キヲク探偵 1st Mystery「消えた恋人」
島崎町
1st Mystery「消えた恋人」
1
「お入んなさい」
階段をあがってノックをすると、やさしい声が聞こえてきた。
緊張しながらドアを開けると、声のとおりのニコニコしたおばあさんが座ってて、
「まあ、かわいいお嬢さんだこと! さ、入って、寒いでしょ」
「は、はい!」
わたしは言われるがまま部屋に入る。
暖かな空気につつまれながら、ゆっくり見まわすと、そこは暖炉のある洋風の部屋。照明を落として、昼間だっていうのに雰囲気たっぷり。
落ち着いた家具、座り心地のよさそうなソファー、パチパチとはぜる暖炉がこっちに来いと呼んでるみたい。
ニコニコおばあさんは暖炉の横で、ソファーに座って微笑んでる。
さあ、なにごともはじめが肝心だ。わたしは息を吸って、
「助手のバイトの面接に来ました
「はいはい、まずはコートを脱いでくださいね」
「ああっ! すいません!」
あわてて脱いで、ドア横のコート掛けへ。落としきれなかった雪が、コートの肩で早くも水滴になってこぼれ落ちていく。
「そこに座ってね」
おばあさんはテーブルをはさんで真向かいの、もう一つのソファーを指さした。
「は、はい!」
ソファに座る。スカートがふわりと舞って、少し短すぎたかな、なんて思いながら、
「あの、わたし、助手の募集見て昨日連絡ました! えーと、冬休みの間だけなんですがここで――」
「じゃ、今日から働いてもらいますね。よろしくね」
「い、いいんですか! そんな秒速で!」
「大歓迎。やる気もあるし、かわいいし」
「あ、どうも……」
「早くみつかってよかった。みんなすぐやめちゃうから困ってたのよ。前の人は二日、その前の人なんか一日、早い人は会ってすぐなんだから」
おやや? 不安がわきあがる。どうしてそんなに早く?
ふふふ……と老婆が笑う。
「さ、そろそろ起きてくるころね」
おばあさんが部屋の右に目をやると、黒いドアの奥から物音が聞こえてくる。
「この時間にようやく起きるのよ。だから仕事は午後だけね」
ゆっくり立ちあがるトコトコと、おばあさんはわたしの横を通りすぎていく。
「行っちゃうんですか?」
「わたしの役目はもうおしまい。ここからは若いふたりにまかせましょ、ふふふ……」
笑ってる場合じゃないよ。いったいどんなバケモノが出てくるかわからないのに、ふたりだけにしないで!
「そうそう」
ドアを開けておばあさんはふり返り、
「先生、寝起き悪いから気をつけてね」
きゃっきゃっとうれしそうにドアを閉めた。
やばいことになった。なにげなく応募したバイト、冬休みの間だけでもできればいいや、それくらいの気持ちだった。だってこんな変わったバイトはない。助手なのだ。噂に聞く、あの仕事の。
そのとき、ドアが開いた。
来た!
わたしは固まったまま、じぃっとドアを凝視する。
ドア向こうの暗闇から、その人はゆっくりと、不確かな足どりで出てきた。
ラフに着た白いシャツがまぶしい。さらりと伸びた黒髪を、憂鬱そうにかきあげて、起きたばかりの顔をわたしに向ける。
体が震えた。
なんて美しいんだろう。
人は美しいものを見ると体が震えるのだ。
透明な瞳が、わたしを見ている。
かあっと体が熱くなる。暖炉が燃えてるけど、そのせいじゃない。
「きみは、だれだ」
繊細なんだけど、芯の通ったたしかな声だった。真実を探求する、人の声。
この人が、キヲク探偵。
2
「あ、あの……」
わたしがモゴモゴ言ってるうちに、その人――これからは先生と呼ぼう――は、のろのろとソファーに座り、テーブルに本を置いた。
威厳がありそうな黒い表紙。白い手書きの文字で、なにか書いてある。
なんて書いてあるんだろうと首を伸ばすと、
「ブラック」
「は?」
なにか言ったよ。
先生は暖炉に手をのばし、ぬくぬくと温めている。
「なんで……しょう?」
「ブラック」
「どういうこと? ですか?」
先生は暖炉の手を引っこめて、
「きみはここにコーヒーを置く」
細く白い指で、コツコツとテーブルをたたく。
「先生あのですね、バカでもわかるように言ってもらえませんか?」
「きみは依頼人じゃない」
先生は面倒くさそうに語りだした。
