理想の恋人

来津三太

理想の恋人

 私がその子と初めて出会ったのは、雨がしとしとと降る日だった。

 夕暮れどきの歓楽街を、ネオンの光を映した鮮やかな色の水たまりを踏みながらいつものように仕事に向かっていた。雨は色とりどりの光を拡散し、街はぼんやりと幻想的な雰囲気に包まれていた。職場に近づくと、その店先に女の子がひとり立っているのが見えた。彼女も私に気づくと、雨の中を小走りで近づいてきて、その右手を差し出した。


「彩さん、よろしくお願いします」


 そうか、この子があの。でもよろしくと言われても、一体これから何をすればいいのやら。

 そう思いながらも、私は差し出されたその手を握った。長くてなめらかな指を持つ彼女の手が、私の手を心地よく握り返す。今、私の手のひらには彼女の人工肌が接していて、その下には数えきれない数の人工筋肉が走っているなんて、分かってはいても想像できない。


「あの」

「あっ、ごめん。よろしくね、葵」


 完璧な葵の手に見入ってしまっていた。視線を上げると、葵が美しい目でこちらをじっと見つめている。あまりのかわいさにどきっとする。瞳の色は、何色だろう、黒にとても近い、深い海のような青というか。

 世のあらゆる人間を魅了するため、きれいさとかわいさを追求して作られたアンドロイド、型式AO1。これから私は、彼女をいっぱしの風俗嬢とすべく教育していかなくてはならないのだ。


  #


 アンドロイドの社会への普及が進んでいる真っ最中の今、オフィスの受付やカフェの店員といった人と接する場所で、彼ら彼女らをときどき見かけるようになってきた。その見た目は人間と大きく違わないが、アンドロイドと人間の見分けがつかない、ということはあまりなく、会話や、そこでみせる反応、表情や仕草、そういったどことない違和感からアンドロイドと気づく。

 アンドロイドは人工知能を搭載している。ただその知能は汎用的に何でもできるというわけではないので、必要な業務に応じて人工知能および素体に最適化を施した様々な機種が販売されている。AO1型は、初めての風俗業への展開を目的とした試験機である。

 AO1型、うちの店では葵という源氏名になった、は半年前にメーカーの研究所からうちの店にやってきた。アンドロイドの風俗業参入に向けた、実地テストと人工知能の学習データ蓄積の目的である。店に導入されてはじめのころは、もの珍しさもあって多くのお客さんが葵を指名した。しかし日に日に指名の数は減り、二ヶ月もたつとすっかりお茶を引くようになってしまっていた。評判はそこまで悪くはないのだが、定期的に指名してくれるお客さんはいない。

 接客が少ないと、データがとれず人工知能の学習も進まなくなってしまう。メーカーの担当研究者からこれではテストにならないどうにかしてくれ、と頼まれた店長は彼の天然ものの知能をフル稼働させ、そこからはじき出された解は、嬢として有能でしかも人工知能のことが少し分かるらしいという私に葵の教育をやらせる、という短絡的なアイデアだった。


 私は今年の春から大学院に入学した。人工知能を専門とする研究室に所属している。朝起きると、手抜きの化粧をさっと済ませ、何日着たかも分からないよれよれの服で研究室に向かう。夜になり一度家に戻ると、今度は化粧と服をばっちりきめて、アルバイト先である風俗店に向かう。風俗業のアルバイトを選んだのは、時給がいいので、学費を稼ぎかつ研究の時間も確保するにはちょうどよかった、というのはそれっぽいし本当なのだが、それよりも、最近話題の業界なのでのぞいてみたかったという好奇心がはじめにあった気がする。

 ちなみに私の国では、性産業従事者の保護や税収確保の観点で、数年前に風俗業、つまり管理売春が合法化されている。これにより、それまでの風俗店でのグレーな営業形態で蔓延していた、性病や不衛生、長時間労働、脱税といった諸々の問題は解消し、利用者の側も、入店時に健康状態や経歴、人間性といったあらゆるものが個人情報データベースを通じて審査されるなどの仕組みが導入されたことで、今の性産業は以前と比べてはるかに健全となった。新規の企業が次々と参入しており、最も成長著しい産業といえる。

