オセチ

私誰 待文

肉(約9,000字)

「久しぶり千夏ちか。なんか、お洒落になったね」


 東口を降りた先で迎えてくれたのは、旧友である誠滋せいじの姿だった。二年前と変わらない寒色系のチェックシャツに、彼の足の長さを強調するチノパンのコーディネート。前は何も感じなかった彼のファッションも、都会の洗練された身だしなみの中で生きた上でみると、どこか野暮やぼったく見えてしまう。


「お前は相変あいかわらずだな」

「そう? 少しは成長したと思うけど」


 それから俺は何を言うでもなく、誠滋の後について行く。向かう先には、一台の銀のワンボックスカーがめてある。

 ひさしく見てない景色は、特に変わり映えしていない。休日の休みにも関わらず乗り降りの少ない駅口、ロータリーに停まる数台のタクシー、蕎麦そば屋、コンビニエンスストア、駐在所、床屋、居酒屋。大通りの数メートル先に見える大型スーパー。


 間違いない。俺は地元に帰ってきた。


  ●  ●


 二年の空白は、少しだけ二人を変えていた。俺は東京で寮生活を初めて、身だしなみに気を付けるようになったし、誠滋せいじは。


「お前、免許取ってたんだな」

 隣に見える誠滋の横顔は、ほこらしげだ。微笑をまじえつつ両手でワンボックスカーをる彼の姿は、高校時代、俺たちが散々馬鹿にしてきた、大人のそれだった。

「東京みたいに交通網が発達してる訳じゃないからね。免許は生命線さ」


 それから俺たちはたがいの空白を埋めるように、近況報告とは名ばかりの駄弁を交えた。高校時代、恩師に二人して鼻っ柱をなぐられた話。中学時代、修学旅行の夜に語らった初恋の話。俺が東京の居酒屋で三十万円をぼったくられかけた話。誠滋せいじが半ヶ月前、一日に四度も宗教の勧誘にあった話。


 冬の陽光が窓越しに差し込む。背もたれに身をあずけながら揺れる車内でする雑談は、忙殺ぼうさつされた俺の心をいやしてくれる。

 帰ってよかった。安直だけど確かな実感を、心の中で口にした。


「——千夏ちか。東京は楽しい?」

 赤信号に差し掛かり停車した車内、隣の誠滋がたずねる。その声色にあこがれの念が含まれているのが、すぐに分かった。

「あぁ。日々いそがしいけど、それを超えるほどの生き甲斐を感じてる」

「そっか。いいなぁ」

 遠くの景色を眺めつつ、誠滋が呟く。


 俺の地元は、東京から五十キロ北にはなれた郊外だ。駅からひとたび離れれば、同じような住宅や学校がちらほらと見える景色だけがどこまでも続くようになる。

 そんな故郷に魅力を感じなくなった俺たちは高二の秋、一緒に上京しようとひそかに約束した。共に同じ大学へ進学し、安いアパートを借りて二人で同棲するんだと固くちかいあった。

 だけど。


誠滋せいじは結局、継いだのか?」

「うん。お父さんはまだその時じゃないって雑用を押し付けるけど、いつになればその時がくるのか、分かんない」


 大学に落ちた誠滋は実家の和菓子屋を継ぐため、地元に残った。誠滋を置いて一人上京するのがずるい気がして、俺は急遽きゅうきょ、誠滋と下見に来ていた東京の安アパートを捨てて、りょう住まいを申請した。


 誠滋は、今の俺をどう思っているのだろうか。抜け駆けして東京へ出て、二年間帰ってこなかった俺を。

千夏ちか、もうすぐ着くよ」

 ハンドルを左に切りながら誠滋は微笑む。その言葉で、俺が地元に帰ってきた理由を思い出した。


  ●  ●


「いらっしゃい。見ない間にいい男になったねぇ」


 出迎えてくれたのは誠滋せいじの母親だった。卒業式で会って以来だが、前と比べて白髪や小皺こじわが増えた気がする。


「すみません。三が日も終わったっていうのに、呼んでいただいて」

「とんでもないわ。うちのおせちが余ったと思ったら、誠滋が友達を呼んで食べてもらおうって突然言い出したからびっくりしちゃって。迷惑だったでしょ?」

「いえいえ。家族と初詣はつもうでも元旦に済ませた後ですし、むしろ連絡がきて嬉しかったです」


 こしを低くしつつ本心をいうと、いつの間にか近くにいた誠滋が、照れつつあらぬ方向を見て笑っていた。


 誠滋せいじの家は二階建ての一軒家だ。特筆すべき点はないが、いて言えば遊びに行っていた昔には、誠滋の父親が余り物の和菓子を必ずご馳走してくれた。やさしい甘さと見た目の美しさも相まって、今でも俺は和菓子が、ノスタルジックな思い出の補正込みで好きである。


