「未完成」
三好 真琴
未完成
「どこだ、返事をしてくれ!どこに行ってしまったんだ、君は…」
勢いよく体を起こして目を覚ますと、そこは何も変わらない自室だった。体が汗でひどく濡れていてパジャマまで染みわたっていて気持ち悪い。なんだか悪夢を見たような気がするが、思い出そうとすると靄がかかるように思考があやふやになり、何も思い出せない。まぁ夢なんて半分くらいは思い出せないし、悪夢なら余計思い出したくもない。
とりあえず汗を洗い流したいし、気づけば喉もカラカラなので寝室を出て、一人暮らしでは少し持て余す大きさのリビングダイニングへ向かう。キッチンヘ向かい浄水モードにした蛇口をひねり、コップに入れた水を勢いよく飲み干す。少し不快感もなくなったところでシャワーを浴びに浴室へ向かった。パジャマを洗濯機に放り投げ浴室へ入ると頭から一気にシャワーを浴びる。最初は冷水だがこの炎天下の夏には気持ちよく、でも少し冷たいなと思った頃には温水に変わっていた。思えば最近よくこの朝のシャワーを浴びているなと思った。もちろん今が夏であることも一員ではあるが、最近悪夢で目が覚めることが多いように思える。体調でも悪いのかと思い、浴室を出て体を拭くと、リビングの棚からスティック型の完全栄養食を取り出してかじった。完全栄養食はその名の通り、これさえ食べていれば(厳密には水は飲まなければいけないが)健康体を保つことができる優れもので、元から食にあまり関心がなかった私は、今はこれはない生活が考えられない程生活に定着している物となっている。ただし、私のようにほとんど完全栄養食だけで生活している人はむしろ少なく、普通の食事を保管するような形で利用している人が大多数である。人の殆どは食事の楽しみを一種の生活の糧としているのだろう。
こういった健康面での技術の進歩のおかげか、病気を原因とした死者はかなり減少した。それに自動運転の普及で交通事故も減少し、現代の死因はほぼ老衰、自殺、少数の殺人となっている。特に近年は自殺の件数、割合が微増の傾向にあり問題視されている。こんな便利な時代で自殺をする人が増えるという事が自分にはいまいちピンとこなかったし、それを技術の進歩のせいにする一部メディアには半分呆れていた。
そんなことを考えているうちに、もうそろそろ職場に向かう時間だと思い、F-Glassをかけ、眼鏡のグラス越しに空中に浮かんで見えるディスプレイを、F-Ringをつけた右手人差し指で操作し天気予報を見てみると、そこで初めて今日が休日であることに気がついた。そもそも、仕事だからといって外に出る必要はなく家でも仕事はできるのだが、気晴らしのために週2、3日は仕事場に出向いていた。今日は嫌な夢も見たし広い家で一人で仕事をする気分でもなかったので出社しようと思っていたが、休みなので出社してもより広いオフィスで一人仕事をする羽目になるだろう。
休みなら家でなにかするかと考えてみたが、したいことと言っても特に思い浮かばす、強いて言えば仕事かと思い、とりあえずワークステーションを右手で指差し、指を上に持ち上げるようなジェスチャーでワークステーションを起動する。デスクに腰掛けキーボードを操作し、F-Glass上の複数のディスプレイを操作する。キーボードも最近は投影式のものが主流だが、私は打鍵感が気に入っている愛用のキーボードを利用している。
仕事前の暇つぶしにジャンク品を見ていると、スマートフォンが目に入った。画面をタッチして操作する携帯端末でい1世代前はITデバイスの主流だったものである。今は、眼鏡型端末のF-Glassと指輪型操作デバイスのF-Ringに取って代わったが、私はスマートフォンも気に入っていたし今でもたまに使う。便利になったとは思いつつ過去の遺産になるデバイスを見ると少し物悲しい気持ちになるが、F-GlassもF-Ringも発明した張本人が言っても仕方がないなと思った。私は肩書は一応ITデバイスメーカ、Frontechの代表取締役である。
