭を下げた。
「ミカさん、昨日は助けていただいてありがとうございました。おかげ様で助かりました。実はお借りしたハンカチは落としてしまったみたいで……申し訳ありません。どうかこれを代わりに受けとってください」
翔太は、持参したハンカチの包みと菓子折りをカウンターに置いた。
ママは包みを見て呆気にとられた。
「では、僕はこれで。バーなのに飲まなくてすみません。今日は失礼します」
翔太は礼だけ述べると、くるりと背を向けた。
店に入ったからには一杯くらいは飲んでいくのが礼儀だろうが、昨日の醜態を知られているのが恥ずかしかった。またうっかり悪酔いして迷惑をかけたくない気持ちもあった。
店を出る間際、翔太は店内に流れている歌に気がついた。どこかもの悲しくも優しいメロディだった。
『金色の星、銀色の星、二つはいつも同じ、別れても同じ……』
彼は思わずママに振り返って言った。
「そういえば……この歌は昨日も歌っていましたね。好きなんですね」
ママは翔太の瞳を見つめ、どこか寂しそうに言った。
「……ええ。この店のメインテーマみたいなものです。もう歌う人はいないのですが」
翔太が店を出ていくと、ママは壁の方に向き直った。
カウンターの後ろの壁はくくりつけの棚になっており、沢山のボトルが並んでいる。
ボトルに挟まれた隙間に、隠れるようにして小さな写真が飾られていた。
写真には、笑顔のミカが写っている。
その前には、菊を挿した一輪挿しと、茶色く変色してしまったヴェルサーチのハンカチが置かれていた。
写真を見つめながら、ママは呆れたように呟いた。
「姉さん、またお節介したのね……」
【了】
ソロルの歌とハンカチーフ 八島清聡 @y_kiyoaki
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