「依頼人なら、僕が入ってきたとき、ソファーに座りっぱなしはおかしい。頼みにきたのだから、立ちあがって迎えるはずだ。まあ、礼儀作法を知らない無礼な依頼人という可能性もあるが……」
そう言ってわたしを見る。
もちろんムッとする。
「依頼人でないなら大家か助手だ。僕が目を覚ましたとき、ふたつ声が聞こえた。ひとりは降りていったから大家、残っているのは助手だ。その態度からして今日が初日だろう。なにをしていいかわからないんだ。僕はいま起きたばかりで、こうしてぼやぼやしている。このあと依頼人がやってくるはずだから、それまでに目を覚ましておかないといけない。飲むならコーヒー、入れるのは助手、置くならここ」
さっきたたかれた場所が、もう一度コンコンと音をたてる。
「そして、目覚ましのためならコーヒーは?」
「ブラック……」
外で風が強く吹く。
パチパチ薪が音をたて、暖炉が大きく火を灯す。
先生が最初に言った言葉「ブラック」。その裏に、これだけの思考があったんだ。
すごい……。
わたしはただただ純粋に、その能力をうらやましいと思った。
コンコン。またテーブルをたたく音。
「あ、はい!」
あわてて立ちあがる。
えーとどうしたらいいんだ?
部屋の左側に灰色のドアがあるぞ。その左にキッチンがある!
「早くしたほうがいい、依頼人が来たぞ」
「え? どうして?」
「車が止まった。タクシーだな。ほら、玄関のドアが開いた」
ホントだ、下から大家さんの声が聞こえる。
あ、階段をのぼってくる音!
早くしないと!
あわててキッチンに駆けこむ。
えーとコーヒー、コーヒー、コーヒーはどこ?
そのとき、ドアがノックされた。
「どうぞ」
招き入れる先生の声が聞こえる。
ああ、どうしよう! 最初の事件だ!
3
「インスタントしかなくて!」
ふたり分のカップをテーブルに置いた。
先生と女性が、テーブルをはさんで対面してる。
先生が、眠そうな顔で口をつけた。
女性は手をつけない。じっと考えこんで、
「ここに、キヲク探偵の先生がいらっしゃると聞きました」
「僕がそのようです」
不思議な返事をして、先生はテーブルに置いてある本をひっくり返した。そうだ、表紙になにか書いてあったんだ。
「なくした記憶を、取りもどしてくれると聞きました。それで、わたし……」
女性は二〇代後半……三〇歳かもしれない。地味な服を着て、大人しい感じ。どこかで会っても、気づかないような……。
「おい」
「なんですか?」
「依頼人がしゃべりにくい」
テーブルの横に立ちっぱなしだった。
「すみません!」
あわてて先生の横に座る。
先生は露骨にいやな顔をしてるけど、強引だ。
「じゃあ、話してください」
先生が目をつぶって言った。
「はい……。あの、わたしは、佐藤
「ふあぁ」
大きなアクビが聞こえた。
先生!
ハラハラしながら君枝さんを見る。
君枝さんは表情を変えない。おなじ調子で先をつづけていく。
「わたしは、先ほども言いましたが、ひとり暮らし、のはずです。結婚もしていませんし、いっしょに暮らす人も……いません。もちろん付き合ってる人も……。だからわたしはいつも、自分が食べる分だけご飯を作ってきました。性格なんだと思いますが、ひとり分だけ作って、作り置きはほとんどしません。そのとき食べる分だけ作っておしまいです。なのに……」
ひと呼吸おいて君枝さんは言った。
「いまのわたしは違うんです」
「ほお」
横から興味ありげな声が聞こえた。
「おかしいんです。わたしはいま、二食分作っているんです。毎日、だれかのために食事を作って、テーブルに置いているんです。部屋にはわたししかいないので、きっとだれかの分で、その人のために作っているんです。でもその記憶がなくて、思い出せないんです。先生、教えてください、わたしはだれに作っているんですか? そして、その人はどうして、一度も現れないんですか?」
しゃべり終え、君枝さんはガクリとうなだれた。
「なるほど、興味深い」
先生が目を開けた。
輝いてる。
カップを手にとり、コーヒーを一気に飲み干した。
たまらなくうれしそうな顔が、わたしには見えた。
4
