第34話 祖父の手記

 アルファルド、マリアン、ペレウス、フェイトンの四人は再びアルファルドの館に戻って来た。カラーの姿はない。

「そうだ、カラーの前ではリゲルの話題を出さないが良いと思うよ。リゲルと親しかったから。」

「カラーさんも同類なのですか。」

フェイトンの質問にアルファルドは頷いた。

「そうだよ。彼女も気温を下げられる性質を持つ。君たちがこちらに来るとき、大雪で国境が閉鎖され、大規模な通行障害になっただろう。それは彼女の仕業だ。」

「彼女「も」?じゃあリゲルさんとは……。」

「二人は同じ性質を分け合う同類だ。」

 だがカラーの姿は無かった。四人は初めて会同したホールに再び足を踏み入れた。フェイトンは真っ先にソファへ沈むマリアンを案じた。真っ白な額には次々と冷や汗が滲み、足取りに生気は無く、指先はずっと小刻みに震えている。彼は次に真剣な表情で黙り込むペレウスの姿をちらりと見た。ペレウスは友人の容態を気に掛ける余裕すら持ち合わせていないらしい。彼は宮殿内部での出来事を話さず、他の三人もさして追求していない。だが恐ろしく深刻な様子からして、何か重大な見聞を得たのかもしれない。

 フェイトンは最後にアルファルドの姿を眺めた。アルファルドはマリアンの隣に腰かけると、呟くように語り出した。

「調査共有委員会に同類が紛れているのは、ミラが「提言」の執筆者である事と無関係ではない。人間の姿形をとり、人と共に生きたい同類にとって、ミラや委員会は良いモデルケースに映ったから。」

「同類……。さっきは自然の体現者とおっしゃいましたが、貴方は人間ではないのですか。」

アルファルドは相手が全く理解していないのを察して言った。

「あはは、誤解を恐れずに言えば、『指輪物語』のガンダルフみたいなものだ。映画を見たかな。彼は遠い場所から派遣された精霊なのだそう。長生きで人間じゃなくて魔法が使える。杖でピカリっとね。尤も私たちが使える魔法は各々一つだけだが。」

 君と一緒に映画館に行ったよね、そう言いつつ彼はマリアンの髪を無遠慮な手つきで乱した。フェイトンは2人が揃って映画館に足を運ぶ珍妙な姿を想像し、ペレウスは妙に納得していた。友のやや間延びした特徴的な口調は、アルファルドと同じなのだ。それらはたとえ同年代に見えようと、彼ら二人の関係が友人でも同僚でもない事を示していた。

「つまり水を動かしたカトは……。」

「彼はそういう性質の持ち主だ。そして君らが国境を超えるとき、季節外れも甚だしい大雪が降ったわけだが、それはカラーの仕業だ。何か他に聞きたいことがあるかい?」

「じゃあ同類も他の場所から来たのですか?ガンダルフみたいに。」フェイトンが尋ねた。

「そうとも言えるし、そうでないとも。」

「答えになっていませんよ。」ペレウスとマリアンが口を揃えた。

「今はとにかく改正条約に集中しなさい。」

「すみません。察するに、カトの言ったユリアという同類が、委員会や改正条約に関係しているのですね。」フェイトンが尋ねた。

「君は賢いな。その通りだ。彼女は2000年以上同じ名前を使い続けている。」

「同じ名前を?」

「時間の経過は恐ろしいものだ。たとえ姿を真似ようと、時間は取り繕えない異質性を浮き上がらせる。だから人間じんかんに生きたいなら、その差異に気付かれる前に名前や住処を変える。だが彼女はずっとローマのユリアだった。」

「つまり自分の正体を隠すつもりが無いのでしょうか。」フェイトンが言った。

「それもある。」

「同一人物として人間と接触し続けたいのかも。」ペレウスの言葉にアルファルドは頷いた。

「その通り。彼女は知ってほしいわけだ。ユリアという女は衆人の感情を操作できると。」

「感情を操る?」

「具体的には、人間を感動させ気分を高揚させる性質だ。太古の昔、人間が自然の驚異を目の当たりにして呼び起こされた感情、それがユリアという同類を形作ったらしい。ズメルノストの「棄権」が5月の「総会」で無視されたのも、彼女の能力以外には考えられない。」