「お邪魔します」

 形式的な挨拶あいさつを済ませ久方ぶりに誠滋の家に上がる。廊下の木板をギシギシときしませながら、先行する誠滋の背中を追う。


 誠滋が最初に腰を下ろしたのは、広いリビングのとなりにある仏間だった。部屋の小壁には、誠滋の祖父母と思しき老齢の男女の遺影が一枚ずつ立てかけられていた。誠滋はたたみに正座すると、線香を香炉へ静かに挿し、一回だけりん棒でおりんを叩いた。

 張り詰めたかねの音が仏間へ広がる。


 無言で立ち上がった誠滋せいじに続き、俺も仏壇へ向き直る。俺の記憶では、中学時代にすでに誠滋の祖父母はくなっていたはず。だけど、仏間に来たのは今日が初めてだ。線香を挿し、おりんを鳴らした後、俺は手のひらを仏壇へ合わせる。そして黙然としながらも心の内で、初めて会う誠滋の祖父母へ挨拶をした。


  ●  ●


 リビングには誠滋せいじのお父さんもいた。最後の会ったのが約六から七年前なので、当然誠滋のお父さんは記憶よりも老けていた。髪が薄く白髪が増え、恰幅かっぷくがよくなっている。


「お父さん覚えてる? 小学校のころよく家に来てた千夏ちかだよ」

 誠滋の父はソファへ横になりながらテレビから流れる漫才番組を見ていたが、俺の姿を確認するとむくりと体を起こし、僕へ握手を求めてきた。


「久しぶりだね。うん、好男子らしくさわやかな顔をしているな」

 お父さんの評価はどこか独特だと思いつつ、俺はうながされるようにリビングのフローリングへ腰を下ろした。


「待っててね。今おせち持ってくるから」

 いうや否や、誠滋の母はリビングの引き戸を開け、キッチンルームへと消えていった。俺の座る位置からだと流し台しか見えないので、どこにお節とやらがあるかは知らない。


「千夏くーん、お酒は飲めるー?」

 キッチンルームの死角から、誠滋のお母さんの声がひびいてくる。俺も声を少しだけ張って返答した。


「まだ飲めません。六月以降なら大丈夫ですけど」

「お母さん、千夏は俺と同級生だよ?」

 あきれた様子で誠滋が返答すると、不可視の位置から「あらごめんなさい」と弾むような声が聞こえてきた。


 数分後、数本の飲み物とお節をたずさえ、誠滋の母がこちらへ来る。彼女はテキパキとお重をテーブルに乗せた後、俺と誠滋、そして誠滋のお父さんの分の飲み物を配置して、ソファへ腰を下ろした。


 こうして、俺と誠滋せいじはペットボトルのコーラを、お父さんは銀色の缶ビールを、お母さんは市販のミックスジュースが入ったボトルを持ち、乾杯したのだった。


  ●  ●


「それじゃあ、肝心のおせちを食べましょうか」

 誠滋せいじの母は三段に重ねられたお重の内、一番下以外の重を持ち上げた。


 その時、目の前に現れたお重を見て、俺は我が目をうたがった。

 目の前に現れた具材は、オニオンソースのかかったローストビーフだった。



 誠滋せいじの連絡は元旦に来た。メールボックスに簡素な文で。

『お節が余りそうなんだけど、よかったら食べにこない?』


 二年越しに来た連絡にしては突飛な提案だと思ったが、俺は数分考えた後に承諾した。別によその家のおせち料理が食べたかったわけではない。ただ、逃げるように上京した自分への負い目と、その間何も誠滋せいじにしてやれなかったことへの悔恨を感じていた俺にとって、この連絡は一種のすくいだった。


 久しぶりに誠滋せいじへ会いに行こう。どんな嫌味でも受けとめて、そしてあわよくば、誠滋にも都会へ来るよう勧めてみよう。もし上京する気がないなら、二年前みたいに、何でもないような話をして一日中笑っていよう。そう思った。

