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 東雲桃子との関係は、編入当初にまで遡る。


 修身を美徳とする御影女子では、その萌芽を育むための学内奉仕をカリキュラムの一環に取り入れている。


 早い話が、長期スパンで実施される、ボランティア活動である。指導役の上級生とマンツーマンで校内美化や広報促進に従事し、自主性と協調性の両面を育成するといった試みであった。  


 エスカレータで労せず繰り上がってきた内部生と異なり、数少ない外部生である雅代をはじめとする受験組は、必然的に三つ年下の生徒たちと肩を並べて上級生たちの薫陶を受けねばならない。中学生たちに混じって若干の据わりの悪さを感じる中、雅代は桃子と出逢った。


 二年前の初夏。突如として御影の学び舎を夥しい数の浮塵子と蟋蟀、その他多種多様な不快害虫の群れが襲った。一階施設を制圧した蟲の大群は、泣きわめく純粋培養のお嬢様がたを屋外の温室へと追いやり、我が物顔で校舎二階へと進行せんとしていた。


 吹き荒れる絶叫、蠢く六本足。阿鼻叫喚のさ中、逃げ惑う生徒諸君の流れを遡って立ち向かったのが、桃子と雅代の二人であった。学内清掃の一貫としての害虫駆除、それに快く応じたのは、この二人だけだった。


 業者が臨場するまでの二日間、桃子と雅代の二人はジャージと上履きどころか、頭髪が蟲の液汁にまみれることすら厭わず、その漸減に尽力し続けたのであった。


「お互いいの一番に出てくる思い出がそれじゃあ、ムードもへったくれもないじゃないの」


 東名高速を町田方面に飛ばす車内で、桃子は以前に比べてやや矢継ぎ早な口調でそう言った。


「もっと明るい話題はないの?」


「そうですね……なんでしょう、水泳部インターハイ出場ですとか?」


「何年どこ組の、どこの誰が出場するかは知ってるの?」


「いえ」


「剣道部はどうなの?」


「ゆるうい感じですね」


「それは結構」


「OGとして、それはどうなんです? 地区大会では万年二回戦負けなのに」


「でも、途中でドロップアウトしちゃう子はいないでしょ? いいのよ、それで。それでいいの、部活なんて」


 なだらかなカーブに合わせて、ハンドルを切る桃子。


「自分のやりたいことしてるつもりなのに、いつのまにかやらされてる構図っていうのはままあること。それが社会に出ればなおさらね。そこらじゅうでありふれてる。そんな面白くないことを、わざわざ学校で味わわせたくないじゃない」


「実体験ですか?」


「もちろん」


「桃子さんの世代の話ですか」


「私たちが一年坊だった時代」


「想像したくない」


「ひどいなんてもんじゃなかったわあ。絵に描いたようなスパルタ熱血剣士がいてね。嘱託のコーチも、体育教師の成れの果てって感じだった。その連中が進学なり就職なりで消えていくうちに、私たちみたいなものぐさが幅を利かせていくようになったわけ」


「環境改善に躍起になれるのを、ものぐさとは言いませんよ」


「草の根活動が功を奏したの。部活なんかの年功序列で、一体誰が得をするのかってね」


「修身と奉仕の精神まで否定しちゃうんですか?」


「よく考えてごらんなさいよ。下級生こき使って得することなんてあった? 後輩を顎で使って、現状が良くなったためしがあった?」


「場合によりますね」


「舌は肥えてるって言っても、自分じゃろくすっぽ紅茶も淹れたことない小中学生に、お茶の支度なんて任せられないじゃない」


「みんな、そんなふうに考えてらしたんですか?」


「入学早々、みんな揃って上級生のお世話係みたいなことさせられるじゃない? やらされる側はさぞかし迷惑で面倒だと思っただろうけど、本当にウンザリだったのは上級生の方だったってわけ」


