さよなら風たちの日々 第6章ー4 (連載16)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第6章ー4 (連載17)

              【11】


 ヒロミとの交際を断った理由。信二。受験。そしてやりたいこと。

君子豹変す、という言葉がある。自分の過ちに気づいたら、それを速やかに悔い改めるという意味だ。

 悲しいかな。その頃のぼくには、その概念がなかった。言った言葉をあとで訂正する、心の器もなかった。言ってしまった言葉を、取り消す度量も持ち合わせてはいなかった。そのまま突っ走ってしまえ、という傲慢。つまらない矜持。惚れたのはおまえの方だという優越感。それらが混じり合った思考回路が信二という最大のネックが消滅したあとでも、ぼくがヒロミの気持ちを受け入れようとしない気持ちのすべてだった。

 ぼくは後悔している。あのとき、その場逃れで言った言葉を。そしてそのスタンスを意固地になって変えようとはしなかったことを。

 あの日、秋葉原駅でヒロミに言ったぼくの言葉。

「それに今、とってもやりたいことがあるんだ」

「今度会ったら、話してやるよ」

 その言葉がのちに、どれほどぼくとヒロミの関係を捻じ曲げ、こじらせてしまったんだろう。


              【12】


「夏、オートバイで本栖湖に行ったんだよ」

 ぼくはヒロミとベンチに座りながら、心にしまっておいた大切なものを

そっと手のひらに載せるように、心を、言葉を、あの夏の日にはばたかせた。


              【13】


 信号で停まるたびに、シートの下からエンジンの熱気が立ち込めてくる。

 照りつける太陽。その灼熱を全身で吸収し、身を溶かしながらも、うねるように続くアスファルト道路。

 ハンドルを握るを中学時代の友人、綿貫義和もタンデムシートに乗るぼくも、直射日光とアスファルトの輻射熱と、エンジンからの熱で身体全体が火照っていた。灼けつくような陽射しに、ヘルメットの中の息があえぐ。玉のような汗が頬をつたうのだが、ヘルメットをかぶったままでは、その汗すらうまく拭うことすらできないのだ。

 夏。オートバイは涼しそうで気持ちいいですね。と言うのは、オートバイを知らない人が言う言葉だ。あの灼熱を思ってほしい。涼しいはずの風さえも、大量の熱をはらんでライダーに襲いかかってくる。けれどライダーはただ好きだから、躍動するから、高揚するから、そしてそれを乗り越えても得るものがあるから、オートバイに

乗り続けるのだ。

 信号が青になった。2ストロークの250マシンは、少し苦しそうな唸り声をあげてアスファルトを蹴る。すると身体にまとわりついていた熱気が風に流され、すうっと消えてしまう。そのあとはロードノイズと風と、2ストロークエンジン独特の甲高い金属音がぼくたちを包む。

 ぼくは綿貫の肩越しに前方を眺め、それらの入り混じった音を楽しんでいた。

 ありきたりの風景がロールのようにたぐり寄せられては、何事もなかったように後方に流されていく。

「このオートバイさぁ、六段ミッションだから、今ギアがどこに入ってるか、分かんないんだよ」

 ほとんど怒鳴るような感じで、綿貫がぼくに話しかける。

 その頃オートバイは、八王子を過ぎたばかりだった。


               【14】


 大垂水峠を越え、大月市に入ってから、ぼくたちが乗るオートバイは国道139号線に折れた。

 紺碧の空を夏特有の真っ白な雲が、オートバイを追いかけて並走する。その雲がゆっくりと姿を変え、やがてちぎれて消えてしまいそうになると別な雲が姿を現わし、再びオートバイと並んで空を駆けてゆくのだ。そんな繰り返しのなか、ときおり太陽が姿を隠して、地上に見事なコントラストを描く。

 立ちのぼるかげろう。揺らいで見えるアスファルト。濃い緑の森林の中を、一台のオートバイが駆け抜けていく。これが幻覚ではなく現実の世界なんだと、ぼくは何度自分に言い訊かせただろう。この胸ときめかす振動は何だ。この風の、心地よい圧迫感は何だ。すれ違うオートバイの、耳に残るエグゾーストノートは何だ。

 樹海を貫く道路をそのまま走っていくと、道路沿いに立てられた標識がもうすぐ本栖湖に着くことを教えてくれる。その中をオートバイは走る。さらに走る。むき出しの腕が、陽に灼けて少し痛い。それでもオートバイで感じる風は、何て心地いいんだろう。

 ぼくは思った。この風は、ワンダーフォーゲルで感じた風とは異質の風だ。きつい山道を何時間もかけて登り続け、やっと頂上に着いたときの風もまた格別なものだけれど、こうしてオートバイに乗って感じる風は、それとは異質の風だ。なぜならこの風は、自分がオートバイを走らせてこそ得られる、ポジティブな風だからなのだと。


              【15】


「その風の感覚が忘れられなくてね、おれもオートバイに乗りたい、

って思ったんだ」

「自分の両手、両足を使って、オートバイを走らせたいって思ったんだ」

 噴水に目を向けたまま、ぼくはひとり言のように話し続けた。

「おやじにそのことを話したんだ。でも高校を卒業するまではダメだって言われた」

 そしてぼくはヒロミに向き直り、こう言った。

「その代わり、大学に入ったら乗ってもいいって言われたんだ」

「だからおれ、それまで漠然と進学かなぁって思ってたんだけど、今はちゃんと、オートバイに乗るために進学するんだって目標があるんだ」

「今のおれの頭の中、オートバイでいっぱいなんだよ。オートバイが走りまわってるんだよ」

 そしてぼくはヒロミに、最後通牒を告げた。

「だからごめん。おれ、ヒロミと付き合えない」

 そしてそれはともすると、ヒロミに流されそうになるぼくの心へのいましめ、くさびでもあったのだ。


              【16】


 たそがれていく上野恩賜公園。西の空に陽が落ちかけていて、樹々が細長く細長く、歩道にシルエットを描いている。枯れ葉は音もなく、何かを避けるように、ぼくたちの足元から遠ざかる。小鳥たちはそのさえずりをやめ、樹々のすき間からぼくたちを眺めている。しかしときおり樹々は思い出したかのようにざわめきだす。ぼくらに何かを言いたくて、ざわめくのだろうか。樹々はぼくたちに、いったい、何を言いたいんだろうか。

 そんななか、ヒロミは目で、風に翻弄されている枯れ葉を見ていた。

 それからぼくに向き直り、涙声で、

「先輩殿。わたし、待ってますから。ずうっと待ってますから」。


 今度はぼくが黙る番だった。

 もうハトも小鳥たちも、ぼくたちの足元にはいなかった。空を飛ぶ、渡り鳥らしき群れも見当たらなかった。

 ベンチに座るヒロミは声を殺して、嗚咽と闘っている。大粒の涙をこらえようとして唇を、強く閉じている。それでもヒロミの目からは、涙がとめどなくあふれる続けるのだった。

 ぼくは暮れなずむ空を見た。

 上野公園から見た西の空は、まがまがしいほどの茜色だった。

 ぼくはそのとき、そこで見た茜色の空とヒロミの涙を、生涯忘れまいと思うのだった。




                           《この物語 続きます》







 


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