夜の散歩

カユウ

短編 夜の散歩

静謐な空気。

住宅街とはいえ昼間には見かける人たちも、こんな夜遅い時間には誰もいない。

午前2時。

前までなら、すでに寝ていた時間。


「あー、なんでだよ……」


小声でついた悪態とともに口から出た息が白い。

今や、外に出るときの必需品となってしまったマスク。

だが、誰もいない夜ならつけなくてもいいだろう。

それに、マスクをしていると自分の呼気でメガネがくもるのが困る。

旧友にならって、コンタクトにするのがいいだろうか。

とはいえ、つけ外しの手間を考えるとメガネのままがいいとも思う。


「毎回思うけど、意外と星が見えるんだよな」


赤信号で立ち止まったときに見上げた星空。

街の灯りがあっても、明るい星がいくつか見える。

青信号だ。

視界の下側で信号が青に変わった。

歩き出す前に、コートをひっぱって中をのぞき込む。

ダメだ、まだ歩かないといけないようだ。


「いつもこの辺だっただろ。なんで今日はまだなんだよ……」


つい文句が口をついて出る。

文句を言ったところで、何も変わりはしない。

歩き出しはゆっくりめに。

少しずつ歩幅を広げて、足の動きを大きくしていく。

まるで自分が車になったかと思う。

別の視点で見れば、移動手段という意味で車と自分は同じ枠に入るだろう。


「やっぱり靴用の使い捨てカイロ、買っといたほうがよかったかも。足先の感覚ないわー」


ふと、昼間に通りかかったドラッグストアの店頭で売られていた使い捨てカイロを思い出す。

つけっぱなしにしていたテレビで流れていた天気予報では、最低気温が 5 ℃と言っていたような気がする。

そんな中、スウェットにコートだけで外にいるのが間違っているのだ。

キャンバス地のスリッポンでは、寒さはしのげない。

寒い。

だが、走るわけにはいかない。

一定の歩幅、一定の速度を維持して、歩くしかないのだ。


「あんまり家から離れるわけにもいかないよな。そろそろ曲がっとくか」


目の前の交差点を左に曲がる。

目的地があるわけではない。

歩くことが目的のようなもので、最後は家に帰るのだ。

家から離れすぎると、目的を達成してから家に着くまでの時間がかかりすぎてしまう。

そろそろかと思い、再びコートをひっぱり、中をのぞき込む。


「頼むぜ、おい。そろそろ寝てくれよ。パパだって眠いんだから」


まどろんではいるが、まだ寝ていない我が子の顔。

オムツは変えた。

人工ミルクはあげた。

抱っこで揺らし続けるのが辛くなり、歩くことにした。

寝巻きにしているスウェットのまま、エルゴの抱っこ紐で娘を抱える。

そして、普段から使っているオーバーサイズのコートを着て外に出た。

息子のときにもやったこと。

とはいえ、20代と30代では身体の回復力が違う。

自分の気力体力がどんどん目減りしていくのを実感している。


「もう少しでママも帰ってくるからね。そしたら、桃矢と4人でお出かけしよう。だから今は寝ておくれ」


娘の春香に願うように話しかける。

春香を出産したとき、妻の体に異常が見つかった。

出産後の検査では、しばしば異常値が出ることもあるらしい。

後日、妻の体調が落ち着いたら改めて検査に来てほしいと言われていた。

だが、あわただしい日々の中、妻が病院に行く時間を作ることができなかった。


「『男が育休を取る必要はない。休んだところで夫にできることはない。だから外で働いてお金を稼ぐことが、奥さんと子供のためになる』なんて嘘だ。家庭を顧みなかった人たちの戯言なんだ」


春香が生まれて9ヶ月。

携わっていた案件の終了を狙い、1ヶ月間の有給休暇を申請した。

僕が休むことに否定的だった部長を黙らせたのは、僕が時々一緒に飲みに行っていた本部長だった。

『いいから休め、あとのことは任せろ』と。

本部長の後押しもあり、僕は有給休暇を取ることができた。

本当は育休のほうがよかったんだろうが、手続きに時間がかかること、支給される金額が給与より低いことから、有給休暇のほうがいいという話になった。

ほぼ毎年有給休暇を繰り越していたので、1ヶ月分使っても今後何かあったときでも対応できそう、ということも決め手の一つだ。

そうして僕が有給休暇を取ると同時に、妻は検査入院をすることになった。


「家にいれば、こうやって助け合うことができる。休めないことが、間違っているんだ」


まだ妻の検査結果は出ていない。

ただ、何らかの病気ではあるらしい。


「桃矢のときは、甘えすぎてた。家族なんだ。一緒に生きるんだ。僕は、結衣と、桃矢と、春香と、4人で生きたい」


いつの間にか、春香が寝ていた。

桃矢が起きてたら大変だ。

一人で寂しがってるかもしれない。

早足で帰ろう。


「春香もいつか、パパきらいって言うんだろうね。心身の成長を考えれば、言ってもらわなきゃ困るんだけど。なんて言われても、桃矢と春香の幸せを願っているよ」


とろけたような顔で寝る娘の顔をチラリと見る。

ぐっすり眠ってる。

いつかは反抗期になって、パパの服と一緒に洗わないで、なんて言われるんだろうな。

もしかしたら、口も聞いてもらえないかもしれない。

ちゃんと成長している証だから、もしそうなったらお祝いしないとね。


「結婚だけが幸せじゃないのはわかっているつもりだよ。もし結婚するのなら、家族を大事にする人を選んでほしい。春香を一番に考える人と結ばれてほしい。パパには、できなかったことだから。」


赤ちゃんを連れた夜の散歩。

いろいろな気持ちが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。

起きたら桃矢を学校に出して、買い物がてら春香と散歩しよう。

結衣に、桃矢と春香のツーショット写真を送りたい。

週末は母と弟が来て、結衣のお見舞いに行かせてくれることになっているから、それの準備もしなきゃ。

結衣と、桃矢と、春香。

僕自身よりも、うんと大事なもの。

3人には、幸せに過ごしてほしい。

僕は結衣の夫であり、桃矢と春香の父親だ。


さあ、これからもがんばろう!

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