5

 雅代をみやちゃんと呼ぶ人間は、桃子のほかにもう一人存在した。


 名前は憶えていないが、自分のことを呼ぶあの声と顔かたちだけは、かろうじてうっすらと連想することができた。


 小学校の最寄りに、金属加工会社の総務部が所有している道場があった。剣道家の役員が社内の福利厚生の一環として用意したという施設で、有段者の社員が中心となった剣道クラブには、雅代を含めた十五人ほどの児童が集っていた。


 彼と初めて出会ったのは、その道場で行われた昇段試験の日だった。子供ながらに鼻筋がまっすぐ通っていて、線の細さは並の女児と同じくらい。華奢で、色白で、竹刀袋を担いでいたところで、彼が名うての剣道家であることなど、誰もが一度は疑うだろう。口数は少なく、笑顔を見せることはそう多くない少年だった。


 試合においては一本どころか、有効打のひとつすら許さない鬼神の如き戦いぶりを見せたが、小学生ながら、そのあたりの分別はお互いについていたように思う。立ち合いが終われば、勝敗などどこへやら。無論、負け越して悔しくないわけではない。だが当時は、剣道家としての優劣よりも、来週放送の仮面ライダーの内容を二人で予想することの方が重要だった。


 毎週土曜日の早朝、いつものように稽古と乱取りを終えた後には型の反復練習を行い、練習明けには防具のにおいに各々顔をしかめて笑い合う仲。槐琴音との交友とは一線を画す、朗らかで安穏とした関係だった。


 その関係は、どちらかが剣道に飽きさえしなければ続くと思っていたし、よしんば直接会う機会がなくなったとしても、SNSでいくらでも連絡の取りようはある。


 高校への進学を目前にした雅代は、そう思っていた。




「……ねえ、みやちゃん。どうしたの、ねえ」


 雅代の目尻から、ほろほろと涙の筋が流れるのを見て、桃子はメルセデスを山下公園通りの路肩に停めた。


「ごめんなさい、私、何かおかしなこと言った? 何か気に障ったなら、謝るから」

「違います、違うんです」


 かっと熱くなった額を窓ガラスに押し付けると、ガラスの表面がわずかに曇った。


 雨は、まだ止んでいない。濡れたイチョウが路面を黄色く彩り、マーブル模様を描いていた。表情を桃子に悟られたくなくて、雅代は顔を伏せていた。


「何もない、何もありません。桃子さんに言えるような、素晴らしいものなんて、何もありませんでした」


「落ち着いて、みやちゃん」


「十八年も生きてきて、ほんとうに、ほんとうに情けなく思えて。好きなこともない、趣味もない、部活じゃ誰に勝てたわけでもない。賞状だってトロフィーだってなんにもない、琴音ちゃんの持ってる表彰状の十分の一も持ってません」


 鬱屈したルサンチマンが箍を喪い、眼孔を通して流れ落ちてくる。車外を控えめに打つ秋の小雨の勢いに反し、滂沱の波は収まりそうになかった。


「私、琴音ちゃんみたいになれませんでした。桃子さんみたいになるのも、無理です。薄っぺらいんです、私の人生。みんなみたいに分厚くなくて、だから、私の掌には、何にも残ってないんです」


「ばかなこと言わないの」


 薔薇の刺繍の入ったハンカチーフを手に、桃子は恭しく雅代の頬を拭っていく。


「ばかなことしか言えません、みんなみんな雲の上の人です。でも、私は違うんです。つまんない人間です。私の言葉がばかばかしく聞こえるのなんて、当然じゃないですか」


「私はみやちゃんとおしゃべりしてて、ばかばかしく思ったことなんかない」


「琴音ちゃんは違います」


「まともに取り合っちゃダメよ、あの子の言うこと」


「そんなこと、面と向かって言えません。桃子さんならともかく、私」


「辛いようなら、無理して会わなくていい」


「私、先輩なんです。あの子は、後輩なんです。だから最初は面倒みてあげなきゃって思いました。でも、そんなのただの思い上がりでしかなくて。あの子は誰も必要としていないんです。私があの子を必要としていたんです。大したとりえのない私が、先輩面するために、私の方からかかずらってた」


「先輩面って、何? みやちゃんを慕ってた後輩は、あの槐琴音だけじゃないでしょう」


「お世話係が、気持ち良かったんです。きっと。どこかで、友達甲斐がない女だと思われてるあの子に、必要とされたがってたんです」


 雅代の言葉に嘘はなかった。


 吐露した内容のすべては真実であり、虚飾なき本心の言語化であった。


「あの子、昔から、あんな性格だから。両親ともうまくいってなかったらしくて。だから私、初めてあの子の部屋に遊びに行ったとき、焼きそばと冷凍からあげ作ってあげて。それで、あの子なりにかなり喜んでくれて。そのときのことが、ずっと忘れられずにいるんです。雲の上の人間に施してやったっていう、そういう気持ち良さを」

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