 ペレウスは怪訝な表情を浮かべた。

「「棄権」が不可思議な力によって有耶無耶にされたとは、正直信じがたいです。「総会」には各国代表が出席しているのですよ。」

「気持ちは分かるよ。だが君も言った通り、委員会は歴史見解の共有による世界平和を自認してきた。彼らには大義名分があって、それを劇的に強化するのが改正条約だ。名だたる大国も改正条約に調印する。かたやズメルノストは、明白な凋落傾向にある創設国スロヴェニアの本部長だ。こんな時、私なら、スロヴェニア本部が私欲の為に世界平和を阻んでいると吹聴するかも。とにかく曄蔚文博士の文書を読もう。」

 マリアンがフェイトンから借りていた電子アルバムを差し出した。

「お返しするよ。君らが出かけた間に、ファイルが復元できたんだ。重要なところを君が訳してくれないだろうか。」

フェイトンは頷くと、おずおずと漢字の並ぶ画面をのぞき込んだ。文面は想像よりずっと短かった。



―――――子寧、このファイルはあなたが読んでいるはずだ。アンティゴノス教授は中文を読まないから。何よりもまず無事にアテネに到着出来て良かったと思う。教授が何処まで説明したかは分からないが、このファイルを託した経緯を簡単に説明したい。

 あなたは1995年に行われた香港返還調査をご存じだろうか。香港島の「体制」的変遷に関する基礎調査報告書だ。既に返還が決定した問題に対して、事実関係を整理する極めて基礎的な調査だった。唯一それまでと異なるのは、当事国イギリスが非加盟国だった点だ。今となっては隠す必要も無いが、あれは改正条約下において、非加盟国も当事者になり得るという前例づくりの役割も果たしていた。つまり香港調査とは、基礎的な調査とは裏腹に、委員会の将来に大きく寄与する重要な任務だったと言える。

 当初における改正条約推進者の一人として、私はこの香港調査が予想外に難航した事に頭を悩ませた。調査の責任者は楊何業という人物で、所謂委員会の生え抜き世代においては頭一つ抜けた実力者だったのだが、彼はかなり反共的な姿勢で「総論」を執筆したのだ。

 この後の顛末は概ね知っているだろう。楊何業の行動は我が祖国の権利を著しく阻害し、調査共有委員会の在り方自体を脅かすものだ。当然中国当局は猛抗議したが、結局楊何業の「総論」は殆ど改訂されることなく「総会」で可決された。現在でも加盟国の多くでは、彼の「総論」に準じた報道や教育が行われている。

 何故香港調査の「総論」が可決に至ったのか。そして職員規則に違反した楊何業は何故更迭を免れたのか。前述の通り、香港調査は改正条約と密接に関係する試験的取り組みだ。この二つの疑問もまた、改正条約に含まれた真の思惑を理解すれば、自ずと答えが見えてくる筈だ。

 まずは後者について。リゲル・サンドラも楊何業の行動に憤慨した一人で、アテネ本部では彼女を中心として秘密の調査班が結成された。楊何業が香港返還に対する反対勢力と収賄関係にあったという証拠を探すチームだ。だが私はかなり明確な根拠を以て、楊何業の収賄疑惑は事実無根だと考えている。

 これについてはリゲル自身も薄々感じていたらしい。だが彼女にとって重要なのは、楊何業への疑念が噴出する事だった。彼女は楊何業が規範に則って制裁されないと知り、委員会内の信用を落とす事でそれに代えようとした。つまり楊何業の失脚を策謀したのだ。しかし誰もリゲルを責められる立場ではない。彼女は今まで苛烈な程に委員会へ忠誠を尽くしてくれた。私ですらなぜ彼女がそこまで献身的になれるのか不思議に思ったくらいに。

