コーヒー・プリーズ

小原万里江

コーヒー・プリーズ

 バリ島へ行く早朝便に、私は一人搭乗していた。新卒採用で入った会社に勤めて三年目の夏。やっと有休を使う決心がついたので初めての女一人旅を決行することにした。

 離陸後、ホッと一息つくと、東南アジア系のキャビンアテンダントが飲み物を運んでくるのが見えた。「英語を使うチャンスだ」と思った。この旅行のために、私は英会話を勉強してきていた。

 まず、何が飲みたいか聞かれるので、「コーヒー・プリーズ」と言えばいい。その後、ミルクと砂糖について聞かれるから、「ボース・プリーズ(両方お願い)」と言えばいい。

 旅行会話の本に載っていた型どおりの表現を頭の中で反復していると、ワゴンが私の横で止まった。顔を上げた瞬間に、キャビンアテンダントのくっきりふたえの目に吸い込まれそうになる。根元から上向きにカールされたまつ毛や、シールでも貼ったみたいなツヤツヤリップに圧倒される。リップからこぼれる白い歯が、これまたまぶしい。

 想定通りの質問に私はすかさず「コーヒー・プリーズ」と答えた。ところが、予想を裏切る変化球が飛んできた。

「ワイ・コッフィー?」

何だ?

「ワイ・コーヒー」? 「ワイ」って「Why(なぜ)」って聞かれたのだろうか。でも、なぜコーヒーを頼むのか、などと聞かれるはずはない。私はそこに答でもあるかのように、ワゴンの上にひたすら目を走らせた。コーヒーポットやジュースの箱や、ビールの缶がぎっしり積まれているだけの、ただのワゴンでしかないのに。

 「ワイ」の一言が理解できない日本人を、上向きカールの超絶まつ毛が見下ろしている。自分は今、すっぴんノーメイク。長時間のフライトなので到着前に化粧をするつもりだった。さっきまで平気だったのに、急に恥ずかしくなってきた。片や完璧メイクの美女、片や紙切れに落書きされた棒人間のような私。今にも泣きだしそうな顔をしていたのかもしれない。ツヤツヤリップと真っ白な歯から、ゆっくりとした優しい英語がこぼれて、私を救った。

「White coffee? ミルク&シュガー?」

 一つ一つの音を確認するかのように話してくれたおかげで、今度はスペルまで見えた気がした。「ワイ」と聞こえたのは「White」、つまりホワイトのことだったのか。ブラック・コーヒーにミルクが入って白くなる。

そうか、それなら…。

「ワイ・コッフィー、プリーズ」

背筋を伸ばしてお腹から声を出し、英語らしい発音を真似てみた。

 その日、一杯目のコーヒーは、初めて英語で頼んだホワイト・コーヒー。ミルクをたっぷり注いでもらったのに、小さな紙コップのコーヒーの熱さがしっかりと手のひらに伝わってくる。すっぴんの私が、ひと口すすると、自分もバッチリメイクの美人に変身したように気分が上がった。

 初めて英語で頼んだコーヒーがホワイト・コーヒーだった。十年たった今でも英会話は未熟だけど、ワイとホワイトの発音の違いにだけは自信がある。

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コーヒー・プリーズ 小原万里江 @Marie21

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