 だからおせち料理の具材なんて、注意していなかった。どうせ数の子や黒豆等々、決まりきった料理が出てくるものだと。



 その後も続々とテーブルに並べられるお節。二の重には脂身の少ない牛肉で巻かれたフライドポテト数本と、たれのみたカットステーキ。一の重に至っては、中が仕切りで分けられ、それぞれにチャプチェやプルコギ、フォー、ビーフストロガノフ、肉じゃが、と各国の牛肉料理が所狭ところせましと並べられている。


  ●  ●


「えっ」

 思わず混乱が声に出てしまったのをよそに、誠滋せいじたち一家はいただきますの挨拶をすると、銘々はしで牛肉に満ちたお節料理を口にしだした。


「せ、誠滋せいじ。誠滋」

 予想外のラインナップに、俺は誠滋を呼び止めてしまう。誠滋はフォーを一口分コーラで流し込んだ後、俺へ向き直った。

「どうしたの?」


 俺はきょとんと見つめる彼のひとみへぶつけるように、抱いた疑問を話した。

「いや。おせちって聞いたからもっと、数の子とか、黒豆とか出るんだと思ったんだけど……」


 すると誠滋はしばらくテーブルに並んだ肉塗れのお節を一瞥いちべつした後、質問の意図を理解したように「あぁ」と口にした。

「うちのお節料理は、毎年こんな感じだよ」


 毎年。俺は言葉の意味を考えつつ、目の前の肉のオードブルを見回す。見ているだけでくどさが伝わる重箱の料理たちを、彼は毎年正月の時期に味わっているのだ。二年前の正月も、その以前の年だって、彼ら一家は肉を重箱に詰めていたのか。

「贅沢だな」

 抑えきれなくなった感情を、彼らに聞こえない声量でぼやいた。


千夏ちかも食べなよ、勿体ないからさ」

 ビーフストロガノフをまみながら、誠滋が促す。


 俺は扇状に広がった肉おせちに視線を移した後、一番口に運びやすいローストビーフの一切れを箸に摘まんだ。

 ローストビーフは美味かった。たしかな食感を感じつつ、繊維はほろほろと舌の上で溶ける。上質な肉なんて片手で数えるほどしか食べてこなかった人生の中で、この肉は確かに俺の舌以外も満たす、上質な肉のそれだった。


「めっちゃ美味いな」

 誠滋せいじに向けた感想だったが、反応したのは誠滋の母親だった。

「あらそう、お口に合ったのならいいのだけれど」


 肉巻きポテトを小口に食べるお母さんの口調はどこか、不満をはらんでいた。俺の舌は確かに、食した牛肉を上質だと記憶した。だけどそれは俺がこの刺激に慣れていないゆえに出た感想だ。きっと彼女も誠滋も誠滋のお父さんも、最初は俺のように舌鼓したつづみを打っていたはず。だけど毎年毎年同じ刺激を味わいつづければ、人間は慣れてしまう。


「誠滋、ありがとな」

「なにが?」

「さっきも言ったけど、めっちゃ美味い」

「そっか、うれしいよ」


 それでも慣習は簡単には変えられない。それをどうにか打開したくて、誠滋は俺を呼んだのだろう。だとしたら、俺は彼の期待に応えなければいけない。

 俺は笑顔を努めながら、おせちに盛られた牛肉のオードブルをどんどんと口に運んだ。どれもこれも贅沢なほど美味であり、次第に俺の顔は造らなくとも笑顔になっていた。


  ●  ●


 牛肉は美味い。しかし、食事は常に釣り合いを取りつつ摂らないといけない。俺の胃袋は次第に肉と油のくどさにえがたくなっていた。


 誠滋せいじ一家もはしは止まり、対面の誠滋以外はすでに席を立っていた。お父さんは来訪当初のようにソファへ横になりながら漫才番組をながめている。お母さんは空になった二の重を持っていき、流し台で洗い物をしている。