 私はリゲルの悪手を知り、別の方法を探そうと説得した。収賄の噂が広まれば、当然香港調査のみならず、委員会自体の信用を大いに損なうことにも繋がる。委員会が各国の歴史を委ねられているのは、各国が委員会の公平性を信用してくれるからだ。

 そこで私たちは眼前にある事実を洗い直し、改正条約と香港調査が、ある人物によって巧みに誘導されたものだった事を突き止めた。私が提唱者兼助言者の立ち位置に居ながら、楊何業の処遇や中国の態度について殆ど無知に近い理由も、その「彼女」の存在が影響している。

 あなたが今の状況で委員会のインターンに参加できるかは分からないが、もし委員会職員に改正条約の内容について尋ねる機会があれば、誰に聞いても全く同じ答えが返ってくる事に気付くだろう。第一に加盟国拡大に伴う諸制度整備、第二に「総論」普及を徹底するための施策であると。驚くべきことに、それもまた「彼女」の手腕が致す所なのだ。ともかくまずは、簡明な諸制度整備の文言に隠された秘密を説明したい。

 改正条約の本質とは、「歴史見解への資本主義の導入」である。身も蓋もない言い方をすれば、加盟国は拠出金等次第で「総論」の内容に干渉できるようになる。史実の如何に関わらず、誰かの思い描いた歴史を世界の共通見解にできるのが改正条約の目的なのだ。

 あなたは今、いくら金を積もうと限度があると考えたのではないか?無を有とは言えないと。だが次のように考えてみて欲しい。歴史は過去という世界の捉え方なのだと。例えばある遊牧民は自らの祖先を狼と信じている。海洋民にはそれを鯨と考える者がいる。だが彼らの「間違い」に対し、生物学的根拠を以て懇切丁寧に説明するなど殆ど無意味だ。人間の祖先が如何なる生物か、彼らも科学的な意味で当然知っているはずだから。事実か否かは信仰の前で大した意味をなさない。それは独自の歴史と伝統の中で形成された、彼らの世界の見方、即ち自己の淵源を如何に定義づけるのかという問題なのだ。

 或いは次のような場面を連想して欲しい。中近世の欧州において、教会とは識字者の集まりだった。彼らは多くの異端審問によって正統と異端とを区別し、教会の庇護下にある人々が、間違った解釈で世界を理解しないよう記述した。このように物事を正統と異端で判断する風潮こそが、現今欧米社会の倫理観や価値観に大きな影響を与えていると言えなくもないが―――。まあいい、例えば天動説と地動説もその一つだ。彼ら識字者の中には、地動説の正当性を認める者もいたかもしれない。だが天動説という世界の見方は、どれだけ自然科学が進歩しても、信仰の下で長らく選ばれ続けたのである。人間には事実の如何にかかわらず、「世界の見方」を主体的に選択する能力があると言えよう。

 この「見方の選択」は歴史と大変密接な繋がりがある。歴史とは現在に至る人類の淵源を説明する学問だ。全ての記述が筆者の主観に基づいているのは当然である。だから歴史学者は細心の注意を払って記述物の正確性を吟味し、その内容が限りなく事実に近いという前提で過去を論じ、過去に関する世界の見方を提示する。この意味において歴史とは、事実関係の正誤を研究する学問ではない。そしてこの態度は調査共有委員会の根幹たる「提唱」にも色濃く反映されている。つまり「世界の見方の選択」は、調査共有委員会の根幹を為すのだ。

 そもそも調査共有委員会とは、国や集団の淵源に関わる歴史について、進んで妥協する代わりに皆で諍いの芽を摘み、互いの歴史を担保しあう機関だった。これは原加盟国の多くが、強権国家から翻弄されてきた事実と無関係ではない。可能な限り公平な話し合いの下に「総論」即ち「世界の見方」を決定し、互いにそれを保証し合う。それが委員会の存在意義だった。だがら金という権威で「総論」の内容を決定するなど、委員会の存在意義とは決して相容れない発想なのだ。

