シルクハットの男と花畑

黒鉦サクヤ

シルクハットの男と花畑

 毎日一人の男が通う丘があった。

 秋になると秋桜に似た花が咲き乱れる丘には、毎日訪れる男を気味悪がって近づく者はいなかった。たまに子どもたちが遠巻きに見ているくらいだ。親から注意されているのか、遊びやすい小高い丘に上がる者も、男に話しかける者もいない。

 全身黒づくめの男のトレードマークは目深にかぶったシルクハットだ。この辺りでシルクハットをかぶっている者はいない。男がやってくれば遠くからでもすぐに分かった。

 男の伏し目がちな瞳は切れ長だ。色白で堀りが深く美しい顔立ちをしている。ストレートの黒い髪の毛を肩口で揃えた男は、男女問わず惑わすような色香を放っていた。その術中にはまらないのは子供くらいのものだろう。

 そんな見目の良い奇妙な男が毎日やってくるというだけで、狭い町ではすぐに噂になる。しかし、噂にはなるがその男がいつからやってきたのか、昔から住んでいる者も誰も知らないのだ。男のことを考えると、途端に思考に靄がかかったように朧気になってしまう。だから、ただ気味が悪いと噂されるのだ。


 男は丘に来ると花に向かって話しかけながら、いつも絵を描いていた。透明水彩絵の具が出されたパレットは使い込まれていて、様々な色が染み付いている。来る日も来る日も、男はひたすら花の絵を描いていた。

 花の咲いていない季節にも男はやってくる。そして、満開の時と同じ絵を描くのだ。まるで、目の前にそれがはっきりと見えているかのように、それは美しい絵を描いていた。

 秋桜に似ているのは花と葉の形だけで、薄い桃色の花は透明感があり、硝子細工のようにも見える。赤い筋が幾千も入っていて美しい。それを男は美しく繊細に、糸のような葉の一つ一つまで丁寧に描くのだ。

 男の座る場所は定位置で、丘の上に立つ木の根本に腰を下ろす。その位置からは、丘に所狭しと咲き誇る花を見渡すことができた。

 美しい花に囲まれても、男は見劣りすることなくそこに存在していた。穏やかな表情で花を眺めながら話しかける男は奇妙だったが、町の人々は男が見えないかのように無視をした。

 男はそんな町の人々を気にした様子もなく、ただ丘に通い続けていた。


 ある日のこと、男の後を隠れるようにつける女がいた。歳の頃は十八くらいで、良くも悪くも平凡な身なりをしていた。焦げ茶色の髪を腰のあたりまで伸ばして三つ編みにし、服は質もデザインもありきたりなワンピースを着ている。印象が薄く、記憶にはっきり残るとは言い難い容姿をしていたが、瞳からは意志の強さが感じられた。

 少しキツめの目だけが記憶に残る女は、毎日男の後をつけていた。隠れるのがそれほどうまいわけでもないため男も自分をつける女の存在に気付いていたが、特に気にすることなく放置を決め込んでいる。

 男が歩く道すがら目を向けるものに、女も視線を向ける。何が好きで何に興味があるのかを探るために、女は男の一挙一動を見逃さぬように見つめ続けた。

 そんな日々が幾日も続いたが、女がいつも首を傾げてしまうのは男の影を見ているときだ。男の影が靴と同化しているように見えるのだ。地面にあるはずの影が、足を上げるたびに靴底に伸びているように見える。影がそのような動きをするのはおかしい。自分の目がおかしいのかと擦って眺めてみるが、次の瞬間には足が地についているので確かめようがない。

 そして、繰り返される動作を見ているうちに、女はだんだんとそれがどうでも良いことに思え、他のことに関心が向いてしまうのだった。


 男が飽きもせずに丘へと向かうのを、女も同じように後をつける。芽も出ていなかった丘が鮮やかな緑に染まり、やがて硝子のような花が咲く頃までそれは続いた。

 その頃には女の表情は翳り、男のあとをつけ始めた頃の面影はなくなっていた。意志が強く美しく見えた瞳はギラつき、男への執着が見える。

 女の生きる輝きは失せたが、それと引き替えにするかのように花が咲く丘は美しく、太陽の光を浴びて煌めき風に揺れる。花同士が触れるたびに音を鳴らしているのか、花にあるまじき澄んだ音色が丘に響いていた。