 俺と誠滋も箸を運ぶ時間よりも、口を動かす時間が次第に増えていた。


「本当に全部美味かった。素材も去ることながら、お母さんの料理が美味いんだろなぁ」

「まだ残ってるけど?」

「箸休めだよ。昔みたいに肉ばっか食えたりしない」

千夏ちかも? 僕も同じ」


「俺は客人だけど、誠滋は毎年牛肉三昧だろ。きらいになったりしないのか?」

 最後の方はお父さんには聞こえない音量で話す。

 すると、肉じゃがを取ろうとしていた誠滋の手が止まった。


「牛肉自体は嫌いじゃないよ。ただ」

「ただ?」

「他の肉と比べて美味しくないんだ」


 目線を下に落としてぼそりと話す誠滋。毎年牛肉をたしなむ家庭で過ごせば、それ自体によいイメージがなくなるのも無理ないのかもしれない。俺には測りかねる世界だが。


「誠滋ほどになると、色んな肉食べてるんだろーな。“牡丹ぼたん”とか“さくら”なんて別名がついた肉とか」

「うん。牡丹肉は一昨年おととし届いたし、桜肉は千夏も食べたじゃん」

「えっ?」


 思いがけない一言に、箸が止まってしまった。俺が桜肉を食べたことある? 意識的に食べたことなんて記憶の中では一回もないはずだが。


「ほら、七年前ぐらい前、中学の進学祝いで千夏ちかの家に言ったとき、一緒に焼肉を食べたじゃん。あれ、僕の実家から送られてきた桜肉を調理したんだよ」

 誠滋に言われて、ようやく記憶の深層から忘れていた物をさらいだした。


 確かに俺は約七年前、中学への進学祝いと称して、家にやってきた誠滋せいじと一緒に焼肉を食べていた。数多い誠滋との記憶の一つとして何でもない物だと思っていたが、まさかあの時食べていた肉が上質な肉だったなんて。今すぐ過去の俺に会って「もっと味わって食え」と忠告したい。


「というか誠滋、さらっと『実家から送られてきた』って言ったけど、本当?」

 コーラを一口飲み、うるおった口で誠滋が答える。

「母さんの実家が畜産農家で、毎年の年の瀬にお肉が送られてくるんだよ。食べきれないほどの量の肉を」


「その中に牡丹肉とかもあるのか?」

「うん。十二種類ってる」

「だいぶだな!? 土地とかどうなってるんだよ」

「母さんの方のおじいちゃんが村長で、ある程度村の中の土地を自由に出来るんだって。昔はおじいちゃんたちに会いに行ってたけど、村全体が牧場みたいだった」


 何だか尋常ならざる背景を感じるが、これ以上は一大学生がみ込んでいい領域じゃない。俺はもっと再会を祝えるような気楽なトークテーマに流れを持っていく。


誠滋せいじは何の肉が好きなの?」


 何気ない質問。

 だがそれを聞いた瞬間、誠滋の瞳がギラリとかがやいたのを、俺は見逃せなかった。


「そんなの決まってるよ! 十年くらい前に食べた“あの肉”。あれを口にした瞬間、僕の世界が、価値が、全てが狂うほど美味かった!この世の何よりも甘美で瀟洒しょうしゃで重厚で偉大だった! あの肉を食べて以降、万物は輝いて見えるし、世界が歌をかなでているんだ! また食べたいなぁ、本当に食べたいよぉ……!」


 呆然としてしまう。目の前の誠滋は先ほどと打って変わって、双眸そうぼうに光が灯っていた。話に身振り手振りが多くなり、声色も2トーンほど高くなっている。思い出話を語らせるだけで彼をこんなにも活発にする“あの肉”。俺は見たことも食べたこともないが、“あの肉”に関して底知れぬ恐怖を直感した。


「そんなにうれしくなるなら、毎年贈ってもらえばいいんじゃないのか?」

「毎年?」

「ほら、誠滋が毎年おせちは牛肉だらけだって」


「牛肉は今年だからだよ」

 さっきまでの欣喜雀躍した彼とは打って変わった誠滋の様子に、思わず固まる。


「は?」

「今年は丑年だから」


  ●  ●


 「トイレに行ってくる」とだけ言い残して、誠滋せいじは離席してしまった。今リビングルームにいるのは俺と、誠滋のお父さんだけである。中学生ぶりに会う方だろうか、話題は一切ない。漫才番組を見ながら、時々腹の底から笑う声がソファから聞こえてくる。


 誠滋のお母さんは誠滋と食事をしている間中、ずっと皿洗いをしていた。そんなことあり得るのだろうかと思いつつも、ひょっとしたら俺と誠滋の時間を邪魔しないように気を使ってくれているのではないかと納得する。