それは「停電」と呼ばれていた。はじまったのは一〇年前とされている。ある日突然、記憶がなくなるんだ。パッと灯りが消えるように。
原因はわかってない。食べ物のせいだって言う人もいるし、宇宙からの電波のせいだって言う人もいる。
消える記憶は全部じゃなく、なにかひとつが消えるんだ。大事な記憶もあれば、そうじゃないものも。消えたことに気づかなくて、ふつうに生活してる人もいるけど、なかには、人生がおかしくなってしまう人もいる。
そういう人がここに来るんだ。キヲク探偵のもとへ、
「いつからですか?」
先生が、空になったカップを置く。
君枝さんが顔をあげた。
「いつからいつまでの記憶が欠けていますか?」
「えっと、定かじゃないんです。気がついたら……」
「気がついたのは?」
「おかしいな、と思ったのは半年くらい前です」
「それ以前の記憶が、すべて消えてしまったわけじゃないでしょう」
「ほかの記憶はあります。仕事に行ったり、母と電話したり、友人に会ったり」
「友人?」
「いえ、男性じゃなく……高校のときの友人たちです」
「たち?」
「えーと、集まることになって」
「頻繁に会うんですか?」
「いいえ。最近、一年に一回か二回集まることがあって。それって関係あるんですか?」
「あるかもしれませんね」
わたしにはわからない。どうして先生はそんなことにこだわるんだろう? 君枝さんの友人が、秘密を握ってるとでも言うのだろうか。
「まあいいでしょう。つまりあなたは、食事を作っている相手のことだけを忘れてしまったと」
「はい、そうなんです」
「以前は自分の分だけ作っていましたね。ひとり分だけ作っていた最後の記憶はいつですか?」
「それが、おぼろげなんです。何年も毎日そうだったので……。変化のないおなじ記憶がずーっとある感じなんです。いつまでそうだったのか、明確な区切りがない感じなんです」
「区切りがない感じねえ。あなたが作ってるご飯、なにか特徴的なものを作っていませんか?」
「そういうものは特にありません。わたしが食べるふつうの料理です」
「量は?」
「ふつうです」
「んー」
先生は腕をあげ、伸びをする。
「いっこうに見えてきませんねえ」
「そうなんです。記憶が完全に消えてしまって、わたしも、思い出そうとしても全然浮かばないんです」
「あっ!」
わたしはひらめいた。
「電話の履歴とか、SNS的なものとか残ってませんか? そしたらわかるかも!」
褒めてもらいたい犬みたいに、わたしはクンクン先生の顔を見る。
先生は無表情で天井をながめてる。
ちぇっ!
「わたしもそう思ってまっ先に探しました。だけどなんにも残ってないんです」
「なんにも?」
先生が前に乗り出した。
「はい。あれば相手がわかります」
「でしょうねえ」
なにかわかったんだろか。先生は美しい笑みを浮かべてる。
「あなたは半年前にその人がいないと気づいた。それから半年間、ふたり分の料理をずっと作っている。どうしてですか?」
「どうしてって……」
「おかしいと思いませんか?」
君枝さんはじっと口を結んだ。
パチパチと、燃える暖炉の薪だけが、部屋に音を響かせてる。
そう言えばそうだ、どうして君枝さんは……
「助手のきみ」
「あ、はい」
「君だっておかしいと思うだろ、だれもいないのに作りつづけるなんて」
「ええ、そうですね!」
先生に聞かれて、わたしはうれしくなった。助手として頼りにされてる?
「そう言われたら、ふつう、いる人の分だけ作りますね。わたしだったらきっと――」
「だっていつもどってくるかわからないじゃないですか! 作らなくなって、その日に帰ってきたらどうするんですか! いつ来てもいいように、わたしは……その人のことをずっと、待ちつづけているんです……」
君枝さんはハンカチを出して、目がつぶれてしまいそうなほど押しつけた。
「ごめんなさい!」
ああ、なんてことを言っちゃったんだろう、バカなわたし!
浮かれてベラベラしゃべって君枝さんを傷つけて。
申し訳なくて、くやしくて、わたしも泣きたい気持ちだ。
「なるほどねえ」
先生だけがうれしそうな顔をしている。
目の前で依頼人が泣き、助手が謝っているというのに。
まったくどういう神経なの?
