7
槐琴音の胸中には、止まぬ恐慌が吹き荒れていた。拭っても拭っても、より根深く精神の平静を穢して脅かす、終わることのない不安感。
いやだ、怖い、怖い、怖い。
何をしても満たされない。とめどなく溢れる根拠不明の欲求は、思考の安定を構うことなく強姦し、琴音の心身を焦燥に駆り立てる。身を任せなければ、ベッドから一歩たりとも抜け出ることができない。
初潮を迎えてから、琴音を蝕む懸念は更なる密度と悪意をもって増長していった。否が応にも時間の経過と人生の浪費を感じさせる身体的成長を、琴音は憎んだ。
中等部のみそらですべての部活動を席捲し、あらゆる部門で頂点を極めた。そのいずれの栄光も、琴音の飢餓を潤すには足りなかった。
学問にしても、競技にしても。一を知れば十がおのずと現れる。過程を追求しようとすると、結果の方があちらから現れる。求めてもいないのに、足元に求道の頂点が現出してしまう。
楽しくない。面白くない。つまらない。
それならばと、琴音は求め続けた。求めるものが向こうから訪れるもことのない求道の分野を、琴音は探し続けた。
「結局のところ、私には何の才能も備わっていなかった」
茜色に染まる音楽実習室。鍵盤に向かう琴音の傍らには、雅代の姿があった。
「どうしてそう思うの」
「先輩を見ればわかります。先輩には、剣道の才能があった」
「それは、厭味?」
「私なりの分析です。才能のない私は、一週間で辞めました。才能とはすなわち、継続の意思をもって、その分野を自らの嗜好の一部に取り込む技術のことを指すのだと思っていますから」
「……結果が出なければ無意味、だとか言ってなかった?」
「私の持論です。私以外の人向けの。それを心にしまい込んで奉じるかどうかは、先輩次第です」
才能が見つからない。愛を想起させるものに出会えない。そうしている間に、己の肉体は過ぎ去った時間を残酷に突き付けてくる。
道行くあらゆる年上の人間を目にするたび、その皺が、その白髪が、染みが、弛んだ肌が、琴音に吐き気を催させた。ああなりたくない。あんなになるまで、浅ましく求道の道を歩まねばならないなんて。嫌、嫌、嫌。
琴音にとって、生理痛とは死神のためらい傷だ。一ヶ月を無為に過ごした自分に向けての罰なのだ。希望の残りカスを積み上げて、なおも血眼になって退屈しのぎになりそうなものを希求する。手にしたものすべてが塵芥となることを知っていながら、それでも腹に収まるものを渇望する餓鬼と違いはない。
針穴のように小さい口を持ちながら、その腹は山のように膨大。いくら希望を啜ろうと、腹の虫がおさまることは決してない。その肌は虻蜂を呼び込み、その肉と脂肪には蛆が湧く。
ゆえに、琴音は妥協を嫌った。
ゆえに、琴音は怠惰と堕落を何より憎んだ。
愛を求めながら、その愛に真摯でいられない短絡さに、琴音は嫉妬した。有限でありながら、軽薄に時を浪費する者たちに憤った。
「先輩は、贅沢です。熱中できるものがある、答えを知らずにただ我武者羅でいられる才能がある。青春を謳歌する技術を持っている」
雅代は餓鬼の自分と違う。
掬い取ったものに有益な熱量と栄養が含まれていないとしても、満腹感を得ることのできる能力がある。空腹に苦しむことはあれど、身を裂くほどの絶望的な飢餓感とは無縁の人間である。
そして、そんな飢えた餓鬼である琴音に関心を向け、あまつさえ食中りを起こさなかった稀有な存在でもあった。
だから、食べてみたかった。
雅代に愛を向けてみて、どんな味を提供してくれるのか。だから、奪った。だからこそ、男相手に春を鬻ぐ演技までした。そうすることで、どんな味わいを楽しめるか気になったから。たとえその不貞をどれだけ糾弾され罵られようと、構わなかった。むしろ、それこそが本懐といえた。
一石二鳥だと思った。異性との色恋などという悪食、すなわちつまみ食いをむざむざ見逃して、雅代が更なる堕落に陥るのではないかという懸念をも払拭できるからだ。
「そんな恵まれた贅沢者のくせに……」
どこまで浅薄で愚かしいのか、と。そんな嘲りの笑みを浮かべようとした、つもりだった。琴音の表情には、目論見通りの笑みはなかった。
「ズルい、ズルい、ズルいです。何様のつもりなんですか? どうして、そうやって、誰も彼も私に見せびらかすんです」
悔しい。ただのそれだけ。それ以外の感情表現は皆無。凡夫に対して僻みを隠さない、哀れな餓鬼がそこにいた。
「人生楽しい? 青春最高? そんなことは百も承知なんです。だからこっちは、したくもない勉強もしたし、やりたくもないスポーツもやったんです。一体、何が面白いんですか? 面白い人生って、何ですか?」
鍵盤を無造作に叩き、不協和音が響き渡る。
椅子から立ち、琴音は足早に雅代のもとへと歩み寄った。
「私の何がいけないんです? 一年も長く生きてらっしゃるんでしょう、教えてくださいよ」
後ずさろうとした雅代の手首を、力任せに引き寄せる琴音。長身の体躯で覆いかぶさるように雅代を胸に抱き、そのまま唇を奪った。衝動の溢れるまま、唾液を塗り込めるように咥内を長い舌がうねる。鼻息と水音とが断続的に奏でられ、やがて唾液がきらめく糸を引いて唇が離される。
憂いを浮かべた雅代の顔は、琴音の中で燻る支配欲をかつてないほどに焚きつけた。すぐにでもこの柔肌を覆う邪魔な喪服を剥ぎ取ってしまいたいと思った。
この、鼻をつく不快な芳香がなければ。
「ごめん。あれ、まだ使ってないんだ」
僅かに鼻を鳴らしたのに感づいたのか、唇を袖で拭いながら雅代が言った。先日、琴音が贈ったオードトワレの匂いはしなかった。香るのは、ローズマリーの爽やかでほのかな苦みだけ。
「御影を出るのは、それを贈った人のためですか?」
「もう、決めたことだから」
「私にはなんにも相談してくれませんでした」
「私じゃ、琴音ちゃんに何もしてあげられないもの」
「それを決めるのは」
先輩じゃない、そう声を張り上げそうになった。見上げる雅代の視線に、琴音は口を噤んだ。
「いままで、ごめんね」
消え入りそうなほどに儚げな言葉は、辛うじて琴音の耳に届いた。その謝罪の解釈を決めあぐねるうち、雅代の姿は目の前から消えていた。
不思議と、腹は満ちていた。代わりに、胸の奥が伽藍のように澄み渡っていた。
略奪の証たるローズマリーの香りが、いつまでも周囲に漂っていた。
まそかがみ カスミカ @ksmika
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