第4話 新しい年のにおい
清春がテレビを見ると、画面ではデジタル表示が0時になった。
するとその瞬間、佐江がソファからすべりおりて、カーペットの上で三つ指をついた。
「え、なんだよ、それ」
清春がとまどうのに佐江は答えもせず、そのまま優雅に頭を下げた。
「あけまして、おめでとうございます。本年もどうぞ、よろしくおねがいいたします」
清春は目を丸くしていたが、あわてて自分もソファからおりた。そして佐江の向かい側に座り、これも折り目正しく頭を下げた。
「おめでとうございます。本年もよろしくお引き回し願います」
頭を下げていると、ふふっという佐江の声が聞こえた。
「“お引き回し”なんて、おかしいですよ」
「いやつい、仕事のつもりで」
「ごめんなさい、実家ではいつも両親がこうしていたものですから」
「そうか。いや、いいよ。うん、来年もこうしよう。なあ、佐江」
「なんです?」
「おれ今、ふつうに未来のことを言ったな」
「……そうですね」
佐江は静かに答えた。
「それで、いいんじゃないでしょうか。あたしたち、これから何回も、こうやって新年を迎えるんですから」
「何回も」
清春はただ、佐江の言葉を繰り返した。
佐江が笑う。
「そう、何回も。何度もケンカを繰り返しながら」
「それも、未来の話だな」
佐江は笑った。それから、
「ねえ、キヨさん。雪になる前に初詣に行きましょうか。すぐ近くに神社があるじゃないですか」
二人は手早くコートを来て、マンションを出た。エントランスを出たとたんに、鋭く高い金属音のような夜気が清春に襲いかかって来た。
佐江が隣でふるっと震えた。清春はためらいもせずに佐江の手を握り、そのままその手を自分のコートのポケットへ入れた。
「キヨさん」
佐江が驚いた声を上げた。
普段の清春は、なにがあってもこういう甘い仕草はしない。
女性を丁寧にエスコートすることはあっても、自分のコートのポケットへ佐江の手を握りこんだことはなかった。
この先もない、と清春は思った。
なくていい。
ただ今夜だけ、はじめて年越しの境界線を佐江とともに迎えた今夜だけは、佐江の指先を自分のコートのポケットで感じていたかった。
愛しているという言葉を言うのは簡単ではないが。
愛しているという仕草は、まだ簡単だ。
清春は夜の中で顔を上げた。
ポケットの中で清春がぐっと佐江の手を握りしめると、佐江がそっと握り返す。
「いいお正月になりますね」
「ああ」
ぶっきらぼうに答えながら、清春は自分の船の錨が上がる音を聞いた。清春の船はいつだって、佐江が乗り込んで初めて動き始める。
そしてこの恋の最後の行き先なんて、もうどうでもいいと思った。
今ここに、佐江はいるのだから。
清春の鼻腔へ、わずかに突き刺すようなするどい夜のにおいが流れ込んできた。
新しい年の匂いだ、とおもう。
そして新しい年の匂いは。
清春の妻の香りだ。
――了――
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