パン屋の朝は早い
印田文明
パン屋の朝は早い
パン屋の朝は早い。
毎朝4時ごろには厨房に立ち、パンの下拵えを始める。
一見辛そうだけど、その分寝るのが早いので全く苦じゃない。むしろ健康的な生活で気に入ってさえいる。
私が働く『レオン・ベーカリー』は、祖父母が創った割と歴史あるパン屋さんだ。
昔ながらのメロンパン、チョココロネなどの定番商品が人気で、このコンビニでも美味しいパンが手に入る昨今でもそこそこお客様が足を運んでくれている。
昨日のうちに発酵させておいた生地たちをオーブンで焼くと、小麦とバターが焼ける良い匂いが店中に広がった。きっとこの香りが世界中に充満していれば、戦争なんて起きるはずがない、とは祖父の言葉である。
ひとしきりパンを並べ終えると、店の前にチョークボードを立てかける。そこには本日のオススメとしてクロックムッシュを描いておいた。
「じゃあ、今日もよろしくね」
いつものように父が私にひとことかけると、お店全体のライトを付け、開店した。
時刻は朝7時。
今日は土曜日だが、スーツ姿の常連さんが何人かパンを買いに来る。土曜もお仕事とはサラリーマンも大変だ。お釣りを手渡すと「いってらっしゃい」と心を込めて挨拶した。
8時。
ひとしきり朝のお客さんが来店し終え、ひと段落する時間帯だ。
「今日もくるかな?あの人」
父に問いかけると、含みのある笑いだけ返ってきた。
あの人というのは、毎週土曜にやって来る奇妙な常連さんだ。いや、常連さんと言うと少し語弊があるかもしれない。
噂をしているとドアのベルがなり、その人が現れた。グレーのスエットの上下、ボサボサの髪で、それにそぐわない上等そうな鼈甲柄のメガネをかけた三十代ぐらいの男性だ。手には絆創膏をたくさん巻いていて、不潔な印象もあった。
いつも通り、トレイやトングは手に取らず、店内を徘徊し始める。
5分ぐらい店内のパンを凝視し、これまたいつも通り何も買わずに店を去った。
「やっぱり、今日も何も買わなかったね」
「きっと彼にとっては何か意味のある行動なのさ」
この常連さんがお店に来るようになって1年ぐらいだろうか。毎週土曜の朝に来ては、店内のパンを見るだけ見てそそくさと帰っていく。
父は何やらその理由を知っているようだが教えてはもらえず、私は毎週その姿を見てはやきもきさせられていた。
父曰く「迷惑ではないんだから放っておけ」とのことだが、私としては薄気味悪い。パンを舐めるように見る視線や、丸めた背中、なんとなく漂う陰鬱な雰囲気が不信感を募らせた。
理由がわかっているならさっさと教えてほしいものだ。
「こんにちは!」
「はーい、こんにちは!今日もおつかいえらいね」
11時になった頃、また別の常連さんがお店に来た。5歳ぐらいのお兄ちゃんと、3歳ぐらいの妹ちゃんが、土曜の昼前に毎週パンを買いに来るのだ。
お兄ちゃんがトレイとトングを取ると、いつも通りメロンパンとチョココロネ、そしてこだわりカレーパンをトレイに乗せた。
うちのパン屋は上下2段にパンを置いているが、この子達のために、いつも買ってくれるこの3種は取りやすいように下段に置くようにしている。
2人でキョロキョロしてパンを見回すと、妹ちゃんが「あった!」と声をあげた。妹ちゃんが指さしたブルーベリーデニッシュをお兄ちゃんがトレイに置く。
いつもの3種と、いつも違う1種の計4個をこの子達は買っていくのだ。
「帰り道も気をつけてね」
一言添えてお釣りをお兄ちゃんに手渡すと、2人は手を繋いで帰っていった。
「おつかいへいってもらうにしては幼すぎない? ご両親心配じゃないのかな」
「きっと近所の子達だろう。それに、子供たちをおつかいに出しても大丈夫なくらい、平和なお店だと思ってもらってるってことじゃないか」
父は愉快そうにはははと笑う。もっと危機感を持ってお店をやるべきでは? 私がこのお店を引き継いだら、もっと人の機微に敏感なお店にしてみせる。
お昼を過ぎると客足はほとんどなくなり、いつも通り16時に閉店した。
パンの残りやトレイを片付けながら、明日の仕込みをしている父に文句をつける。
「もっと危機感を持つべきだと思うよ。あの何も買わない常連さんとか、そのうちパンに毒物でも仕込むかもしれないじゃない。あの兄弟も、うちに来たせいでその帰り道に誘拐でもされたら居た堪れない」
父はにっこり笑う。その全てを見透かしたような笑い方が昔から嫌いだった。
「せめてあの何も買わない常連さん、なんで見るだけなのか知ってるなら教えてよ」
呆れ気味に聞くと、父はまた微笑んだ。
「知らないよ。でも予想することはできる」
予想?