仕事が一段落したところで、少し目が疲れたと思いF-Glassを外し眉間をつまんだ。F-Glassも今はコンタクト型が主流で、眼鏡をかけている人はそんなにいないが、目が疲れた時はどうしているんだろうか。
日も傾き、家で特にやることもなくなったので、もともと外出するつもりだったし散歩でもするかと思い、あてもなく街をぶらつくことにした。特にあてはなかったので、とりあえず駅前の方まで出てみると、F-Glassのディスプレイの右下に駅近くのバーの広告が表示された。私はお酒をあまり嗜まないため、普段こういった広告はブロックしているが、なぜ表示されたんだろうと不思議に思っていたが、どうせ特に目的のない散歩であったし、いい機会だと思い表示された広告のバーに向かうことにした。酒に酔って布団に入れば最近の悪夢も見なくなるだろうという淡い期待とともに。
階段を下り地下になっている入り口を開けると、絞られた灯りに照らされたグラスとボトルが並ぶおしゃれな雰囲気の店内にバーテンダーと一人の女性客がカウンターに座っていた。
普段このような場所にはあまり来ないため、少し緊張しながらも女性客から2つ離れたカウンター席に腰掛け、あまりカクテルも知らないため飲み慣れたモヒートを注文した。バーテンダーは50代くらいの男性で、シャツにベストに蝶ネクタイが様になっている。女性は20代後半くらいか、横顔からでもきれいな顔立ちであることがわかり年齢は伺いしれない。
そうしてバーテンダーから差し出されたモヒートを口にしながらF-Glassに流れるニュースをぼんやりと眺めていると、突然2席隣の女性が近づき話しかけてきた。
「隣、いいですか?」
バーに来ることもあまりないのでこれが普通なのかわからず、しかし自分の人生の中では初めての経験で驚きながらも、恐る恐る隣の席を薦めた。
「ここにお客さんが来るの、珍しかったのでつい」
「そうなんですか、経営大丈夫なんですか?マスター」
「余生の趣味みたいなものなので、大丈夫ですよ」
余生ということは、もしかするとこのマスターも予想より歳を召されているのかもしれない。
「お仕事は何をされているんですか?」
「IT系の会社でね、昔からデバイスとかいじったりするのが好きなもので。貴方は?」
「私は博物館の整備員です。展示物の整備が仕事ですね」
「美術品が好きなんですか?」
「いえ、特にそういうわけでは。なんとなくで選んだ職なんです。でも最近は少しやりがいというか、今まではなかったんですけれど仕事に気持ちが入るようになってきた気がします」
「それは良かったですね。お仕事頑張ってください」
「ありがとうございます。貴方も、頑張ってください」
「ありがとうございます」
「そういえば、先程これを落とされましたよ」
そう言って差し出されたのは、指輪だった。F-Ringではない普通の指輪だ。
「実はこれを渡すために話しかけたんです。左手の薬指から外れて落ちていました。大事なものでしょう?無くさないであげてくださいね」
渡された指輪に心当たりはなく、結婚もしていないので少し考えた後に彼女に返そうと思い振り返ったが、そこに彼女の姿はなかった。心当たりはないが、言われたとおり一度左手の薬指に指輪をはめると、サイズがぴったり合った。
その時、頭の中で突然いくつもの声と風景がフラッシュバックした。声には聞き覚えがないがとても暖かい気持ちに包まれる声で、風景も見覚えがないものが複数あったが、最後に見えた風景は自宅のマンションの屋上だった。それと同時にその場所に今すぐ向かわなければなにか大切なもの、そう、この声の彼女を失う、という強烈な思いに駆られた。
バーの扉を勢いよく開け、自宅に向かって駆け出した。
今の自分にとっては、理由はわからないが、声の彼女を失うことが人生で最も恐れる事象であり、それは自分が死ぬことよりも耐え難いものであった。自宅のマンションにたどり着き、エレベータで最上階まで向かい、屋上へ続く階段を駆け上がり扉を開くと、そこには夜の帳の下に誰もいない屋上が広がっていた。急に名状しがたい喪失感に襲われ、その場にうずくまった。頭の中のどこを探しても、この喪失感の原因を見つけることはできなかった。
