ぼくは普通のつまらない大人になった

権田 浩

ぼくは普通のつまらない大人になった

「……うっ」

 ぼくは小さくうめいて目覚めた。耳元に流れる音楽は流行りの恋愛ソング。


 顔を上げる。枕にしていた右腕には赤く跡が残っている。ということは、ぼくの右頬もそうなっている。身体を起こして椅子に座りなおし、ふぅ、と一息吐いた。


 ガラスの向こうは見慣れた景色。ぼくが生まれ育った町の駅前通り。初夏の日差しが光と影をくっきりと分けている。ハンバーガーショップでドリンクのみというのは悪い気もするけれど、学生なのだから許してもらえるだろう。飲んでいたコーラは氷が溶けて、もうコーラっぽい水になっている。ずずっと一口すすって止めた。


 つんつん、と肩をつつかれてぼくは振り返りながらイヤホンを外す。タタッタ、タタッタ、と音が漏れ続ける。


「ごめーん、待ったよね?」

 彼女は顔の前で手を立てて、はにかむような笑顔で言った。


「いい夢見れた?」


 そして、ぼくの赤くなった右頬に触れようとする。ぼくは身を引いた。


「そういうこと……普通にすんなよ」


 彼女は首をかしげる。普通の女子は友達だからって、こんなふうに男子に触れようとしたりしない。でもそんな常識は彼女には無い。いつか誰かがそれを教えてあげなきゃいけないけど、今はまだ――それに、その役目はぼくじゃないだろう。


「ほら、行くぞ」と、ぼくは立ち上がり、飲み残しのコーラを捨ててハンバーガーショップを出た。


 彼女を後ろに乗せて、彼女の自転車をこぐ。サドルが低くて足が回しにくい。途中のコンビニでピザ味とのりしお味のポテチと、スポーツドリンクを適当に買う。


 二人分の体重で一気に坂道を下り、海沿いの道路に飛び出すと勢いそのままに走った。自転車のタイヤがシャーッと爽やかに回る。


 初夏の日差しを受けてキラキラ輝く波。潮風。彼女のかおり。

 このままずっと走って行こうか――なんて、言えたら良いのにな。


 砂浜に下りる防波堤の切れ目まで来て自転車を止めると、二人の時間はもう終わりだ。「おーい」と彼女が声をかけると、砂浜にいる三人が手を振り返してきた。


 三人ともぼくの同級生でビーチバレー部の仲間だ。正確にはビーチバレー同好会だけど。部員はぼくを含めて選手四人にマネージャーの彼女しかいない。


 砂浜に下りるぼくと彼女と、駆け寄ってくる三人。小麦色に日焼けしたサトーとタグチは細くしなやかな長い手足を振り抜いて、砂を蹴る。一人遅れてやって来るのが親友のハンダ。太り過ぎの体重で短い足を砂に埋め、ひぃひぃと息を詰まらせている。卵のようなつるりとした頭、太い紐で首から下げた老眼鏡、耳の上に残った毛髪には白髪がまじっていて、外見はよくいるモブキャラみたいなハゲデブおやじだ。


 集まったぼくらは階段に腰かけてポテチとスポーツドリンクでわいわい休憩した。焼けた砂浜と海風の香り。波音が堤防に反響してぼくらを包み、海岸通りを走る車の走行音を遠ざけている。


 サトーとタグチ、そしてぼくは目配せし合い、ハンダをさりげなくマネージャーの隣に座らせた。彼の加齢臭にも彼女は嫌な顔一つ見せない。そこも非常識といえば非常識だけど、素敵なところでもある。いずれ大人になったとしたら、彼女もおやじの加齢臭がどうのこうのと言うようになってしまうのだろうか。


 ぼくらはたぶん、全員が彼女に恋している。だけどそれを最初に口にしたのはハンダで、他の三人にはその勇気が無かった。そして彼の恋を応援すると決めたのだった。ほんの半月前のことだ。


「……ずっと、こうしていたいね」

 潮風に髪を押さえながら、ふいに彼女が呟く。


「ぼくらは……ずっとこのままさ」

 ぼくの言葉に、彼女は微笑んだ。


 実際、ぼくらは卒業を選ばない限りずっと高校生でいられる。現にハンダはもうすぐ50歳だし、他の二人も20代半ばだ。本物の10代はぼくとマネージャーだけ。かつては自分の意思と関係なく卒業させられたり退学させられたりしていた時代もあったが、今は違う。好きなだけ高校生でいられる。