 俺はリビングでちまちまとおせち料理を食べながら、今しがた誠滋が発した言葉の意味について考えていた。


 「今年は丑年だから」。言葉通りにとらええれば、丑年だから母方の実家から牛肉が送られてきたという意味になる。


 振り返れば誠滋せいじの発言にはおかしな点があった。ついさっき彼は牡丹肉、つまりいのししの肉が一昨年に届いたと言った。また中学の進学祝いに俺が気付かず食べていた桜肉、つまりは馬肉だ。中学進学もとい小学校卒業をしたのが約七年前。


 不審な点の謎がつながりかける。今年は丑年だから牛の肉。二年前、亥年に届いたのは猪の肉。七年前、午年に食べたとされる肉は馬の肉。


 もしかして。

 単純に当てはめれば、誠滋一家に毎年おくられる肉の法則性は解明できる。


 ならば約十年前。誠滋せいじが過去に食べた経験を語るだけで、豹変したように嬉々とした表情にさせた“あの肉”に当てはまるのは。


 俺は確実に時をさかのぼるため、一つ一つ指折り数える。

 丑、子、亥、戌、酉、申……。


  ●  ●


 誠滋せいじがトイレから戻ってくる。対面に座る彼の顔は、落ち着いた微笑みのままだった。


「なぁ」

 き出た疑問の真偽を確かめたくて、俺はローストビーフの切れ端をつまむ誠滋に問いかける。


「今年は牛肉が送られてきたんだよな」

「うん」


一昨年おととしは牡丹、つまりいのししの肉を食べたんだろ?」

「そう」


「中学の進学祝いで食べたのって」

「桜肉。馬肉だね」


 ここまでの事実確認で、俺の疑念は確信に変わった。

 照り輝くソースのかかったビーフを食す誠滋に目を据えて、俺はこの家に訪れてから抱いた最大の気がかりを、日常会話の温度でたずねてみた。


「じゃあ、約十年前に食べた“狂うほど美味かった肉”って」

 返答を待つ間、俺は対面の誠滋を注視する。


 一切れのビーフをしっかりと咀嚼そしゃくし、コップに注がれたコーラでもろとも流し込む。喉仏のどぼとけが別の生き物のようにうごめく。

 落としこんだ肉の消化活動にあてる間、誠滋せいじはいつも通りの微笑で返答した。


「龍だよ」


  ●  ●


 過去に所属していた部活動を答えるような、平々凡々の返答。一瞬、自分の質問がおかしいのかと錯覚してしまうくらい、誠滋せいじの口調は静かだった。


「龍って、あの?」

「そう。細長い蛇みたいな神獣。空を飛んだり、雨を呼び寄せたりするアレ。ねがい事は一つも叶えてくれないけどね」


 自分でも分からないほどに、心拍が強くなる。一呼吸のスパンが速まっている。どうして俺は今、あせりを覚えているのだろう。法則性は読み解いたはずなのに、推測への答えは合っていたはずなのに、その事実を彼の口からきいた途端、全身を由来不明の不気味な汗がつたいはじめている。


 あくまで談話のテンポをくずさないように、俺は口角を吊り上げ努めて今までと同じ語調でたずねる。


「冗談、だよな?」

 俺の作り笑いを知ってかしらずか、誠滋も間の抜けた微笑みで言葉を返す。

「冗談でこんなこと言わないよ」


 彼の眉がピクリと、張り詰めたげんを鳴らすように動く。小首をかしげるその風貌は、「常識でしょ?」と俺にうったえかけるようだった。

「でも、だって俺」


 本当に話していいのか? もしかしたら俺が十九年間の人生で食べてこなかっただけで、俺が十九年間の人生で偶然知り得なかっただけで、世間では当たり前の食糧なんじゃないか?

