第35話 衆議林を成さん

 フェイトンは沈黙した。最初に驚きの声を上げたのはペレウスだった。

「俄かには信じがたい。改正条約の密約だって?」

「それが真相だ。それでどう思う?」

「こんなのは許されない。当然でしょう!」

「……。祖父の言う「彼女」がユリアなのですね?」

「そうだ。」

「もしかしてズメルノスト本部長の「棄権」も博士たちの計画なのですか?」

 ペレウスの問いにアルファルドは頷いた。

「ズメルノストは「総会」という枠組みの中で改正条約を破棄したがっていた。奔放に見えて根は真面目な男だ。」

「彼の考えは分かります。スロヴェニアは創設国としてそれなりの発言力を持っているから。」ペレウスは頷いた。

「彼は予め棄権の意思をリゲルとモチュア、ドーナーたちに伝えた。彼女たちは彼を支持し、改正条約の密約を少なくとも議事録に残そうとした。」

「何故失敗したのです?」

「ユリアはドーナーからその計画を聞き出した。裏切ったのか、それともそう仕向けられたのか、恐らく後者だと思うが。リゲルもモチュアもあの日の「総会」には出席していない。ズメルノストは虚しくも道化を演じざるを得なかった。そして創設国の片割れは公然と凋落した。」

「それがユリアの「感動」の力で失敗したのか。じゃあ手紙にある通り、貴方がユリアに対する対抗手段を持っているのは本当ですか?」

 ペレウスの問いに、アルファルドは笑顔で頷いた。

「実は敢えてペレウス君を惑わす言動をして、君がどう反応するか確かめたんだ。やや知りたがり過ぎる嫌いがあるが、面識の無い職員はいいサンプルだから。」

「何ですかそれは……。それで、結果は?」

「昼間話した時、君は確かに定型句通りの改正条約内容を述べた。曄蔚文博士の言う通り、それが委員会全体の共通理解になっているってことだ。だが今さっき君は、改正条約の真相を聞いて許し難いと憤慨した。他の委員会の面々が皆君と同じなら、私たちに逆転の希望はある。」

「でもどうすれば?」

「ただ無鉄砲に告発しても、ズメルノストと同じ轍を踏みかねない。一番現実的なのは、ユリアを排除した上で改正条約の非を公表する方法だろう。」

「つまり彼女を殺すってことだ。」マリアンが言った。

「そんなことが可能なのですか?」」

 ペレウスはシャウラやカトが手足を切り落とされても平然としていた様子を思い出した。

「ユリアという奇妙な「明るさ」の根源を消せば、感動の虜囚たちは冷静に戻るだろう。後は人間に任せるよ。具体的には君たちに。」

アルファルドはペレウスとフェイトンを示した。

「私たちに皆を説得しろと?現実的とは思えません。」

「だがね、ペレウス君。本当に重要な局面において、人の心には人の言葉しか届かないんだよ。特に「提言」の原版を読んだ君は、真実に最も近い場所にいる。君は委員会を取り巻く状況を把握し、それらを貫く本質を理解しなさい。そして人々に説明するんだ、改正条約締結の過程で何が起きたかを。」

 ペレウスの沈黙を埋めるようにマリアンが尋ねた。

「ユリアはどうやって人々を感動させたのでしょう。馬鹿正直に歴史見解の金銭化を唱えたとは思えないけど。」

「リゲルの最後の報告によれば、ユリアは世界中の人々が同じ歴史を共有することで、争いの芽を摘み平和に至れると鼓舞しているらしい。」アルファルドが答えた。

「ですがそれってつまり委員会の意義なのでは?」

フェイトンの質問にアルファルドは頷いた。

「君の言う通りだよ。重要なのは、改正条約はあくまで手段の話であって、組織の存在意義自体とは矛盾しない点だ。これが金銭主義化という荒唐無稽な目論見に正統性を与えているんだ。」

 ペレウスは憮然とした口調で反論した。

「でも私たちは武力や権力の優劣で歴史見解が決まる状況を避けるために活動してきました。金銭で世界の見方が取引されても良いなど、誰も思っていません。」

「それを君に証明してほしい。ミラに関心を持ってくれた君になら頼めると思うんだ。他の故人と同じく、ミラは既に忘れられた人間だった。今では彼の研究業績も殆ど顧みられないし、委員会関係者も関心を示さない。だが物言わぬ死者に寄り添い理解しようとする生者がいる時、死者は世界での存在を許され続けるんだ。君は過去の混沌からミラの痕跡を掬い出した。私はずっと前から君を買っていたよ。」

 アルファルドの誠意に満ちた言葉は、出自背景の異なる三人の心を打つのに十分だった。結局人を感動させるのに必要なのは、人間か否かではなく人間らしい心なのかもしれない。