「先生!」
「なんだ」
「先生はキヲク探偵なんでしょ!」
「おそらくね」
「そそ、その態度ですよ! なんですかそれ! もっと君枝さんのためになにか考えたらどうですか! 推理のひとつもしてくださいよ!」
「ひとつどころか僕は核心に近づきつつある」
「ホントですか!?」
「ホントだよ。あと少しですべてがわかる」
先生が、自信たっぷりに髪をかきあげた。サラサラと絹のように髪が流れる。
「じゃじゃ、じゃあ!」
「興奮しなくていい。えーと君枝さん」
「はい……」
「あなたがはじめて、『おかしい、ふたり分作ってるな』と思ったとき、あなたはどこにいました? 家ですか?」
「えーと、はい」
「キッチンですか?」
「いいえ。ご飯を作ったあとだと思います。たぶんテーブルに持っていったときに……」
「キッチンからテーブルは見えますか?」
「いいえ」
「なるほどね」
先生はうれしそうだ。
「あなたの家にテレビはありますか?」
「は?」「へ?」
君枝さんとわたしは珍妙な声を出した。
いっぽう先生は涼しい顔で、
「どうですか?」
「テレビは、ありません」
「やっぱり」
もう我慢できない!
「先生! テレビの話なんかどうでもいいんですよ!」
「そうともかぎらない」
「そんなこと聞いたって、なくした記憶にはたどりつかないですよ。君枝さんはだれにご飯を作ってるのか、それを探しているんですよ!」
コンコン。
テーブルの上から音が聞こえた。
「助手のきみ」
先生が、ゾッとするほど落ち着いて、刺すような眼差しでわたしを見た。
そうして体を寄せてきて、息が届くほどの距離で言った。
「もうすべて、わかっているんだよ。失われた記憶の全貌が、僕には見える」
ああ……
その瞳に打ち抜かれる。
気絶しそうな意識の中、声が聞こえた。
「ブラック」
5
キッチンでお湯を沸かしながら考える。
あやうく気絶するところだった。
あの目であの距離で見られたら危ないぞ。
先生は、すべてわかったと言った。
君枝さんがだれにご飯を作っているのか。
顔をあげると、暖炉の部屋が見えた。
あれ? 君枝さんのうしろ姿は見えるけど……
先生がいない。
君枝さんの向こうに空のソファ。
君枝さんはひとり、ソファーに座ったままで。
暖炉の火が、肩に赤い稜線を作っている。
さびしそうだ。
毎日、ふたり分のご飯を作って、ひとりで食べているんだ。
その人はどうしていなくなってしまったんだろう? 着信履歴やSNSも消して。
消して? 消したのはその人? それとも君枝さん?
君枝さんが忘れたことって、君枝さん自身が、記憶から消してしまいたいことだとしたら……
ヤカンがグツグツ音をたてる。
先生、わたし、わかりましたよ。
悪いですけど、わたしも言わせてもらいます。
失われた記憶の全貌、わたしにも見えちゃったりして。
ヤカンがピーと音をたてた。
6
ドアには「喫煙室」と書いてあった。キッチン横の部屋。
イスが三脚とテーブルがひとつ。それだけでいっぱいになってしまう、小さな部屋。
だけど狭さは感じない。二面の壁のほとんどが窓になっていて、光りがいっぱいに差しこんでくる。
「ブラックです」
長方形の小さなテーブルに置いた。
先生はここにいた。イスに座り、顔を横にして外を眺めている。
窓の外は一面の雪だ。黒い建物と白い雪しかない。二階の窓だからよく見える。
「喫煙室」というより「眺望室」だ。
反応がない。
見ると先生は、うつらうつらしてる。
「先生! コーヒーですよ! ブラック!」
「ん? ああ、助手くんか」
「そうですよ。これ飲んで目を覚ましてください。それからわたしの推理を聞いてください。わかったんですよ、失われた記憶の全貌、わたしにも見えちゃったんです」
ふぁあ、と大きなアクビをしつつ先生はコーヒーをグビグビ飲みだした。
わたしの言葉なんて聞いてないぞこれ。
「先生、聞いてください!」
「聞いてるよ、見えちゃったんだろ」
「そうなんです、君枝さんのなくした記憶、わかりました」
そこまで言って、ハッとしてドアの向こうを見た。
大丈夫、君枝さんまで声は届いてないようだ。
暖炉の部屋で、ソファーに座ってじっと炎を見つめてる。
「あのですね、メールかSNSかわかりませんが、消したのは君枝さんなんですよ。きっとやりとりはあったんですよ。でも消したんです、なぜなら!」
「なぜなら?」
「ふたりは別れたんですよ。どっちがどっちを振ったとかはわかりませんが、悲しい別れがあったんですよ。だから別れた相手からの着信もSNSも消した。そのとき『停電』が起こった!」
「停電?」
「記憶が消えることですよ」
「比喩か?」
「なに言ってるんですか、みんなそう言ってますよ」
「まあいい、それでどうした?」
「えっとだから、『停電』が起こって、君枝さんは付き合ってた人のことも、その人と別れたことも忘れてしまったんですよ。で、目の前にはふたり分のご飯が残された!」
「ふん」
わたしの完璧な推理を鼻で笑った!