 高校生の間は税金も無いし、衣食住も保証されているけど、それでもほとんどの人は卒業を選んで進学したり就職したりする。一年生から三年生までの勉強を延々と繰り返して、試験で満点を取り続けても無意味だと気付くのだ。選挙権もなく、社会に参加できず、結婚もできないのが現代の高校生。一律の年齢で強制的に社会参加させられるよりも、本人の意思でそうしたほうが良い社会人になる、という外国の偉い学者の研究に基づき始まった制度だ。


 だからといって卒業を選ばないハンダたちを、社会に参加する覚悟を持てない落伍者みたいに蔑視する意識もぼくらには無い。大人は彼らを嘲笑しているが、ぼくらは大人じゃないから。


「そろそろ練習にもどろうぜ!」と、ハンダが明るい声で言った。


「よし、じゃあ、やるかー」


「おー」


 立ち上がって砂浜に駆け出すぼくら。見守る彼女の声援に背中を押されて必死にボールを追い、失敗を笑い合い、時々マジになったりする。いつもの夏の放課後――。


 砂浜が琥珀色に染まる頃、ぼくらは部活動を終えて帰路につく。自転車を押す彼女を囲んで時々ふざけ合ったりしながら和気あいあいと歩いていると、海岸通り沿いの駅のホームに立つスーツ姿の男が目に入った。だらだら歩くぼくらの立ち姿とは一線を画す、まっすぐな大人のシルエット。でもその表情は複雑だ。羨望、蔑視、無関心……心の中がわからない。わからないものは不気味で怖い。だから大人は怖い。


「どしたー?」


 ハンダの声でぼくは視線を戻した。夕日に鈍く光る禿頭。でもその表情は単純で、友人への気遣いが溢れている。


「あ、いや、なんでもない。見られてる気がしてさ」


 すぐさまサトーが声のトーンを落として「いや……誰かに見られている気がしてさ」とぼくの言葉を真似る。「そこかっ」とタグチが手を横に払い、「中二かよ!」とみんなして笑った。


 一人また一人と別れていき、最後にはぼくとハンダの二人だけになった。日が落ちて蒼に沈み始めた住宅街の狭い道。ゲームとかドラマの話題でいつもどおり盛り上がった後、別れ際にハンダが急に真面目な顔で言った。


「おれ、明日、彼女に告白するわ」


「えっ?」


「いいよな?」


「ぼくの許可なんて……いらないだろ?」


 ハンダは真剣な眼差しでぼくを見ている。ぼくの本当の気持ちを見抜いている。大人のように複雑な表情で気持ちを隠すなんてできない。今ならまだ、ハンダを止められる。彼との友情と、彼女への気持ちを天秤にかけたらぼくは――。


 その瞬間、「うっ」とハンダが胸を押さえた。


「ハンダ?」


 そのままうずくまる。顔は真っ青で苦痛に歪み、脂汗を滝のように流している。尋常ではない。


「ハンダ……おいっ、ああっ、ま、待ってろ、すぐ救急車を呼ぶから!」


 ――ハンダは心筋梗塞だった。救急車で運ばれたが、そのまま病院で亡くなった。両親も他界しているため引き取り手もなく、読経だけで共同墓地に入った。ハンダは高血圧、心筋肥大、高脂血症、脂肪肝、メタボ……とにかくあらゆる生活習慣病が酷く悪化した状態にあり、いつ突然死してもおかしくなかったという。なぜ事前に発見できなかったかといえば、高校生の健康診断ではそんなところまで検査しないからだ。


 墓前にはぼくら四人だけ。サトーとタグチは先に帰り、ぼくと彼女だけが残った。


「ハンダさ……最後に言ったんだ。明日告白するって。あいつ、マネージャーのこと――」


「わたし、卒業するの」


「えっ?」


「おじさんの会社で働くの。この街を出て、都会に行って、毎日会社に行って怒られたり悔しくなったり、たまに嬉しかったりしながら、同僚とか新しく知り合う人たちと遊んで……そのうち健康診断の結果を話題にするようになって、たぶん居酒屋とかで社会の問題点なんかを愚痴ったりしてさ。好きな人より、一緒にいられる人と結婚する……そういう普通のつまんない大人になるんだ。だから――」


