Part 2
羽のはばたく音がして、ガンダルヴァが帰ってきた。持国は上半身だけ起こして、彼を迎えた。
「だめですね。この地には良き香りなど無いです」
「だろうな」
ガンダルヴァは、持国の革袋を見つめた。
「マナクリーヤの肉は誉れ高い。干したものと云えども、さぞ良き香りがするのでしょうね」
「しかたないな、ほら」
持国は、革袋を軽く投げてガンダルヴァに渡した。
「ありがとうございます、持国様」
ガンダルヴァは革袋の口を開けて、中の空気を勢い良く吸い込んだ。彼の折りたたまれていた翼が、ふわりと広がる。
鳥人は、笑みを浮かべて革袋を持国に返した。
「大変に美味な香りでした。私も眠りにつくとします」
ガンダルヴァは細い足を折り、その場に座って黄金の翼で自らを包み込んだ。
持国も再び横になり、目を閉じる。
ふと気になり、彼は革袋の口を開けて中をかいでみた。干し肉の香りは、きれいに消え失せていた。まあ、風味は落ちるだろうが、食えないことはあるまい、持国はそう思って眠ることにした。
彼は、この任務のきっかけとなった日のことを思い出しながら、眠気をたぐり寄せてゆく……。
……真昼の賢上城。光にあふれた大広間。
持国は、独り玉座の前に立ち、客人を待っていた。
ひどい胸騒ぎ。よくない知らせを、その客人は持ってくるのだろう。
重い扉が開いて、客人が入ってきた。
母なる大河の化身――ガンガーであった。
ふくよかな体に朱色の絹の服を身にまとい、静かに歩を進め、持国の前でひざまずく。
常であれば笑みを絶やさない女神の美しい顔は、今は涙に濡れていた。
「どうされたのですか。あなたが悲しみに暮れていると、大河の水がよどむ」
「……わたくしを乗せていたマカラが逃げ出してしまったのです」
マカラ――尖った鼻をして、蛇のように長い尾をもった怪魚。ガンガーは、マカラに乗って、大河を行き来しているのである。
「それは変事。マカラは、あなたと共にいることが何よりの喜びと聞いておりますが」
「そうだったのですが……。いつの間にか宝珠を宿してしまったらしいのです」
マカラには宝珠を宿す性質があった。けれどもマカラに宝珠を支配する力はないので、すぐに意識が囚われて狂暴になり、やがて巨大化する。
持つ者に限りない恵みをもたらす宝珠も、力の無い者には災厄となるのであった。
「我のところにやってきたということは、つまり――」
「そうなのです。大河の流れに逆らい、あちこちを泳いでいるうちに混濁沼に入ってしまったのです。今はそこの主になっていると」
「確かなのですか」
「星々の動きに何度も問いました。必ず同じ答えになるのです」
混濁沼は、持国が護るべき東方の勝身州の果てにあった。その沼には、かねてより《魔》が巣喰っているという言い伝えがあった。人々の邪念が溜まる沼であると。
「我にマカラを救いに行けと?」
「いえ、そのようなことは。ただ、このままでは《魔》の力が増すのではないかと不安なのです」
本当は救ってほしいのだろう、持国は直感した。長きに渡って行動を共にしてきたマカラを失いたくないという女神の想いが、彼の胸に届いた。
持国に課せられた使命は、勝身州の安寧を保つことであった。放っておけばマカラを主に据えた混濁沼は、じわじわと周りの地を浸食しかねなかった。
――行くしかないだろう。それも直ちに。軍を使うか。
持国は軍を持っていたが、それを使うのは戦争のような大規模なものに限ると定められていた。
危険な任務になりそうだが、だからこそ、この件で軍の者の大切な命が、わずかでも失われるのは避けなければならなかった。
だが。単身では、とても無理なことも明らかである。
「行ってはいただけないのですか」
考え込む持国に、ガンガーは訊ねた。
「いえ。ただ従者たちのことを思い浮かべていたのです」
「そうでしたか。迷っておられるように見えたものですから。失礼いたしました。……これは贈り物です。お守りのようなもの。お使いいただきますよう」
ガンガーは、そう言って小袋の織物を持国に手渡した。鮮やかな青の地に、銀糸で光を思わせる紋様……。
「持国様、もう出かけませんと」
ガンダルヴァの声に、持国は目覚めた。
空は既に澄んだ白に染まり、若い日の光が空気を清らかなものに変えていた。気持の良い朝だった。もし、賢上城で過ごしているのであるならば。
持国は兜を被り、起き上がって従者たちを見た。
ピシャーチャの腹は、いくぶん膨らんはでいるものの、動くのに支障はなさそうだった。だいぶ前に昨晩の残りを食べ尽くしたのだろう。
ガンダルヴァは、両脇に法輪を抱えていた。こちらも夜明け前から作り出したに違いない。
準備は整っていた。
持国は鎧の胸板の裏側にあるかくしに手を入れた。ガンガーから贈られた小袋を取り出し、見つめる。ガンガーのために、マカラは生け捕りにしなければならなかった。しかし、それは難しいことだった。
彼は自分なりの案を持っていたが、結局は生け捕りにする余裕などなく、殺すことになるだろうと考えていた。持国は小袋をきつく握り締めた後、再びかくしに戻した。
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