 そんな花の様子を定位置から眺めた男は、目を細め柔らかく笑みを浮かべる。赤みの増した形の良い唇がゆっくりと弧を描いていくのを、女はうっとりとした様子で眺めていた。

 女は男のそんな姿を初めて見た。今まで表情を崩すことがなく人間とは違う存在に見えていた男が、初めて血の通った人間に見える。

 そこで、ずっと見ているだけだった女は、初めて男に声をかけた。人間だと思えた瞬間、少し距離が縮まったような気がしたからだ。


「あなたは、この光景が見たくて毎日ここに?」

「……そういうキミは、何が面白くてここに?」


 男の声は涼やかで抑揚がなく、女を突き放しているようにも聞こえる。疑問を疑問で返すなんてひどい人、と思いながらも、女は返答があったことに気を良くし、更に続ける。


「あたしはあなたが、その……何を毎日しているのかが気になって」

「そんなもの、一週間も見ていれば分かるだろうに」

「それは……!」


 男の言うとおりだった。いつも同じ行動を繰り返す男は、美しい人形のようで人間味がなかった。毎日同じ時間に丘へ向かい、日が暮れるとその場を後にする。繰り返される日々は代わり映えがなく、観察している人間には退屈な日々だ。

 それでも女が毎日後を追ったのは、男に淡い恋心を抱いていたからだった。自分自身の時間を割いてでも、ただ男の感情の向く先を知りたい。好むものを知り、何に喜び何に悲しむのか。

 執着にも似た思いは日々の繰り返しの中で深まり、褪せることなく鮮やかに書き換えられ思い出となる。そして、それはまた明日への執着へと変わる。尽きることない欲望は、女を男に執着するだけの魔物へと変えた。


「毎日、あなたを見ていて幸せだったの。あなたの後ろを歩いて同じものを見て同じことを感じて幸せだったの」

「キミは奇妙なことを言う。同じものを見たからと言って、同じ感情になると?」


 その言葉に、夢見るように男を見つめていた女は目を釣り上げる。自分が手に入れたと思ったものを否定され、女は好きだという気持ちがほんの少し揺らぐのを感じていた。

 好きだけれど手の届かない存在だろうから遠目に眺めるだけでいい、という思いから始まった恋。それが、声をかけることができたならこの美しいものが手に入るかもしれないという期待に変わった瞬間、感情を否定されて好意が憎悪に変わる。


「そもそも、感情とはなにか、私にはよく分からないけれど」

「さっき笑っていたじゃない!」


 あれが感情でなくてなんだっていうの、と女は叫ぶ。

 しかし、男はつまらなさそうに女から視線を反らすと花を眺め笑う。それが、また女の癇に障る。

 頭に血が上った女は、目の前の花を掴むと勢い良く引きちぎった。

 男の顔が歪むのを見た女の口角が上がる。甲高い笑い声が丘に響き、花が風もないのに不愉快そうに揃って揺れた。

 印象が薄かったはずの女の顔は歪み、意志の強く見えた瞳は濁り醜悪だ。自分が男の表情を変えたことに優越感を覚え、女は自分の手元から滴るものに気づかない。


「今は私があなたと話しているのよ! こんな花なん……か……ひっ、なにこれ」


 こんな花なんかぜんぶ千切って捨ててやる、と言おうとした女の喉から短い悲鳴が上がる。笑いながら憎たらしい花を捨てようとしたが、手折った茎から鮮血が滴っているのにようやく気がついたのだ。

 花を摘んで血が流れるはずがない。血を流す花があってたまるかと、女は唇を噛み締め自分の手を眺める。投げ捨てた花からはありえないほどの血が流れ、地面にゆっくりと吸い込まれていく。

 女は自分の腕や手をくまなく調べるが、怪我を負っている様子はなかった。しかし、腕と手についた血が生き物のように動いていた。地に向かって手を下げているのに、糸のようなそれは上へとあがってくるのだ。糸のような葉に似たその筋は、女の腕を這い上がり首筋へと到達する。


「嫌っ、なにこれ……!」


 振り払おうと腕を動かすが、まったく変化がない。女は半狂乱になりながら、男に助けを求める。視線の先で、男は満足そうな表情で花に話しかけていた。


「お気に召したかい? そう、執着に満ちた心は美味しいか。それは良かった」

「ちょっと、誰と話してるのよ! 早くこれを! ……ングッ」

「おしゃべりなのは良くないな」


 這い上がった血が勢い良く女の口に飛び込む。糸のような細さだったが、這い上がる速度とその本数が尋常ではなかった。女が手元の筋に気を取られているうちに、足元から何千、何万という赤が上を目指していた。まるで、毛細血管が表に出てきたような姿になっているが、女は気がつきもしない。