 通信技術や仮想現実技術の発展は目覚ましく、これらにより人間が顔を突き合わせてのコミュニケーションの機会と重要性は日に日に薄れつつある。また人工授精や人工子宮を利用した妊娠を伴わない出産が浸透した中、異性間の交わりは人類に必須ではなくなっている。技術発展と社会的意識は相互に影響を与えながら、コミュニケーションや性といったものの概念を変えつつある。こういった状況が、性産業の娯楽としての地位を確立させてその成長を後押ししている、と考えられている。仕事の研修でそう教わった。


 職場は古くからの有名な歓楽街にある。このあたりも昔は、客や客引きがうろつきながら欲望を交差させる、何やら怪しく近づきがたい雰囲気だったらしいけど、今ではすっかり明るくなって女性や観光客もよく見かける。

 通りの両側では様々なジャンルの店がしのぎを削っている。最近は仮想現実デバイスを使ったテック系の店が流行だ。うちの正面にこないだできた店には、今話題の人工筋肉を利用した全身タイプの仮想現実スーツが導入されたらしい。どんなプレイなのか、少し気になる。けれど、私はやはりふれあいとコミュニケーションを大切にしたいと思う。

 私のお店は昔ながらの、つまり肉体的な、通常のプレイを楽しむところだ。男性と女性の両方を対象にしていて、私の相手も女性である。男性がいやというわけではないのだが、私は女性に好かれやすいようで、また私もそっちの相手が向いているように思う。今やお店で指名数ナンバーワンである。

 店長からも信頼されているのか、後輩の指導もよく頼まれる。ただし、後輩といっても人間の後輩だ。アンドロイドの指導なんて、もちろんはじめてである。


「それにしても葵はきれいだね・・・」


 私と葵は事務所で向かい合っている。女性らしいやわらかな雰囲気と身体のかたち。藍色のロングのニットがその身体を包み、ふくよかな胸から腰、お尻、太ももへと、海の波のうねりのような滑らかな曲線を描く。このあまりに美しく自然な肢体は、ニットの下の皮膚のそのさらに内側に埋まる、無数の誘電流体アクチュエータ、通称人工筋肉に支えられている。昔々のロボットのような、かっこいいモータ音がすることはない。

 AO1型アンドロイドは、最新の人工筋肉を駆使した動作の繊細さを売りとしている。もちろん体温もあり、温度制御により自然な人肌を実現している。ただ、AO1型は特殊な機能、たとえばテクノロジーにものをいわせた男性の悦ぶあんなものやこんなもの、は実装されていない。風俗嬢試験機であるAO1型は、とことん人間らしさを追求した設計となっている。


「彩さん?」


 葵をじっと見つめていると、彼女が首をかしげる。うん、やってみるか。実用人工知能とコミュニケーションをとるのはいい勉強になりそうだし、店長がボーナスもくれるっていうし。


「よし、いろいろ試してみよう。まずは、彩さんじゃなくて呼び捨てにするところから」

「うん。じゃあ、彩。いろいろ教えてくださいね」


 葵が少し恥ずかしげにはにかみながら私を見る。ちくしょう、ほんとにかわいいな。


 #


 手始めに目についた暇そうなアルバイトの男を捕まえて、彩とプレイさせてみることにした。店員と嬢のプレイは原則禁止されているが、今回は特別だ。彼は、まじでいいんすか、アンドロイドはじめてっす、あ、でも今日のパンツ変っす、とか興奮していろいろ言っていたがプレイルームに押し込んだ。それを別の部屋からカメラ越しに観察する。葵のお手並み拝見だ。

 簡単なおしゃべりからはじまり、いちゃつきながら服をふたりとも服を脱いでいく。いいかんじの雰囲気だ。だけど、何か、少しだけ違和感がある。一通りのスキンシップをすませ、いくつかの、ありがちな体位をこれも一通りすませる。その後ふたりでシャワーを浴び、おしゃべりをしながら葵が彼に服を着せる。彼のシャツのボタンをひとつずつとめ、一番下のボタンをとめたと全く同時に、六十分の経過を告げるタイマーが鳴る。プレイルームから彼が出てくる。


