第5話 月

次の日。

ボクは早く起きて学校へ向かった。

朝焼けは見なかった。

最初で最期の朝焼けは、ルナと一緒に見ると心に決めていた。

昨日の感動は、もう二度と味わうことはできない。

だから、この世界にあのときの景色を残しておきたい。

そう、思った。

彼女は今日の朝焼けを見てしまっただろうか。

そうだと悲しいな。

そんな事を考えながら、ボクは誰もいない電車に乗った。


学校についた。

ボクはいつもどおり、ピンで鍵を開けて屋上に足を踏み入れた。

イーゼルを立て、白いキャンバスに筆を滑らせた。


ふぅ、描き終わった。

もうやりきった。

柵に手をかけると、彼女と目が合った。

あぁ、死にそびれた。

そう思いながら、彼女に手を振り返した。



6時間目は、ズル休みした。

ボクはまた、屋上へ来た。

イーゼルを立て直し、絵を立てかける。

うん、いい出来だ。

もう、心残りはない。

柵の外に出て、上履きを脱ぐ。

きれいに並べているときに、6限終了のチャイムが鳴った。

ボクはそっと、あのドアの方を向いた。

ギィという音をたてて、ドアが開いた。

ボクはそっと、後ろに倒れた。


屋上からゆっくりと落ちていく。

ルナの足音がかすかに聞こえる。

あぁ、ボク死ぬんだな。

そんな事を考えていると、心残りがあることに気づいた。

ルナに気持ちを伝えていない。


失敗した。

こんな大事なことを忘れてしまうなんて。

でも、もう遅かった。

あ、落ちる。

ボクはそっと目をつぶった。


目を開けると、色素の薄い柔らかな髪の毛と、白い肌をもつ死体が、鮮やかな赤い海に沈んでいた。


あれ?おかしい。

ボクは死んだはずだ。

なんで視覚がある?

なんで目の前にボクの死体がある?

ちゃんと死にきれなかったのか?

ボクは自分の体に目を向ける。

透けていた。

あ、ボク、幽霊になったのか。

神様が、ボクにチャンスをくれたのかもしれない。

これで、本当に心残りがなくなる。


ボクの死体の周りを、知らない生徒たちが囲んでいる。

先生が駆けつけてきた。

すると、屋上からルナの叫び声が聞こえた。

慌てて飛んでいく。

「やめて……っ」

そう言って、口を抑えているルナの姿があった。

近づいて、そっと話しかける。

「ルナ……?泣かないで。」

だが、ルナの目からはポロポロと涙がこぼれ落ち続けている。

聞こえないのか……?

そんな、そんなはずは。

神様は、またボクを苦しめるのか。


「ルナ?ねぇルナ。」

ボクは呼びかけ続けた。

でも、ルナは先生の言葉にしか耳を傾けていない。

「ルナ!!」

彼女はぶんぶんと、首を横に振った。

もう、どうしようもないんだと、その時悟った。


ボクは、絵を描くのが好きだった。

小さい頃から絵ばかり描いていた。

だがそれは、医者の父には反抗しているように見えた。

父はボクを罵った。

ボクの絵を破って、踏み潰した。

ボクは母に助けを求めた。

しかし母は、父のその態度に怖がって、何もしてくれなかった。

ボクだけが、父の中で悪者になった。


ボクは父に言われたとおり、絵を描くのをやめた。

一生懸命勉強した。勉強して、勉強して、勉強して。

成績が伸びると、父はとても嬉しそうに褒めてくれた。

でもある時、図工でいい賞をとったのを父に見せると、すごく怒られた。

お前はまた俺に反抗するのか、と。

ボクの中の、何かが壊れる音がした。


ボクは勉強をしなくなった。

父はボクを諦めるようになった。

悪い息子を持ったもんだ。

そう言い残して、父はボクと顔を合わせなくなった。

ボクは絵を描き続けた。


ずっと嫌われてきたボクの絵。

なんで描き続けているのか、わからなくなったとき、ボクの絵を褒めてくれた人がいた。


それが、ルナだった。


びっくりした。そして、とても嬉しくなった。

ボクはこのために絵を描いていたんだと。

この子のために、絵を描いていたんだと。

その子は、自分のことを月と呼んでくれと言った。

この子は月なんかじゃない。

ルナは、ボクにとっての太陽だった。


ルナとあってから、世界がいつもより輝いて見えた。

写真がある世界で、風景画を描く意味がわからない。

そう言った父の言葉なんて、どうでも良かった。

でも、ある時、ルナに写真みたいと言われて、少し凹んだ。

やはり、文明にはかなわないんだと、そう思った。


ボクはより一層、絵にのめり込んだ。

文明に勝てるように。

ルナに喜んでもらえるように。

ボクの絵の全ては、人生の全ては、ルナのためだった。

昨日ルナがボクの絵を見て泣いてくれたとき、

明日死のう。

そう決めた。


それからは早かった。遺書とルナへの手紙を書いた。

ボクの絵は全部、ルナにプレゼントすることにした。


ボクの死後、ルナはボクの絵を見て、つらそうな顔をした。

苦しそうに、泣いているときもあった。

喜んでもらおうと思って描いた絵が、ルナの表情を暗くしていることが許せなかった。

こんなはずじゃなかったのに。

ルナには、自由になってほしいと思っていたのに。

ルナは、ボクとの過去に、囚われていた。

絵を描き始めたルナは、ボクとの思い出をなぞるように、ずっとあの頃の風景を描き続けた。

死んでいるのと同じだと、そう思った。


見ているのが辛かった。

もう苦しめないでくれ。

ルナを、そしてボクを。

口の聞けないボクに、できることはなかった。

ルナの行動を、ただただ待つしかなかった。

ルナ、早く自由になって?

たとえその手段が、自殺だとしても。


ルナが母校に行くことにしたらしい。

ちゃんとした鍵で、屋上のドアを開ける。

ルナはボクが飛び降りたところえとまっすぐに歩いていく。

軽やかな足取りで柵を飛び越える。

そして同じところに靴を揃えておいた。

ルナは、綱渡りをする道化師のように柵の周りを歩き始めた。


強い風が吹いた。

ドアがバタンと閉まった。


ルナの体が、ふわりと浮いた。


ボクは思わず抱きしめた。ルナには何も届かないのに。

しかし、ルナの目が大きく見開かれた。

「雲……!」

ボクの名前を読んだルナの目は、何かを必死に探しているように見えた。

「雲、どこ、どこにいるの……!」


ボクが見えないんだ。

「ルナ」

そう呼ぶと、ルナの動きが止まった。

「ルナ、聞こえる?」

ルナはうんうんと、強く首を縦にふる。

「ボクは、ここだよ……」

「みえない、どこ、どこなの?」

ボクを必死で探すルナの耳に、ボクは囁いた。


「透明なボクを見て……!


 透明なボクを、愛してよ」

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透明なボクを愛して 増田時雨 @siguma_rain

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