第5話 雲
次の日。
私はいつもより早く起きて、ベランダに向かった。
朝焼けを見ようと思った。
でも、見る前に家の中に入ってしまった。
昨日の感動はもう味わえないと思った。
一度読んだ推理小説と一緒だ。
最初と同じ衝撃を自分で勝手に期待して、裏切られたと感じてしまう。
そして、初めの感動さえ濁してしまう。
そう、なりたくなかった。
でもまた布団に入る気にもなれなくて、私はいつもより早く家を出た。
通勤ラッシュじゃない電車って、こんなに快適なのか。
早起きは三文の徳というが、本当かもしれない。
ちょっぴりいい気持ちで、学校へと向かった。
校門を抜けると、屋上に彼が居るのが見えた。
彼に手を振ると、優しく手を振り返してくれた。
ふふっと笑って教室へと歩いていく。
今日はなんか頑張れそう。
そう思った。
やっと放課後になった。
私はそっと屋上のドアに手をかける。
ギィという嫌な音がして、重いドアが開く。
外を出ると、彼のイーゼルがぽつんと立っていた。
使いかけの絵の具のチューブが床に転がっている。
また階段へと続くドアの屋根に寝ているのかな?
そう思い、ぐるりと回って上を見上げる。
風のせいで、開け放していたドアがバタンと閉まる。
彼はそこにはいなかった。
あれ、どこだろう。
私は屋上をゆっくりと歩き出した。
塗装の剥げた白い柵が夕焼け色に染まる。
すると、あるものを見つけた。
私と同じ色の、上履き。
それが柵の外にきちんと並べられている。
嫌な予感がした。
無意識のうちに震えていた手を強く握り、それに向かっていく。
雲の多い空が、茜色に染まっていく。
柵の近くに来た私は、そっと深呼吸した。
そして、下をおそるおそる覗く。
そこには、私の探していた色素の薄い柔らかな髪の毛と、白い肌をもつ死体が、鮮やかな赤い海に沈んでいた。
私は、信じられなかった。
その場にうずくまり、口を抑えた。
下からは、女子の高い悲鳴が聞こえる。
え、なんで、そんな、違う、違う、違う。
彼なはずがない、雲なはずがない。
だって、今日あんなに優しく手を振ってくれたのに、
昨日、あんなに喜んでサンドイッチを食べてくれたのに、
あんなにきれいな光景を一緒に見たのに。
一緒に笑って、一緒に泣いて。
なのに、彼が死ぬはずがない。
下の生徒達の声を聞きつけた先生が、私と彼の世界にずかずかと踏み込んでくる。
そんな、やめてくれ、嫌だ、やだ!
「来ないでっ!!!」
私の金切り声に、先生たちの足音が止まった。
「やめて……っ」
視界が、だんだん滲んでいった。
嗚咽が、抑えきれずにこぼれていく。
先生たちは、小さな声で話し合ったあと、私の方へゆっくりと歩いてきた。
私はそれを拒絶できなかった。
拒絶する気がおきなかった。
これは夢だ、私は夢を見てるんだ。
そう、自分に言い聞かせた。
「あの、何があったか教えられる?」
知らない先生の遠慮がちの声。
私はそれにいらだちを覚えた。
ぶんぶんと、首を横に振る。
「そっか……」
そう言い残して、先生はどこかに歩いていった。
のどが渇いた。
早く起きないと。
そう思って前を見ると、担任がしゃがんで私を見ていた。
「歩けるか?桜木が、多分、青城に残していったものがあるんだ」
私は先生に腕を持ち上げられながら立った。
彼のイーゼルの前に連れてこられる。
ぼんやりとした視界のままで、その上においてあるキャンバスに目を向ける。
それを見た瞬間、涙も吹き飛ぶような衝撃が、私を襲った。
様々な色によって描かれた本物のような朝焼け。
優しく揺れる木からは、葉擦れの音が聞こえてきそうだ
柔らかな芝生には、使いかけの絵の具のチューブが散らばっている。
そして。
そこには、静かに涙を流す私が描かれていた。
涙の中には、景色とともに彼の姿も丁寧に描かれている。
最高傑作だと思った。
今まで、彼の作品をたくさん見てきたが、こんなに心を揺さぶられたのは初めてだった。
涙すら出なかった。
本当に感動すると、涙すら流せないんだということがわかった。
私の前に、一つの茶封筒が差し出された。
ルナへ
そう拙い文字で書かれた封筒をゆっくりと開ける。
ボクは君の雲になれましたか?
ただその一文が、書かれていた。
私はその場にぺたりと座り込んでしまった。
暑くて、眩しい太陽に。
こんな世界で、生きていける気がしなかった。
ここで初めて、寂しさを感じた。
私は自分の中の水がすべて涙になったのではないかというくらい泣いた。
でも、泣くだけでは死なせてくれないようだ。
私は警察の人にいろいろ聞かれた。
私は、一言も話さなかった。
彼と内緒だと約束しているのに、言えるわけがなかった。
彼は自殺だったと、あとで担任から話された。
彼の本名は「
彼のイーゼルの上には、私への手紙と遺書がおいてあり、彼の作品と絵で使う道具は、私に全部渡すと書かれていたらしい。
私の部屋の壁は、彼の作品でいっぱいになった。
絵が描けない私の部屋に、たくさんの絵の具や絵筆が運ばれた。
絵の具がついたイーゼルが、勉強机の隣に立てらてた。
私はその部屋に入るのを極端に恐れた。
彼が死んだのを目の前に突きつけられているような気がするからだ。
そして、絵を描き始めた。
彼との思い出を、彼のように表現できるようになりたかった。
彼の道具は使わなかった。使えなかった。
私の絵は自分でもびっくりするくらいうまくなっていった。
でも、彼との思い出はいつまでも描けなかった。
描いても、納得がいかない。
私の周りには駄作だけが溜まっていった。
でも、私の作品は評価された。
皮肉なもんだ。
過去にしかとらわれていない人間が、新鋭の画家とか言って取り上げられる。
本当にこの世界は嫌だ。
私には眩しすぎる。
もう、死んでしまおうか。
私なんて、生きている意味がない。
何年生きた?
もう自由になってもいいだろう。
彼のもとへ、行ってもいいだろう。
久しぶりに、母校に来た。
校長に許可を得て、屋上へ向かう。
あのときと同じように嫌な音をたてて開くドアを越えて、上履きがおいてあったところに自分の靴底を合わせる。
そっと靴を脱ぎ、きれいに揃える。
そして、柵を持たずに周りを歩き出す。
強い風が吹いた。
ドアがバタンと閉まった。
私の影は、もう屋上にはなかった。
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