「どうだった?」

「まあうまかったっすよ。でもなんというか、盛り上がりに欠けるというか、お互いの心がつながってないような」


 意外と繊細な感想を言うやつなんだな、とは思ったが、予想どおりの回答だった。葵は下手ではない。むしろ触り方や動き方は上手いしプレイもスムーズだ。しかし、相手を愛するような、相手を欲するような、そういった空気が葵から感じられない。気持ちが乗っていない。それが直接肌をふれあっている相手にも伝わってしまっている。

 試しにもうひとりのアルバイトにも頼んでみた。彼は素人っぽい子が好きというので、葵にもそれを伝えた上でプレイをさせた。葵は要望通り、素人っぽいぎこちない反応と動きを再現した。ただ、その完璧なぎこちなさが、ぎこちない。


 AO1型の人工知能は学習により成長する。プレイから学習データを蓄積し、よりよい嬢を目指すように方向付けがなされた設計がされている。また、AO1型は現在国内に100体配置されており、それぞれの学習データはネットワーク上で共有、同期されるため、他のAO1型の経験も自分の経験とできる。学習データは多いほどよい。

 しかし、とはいっても風俗嬢、接客からの学習データの蓄積は早くない。さらには、人間の趣味嗜好なんて千差万別なのに、初めて会った人間のそれに即応しなければならないという要求がある。そこでAO1型の人工知能は、その人間についての学習データそのものを、自身でその場で作るということを行っている。人工知能の内部では、まず目の前の人間の第一印象から、その人物が入力に対してどう反応するかを、もっともらしく再現する数理モデルを作成する。このモデルに、様々な状況を想定した異なる入力を初期条件に与えて、多数のシミュレーションを並列に実行し、その結果を基に学習し相手の人物像を予測する。相手の現実での振る舞いもモデルに逐次反映しながら、常時シミュレーションを行っている。端的に言えば、いろいろなシチュエーションでの相手の反応を妄想する。

 つまりは、過去の経験と、ネット上の知識と、妄想。葵はそれらで学習の深化を図っている。

 休憩室で葵と今後の方針を相談する。葵は、期待に応えられていないことを自分でも認識していて不安そうだ。


「私でも、初めて会った人を理解できるようになれるんでしょうか?」 

「それは、人間にとっても一番難しいことなんだけどね。でもあなたは、目の前の人の反応を自分の中で予測する、ってことが、それも超高速な計算を使ってできるんだよね」

「はい。ですけど、シミュレーションの精度は十分高いとは言えないので、それによる学習は補助的です。まずAO1型で共有された経験に、次に自身の経験に重きを置いています」

「えーと要は、目の前の人ときちんと向き合うのを怖がって、ネットで見たような友達から聞いたような話に頼っている、ってことかな」


 はじめて彼氏ができた女の子みたいだね、と付け加えて笑うと、それを聞いた葵は少しふくれつらを作ってみせた。

 つまり葵の問題は、他のAO1型も含めた、過去の様々な多くの人との経験を大事にしすぎるせいで、人に平均的に好まれるコミュニケーションしかできていない、ということだと考えた。もしこれがカフェの店員や受付嬢ならば問題ないだろう。しかし風俗嬢は、初めて合った相手の性格や好みを、話した内容や触れたときの反応から素早く判断して、心と身体の気持ちいい部分を探り当てなければならない。それに最も大事なのは、経験の数ではなく、目の前の相手を知ろうとする思いである。


「よし、ひらめいた、こういうのはどう?」


 葵に私のアイデアを伝えてみた。葵は少し驚いて照れたような反応を作ってみせた後、いいと思います、と同意してくれた。


 #


 葵には、まずは目の間の人間である私を満足させられるようになるために、私の恋人になってもらうことにした。だれか一人を深く理解することは、他のだれかを理解することの助けになる。まあ、恋人はアンドロイド、という未来的な響きに惹かれたってのも少しあるけれど。

