第5話 「月移花影」

 新婚十日目で、もう浮気されているかもしれない?

 井上佐江いのうえさえはマンションの脱衣スペースでバスタオルを握りしめ、くもりガラス一枚をへだてた浴室で、夫が軽やかに立てる水の音を聴いていた。

 ことの始まりは、こうだ。

 佐江は十日前、年末近くに親友の兄・清春きよはると結婚した。

 ふたりで初めての新年を迎え、仕事もあって落ち着かなかった日々が過ぎたころ、佐江はふと清春が身体を見せたがらないことに気がついた。

 朝の着替えの時はもちろん、入浴後もしっかりと着替えてからベッドにはいってくる。


 この十日あまり、佐江は夫の皮膚を見ていない。肩も背中も、腰も。

 親友であり、清春の異母妹でもある真乃まのに相談してみると、真乃はいとも簡単にこう言った。

『浮気の跡があるのかも。一度キヨちゃんを裸にむいちゃえばいいじゃない』

 裸にむく……などということは、佐江にはできそうもないが。

 しかし入浴中の今なら、さっと清春の身体を見るくらいは許されるだろう。

 佐江は立ち上がるとそのまま、静かに浴室のガラスドアを引き開けた。

 そこには、百八十五センチの細身の身体を湯にひたした夫の清春がいる。


「どうした、佐江?」


 清春は切れ長の目で妻を見た。うっすらと筋肉の乗った肩からは湯の粒が流れ落ち、佐江はそのつややかさに目を奪われる。


「あの、タオルを」


 佐江はちらりと湯の中の夫の身体を見た。鎖骨や胸や腹部には目立ったキスの跡はないようだ。しかしもっと下かも……。

 佐江がタオルを持ったまま自分を見ているのに気づいた清春はくすぐったそうに笑った。


「一緒に入るか?」

「ちがうんです、そうじゃなくて……あ、身体をふきましょうか」

「自分でやるよ」


 清春は整った顔をつるりと撫でて、目じりに甘いしわを寄せてみせた。

 佐江はため息をつき、タオルを持ち直す。

 無理だ、自分にはこんな明るいところで清春の身体をまじまじと見る勇気はない。それがたとえ、浮気がなかった証明だとしても。


「タオルは外に置いておきますね」


 佐江がそういったとき、ぱしゃっと水音が立って、湯がはねかかってきた。あわてて振り返ると、清春が笑ったまま佐江に、メチャクチャに湯をかけてきた。


「佐江、このまま風呂に入るか、着替えるか。早く決めろよ」


 佐江は浴室から逃げ出した。清春のことだ、本気で服を着たままの佐江を浴槽に引きずり込みかねない。

 くもりガラスのドアを閉めた後も、清春の笑っている声がまだ聞こえた。

 まんまと身体を隠されたと佐江が気づいたのは、清春は風呂あがりの身体をシャツとスウェットに隠してしまった後だった。

 あやしい。

 真乃ではないが、一度本式に、清春を裸にする必要があるようだ。

 しかし。

 どうやって?


 ★★★

 風呂の中ではあぶなかった……と清春はベッドの中で自分の腰骨を押さえながら考えた。佐江は勘の鋭い女だ。なにか怪しいと感じているのだろう。

 清春は頭の中で日数をかぞえた。

 今日で十日目。あと四日ほどは、このまま佐江から身体を隠すべきだ。


 清春は隣で横になっている妻をちらりと見た。肩甲骨まである髪を枕に広げている佐江は、たまらないほどに清春をそそる。

 指を伸ばし、そのまま佐江にのしかかって思うぞんぶんにふれたい。

 だが、まだ佐江にこのカラダを見られたくない……。

 清春はため息をついた。

 こんな羽目になるなら、やらなければよかった。


 そう思った瞬間、佐江がいきなり起き上がった。くるりと身体をひるがえすと、清春を押さえつけてくる。


「さえ?」


 清春がおどろいて佐江にされるままになっていると、上から佐江が泣きそうな顔でつぶやいてきた。


「このシャツ、脱がせてもいいですか?」


 清春の返事も待たずに、佐江はシャツのボタンをはずして一気に清春の身体から服を引きはがした。

 清春の上半身がたよりないベッドサイドの明かりに露呈する。ここで清春は小ずるく考えた。

 上半身を見られるだけなら、大丈夫だ……。

 しかし手ぎわよく清春の身体からシャツをはぎとった佐江は、まよわずスウェットパンツのウェストにも手をかけてきた。

 清春の声がうわずる。


「あ、まて。まて、佐江!」

「何を待つんでしょうか……えっ?」


 清春の腰からスウェットとともにボクサーパンツをおろしかけた佐江は、そのままの姿勢でぴたりと動きをとめた。


「……キヨさん、こんなところに、ほくろなんてありましたか?」


 ぴくっと、清春の右の腰骨が震えた。


 ★★★

 佐江はまじまじと夫の腰骨を見た。そして記憶をさぐる。

 清春の腰骨には、ほくろもあざもなかったはずだ。二週間ほど前、結婚した直後に清春の身体を見たとき、腰骨のすぐ下にあざやほくろを見た覚えはない。

 だとしたら、これはいったい何だろう?