 血の海で溺れそうになりながら必死の抵抗を続ける女に、男はたいした感慨もなく声をかける。


「私が話しているのは私の彼女とだよ。この地を守るために存在を私に差し出した愛しい人」

「かはっ……人なわけない。ここには花しか……」

「そう、それが彼女だよ」


 口に入った血を吐き出すことは叶わず、女は息をするためにそれを飲み込んだ。こみあげて来る吐き気を我慢しつつ、男への執着心の塊となった女は唸るような声を上げる。


「あなたが花にしたというの?」

「そう。私の最高傑作だよ」


 それから男は、この丘の成り立ちを自慢げに話し始めた。


「昔からあったんだよ。その土地を守るために、人柱にするという方法が。この土地は災害の多い地域でね。土地も痩せていた。私は彼女と一緒になんとかこの地を残したいと、様々な文献を読み漁った。そして見つけたんだ」

「そんな魔術めいたもの、とっくに廃れて誰もできやしない」

「皆、キミと同じように思っただろうね。私が魔術師の血を引いてなければ」


 それに術を施したのはずっと昔の話だよ、と男は口にする。

 二十代後半に見える男はいったい何歳なのか。初めて女は、男に対して疑問を感じるとともに恐怖を抱く。女は体が震えるのを感じた。自分が恋をした男は何者なのだろうか。何も知らないまま、光に群がる虫のように男の見目に惑わされて囚われた。


「私はね、彼女のことを愛していた。愛していたからこそこの術は成功したし、私も彼女と一体になれた」

「なにを……」


 何も知らないかわいそうなキミ、と言うと男の形が崩れていく。足元の影が広がった、と女は思った。しかし、それは正解ではなく影だと思っていたものはどす黒い色をした血溜まりだった。血溜まりの中に男の下半身が埋もれている。


「私と彼女はこの土地を愛している。花はここにしか咲かないけれど、彼女はこの広い丘だけではなく、人々の住む家や学校、街などの地下にまで根を伸ばしている。そのおかげでこの土地は生きていられるんだよ」

「だからなによ。あたしにはそんなの関係ないしあなただっ……」


 黙らせたかったのか再び血の海が彼女を襲った。吐き気を我慢しながら、女は生きるために血を飲み干すしかない。口元だけではなく、今や全身を赤く染めた女は咳き込み膝をついた。


「キミは人の話を最後まで聞く癖をつけたほうがいい。あぁでも、それはもう必要ないな。キミは彼女に選ばれたから」

「勝手に話を進めないでちょうだい。あたしは彼女なんて知らないし、話を聞く気もないわ。私はあなたを追ってきたの」

「その時点で彼女と無関係ではないんだよ。私も彼女の一部で花なんだ。私は群がる虫を彼女に与えるために放たれた花。そして、キミは私に群がった虫」


 キミは彼女の血をすでに二回も飲み干した、と男は深みを帯びた赤からゆらりと元の形を取り、女に近付いた。

 女は焦がれていた男が発した言葉に、頭を殴られたような衝撃と絶望を感じながら距離を取ろうとする。尻と足裏を引きずりながら少しでも遠くへ逃げようとするが、地面から伸びた血がそれを許さない。血を飲み干した喉は焼けるように熱く、内臓も痛みが走り叫びたいほどだった。しかし、声は行き場を失ったように、震えで噛み合わなくなった口からも漏れることはない。

 男の長い足で距離を詰められ腕を掴まれた瞬間、今までの恐怖はどこへ行ったのか、待ちに待ったときが来たとばかりに恍惚の表情を浮かべる。まるで皮膚から直接媚薬を流されたとでもいうように、女は喘ぎ崩れ落ちた。


「彼女のは強い。そして、それから作られた私も。もう喉を焼くような痛みはないだろう。ねぇ、キミはどう思う? 私は神ではないから全員を救うことはできない。神でも救うことは難しいかもしれない。でも、二人の命と引き換えに多くの人を救えるのなら、その二人を犠牲にして世界を救おうと思わないか? 百年に一度の犠牲で更に多くの者が救われる」


 もう聞こえていないか、と男の足元でゆっくりと花に覆いかぶさられ、地面に埋もれていく女に告げる。

 命の選択で安らぎを得た地に、新たな血が加わる。


「キミの命で、この地はまた百年生き延びるだろう」


 美しい男は、とぷんと足元にある始まりの血溜まりに溶けこみ姿を消す。男が溶け込むと同時に消えた血だまりの上に、黒いシルクハットだけが残っていた。強い風が吹き、それは転がりどこかへと消える。

 今度はいつ姿を現すのか。この地を潤す血液が足りなくなったときか。

 急に姿を消しても、きっとすぐに男のことは忘れ去られる。気味の悪い男が消えて良かったと噂になり、そして消えていくだろう。


 赤く血塗られた地に、美しい花が咲く。

 硝子のような花に一筋、血のように赤い新たな模様が入った。

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