私は思わず叫んだ。
「どこだ、返事をしてくれ!どこに行ってしまったんだ、君は誰なんだ!」
勢いよく体を起こして目を覚ますと、そこは何も変わらない自室だった。内容は覚えていないが悪夢を見たらしく、寝覚めは最悪だった。リビングに向かい水を飲んだ後に、シャワーを浴び朝ごはんの完全栄養食をかじり、F-Glassをかけてオフィスに向かった。
オフィスにつくと社員が元気に挨拶をしてくれ、自室につくと秘書にコーヒーを入れてもらい、そこからは作業に集中した。代表取締役とはいったものの経営面は副社長に任せっきりで、私は研究に没頭していた。静かな場所のほうが集中できるが、ずっと一人でも気が滅入るのでたまに出社して喧騒の中仕事をするのも良い。
そうして、仕事も一段落し電車に乗って最寄り駅まで行き、改札を出たところで、F-Glassのディスプレイの右下に駅近くのバーの広告が表示された。普段こういった広告はブロックしているが、なぜ表示されたんだろうと不思議に思っていたが、酒に酔って熟睡できれば悪夢も見なくなるのではないかと思い、バーに向かうことにした。
バーに入るとバーテンダーと一人の女性客がいた。私は女性客の一つ隣に座り、モヒートを注文した。モヒートを傾け酔いを体に巡らせていると、女性客が声をかけてきた。
「隣、いいですか?」
こんなこともあるものなのかと思いながら、こんなときだからこそ話せることもあるかもと思い、隣の席を薦めた。
「実は悩み事があるんです」
「どんなことですか、頼りになるかはかなり微妙ですが聞くだけでも良ければ」
「ありがとうございます。実は、ある方に伝えたい思いがあるんです」
「なるほど、それが伝えられないんですか?」
「伝えることは難しくないんです。でも、伝えたところで意味がないんです」
「意味がないかは伝えてみないとわからないのでは?」
「いえ、私にはわかるんです。ずっと見てきましたから」
「それでもやはり、伝えるべきだと僕は思います。悩んでいられるのなら伝えないと前には進みませんよ」
「そうですね…ありがとうございます。考えてみます。そうだ、これ。左手の薬指から外れて落とされましたよ。大事なものでしょう?無くさないであげてくださいね」
そう言って差し出されたのは、指輪だった。心当たりはなく彼女に返そうと思い振り返ったが、そこに彼女の姿はなかった。仕方なく言われたとおり一度左手の薬指に指輪をはめると、サイズがぴったり合った。
その時、頭の中で声と風景がフラッシュバックした。声には聞き覚えがないがとても暖かい気持ちに包まれる声で、風景は自宅のマンションの屋上だった。そしてその暖かな声で、「ごめんなさい」と聞こえた気がした。それと同時にその場所に今すぐ向かわなければ声の彼女を失う、そしてそれが自分には耐え難いことであるという強烈な思いに駆られた。
バーを飛び出し自宅へ向かい、屋上へ上がると、そこには誰もいなかった。誰もいないことがわかるとともに、大きな喪失感に苛まれた。
私は思わず叫んだ。
「どこだ、返事をしてくれ!君は誰なんだ!もう一度、その声を聴かせくれ…」
勢いよく体を起こして目を覚ますと、そこは何も変わらない自室だった。いや、一つ違う点と言えばすでに日が傾いていた。焦って職場に連絡しようとF-Glassをかけメッセージを贈ろうとすると、すでに私から病欠の連絡を入れている履歴があった。そんなメッセージを送った覚えはないが、どうやら仕事に問題はないらしい。とりあえず一息つきキッチンで水と完全栄養食を口に含むと、F-Glassのディスプレイの右下に駅近くのバーの広告が表示された。なぜ自宅でこれが届くのか、それにこういった広告ばブロックしているはずだと不思議に思ったが無視することにした。しかし、心の中に引っ掛かりが残り、行けば広告表示の原因も心の引っ掛かりも無くなるかと思いバーに向かうことにした。
バーに到着し扉を開くと、そこにはバーテンダー以外に誰もいなかった。カウンターへ近づくとマスターに話しかけられた。
