最終話 突発

 大崎に相談した事によって悩みから解放されたのか、香の筆の進みは良くなり、書いたものは人気を博した。


 「筆じゃないよ」


 香りはPCで創作していることに拘りがあるようだ。一郷が『執筆』とか『筆が進む』と表現すると、必ず訂正を入れる。


(確かにスマホで読んでる時に『なんの本を読んでるの?』って聞かれると、違和感があるもんな)


 一郷は信号待ちの間に 香の小説を読んで、制服の胸ポケットにスマホをしまう。

 信号が青に変わり、一郷が歩き出すと 直前までの赤信号に、一度は減速した車が、一郷を追い越して行った。

 何気なく車を見る一郷。その車は大崎の車だった。––––のように見えた。

 助手席には白いブラウスを着た女性が座っていた。女性の髪は肩くらいまでの長さに見えた。


 –––– 香?


 一郷が過ぎ去った車の後ろを見るために、追うように車道に出ると強い衝撃に襲われる。強すぎて衝撃だとも分からなかった。ただ視界が一瞬だけ白くなり、空が見えて、アスファルトが顔の横にある。赤くなった視界の先、たった今、急ブレーキの車に踏まれたのは、どうやら一郷の腕のようだ。


 フラリと車道に出た一郷は、車に跳ねられた。

 何台かの車が止まり、人が降りて一郷の様子を見る。何事かを叫んでいるが、もちろん一郷には何を言っているか分からない。

 大崎の車と思しき車は、止まる事なく行ってしまった。


(寒い)


 一郷は今までに感じた事のない体温の低下を感じ取っていた。

 感じられるのは、体温の低下と自分が脈打つ感覚だけである。

 その二つの感覚も確実に消えていく。


 –––– 香。

 それは既に、意識と言えるほどの枠も無い不確かな想念だった。


 一郷は気がついていないが、一郷の胸ポケットの中でひしゃげたスマホから、『黒いモノ』がと流れ出て、うつ伏せに横たわる一郷とアスファルトの隙間から染み出している。

 それはまるで意思を持っているようだった。


 それは意思を持っていた。

 腐った臓物のような黒いソレは、一郷の耳元にクチャクチャと集まると、表面がさざないだ。それは一郷だけに囁いているようだ。


 –––– 寒いか?


 一郷はもう瞳孔さえ動かない。


 –––– ならば願え。



 …… 一郷が車に跳ねらてから、ほんの数分後。

 香が一郷の家に行く為にいつもの道を歩いていると、人だかりが出来ていた。どうやら事故があったらしい。しかも、起きたばかりで「救急車! 誰か救急車!」とか、

「いや、あれは無理だろ……」などの声が聞こえて来る。人の群れの合間から、母校の制服を着た人みたい物が道路に横たわっているのが見えた。

 人だと認識出来なかったのは、余りにもあり得ない方向に、関節が曲がっているように見えたからだ。



 黒いソレが人垣の合間に、香の姿を認めたのかどうかは人間には分からない。ただソレは、フルリと薄ら笑うように揺れた。

 

 –––– 死ぬのが怖いなら願え、

      あなたの命を下さいとな。


 一郷はピクリともしない。すでにこと切れているように見えるが、黒いモノは一郷にかろうじて意識が残ってるのを分かっているようだ。一郷の耳の横で楽しそうにフルフルと揺れる。

 死にかけた一郷の耳が聞こえるはずのない声を拾った。


「一郷! うそでしょ! 一郷!」


 一郷の瞳孔が一瞬だけ開く。

 耳元の黒いモノが楽しげに揺れる。


 –––– 凍えるように寒いだろ?

   さぁ、願え。あの娘の命を下さいと。

 –––– そうしたら、お前を助けてやるぞ、

    腕は戻せないけどな。


 くだらない小さな嫉妬が 一郷を車道に誘い出した。一郷はそれによって命を落とす。


 命の温もりを無くしつつ、凍えるような寒さの中で一郷が望んだものは香の温もりだったが……


 –––– 香、来ちゃダメだ。


 それが、一郷の最後だった。

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凍えるほどにあなたをください 神帰 十一 @2o910

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