「お客さんをよく観察し、その
「じゃあその予想とやらを聞かせてよ」
「ふむ。できれば自分で予想できるようになってほしいけれどね」
父は小麦粉をこねながら、無駄に優しい口調で話し始めた。
「あの何も買わないお客さん、気味悪がっているけれど、それはなぜだい?」
「毎週毎週何も買わないくせにパンを見て回るなんて気持ち悪いでしょ」
「そういうことではなくて、どういう振る舞いがそう思わせるのかなって話さ」
「背筋もしゃんとしてないし、いかにもさっきまで部屋に閉じこもってましたっていういでたちじゃない。きっと社会に相手にされないニートかなにかよ」
父はこねていた生地を傍にやると、また別のボウルに小麦粉を入れてこね始めた。
「それは観察不足だよ。あの人は背筋が伸びてないんじゃない。下段のパンばかりを見ているのさ。その結果、背筋が丸まって見えるだけだよ」
下段? そこまでは確かに見ていなかった。だとしても、下段だけ舐めるように見る、という方が不気味に思えた。
「さて、下段と聞いて思い出すのは?」
「、、、あの子達?」
「そう。いつも4つ買いに来る子供たち。お決まりの3つと、いつも違う1つ。でもそのいつも違う1つも下段のパンだ」
「無理矢理つなげようとしてない?」
「子どもたちの「あった!」っていう声を聞いただろ? あれは誰かからそのパンを探して買ってきてもらうようにお願いされているからだ」
「それを頼んだのが、朝に来る人ってこと?」
「子どもたちが取りやすい位置にあるパンを下見しに来てるんだよ。それと、舐めるように見ているのも、子どもたちのアレルギー気にしているのかもしれないね。一口くれとねだられたとき、アレルギーを理由に断るのは可哀想だから」
確かに辻褄は合うけれど、想像で無理矢理つなげただけに思えてならない。
「他にも想像できることはあるよ。例えばこだわりカレーパン」
「あの子達がいつも買うやつよね」
「あれってじいさんのレシピを変えずに作ってるけど、大人でも苦手な人がいるぐらい辛いよね。とてもじゃないけどあの子達が食べるとは思えない」
「それも誰かに頼まれてるってこと?」
「僕の予想では、きっとお母さん用だね。朝の人がお父さんだと勝手に仮定すればだけど」
「想像通りだったとして、お父さんはわざわざ下見するほど気を使っているのに、子どもが食べられないパンを買わせるお母さんってひどくない?」
父は仕込みがひと段落ついたのか、缶コーヒーをちびちび飲みながらタバコに火をつけた。タバコだけは何度言っても辞めてくれない。
「ここからは想像といえど、少し失礼というか不謹慎なんだけど」
換気扇に煙を吐きながら、申し訳なさそうに言う。
「そのカレーパンは、亡くなったお母さん用なんじゃないかな」
想像の話とはいえ、空気が若干重くなる。私の母も早くに亡くなっているからだ。
「すごく上等な眼鏡をされているよね。どれだけ手を抜いた服を着ていても、眼鏡だけは上等。つまり、あの眼鏡は大切なものなんだ。亡くなった奥さんからのプレゼント、とかね。
もっと想像を広げるなら、彼の手にはいつもたくさん絆創膏が巻かれている。きっと飲食店に勤務されてて、水に触れる機会が多いから垢切れをおこしているんだね。飲食店で指輪は衛生的にご法度だろう。結婚指輪の代わりに、勤務中でも着けられる眼鏡を作ったのかもしれない」
流石に想像しすぎだろうとも思うけれど、間違っているとも言い切れない。
「つまりね」
父はタバコを灰皿に押し付けた。2本目を手に取りかけて、箱に押し戻す。
「全て想像だよ。でも、その可能性もある。変に思えても、理解しうるだけの想像を広げてお客さんを見るんだ。そうすればお客さんを疎ましく思うことなんてなくなる。そういうお客さんの『かもしれない』背景まで察しておもてなしする心が、接客業には必要なのさ」
@@@@@@@@@@
次の土曜日。
未だ父の想像には不審な点も多い。が、想像し、お客さんを理解しようと努めることが大事なんだということは納得できた。
8時。
いつも通りのいでたちで、今日もパンを舐めるように見る男性。
私は勇気を出し、声をかけてみることにした。
「あの」
男性はびっくりした、というか、ついに声をかけられたか、という表情をした。
怪しいことをしているという自覚はあったみたいだ。
「間違っていたらすいません。いつもお子さんのおつかいの下見に来られているんですか?」
予想外の質問だったのか、男性はあからさまに驚いた。
「、、、息子から聞いたんですか?」
男性の声は、印象とは違い、スッキリとしたビジネスマンのような声だった。
「いや、なんとなく、そうなのかなって」
「いつもすいません。変なことしてるっていうのはわかってたんですが」
話してみると実ににこやかで、優しい雰囲気のある人だ。
「毎週決まっておつかいに行きたがるんですが、娘がそばと甲殻類のアレルギーでして。間違って買ってこないように、子どもたちが朝のヒーロー番組に夢中なうちに下見に来ているんです」
「出過ぎたことなんですが、お子さんたちだけで出歩かせるにはまだ幼すぎませんか?」
「私もそう思って、毎回一緒に行こうって言うんですが、、、」
男性は困ったように笑う。
「毎週土曜の昼前、妻といっしょに3人で来ていたらしいんです。妻の生前、休みの日といえば私は昼過ぎまで寝ていたので、そんなこと知りませんでした」
「生前、、、」
奇しくも、父の想像は当たっていたわけだ。
「未だに、妻が亡くなってからも、このおつかいだけは3人で出かけているんです。きっとあの子達にとっては、ね」
じゃあやっぱりその眼鏡は、と聞きかけてやめた。ただの想像で根掘り葉掘り聞く必要はない。
「あの、変なことを聞いてすいませんでした」
「いえいえ、こちらこそ毎週ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。ご迷惑でなければ、今後もあの子たちに来させてやってください」
「もちろんです!」
男性は優しく笑う。その笑みはどこか父に似ていた。
「あのカレーパン、、、」
扉に手をかけた男性が、思い出したように口を開いた。
「いつも妻が買っていて、今も仏壇に供えるんですが、そのあと僕が食べるんです。
すごく美味しいんですが、辛くて辛くて」
それだけ言うと、男性は店を去った。
去り際の男性が浮かべた優しい笑みが、少しだけ泣いているように見えた。
了
パン屋の朝は早い 印田文明 @dadada0510
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