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「ごきげんよう。先輩?」


 御影女子中等部の真っ黒い制服に身を包んだ琴音は、自宅とは正反対であるにも関わらず、雅代の通学路の前に現れた。竹刀袋と防具を担いで、一人帰路を歩いていた雅代は、無防備な裸体を覗き見られたような心境になった。


 いつもと同じような愚痴。


 いつもと同じような罵倒。


 いつもと同じような叱咤。


 いずれも、すべてが敬語という薄皮一枚の隔たりがあった。


 御影女子への編入が決まっていたことを、既に彼女は知っていた。さほど頭のよろしくない公立中学に通いながら、よくもまあお勉強に勤しめたもので。そのことだけは褒めてあげましょう、といった讃辞をよこしてきた。


「しかし、先輩。妥協に骨身を染められた先輩が御影の勉強についていくには、より一層の努力が必要ではないのでしょうか」


 ぐうの音も出ない正論。眼力だけで着衣を引き剥がされる錯覚に陥る。


「面白いですね。先輩のその百面相。ラジオを垂れ流しておくより、飽きないかもしれません」


 構ってやれている。否、構ってもらっているという悦びと、それに付随する取り留めのない焦燥感に、当時の雅代はじりじりと苛まれていた。


 やるべきことに打ち込む覚悟はできているのか?


 妥協を捨てる決心はついたのか?

 

 見るべきものを見据える準備はできたか?


 琴音の赤い両の瞳は、慇懃な言葉の裏側にそうした圧迫をも孕んでいた。これこそが、槐琴音の叱咤。言語の死角に張り付いた、凡夫の思考を炎で炙るかのような、強烈な印象付け。


 きっと、琴音はすべて織り込み済みなのだろうと思った。先日、雅代が目の当たりにしたものに関しても。




 琴音のピアノ趣味は、中学の頃から続いていた。週に一度、わざわざ雅代の中学までやってきては、放課後に無許可の演奏会を開いていた。彼女らしい、小言と説教が合間に挟まる奇妙な逢引。琴音から連絡がなかろうが、半ば日課のように雅代は音楽室へと足を向けていた。


 ブラームスの協奏曲ロ長調は、その日は聞こえてこなかった。


 そこでは、深く靜かな接吻が交わされていた。


 糸を引く淫靡な唾液の水音が、幻聴となって聞こえてくる気がした。情交に興じる二人は、いずれも雅代の見知った顔であった。片や槐琴音本人。そしてもう一人は、竹刀か木刀での語り合いにのみ関係が終始していた、あの少年。スラックスと白のワイシャツに深い染みを刻みながら、彼もまた琴音の愛撫を存分に享受しているように見えた。


 ピアノを背に長い四肢を相手の身体に絡みつける様は、果たして蜘蛛か蟷螂か。性交に準じる情事を惜しげもなく披露する槐琴音の視線は、一心に唇を貪る相手には向けられていない。


 細い指先は少年の、否、男の肩甲骨から頸椎に沿って這っていき、項のやや上をもどかしげに突きまわす。そうした蠱惑的な仕草すらも、琴音にとっては遊び半分の演技に過ぎないようだった。


 視線がほんの一瞬、入室を躊躇った雅代とガラス越しに交差した。時間にしてコンマ一秒にも満たない、しかし明確に、琴音の誇示にも似た感情を強く雅代は感じていた。


 彼とは、今以上の関係を望んでいたわけではなかった。発展ではなく、継続だけを漠然を望んでいた。そんな煮え切らない態度を、槐琴音は見透かしていたとでもいうのだろうか。


 ただ一つ確かなのは、雅代の何らかの行為が、琴音の琴線に触れたのだということ。そうでなければ、放課後の音楽実習室などでわざわざ情事に耽るようなことはするまい。


 その日から、雅代は道場に足を運ぶのをやめた。




 どうして、あんな真似を?


 何度か、琴音に問いかけようと思ったことがあった。だが、口をついて出る寸前に、それを呑み込んでいた。


 正式に交際してすらいない関係の異性を論って、一体自分があの槐琴音に何を説くことができるというのだろうか。自由恋愛の範疇から逸脱しているわけでもなく、倫理に悖った行為が介在しているとも言い難い。


 反論に値しない。


 そう自覚し、自分に言い聞かせるのに、さほどの時間も要さなかった。琴音には、琴音の考えがある。それは自分如きが伺い知ることのできる範囲の埒外にある部分で為された選択の結果であり、雅代がそれに口を挟める道理はない。


 琴音は、正しいのだ。誰よりも、何よりも。御影女子に編入するには、十分な理由だった。


 だからこそ、雅代はこの一件に関して琴音に異を唱えたことはなく、また行き場のない痛痒を胸中に収め続けてきたのだった。




「かわいい後輩に良くしてあげたい気持ちは、私にもわかるよ。自分を慕ってくれる子のことは、できる限りに大切にしてあげたいと思う」


 震える掌に視線を落とし続ける雅代に、運転席の桃子が言った。


「ただ、みやちゃんも私の後輩なんだよ。槐琴音の先輩である前に」


「桃子さん……?」


「みやちゃんが、その子に何を差し出しても痛くない、苦しくないって言うなら、私ができることはなんにもない。でも、自分には何もない、後輩にその埋め合わせをしてもらって、ようやく痛みが治まるようなら、やっぱりみやちゃんはどこか……どこかを、本当に傷めてるんだと思う。私は、そんなの耐えられない」


 かじかんだ手を温めるように、桃子は雅代の手指を右手で握りしめた。サイドガラスにうっすらと映り込む雅代の表情に向けて、桃子は自身の体温を込めて呟いた。


「みやちゃんが好きだから」

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