「ミラ博士を本当に大切に思っていたのですね。」

「その通りだが、寧ろ彼は私自身とでも言うべきか。」

「どういう意味ですか?」

「家族でなくとも友人でなくとも、自分を分かち合える相手が一人いれば、それだけで生きるに足る理由になる。彼は私の生きる意義だったのさ。だが私は次第に彼が分からなくなった。ミラも私が分からないと言った。こういう孤独は君たちには共感し難いかもしれない。」

「そんなことはありません。」

 ペレウスは反射的に返事をした自分に驚いた。アルファルドもまた意外そうな表情で答えた。

「そうか……。私はミラともう一度互いを分かち合いたい。私の「再生」を使って、ミラの再現性を確保すれば、私は彼を取り戻せる。だって私たちは人間じゃないからね。」

 フェイトンは祖父を思って再び俯いた。

「私はミラと出会った時の事を当然覚えているが、実際に目にしていない彼の死に際の方が深く心に刻まれている。彼がバルセロナで死んで以来、私は一秒たりとも安穏を得ることは無かった。私に纏わりつく影は、心身を引き裂く苦痛を絶え間なく齎した。君は親を喪い、そしておじい様を喪った。どちらも君だけに寄り添う暗い靄だ。」

 アルファルドは沈痛な面持ちで続けた。

「人間には死者を取り戻す見込みは無い。なら君たちはこの悲痛とどう折り合いをつける?慣れてしまうのか?或いは脳と心の限界が、苦痛を褪せさせ心を和らげる時が本当に来るのだろうか?」

「アルファルド、彼の前でそんな言い方は。」

 マリアンが制止すると、アルファルドは二、三度咳払いして言った。

「すまない。さすがに私が悪かったよ。」

「良いんです。正直に言うと、僕にはずっと祖父の考えが殆ど計り知れませんでした。僕にとって祖父はよき理解者だったけど、彼と話す時はいつも、高く聳える山をただ見上げる気分だった。」

 フェイトンは悲し気に微笑んだ。

「でも祖父は僕にこの手紙を残してくれた。生死を隔てていても、僕は祖父の意思に寄り添い理解できると思います。多分……。」

アルファルドは慈愛に満ちた表情で相手の肩に手を添えた。

「私もそう思うよ。早速アテネに向かい、アンティゴノス教授と合流しよう。移動の手配は私に任せてくれ。」

「やはり私は北京本部に行きたいと思います。」

おもむろに口を開いたペレウスに、アルファルドは怪訝な眼差しを向けた。

「何故?」

「カトの話です。彼はユリアが北京本部でリゲル本部長の遺品を……と言いましたが、正直彼女の私物があるとは思えません。今北京本部を統括しているのは、手紙に出て来た楊何業上級委員です。彼はユリアと彼の関係について言及したのかも。」

「単に我々を誘導している可能性は?」

「分かりません。ただ曄蔚文博士やリゲル本部長たちは、ユリアと楊何業の関係を突き止められなかった。ユリアが楊何業に与えた役割を把握すれば」

「以前言っていたもんな。委員会には楊何業の支持者が沢山いて、モデラの地位を脅かしているって。」

 アルファルドは意外そうな顔で尋ねた。

「つまり楊何業とモデラは一枚岩じゃない?」

「ええ。それにはかなり確信を持っています。」

「うーん。分かったよ。期限は短く、成功の見込みは低いが。」

「期限……。調印式典までにはアテネに戻ります。元からその予定なので。」

「決まりだな。」

 ペレウスはふと思い出して尋ねた。

「最後に一つだけ質問が。フェイトン君には話しましたが、今年の初め、曄蔚文博士のもとに改正条約破棄を求める脅迫状が届きました。アルファルドさんは何かご存じですか?」

「いいや。もしかして私を疑っているなら筋違いだ。博士は私らの仲間だし、脅迫状なんて私の趣味じゃない。」

「祖父の自作自演かもしれません。それで改正条約の見直しを誘導しようとしたのかも。」

「それは無いと思うよ。改正条約阻止における一番の難関はユリアで、彼女はお手紙で動揺する奴じゃないから。でもいい知らせだ。私たちの他にも反対派がいるってことだもの。猶更気にかけておくよ。」

 こうしてペレウスは北京本部に、アルファルドとマリアン、フェイトンはアテネでアンティゴノス教授と合流することにした。アルファルドはペレウスに対し、楊何業に予定より一日遅れて北京に到着する旨を敢えて連絡するよう勧めた。

「もしユリアに遭遇したら、なりふり構わず逃げ出すことだ。彼女の話に耳を傾けてはいけない。ドーナーの二の舞になってしまうから。楊何業への警戒も怠るなよ。何を聞かれてもしらを切り通してくれ。」

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セビーリャの囚人(原) 江島 @fae_mel

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