 この金銭に関する取り決めが如何に委員会を腐蝕したのか、私には皆目見当もつかない。有力国と「彼女」及びモデラの間で交わされた密約か、或いは既に加盟国全体の了承事項かもしれない。改正条約を発案した時は、こんな事態に陥るとは思いもよらなかった。例えばインターネット活用を盛り込んだのは、あくまで加盟国が自らの「世界の見方」を守る上で有効だと思ったからだ。だが改正条約は私の与り知らぬ所で進展していた。

 以上の背景を鑑みれば、主要先進国の中でロシアだけが改正条約を拝金主義と批判し、強固な反対姿勢を示したのも頷けるだろう。現段階では金銭競争で押し負けると、ロシアは理解しているのだ。だから仮令新規加盟国によって協調不和だと捨置かれようと、ソ連時代にオステルマンが創設した教育機関を「提言」の正統な後継者と自称し、調査共有委員会に対抗して歴史のための国際組織を作ると宣言した。このままでは、二十世紀を大分した「陣取り」の再来になりかねない。私は「提唱」者として、何が何でも改正条約を阻止しなくてはならないのだ。


 幸いにも私には共鳴してくれる仲間がいる。アテネ・フランス学院のアンティゴノス先生、委員会のモチュア上級委員(彼女は初代委員長モチュア博士の親類だ)、そしてリゲル・サンドラ君など。彼らは創設時から外と内で委員会を支え続けた功労者だ。私たちが適切な方法で正道を示せば、どれほど緻密で誘惑的な計画であろうと打ち破れるはずだ。

 だが「彼女」の力は私たちを優に凌駕していた。人間は世界中の現象を発見し解明する術に長けているが、世界にはそんな思索が全く無意味に思えるような理不尽がある。リゲル君に降りかかった災難も「彼女」の仕業だ。恥ずかしながら、私は「彼女」を心から恐れている。ここに名前を記すことで、お前に要らぬ災いが降りかかるのではと恐れる程に。

 私たちは「彼女」への対処法を今一度考え直し、アルファルドという人物の協力を得ることにした。彼もまた「理不尽」の一員だが、何かしら対抗手段を講じてくれるらしい。「彼女」への対処に関しては、それに一縷の望みをかけるしかない。

だが問題の本質が「彼女」ではない事は明らかだ。問題の本質は、モデラ委員長など主要関係者が自らの意思で改正条約へ邁進している事実である。アルファルド氏によれば、恐らく「彼女」はその手助けをしているに過ぎないという。人間を改心させるのは至難の業、モデラのように強固な意志の持ち主なら尚更だ。彼がなぜ「彼女」と協力しているのかは皆目見当つかないが、可能であれば私は彼の目を覚まさせたい。様々な事情を調べるために多くの時間を費やしてしまった。愈々改正条約が締結に至りさえすれば、悪法も法、全てが手詰まりに陥ってしまうだろう。私には直截かつ決定的な手段が迫られている。


 この文書をどう処分しても構わない。ただあなたには私の姿勢を知っていて欲しかった。私には何人もの弟子がいるけれども、学統ではなく精神を継承して欲しいと思ったのは一人だけだ。覚えているだろうか?以前私が「鉄のカーテンを引いたのは誰か」と尋ねると、あなたはさんざん考え調べた挙句、答えを出せなかった。その精神の事だ。

 だからと言って、この計画への加担を要求しているわけではない。私は世界における己の役割を考えろと何度も話してきたが、その世界にはあなたが只存在するだけで心から感謝する人間がいるのだ。自分を慈しむ気持ちを忘れないでくれ。

 最後に謝らせてほしい。私は精一杯の愛情であなたを育てたつもりだが、実際には寂しい思いをさせてしまった事も多い。そして今回の出来事は、あなたの孤独を一層深める予感がしている―――――。

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