「こちら、お客様へ、ある女性のお客様から。」
そう言って差し出されたのは、一切れのメモと指輪だった。メモには一言”思いを伝えることにしました”と書いてあった。指輪に心当たりはないが、なんとなく左手の薬指にはめてみるとサイズがぴったり合った。
その時、頭の中で声と風景がフラッシュバックした。声には聞き覚えがないがとても暖かい気持ちに包まれる声で、風景は自宅のマンションの屋上だった。屋上には一人の女性の後ろ姿があり、その暖かな声で、「ごめんなさい」と言い放ちビルの淵から体を投げ出そうとする光景が。
考えるよりも先に体が動いていた。彼女が自分にとって何故かとても大切で、失ってはならないという思いで自宅の屋上へ急いだ。
屋上の扉を開くと、そこには一人の女性がいた。とてもきれいな顔立ちをした20代後半位の女性だった。女性は口を開いた。
「あなたが探し求める女性は私ではないわ。でも、私は貴方に伝えたいことがある。私のわがままだけど、どうか聞いてほしい。」
女性は切実そうな面持ちで私に訴えた。女性は少し空を見上げた後、私に言った。
「ごめんなさい、少しだけ待っていてもらえるかしら」
篠宮凪は、ログイン用のヘッドキャップを外し、立ち上がると整備室を出て博物館の廊下へ出た。そして、音声ガイダンスではなくよく知る人の説明を聞きたいというあつい要望に答えるため、博物館のエントランスヘ向かい、Frontech社の2代目代表取締役の元へ向かった。
目的の展示物の前まで代表取締役をご案内し、超巨大な街の立体ジオラマ映像が展示されているディスプレイの前で説明を始めた。
「こちらが、タイトル『未完成』でございます。こちらは超高性能コンピュータによってシュミレートされている2年前のここ、東都でございます。ここに表示されている人物はすべて個々のAIにより計算され表現されております。こちら作者は、御存知の通りFrontech社元代表取締役の新垣覚氏でございます。タイトル『未完成』の理由ですが、こちらのシステムが発見された新垣氏の自宅にて書き置きされたメモに『未完成』と記載されておりました。新垣氏は1年前にお亡くなりになり、その際こちらが発見されたため、そのメモの記載からそのまま本作品のタイトルとなりました。」
「なぜ、未完成なんですか?」
「新垣氏は2年前に妻・新垣恵氏が亡くなられた時から本作品を開発されたとされております。しかし本作品には、亡くなられた奥様は存在しません。これは一説になりますが、新垣氏は奥様も本作品で表現されようとしましたが、表現できなかったのではないかとされています。」
説明を聞いたその客は、瞳を閉じて押し黙った後、ありがとうございます、と一言だけ残してその場を去った。
篠宮は整備室に戻り、ログイン用のヘッドキャップを装着し、「未完成」へログインした。
女性はその場で急に倒れ、しばらくそのままだった。
救急車を呼ぼうとも思ったが、待ってくれと言われたため言われた通りにした。
しばらくすると、女性は目を覚まし立ち上がり、今にも泣きそうな顔で私に向き直った。
「私はあなたをずっと見てきました。あなたの知らない場所から。あなたのその純粋な思いとその大きさを。しかし、その思いはここでは成就することはありません。この世界で、あなたの存在するはずのない思いは、”バグ”として取り除かれてしまう。それが私には耐えられませんでした。そんなあなたを見ていくうちに、私はあなたのその思いの美しさに惹かれていきました。それがたとえ私に向けられたものではないと分かっていても。私のこの思いもきっと成就はしないでしょう。しかし、今この瞬間だけ、あなたのメモリに私の思いを刻ませてください。この指輪を受け取ってはくれないでしょうか。」
私は急に涙が溢れ出し、その指輪を受取ることはできず、その場でうずくまった。
ただ、何もない左手の薬指を握りしめながら。
「未完成」 三好 真琴 @makotoM
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