 佐江は迷わずにベッドサイドの明かりをつけなおした。やわらかい照明を受けて、清春の腰骨が浮かび上がる。


「ほくろ……じゃないですね。タトゥ?」


 清春は何も言わずに、ただ小さく息を吐いた。佐江はまじまじと夫の腰骨の下にある小さな模様を見つめた。

 ちいさな丸を五つの丸が囲んでいる、梅の形をしたタトゥだ。よく見ると中央の円からは放射線状に線が伸び、それぞれの梅の花びらにつながっている。さらに小さな剣のような直線があいだを埋めていた。

 佐江は、この模様に見覚えがある。思わずつぶやいた。


「……“加賀梅鉢かがうめばち”」


 清春は黙ったままベッドから起き上がって座りなおした。座ると腰骨の下にある小さなタトゥは影に入ってしまい、佐江から見えなくなった。

 佐江は顔をあげた。切れ長の瞳になだらかな鼻筋、清春の端正な顔が半分、陰になっていた。やがてぽつりと言う。


「きみの家の、家紋だろう?」

「はい。正確には女紋ですが」

「おんなもん?」


 ここにきて、始めて清春は驚いたように佐江の顔を見た。佐江は小さくうなずく。


「女性が母親から受け継いでいく家紋です。うちの場合、岡本家の正紋は“まる沢潟おもだか”ですが、あたしが母からもらった女紋が“加賀梅鉢”なんです。母が祖母から、祖母が曾祖母からもらった紋です」


 清春は不意に小さな声で尋ねた。


「……とにかく、きみの紋だな?」

「ええ。あたし個人の紋みたいなものです。でも、いったいなぜ梅鉢をタトゥになさったんですか? あなたはご自分の身体に傷をつけるようなことはお好きじゃないと思っていました」

「嫌いだよ」


 ぽつんと清春は言った。ややうつむいたまま、続ける。


「だけど。きみのしるしがほしかったんだ。おれの身体の上に」


 佐江は息をのんだ。それほどまでに、うつむいた清春の顔は美しかった。

 やや強く結ばれた薄い唇が、言葉を使わずにたった一つのことをにじませていた。

 あいしている。

 清春が、よほどのことがないかぎり口に出さない言葉が、清春の皮膚の上に咲いた梅五枚の花弁それぞれにくっきりと刻み込まれていた。

 おれは、未来永劫きみのものだ。


「――もう一度、見せていただけますか?」


 佐江がそういうと、清春は観念したようにごろりとベッドにあおむけになった。佐江は夫の無防備な腰骨をじっと見た。

 腰骨のすぐ下、ほとんど外に出されることのない場所に、そっと佐江のしるしが刻されていた。


「いつ、いれたんです?」

「十日前。洋輔にやらせたんだ」

「まだ、さわってはいけませんね?」


 佐江が尋ねると、清春はそっぽを向いた。


「ダメだ。一カ月ほどはさわらない。それから、汗をかいてもいけない。なにもかもお預けだ」


 ぷ、と佐江は笑ってしまった。


「何もかも、お預け? まあ残念だわ。でも、これくらいはいいでしょう?」


 佐江は静かに頭をかたむけて、清春の梅鉢のちかくに唇を当てた。

 びくっ、と清春の身体が跳ねた。

 佐江は梅鉢の五つの花弁のちかくに、キスを重ねた。そのたびに清春の身体が跳ねあがる。

 佐江はキスを続けながらつぶやいた。


「あたしたちの春が、いつも幸せでありますように」


 清春はそっと佐江の髪をなでてこたえた。


「おれがこの先、五十回の春だって、きみを守り続けられますように」


 そのまま、清春の口は息を吐くことだけに専念する。

 清春の唇からもれる息はまるで月下に白梅が甘くかおるようで、佐江は目を閉じて春のはじめの匂いを吸い込んだ。


 これから何回もめぐってくる幸せな春の予感。

 それは井上佐江の一生をやわらかく包む、夫の香りだ。



          ――了――


 文字数(空白ぬき)3333字(笑)。↑の「了」まで込みだぜ。

 この薄紫の梅の香りは、あいるねえさんへ。

 ちょいと、えろ甘い香りです(笑)。

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「この恋の行き先なんて㉘」 水ぎわ @matsuko0421

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