「そういうものですか?」


「私はそうだったもの。あなたが初めて淹れたアールグレイ、正直言って飲めたもんじゃなかった」


「えッ」


「他の子の手前、流しに直行させるわけにはいかないじゃない? みんな帰ったあと、急いで歯磨きしたもの。中等部の子が淹れた方がまだマシ」


「とんだご迷惑を」


「在学中に言ってあげればよかったんだけどねえ。喉元過ぎたらなんとやらで、妥協しちゃった」


 神奈川の県境を過ぎたあたりで、車の流れはやや滞留していた。先行する車両のハザードが迫り、やがて真紅のメルセデスもまた停車する。


「それもまた良い思い出、というわけで」


 そう言って、桃子はドリンクホルダーのペットボトルを手にし、中身のミルクティーを呷った。時折雅代も紙パックのもので口にする、やたら甘くて大味な、出来合いのミルクティであった。




「ねえ。その匂い、どうしたの?」


 横浜公園ICから下道に降りた頃、桃子がそう問いかけてきた。石川町ジャンクションをくぐり、元町の街並みを右手に、中華街方面へと車は走る。


「上野の香水屋さんにでも行った?」


「似合いませんか?」


「そんなことないわ」


 そう言って桃子はおもむろに右手をハンドルから離し、助手席の雅代の頭を胸元に引き寄せた。


「ちょっと、桃子さん」


「いいにおい」


「ドライバーがなんてことしてるんですか」


「みやちゃんのにおい嗅いでるの」


 みやちゃんというのは、今では桃子だけの呼び方だった。雅代の雅を訓読みした『みやび』をもじった、シンプルな仇名である。


「頭のてっぺんから香水なんかかけてませんよ。手首です、手首」


「あら、そう」


 ひょいと右手で雅代を押し戻すと同時に、メルセデスが停車した。眼前には二台ほど連なったトヨタのSUV。その向こうには赤信号が光っている。前田橋交差点のすぐ左手にある朱雀門からは、大勢の観光客らしき人々が行き交っていた。ようやく、今日が日曜日であることを雅代は思い出した。


「何か食べてく?」


 街頭から流れてくる甘栗や飲茶の匂いにつられてか、桃子がそう提案した。


「私の匂いは、もうどうでもよくなっちゃいました?」


「あら、そう取られちゃう?」


 しょうがないじゃない、お腹空いたんだから。悪びれる様子のない桃子は、傍らに置いたバッグからのど飴を取り出し、器用に片手で外袋を剥いて口に放り込んだ。そのうち一粒を、助手席の雅代の膝元に置いた。


「食べな。朝からいっぱい糖分使ったでしょ」


 そう言われて、ようやく腹の虫の嘆きに気づいたような気がした。促されるままに、雅代はのど飴を口にした。


「いじらしい子だこと。私に会いに来たいがために、御影の内進蹴って国大志望だなんて」


 少し黙ってから、雅代は口を開いた。


「……自惚れ過ぎじゃないですか」


「いけない?」


「よい傾向ではないと思います」


「そうかな。私は、今の私のこと好きだけど」


 一瞬だけ灯った青信号は、桃子の車の通過を待たずして再び赤い光を示した。


「桃子さんなら、もう少し欲張っても良かったと思います。模試の結果、見せてくれましたよね」


「限界ギリギリ目指して生きてく人生って、疲れちゃわない? 私、背伸びって大嫌いなの」


「でも」


「あの槐って子のこと、考えてたでしょう」


 まじない師か何かが、依頼人の苦悩をぴたりと言い当てたかのような口調だった。


「ねえ、みやちゃん。納得を伴った妥協っていうのは、妥協とは呼ばないの。私はいつも止揚を目指して生きてるわけ」


「止揚、ですか」


「ええ、そう。止揚でも折衷でも構わないけど」


「しんどい部活は嫌だけど、部活の内申は惜しいのでむざむざ辞めるのも憚れたと」


「よくわかってるじゃない。答えは、邪魔者を排斥して居場所の良い部活を作る、よ」


「和解してみんなの納得いく部活にする……では?」


「私はね、みやちゃん。妥協に妥協したくないの。妥協することにだけは、全力なの」


 ハンドルの上で指を結んで開いてを繰り返しながら、桃子は言ってのけた。


「欲しいものは全部手に入れるわ。その為の寄り路ならば、甘んじて受け入れるべき。あなたは、どう?」


「どう、って?」


「人間十八年やって、欲しいものは手に入りそう?」


「……さあ。どうでしょう」


 信号が、青に切り替わった。

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