「ふんってなんですか!」
「ふふ……。悪くはないという意味だよ。正解ではないが」
「どうして!」
「つまりきみが言いたいのは、その男のために……まあ仮に男とするが、料理を作って男を待っていたら、携帯に別れの連絡が来て、やりとりを全部消したところでちょうど記憶がなくなった、ということか?」
「そそ、そうですよ!」
「では男の手掛かりが部屋にまったくないのはなぜだ? 同棲していなかったとしても、なにかは残っているだろう」
「君枝さんはきっときれい好きだから、全部処分したんですよ! そこで『停電』に!」
「じゃあ会社の人も友人も、男のことをまったく知らないのはなぜだ? そいつらの記憶も処分したのか?」
「う、うう……先生のいじわる!」
「泣くな。推理は間違いだが、悪くはないと言っている」
「ホントですか!」
「だれもその男のことを知らない、メールにもSNSにも出てこない、部屋に痕跡すらない、そこまでいけば結論はひとつだろう」
「なんですか?」
「そんなやつは、はじめからいなかったんだよ」
7
「どど、どういうことですか?」
「落ち着くんだ」
「落ち着いてられませんよ!」
「彼女の話を聞いて、男がいないことはすぐにわかった。痕跡がなさすぎるからね。ということは、彼女がなくした記憶は、男に関するものではない。では、なにを忘れたのか?」
「なんですか?」
「ふぁあ」
返事はあくびだ。
「先生!」
「この事件の本質は、『だれ』ではなく、『なぜ』なんだよ」
「えーと、全然わかりません!」
「だれのために作っているのか、じゃなくて、なぜ作っているのか、だよ。僕が彼女にした質問、覚えてるかい?」
「覚えてますよ、変なのばっか。友人のこと聞いたり、キッチンからテーブルは見えるのかとか、テレビはあるのかなんて」
「肝心なのを忘れている」
「なんですか?」
「ふたり分作っていると気づいたとき、どこにいたかだ」
「たしか、ご飯をテーブルに持っていったとき、でした」
「そう。彼女はトレーかなにかにご飯を乗せ、テーブルに持っていった。そこで『おかしい、ふたり分作っている』と思った。つまりテーブルにはすでに、ご飯が用意してあったということだ」
「どういうことですか? 僕にはさっぱりわかりませんよ!」
「つまり彼女の記憶から失われたのは、『ご飯を作った』という記憶なんだ」
衝撃が突きぬける。まさか、そんな……。
「彼女はいつものようにご飯を作り、テーブルに置いて、キッチンにもどってきた。おそらく性格からして、先に後片付けをしたんだろう。そこで、きみの言うところの『停電』が起こった。料理したという記憶が飛んだんだ。気がつくときれいなキッチンにいる。ちょうどご飯どきだ。なにをするか、一択だ」
「ご飯作り……」
「そう」
「だから先生、キッチンからテーブルが見えるか聞いたんですね! テーブルが見えるなら、もうご飯を作ってるってわかる!」
落ちかけてる先生のまぶたが開いた。
「冴えてるな」
「へへへ……先生の助手ですからね。でも、テレビがあるのかって質問は?」
「単なるお遊びだよ。推理の遊戯にすぎない。テレビのある部屋で食べるとき、座る場所は決まってるだろう。テレビの正面か、見やすいところだ。料理を置くならそこだ。『停電』が起こり、もう一食持っていったとき、いつもの場所に料理があれば、だれかの分とは思わずに、自分の分がもうひとつあるとわかるだろう」
「でも、君枝さんの部屋にはテレビがないから……」
「座る場所は決まっていなかった」
「そんなことでだれかいると思ったんですか? その人のためにご飯を作ってるって?」
「そうだ」
「でも君枝さんは、いまもふたり分作ってるんですよ、半年間ずっと待ちつづけているんですよ、どうして……」
「ときに疑問と答えが一致する場合がある。いまがそうだ。だれもいないのになぜ? だれもいないからだ。どうしてそんなに待ちつづけるのか? そんなに待ちつづけるほどの人間だからだ。ずっとひとりだった彼女は、だれかいてほしいと願った。記憶が失われてできた空白を、埋める材料がすでにあったんだ。彼女は友人たちに会ったと言っただろう」