「……だから?」


「さよなら……ごめんね」


 そう言って、彼女は去って行った。


 ――それが、三〇年前の出来事だ。


 線路を挟んだ反対側のホームに高校生のグループがちらほらいて、そうか、高校生ってこんな時間に帰るんだっけ、と腕時計を見て思い出し、そしてそんなグループの一つに同世代の高校生が混じっているのを見てハンダを思い出したのだった。


 彼女を追うようにぼくも卒業して、そこそこの大学へ進学し、普通の会社に入った。彼女が言っていたような人生を送り、いつの間にかハンダと同じくらいの年齢になった。あの頃の仲間とは連絡も取っていない。もちろん彼女とも。


 高校生の一人がぼくの視線に気付いたので、べつに君たちを見ていたわけではないよ、とでもいうように視線を誤魔化した。黒い革の鞄を手にまっすぐ立つスーツ姿のぼくは彼らにどう見えているのだろう。


 別の高校生たちがこちらのホームにもどやどやと入ってきて、もう少し時間をずらせば良かったかなぁと思っていると、隣に立つ気配を感じた。だからといってすぐに顔を向けたりはしないが。


「あの……もしかして、キミジマくんじゃない?」


 つんつんと肩をつつかれて、見ればそこには高校の制服を着た中年女性が立っていた。知らない女性だ……いや、もしかして。


「えっ、ええ? もしかして、マネージャー?」


「うん、そう。やっぱりキミジマくん。横顔がぜんぜん変わってないから、すぐわかっちゃった」


 すっかりおばさんになった彼女がぼくの上腕に手をかける。昔ならすぐに身を引いただろうけど、今ではその必要を感じなかった。


「えっ、でもマネージャー、どうして?」


「これ? 今さ、再入学制度っていうのがあるの、知らない?」


 そういえば何年も前に話題になっていたような。でも本当に聞きたいのは制服の事ではなく。


「いろいろ細かい条件はあるけど、社会人でも編入試験受けれるんだよ。それで高校生に戻れるの」


「そうか……でも、どうして?」


「あ、うん……あの後、親戚の伝手で就職したのは言ったっけ。そこでその……色々あってさ。なんか大人ってやだなーって時に、再入学のニュース見て、あの頃を思い出して……」


 彼女の表情は、気持ちを全く隠していなかった。ちょっとした挫折や嫌な事くらいで逃げ出してしまうような女の子ではなかったから、相当にキツイ何かがあったに違いなかった。古傷に指をねじ込むような顔をして、そっと下腹部に手を当てたのは、おそらく無意識だったのだろうけど、妊娠や出産に関する出来事を察するに十分だった。


「ヨシエー、だいじょうぶー?」と、少し遠巻きにしていた高校生グループがマネージャーに問いかける。身の内に輝く青春が肌を透かしてほんのり光って見えるほどに若く、その表情には友人に対する気遣いしかない。いざとなれば自分の出番だと思っているらしい男子が顎を緊張させている。


 機械音声のアナウンスがホームに電車が入ってくると告げた。ホームドアの緑のラインが黄色に変わる。彼女は振り向いて、「だいじょうぶー。昔の……友達なのぉー」と答えた。そして意識的に表情を戻す。そこに大人の片鱗を見て、たとえ高校生に戻れても、あの頃の彼女には戻れないのだなと少し寂しく思う。


「キミジマくんこそ、こんな時間に何してるの? 会社サボっちゃった?」


 ぼくは首を横にふる。その一瞬で何を話すか決めた。


「はは。いや、サボってないよ。半休取ってあるんだ。今日、長男の就職祝いをサプライズでやろうってことになっててさ。うちの連中、そういうの好きなんだよ。それでプレゼントの腕時計を受け取って、家に帰るところ」


 電車がごぉと入って来て、風が巻いた。髪を手で、スカートを鞄で押さえる仕草は高校生の頃そのままだった。憎まれ口のあと、小さく舌を出すところまでも。


「そっか。キミジマくん、普通のつまんない大人になっちゃったんだね」


 彼女の表情は祝福に満ち満ちていた。

 だからぼくは、大人の微笑みでそれに応じた。


〈完〉

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ぼくは普通のつまらない大人になった 権田 浩 @gonta-hiroshi

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