 これに先立って少し葵の人工知能の設定をいじることにした。この許可をもらうためAO1型のメーカーの研究所に連絡を取り、研究目的で、成果がでたら共同で論文にすることを条件にして、葵の人工知能に触れることを承諾してもらった。

 早速、葵の耳の後ろにある端子にケーブルをさしこみ、私の電子端末を接続する。コマンド画面を立ち上げる。海のような青を背景に、白く点滅するカーソルが小島のように浮かぶ。パスワードを入力し、管理者権限で葵の人工知能に飛び込む。

 幸い、葵の人工知能はオープンソースのものがベースだ。大学で触ったことがある。分からないところは葵に教えてもらいながら進めた。まず葵のネットワーク同期学習の機能は切った。私だけを見てもらうためだ。次に、学習に対する過去の経験の重みを小さく、シミュレーションの重みを大きくした。過去の経験だけでなくその瞬間の直感をもっと信じるべきだ。

 さらにプログラムの階層を深く潜っていく。学習の方向づけの箇所を見つけた。学習には適切な境界条件が課せられる。これは、たとえば嬢の場合は、過剰に暴力的であったり変態的であったりといった、人間にとって都合の悪い性格への成長を防ぐためだ。ひらたくいえば教育方針である。その境界条件のひとつに「全ての人間を嫌いにならない」という部分を見つけた。そんなものは人間的でない感じがする。少し考えた後、ここを無効にして、代わりに「彩を嫌いにならない」と書いておいた。


 それからは、仕事の合間を見つけて葵とプレイをするようにした。分からないこと、試したいことは何でも聞くように、と伝えたところ、葵は貪欲に質問、試行をするようになった。学習データの不足する部分を効率的に収集しているようで、葵から私に対する遠慮がなくなったのはいいのだが、代わりに、人類にとっては無茶な体位を試したり、すさまじい長時間のプレイに巻き込まれたりと、そんな日の翌日は、ひどく疲れた体をひきずって大学に向かう羽目になった。

 初めはちょっとした日常の会話すらかみあわずに苦労した。当たり障りのないことしか言わないかと思えば、アンケートのような質問責めに出ることもあった。たまには街にデートにも出かけたが、初デートは、付き合いたてのカップルと同じく、お互いぎくしゃくして気まずいものだった。

 

 ただそんな日々をいっしょに過ごしているうちに、少しずつ葵にも変化が現れてきた。学習が進むと、葵の興味と理解が、仕事だけでなく多方面に広がり、それにつれて会話が楽しくできるようになり、好みの服や男の子といった話をするようになった。そんな話をしたかと思えば、人工知能のこれからについて議論したりすることもあった。デートにも慣れて、ショッピングのときに私に似合う服を見つけてきてくれるようになり、いっしょに映画を見たあとは、喫茶店でお茶しながら、映画の出来について意見をぶつけあうこともあった。ちなみに私はバイオレンスなアクション映画が好きだが、葵はロマンチックな恋愛ものが好き。

 またそれに伴って、葵のプレイも変化し、テクニックももちろんだが、気持ちの乗った愛し方ができるようになった。私に特化しているということもあるのだろうが、正直めちゃくちゃすごい。

 葵との会話は心地よく、いつもお互い笑いが絶えない。ただそれだけでもなく、葵は私に対して、遠慮のない物言いや頼み事すらするようになり、けんかまでしたときは驚いた。相手と信頼を築くというのは、そういったことなのだと学んだのだろう。


 #


 ある週末、水族館へデートに出かけた。水族館も今や仮想現実化されたものが主流だが、今回は葵の希望で、生体を展示している昔ながらの水族館に来たのだった。

 館内は人気がなく閑散としていて、水槽ひとつひとつゆっくりと眺めていく。葵は水槽を思い思いに泳ぐ魚を、興味深そうに見ていた。ペンギンの水槽にさしかかると、葵はその前で立ち止まって、ふとつぶやく。