 それでも俺は、自分の常識を確かめるように、誠滋せいじへ正直に告白した。


「だって俺、龍の肉なんて見たことも食べたこともないし——」


  ●  ●


 瞬間、世界の音が停止した。



 五秒前まで談笑していた誠滋せいじが。

 テレビをながめていた誠滋の父が。

 台所で洗い物をしていた誠滋の母が。

 テレビの中で漫才を披露ひろうしていた芸人が。

 仏間から見える誠滋の祖父母の遺影が。



 全てが俺を異物と見做みなし、糾弾するように見つめていた。


  ●  ●


 そこからは何もなかった。

 誠滋せいじや両親は動きを止め、ただじっと俺一点にのみ視線を集中させていた。


「えっ」


 何が起きたのか分からずに、俺は戸惑とまどいながら誠滋を見る。彼は何も言わず、ただ俺を見つめ続ける。

 今度はソファへ視線を移す。誠滋のお父さんもテレビをけたまま、俺をじっと見つめている。

 気味が悪くなって視線をらすと、今度はキッチンの流し台。こちらに背を向けていたはずの誠滋のお母さんが、手にお重も持ったまま、その場で俺を見ていた。


 何かおかしなことをしたのか? マナーに反する言動を、知らず知らずのうちに行ってしまったのか?

 答えを知ろうにも、訊ねる行為は無駄だと理解してしまう。


 誠滋せいじたちは何らかのミスを犯した俺に対し、どんな刑も下さない。ただその場にいて、静物のように押し黙って、非難の視線のみを無限に注ぐオブジェと化してしまったのだ。



「すみません、大学から奨学金の書類について確認したいからって、連絡が来たので……もう、行かないと」


 その場しのぎのうそをついて、俺はそそくさと帰りの準備をする。まだローストビーフも肉じゃがもカットステーキも残っているのに、俺はリュックサックをいそいそとかたにかけると、足早にリビングから退室した。


 今の俺には何も聞こえなかった。テレビから流れる漫才の音も聞こえない。キッチンからの水流の音も聞こえない。外は車のエンジン音も聞こえず、笑い声も、鳥のさえずりも、外を吹く寒風も聞こえない。何より、誠滋せいじが何も発してくれなくなった。


 そして、俺は視線を感じ続けていた。それはついに誠滋一家のみならず、何もいないはずの俺の正面やはるか遠くの天上、左右の息がかかりそうなほど近く、あるいはリュックサックを中から、何者かの視線が常に俺を包囲し、ただ見つめ続けていた。

 気持ち悪い。居心地が悪すぎる。


「お邪魔しました」

 玄関でくついた後、俺は形式的な別れの挨拶をした。いつまで待っても誰の返答も返ってきそうにないので、俺は自分の手で誠滋家のドアを開けた。


 送りは行きと同じく、誠滋せいじが担当してくれた。だけど行きとは違い、誠滋は車のロックを解いた時も、俺が自主的に助手席のドアを開ける時も、そして今駅へ向かう最中ですら、一言たりとも言葉をかわわさなかった。


 ワンボックスカーにられながら、誠滋の横顔をちらと見る。彼は一秒たりともこちらに目をくれず、ただ古代ローマ貨幣のような横顔で、無の感情で運転している。その間も、俺の周囲は糾弾の視線にえ間なく包まれていた。


 赤信号に車が止まる。無言が車内に充満している。

 窓の外をながめる。空は重苦しいにび色の雲が一面に敷き詰められ、陽の光が一切届かない。そして厚い雲の向こう側から、無数の視線が俺を責めている。

 隣の車からも視線を感じる。俺を許さない視線だ。


 やはり正直に告白すべきではなかったのだ。疑念を感じたらそのまま内にめていた方がよかったのだ。世界に向けて声にしてはいけなかったのだ。


 深海に引きずり込まれたように、音は何も聞こえない。俺は目をつむった。それでも視線は止まないが、景色を見ないだけましだった。


  ●  ●


 かすかな揺れが止まる。目を開けると、朝と同じ駅の東口に到着していた。

 俺はもう一度誠滋せいじへ視線を送る。誠滋はマネキンよろしく、無反応をつらぬいていた。


 助手席のドアを開け、外へと出る。無数の姿なき視線にさらされながら、俺は改札へ向かおうと歩き出した。


千夏ちか


 ふと、無音の世界に声がひびいた。

 振り返ると、助手席のドアを開けたまま、誠滋が運転席から俺を見ていた。


「三年後。新社会人だよね」

 何も反応を返せない俺を気にせずに、誠滋せいじは言葉を発し続ける。


「来なよ。食べよう。龍の肉」


 その言葉を最後に助手席のドアを閉めると、銀色のワンボックスカーは無造作なエンジン音を鳴らしながら、駅を去っていった。


 車の姿が見えなくなるころ、世界は元に戻っていた。



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オセチ 私誰 待文 @Tsugomori3-0

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