「はい、あれはいったい?」
「最近、年に一、二回の集まり。あのくらいの歳なら、友人の結婚式がつづいてもおかしくない。余興か贈り物の相談で、友人たちで集まるわけだ」
「それが何度もつづいて……」
「さびしさをかきたてられてもおかしくない。たえずひとりで、孤独に慣れているとしても……」
ドアの向こうに、君枝さんが見える。
カップを持って、落っこちそうなほど、のぞきこんでる。
暖炉の火がゆれる。
君枝さんが、わたしの視線に気づいた。
顔をあげ、こっちを見て、ほほえんだ。
顔の灯りが、ゆらゆらとゆれる。
そのたびに、表情が変わって見える。
笑顔と泣き顔が、交互に、ゆらゆら。
「事件は解決だ」
先生の眠そうな声が聞こえた。
8
君枝さんは泣いた。
ハンカチに顔をうずめて。
先生は3杯目のコーヒーを飲んだけど、夢の世界にまっしぐら、ソファーの上でうつらうつらしている。
真正面に座る君枝さんにわたしは、
「ごめんなさい」
と言った。自分が残酷な現実の共犯者になった気がした。
なくした記憶を取りもどすキヲク探偵……。
だけど、取りもどさなくてもいい記憶が、あるのかも。
なくしたまま、いつわりの記憶を埋めこんで、悲しい現実から逃れられるなら。
君枝さんが顔をあげる。
あれ?
涙はまだ流れてる。だけど……
「もう、待たなくてもいいんですね」
「え?」
「現れない人のために、ご飯を作らなくても」
「……」
「わたしはこれで、前に進めると思います」
そう言って、ニコリと笑った。
涙で悲しみが洗い流されたような顔だ。
「いいんですか、ホントに」
「わたし、疲れていたんです、待ちつづける生活に。どこかで待つことをやめなければいけないのに、ずっとそれができなかったんです。だって、もしかしたら明日来るかもしれないし、来なかったとしても、明後日かもしれないし、そうやってズルズルと、気がつくと半年もたってしまって……もう限界だったんです、だから、ここに来たんです」
君枝さんはすーっと息を吸った。
「ありがとうございます。待つのは、今日で終わりです。いまからわたしは、生きていきます。わたし、これから、なんでもできるような気がするんです」
笑顔に暖炉の火が灯る。
いくらゆらめいても、表情は変わることがない。
ずっと、笑顔のままで。
君枝さんは帰っていった。
9
「おはようございます!」
階段を駆けあがりながら大家さんに声をかける。
「おはよう。あなたにとっては二日目ね」
階段の下から声が聞こえる。
「がんばります!」
そう言ってドアを開ける。
暖炉に火が入ってるけど、先生はまだ寝てるみたいだ。
わたしはキッチンに駆けこんで、持ってきたコーヒー豆とコーヒー道具をカバンから出した。
助手二日目。もう先生にインスタントなんか飲ませない。
今日からは美味しいコーヒーを入れてあげるんだ。
ガサゴソやっていると、物音がした。
先生、起きてくるぞ。
暖炉の前まで走っていって、待つ。
黒いドアが開いた。
昨日とおなじように、先生はゆっくりと、不確かな足どりで出てきた。
本を手に持ち、のそのそ歩いて、わたしを見つめる。
なんて美しいんだろう。
今日一日、これだけでかんばれる気がした。
先生は、眠そうな目でわたしを上から下までじーっと見つめて、言った。
「きみは、だれだ」
「え?」
「わたしですよ、助手ですよ!」
その言葉にも、思い出す様子はない。
寝ぼけてるわけじゃない。本当に、わたしのことを知らないその表情……
やばいことになった。
「先生、もしかして『停電』が……記憶がなくなったんですか……」
―― つづく ――
キヲク探偵 1st Mystery「消えた恋人」 島崎町 @freebooks
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