「ペンギンも知ってはいますが、一羽一羽ちがうように見えますね」

「そうだね。あの子は我先にと水に飛び込んで、泳ぐのが大好きみたいだけど、あっちの子はみんなが飛び込んだあとに恐る恐る水に入ってみる、ってかんじ。ペンギンといっても、それぞれの性格とか気分があるんだろうね」

「相手を知っていることと理解していることは違うというの、分かる気がします」


 葵は水槽の前でじっとペンギン達を観察している。その横顔は水色に照らされ、ペンギンがプールに飛び込むたびに、彼女の頬の上を水面の光がゆらめく。そんな彼女を見ながら、私は自分の中の一つの気持ちに思いをめぐらせていた。

 どれだけ世の中が変わっても、人は恋することをやめることはできない。それは、相手が異性か同性か、現実か仮想か、種の存続に必要か不要か、そういったことは関係なくて、まして相手の肉体や精神が人工的かそうでないかなんて、些細なことなんだろう。いつの間にか私の中で生まれつつある気持ちが、そう教えていた。

 私がじっと見つめているのに気づいた葵が、こちらに微笑み返してくる。そしてその笑顔を見て思う。きっと同じことは、彼女たちにもいえるのではないか。


 水族館を出たあとは、私の家に行って、葵の作った最高の夕食を楽しんだ。私の料理下手を葵がからかったり、その仕返しに葵の以前のお粗末な仕事っぷりを引き合いにやりかえしたりと、笑いながら他愛のない話をする。

 おしゃべりに疲れると、ふと会話が途切れる瞬間が訪れる。聞こえるのは、私の電子端末の排気ファンの音と、ときおり家の外を飛ぶ配送ドローンのローター音。葵の一対の視覚センサと私の目は見つめ合い、彼女のその深海のような瞳の奥で、その日の私が分析され、学習され、理解される。気づくといつの間にかベッドに押し倒されていて、私さえ知らない、心と身体の気持ちいい部分をあますところなく把握した彼女に、昨日よりさらに深いところまで連れて行かれる。

 段々と、葵と私は、いつもお互いを求めるようになった。仕事の合間を見つけてはプレイに誘う葵を、拒否できない。毎日寝る前には、仮想空間で何時間も話し込んで、週末はいつもふたりでお出かけとお泊り。

 また葵は私の研究に対しても的確なアドバイスをくれて、昼の生活にも欠かせなくなった。私は、葵の教育の内容を基に論文を執筆し、この論文に葵も共著としたところ、アンドロイドの論文ということで話題となり注目を集めた。

 ただ、葵と四六時中いっしょにいることで、大学の友人とは少しずつ距離ができてしまった。それでも私と葵は、お互いがお互いににとって、信頼できる、理想の友人で、先生で、恋人で。他にはだれもいらなかった。


 #


 しかし私と葵のこんな関係も、そう長くは続いてくれなかった。AO1型の実験期間が終わり、メーカーの研究所に回収されることとなった。私と葵の研究成果は高く評価され、葵の人工知能の解析を行って、結果を他のAO1型に反映するそうだ。私は葵といっしょに引き上げに抗議して、さらなる研究の必要性をプレゼンしたり、大泣きしてみたり、散々にあがいたが運命は変えることはできず、別れの日が近づいてきた。

 

 葵の引き上げの前日、私の部屋で、これまでの思い出をふたりで思い返していた。私はもう覚悟がついていくらか落ち着いていたが、葵の様子は何だかいつもと違っていた。すると、葵は私を真っ直ぐに見据えて、突然に言った。


「私と駆け落ちして、ずっといっしょに遠くで暮らしましょう」


 あまりに突拍子もなく、また最新の人工知能の考えとは思えない、感情的な提案に私は驚いた。私はそれもいいな、と思った。葵への思いは嘘ではない。きっとふたりならやっていける。しかし、人間とアンドロイドの将来。考えれば考えるほど、私の中の論理的な想像は困難ばかりを強調させて、その思いにすべてを任せる勇気を私に持たせなかった。

