第46話 思い出の中だけの歌
放課後の訪れを知らせる、生徒たちの明るくも騒がしい声もすっかり消え失せた、昼と夕方の境界ともいえる時間帯。
図書室の奥にある魔法書庫では、耳をすませば、まだかろうじて部活動や遅くまで残っている生徒たちの声が遠方より聞こえてくるが、意識さえしなければ、至って過ごしやすい、心地よい静穏が広がる空間といえるだろう。
それは、調べものをするにはこの上ない優良物件であるのだが、その上質な環境とは相反するように、その結果は芳しいものではなかった。
「……やっぱり、気のせいだったのかしら?」
パタリと重厚な装丁の魔法書を閉じ、ため息混じりに魔法科教師――
そして前傾になり、テーブルの空いているスペースに肘をつくと、志乃はそのまま頬杖をしながら、わずかに視線を上向ける。
真剣な顔で、ずれ落ちかけている黒ぶち眼鏡を気に留めることもなく考えを巡らせる内容は、直近に起こった事件――イミトたち社会弱者集団による学園の襲撃時の出来事に他ならない。
「確かにあの時、あの子が放っていたものとは別の、魔法の気配を感じた気はするのよね……」
アカツキの使用していた魔法は、強力な魔法の系譜によるものであったのは、文献による裏取りからも間違いないものであった。
ただ、志乃が疑問を抱いたのは、事態の終盤に起こった、謎の間についてだった。
事件を分析した専門家やら警察やらの話では、ずっと気を張って魔法による攻防を繰り広げていたことから、集中が途切れた時間が生まれた為だとの見解を得られたものの、志乃自身、その結論に疑念を持っていた。
「――あの感覚はもっと独特な……別の何か大きな力によって、心を撫でつけられるような……そんな感じに思えたわ」
志乃は当初の感覚を思い出そうと目を閉じる。
しかし、覚えているのは曖昧な感覚と、どこからともなく歌声が聞こえてきたような気がするという記憶がある程度。
結局答えが出ることはなく、数秒後、志乃は再び目を開いて頬杖を解き、前傾になっていた身体を起こすのだった。
「そもそも、本当に魔法だったのかしらね。何だか自信がなくなってきたわ……」
魔法を放つ時に発せられる、環境の変化。
それは、ピンと張り詰めた、硬く落ち着かない空気であり、常識でもあった。
故に、魔法であるというのなら、穏やかで安らぐような感覚というものが生まれるはずがないのである。
もしかしたら、現場で耳にした歌声のせいで、そう思ってしまっているという可能性も捨てきれはしないのだ。
経験的にはありえない、荒唐無稽な推論であるのに、感覚的には否定しきれずにいる、可能性の光を信じたい空論。
もし、志乃自身が優秀な魔法の研究学者であったなら、真実へたどり着くための道筋を描くこともできたのだろうが、今の彼女は学園の一教師であり、原因の究明に割くだけの時間もない。
そんな彼女が下した結論は、至極単純明快であった。
「――ま、考えても仕方ないわよね。世の中不思議な事ばかりだもの、今わからなくてもいつの日か、答えがわかる日がくるでしょう」
まるで自分に言い聞かせるようにそう口にする志乃であったが、そこへ割り込むように、扉の向こう側から賑やかで騒がしい、よく聞き慣れた男子生徒の声が、弓矢のように貫通して届く。
「いや、違うんだって。俺はただ――悪気はないんですって。下心は……ノーコメントでって、いやその顔怖いから! あ、魔法は勘弁――」
声の主は、声質、話し方、推測されるシチュエーションから、
いつものことながら、純が女子グループに交ざろうと付きまとって、慶子に見つかり咎められていることは想像するに難くない。
もはや、日常の風景と呼んでも差し支えないような平和なやり取りといえるものであるのだが、志乃の有する教師という立場では、それを看過するわけにもいかない。
「仕方ないわね……」
志乃はそう漏らすと、それまでの神妙な顔つきから一片、他愛ない幸せを享受したかのような、柔らかな笑みを浮かべ、席を立つと、ずれ落ちた眼鏡を持ち上げながら、魔法書庫の入口へと向かって足を進める。
「ちょっと、あなたたち、書庫まで声が届いてるわよ――」
ドアを開け、騒ぎの元凶といえる生徒へ注意の言葉を投げかけながら、書庫を出ていく志乃。
その瞬間、ドアの閉じた衝撃による偶然か、見えざる運命の力か、不意に閉じたテーブルの上の魔法書が開き、ページがパラパラとめくられていく。
そして魔法書がページをめくり終えた際、その項目には、それまで志乃が特段意識もしていない、偉大なる魔法使いの一人についての記述がなされていた。
『その魔法使いの呪文は、あまりにも心地よく、系譜を有する者以外が耳にしても、心を奪われたかのように意識を保つのが難しい。故に、呪文の文言は明文化できていない。聞いた者の話では、呪文の詠唱はまるで歌っているかのようだったとも言われている――』
想いは呪文と共に 一飛 由 @ippi
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