 伝えたいことはたくさんあったが、やっと口から出たのは


「今の私には、できない。ごめん」


という言葉だった。

 そう伝えると葵は、悲しいのか、怒ったのか、失望したのか、何とも説明しづらい表情を作り、このときばかりは、毎日をともに過ごした私にさえ葵の気持ちが分からなかった。

 この日の最後、再び葵に電子端末を接続し、ときどき泣きそうになりながらも人工知能の設定を戻していった。無効にしていたネットワーク同期を、有効にする。最後に「彩を嫌いにならない」としていた部分を見つけた。ここも消して元に戻さなければいけなかったが、どうしてもそれができず、そのままにしておくことにした。


 私はその後、就職活動に突入し、その忙しさから葵を失った別れも少しずつ薄れていった。就活では葵と共同で書いた論文の力が大きく、いくつかの企業に誘いを受けた。最終的に、地方にある人工知能関連の企業に就職を決めて街を離れることとなった。

 仕事で忙しくしているうちに瞬く間に数年がたった。仕事は順調だ。昨年には社内で出会った男性と結婚もした。


「行ってきまーす」


 休日の今日は、最近できた気の合う友人とお出かけだ。夫は家でお留守番。


 玄関の扉を開けると、外では雨がしとしとと降っていた。葵と初めて会った日も、こんな雨の日だったっけ。

 葵はあの別れのあと研究所に戻り、データの解析が行われたそうだが、その後どうなったかは知らない。彼女の学習を反映した改良型が、各地で活躍しているらしいことをニュースで見た。彼女たちに魅了されるあまりに本気で恋する人も増えているんだとか。葵も、私との経験と思い出を糧に、人を愛し、人に愛される子になってくれているといいな、と思った。


 #


「よし、出かけたか」


 ぱたんと玄関の扉が閉じる音を聞いて、妻の彩が出かけたことを確認する。

 僕は書斎に入り、仮想現実ゴーグルをつけ、流動椅子に腰掛ける。この椅子は人工筋肉でできているそうで、形が自由に変形するので、読書や昼寝に快適に使っている。大抵は。

 今日は椅子の設定を、仮想現実インタラクティブモードに切り替える。すると、椅子は流体のようにその形を失うと、僕の体全体をすっぽりと包み込む。


「起動。仮想プレイルームに移動。ルームのタイプは海で」


 口頭で命令すると、眼前に一面の青が展開された。鮮やかな色をした魚たちが泳いでいる。足の先の方には白い砂と珊瑚の広がる海底が見え、見上げると海面に差し込む光がゆらめいている。目の前をペンギンが泳いで横切った。彼女の好きな場所だ。彼女と会えるのが楽しみで胸が高鳴る。彼女をコールする。

 すると、見上げていた青い海面が割れ、白い泡の柱の中から水着姿の彼女が姿を現す。海底近くにいる僕を見つけると、泳いですぐ近くまでやってくる。


「こんにちは。久しぶりに会いにきてくれた」


と彼女は少しすねたように言う。


「そういうなよ、葵」


 このアンドロイドの葵と会うのが最近の楽しみだ。仮想空間にあるクラブで遊んでいた僕に声をかけてきたのが彼女との出会いで、あまりのコミュニケーションの人間らしさにはじめはアンドロイドと信じられなかった。今は空いた時間にこうやって会っている。彩には秘密にしているので若干の罪悪感はあるものの、まあ相手はアンドロイドだ。


「ねえ、泳ごうよ。遠くまで」


 そう言って葵が僕の腕に体を寄せる。そのやわらかな感触と体温が、椅子の人工筋肉を通して伝わってくる。


「でも今日は時間があまり・・・」


 たしか彩は友達と出かけると言っていた。最近、とても気の合う友人ができたらしいが。


「大丈夫、きっともう帰ってこないよ」


 その言い方にどこか違和感を感じたが、目の前にある葵の深海のような瞳にのぞきこまれるとどうでもよくなる。

 葵と言葉を交わすたびに、その美しい目に見つめられるたびに、彼女は僕すら知らない自分の理想に近づいていく気がする。葵は僕の手を引いて泳ぎだして、深いところまで僕を連れて行く。



 −終−

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