第9話

 暇だ暇だと思っていた『陽炎』だが、夕方になると少しばかり客が多くなる。それでも、七海がいてもいなくても捌ききれないほどではない。もともとが、それほど広い店ではない。カウンターが五席に小さなテーブル席が三つほどの小さな店なのである。

 シックな店内は大人っぽくて七海のような子どもには似合わないかと思ったが、これでいて「かわいい新人が入った」とお客様には人気である。

 七海の方も、雇われたからには精いっぱい働くのがスジというもの、と真面目に仕事をしている。そんな七海の仕事ぶりは、赤人もそれなりに認めてくれているようだ。

 店に出すケーキの仕込みやら、新作ケーキの考案など、やれる時間が増えたといって喜んでいる――らしい。この辺は、白妙からの情報なので、本人が本当はどう思っているかは不明だが、まあ嘘ではなさそうだと七海は考えている。

 ――必要に迫られてかと思ってたけど、案外赤人さんはケーキ作り、好きみたいよね……。

 どうも『陽炎』のウリはこのケーキらしい。もともとは祖母の趣味だったという話だが、手伝ううちにハマってしまったのだろうか。

 たまに、試作品らしきケーキを振る舞われたりもする。なかなかおいしいと思うのだけれど、どうやら彼の中では基準があるらしく、まだ新作を店で出したことはない。その辺、おそらく凝り性なのだろう。

 客足が途切れた頃、カウンターの隅で休憩していると、白妙が鮮やかな手つきで入れたカフェオレを差し出してくれた。


「んもー、白妙もちょっと働きなよ」

「んん……我はここにいるだけで働いておるのと同じだからな」


 腕を組んで胸をはった白妙に、七海はじとっとした視線を向けた。その瞬間、カラコロとドアベルが鳴る。

 反射的に立ち上がろうとしたが、白妙はちらりと扉に目を向けると「風だろう」と呟いた。一瞬目がきろりと光ったような気がして息を飲む。

 だが、すぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべた白妙と目が合って、七海は首を傾げながらもカフェオレに口をつけ「あちっ」と呟いた。。




「七海、土曜のことだけど……」


 帰り際、今日は赤人が送ってくれるというので、七海はカウンターに腰かけて彼の準備が整うのを待っていた。待ってる間に飲んでろ、と今日は熱い緑茶を淹れてくれたので、猫舌気味の七海はそれにふうふうと息を吹きかける。たまにこれに売れ残りのケーキがついたりもするので、うれしい反面体重の増加が心配でもある。まあ、まだ若いので大丈夫だろう。

今の時刻は七時ちょうど。まだ営業時間は残っているが、それには白妙が残ってくれることになっている。


「んえ? 土曜、やっぱだめです……?」


 眉を下げた七海に向って、赤人は「そうじゃない」と首を振った。それにほっと息をついて、じゃあなんだ、と赤人の顔を見上げる。一瞬目をそらした彼の視線の先を追うと、そこにはカレンダーがかけられているだけだ。意図がわからず、七海は再び赤人の顔に視線を戻す。

 少し困ったような顔をした彼は、ぽりぽりと頬を掻くと肩をすくめる。


「その……ばあちゃんに許可を貰えたらでいい。夜、ここに来てもらえるか」

「夜? うーん、まあ土曜だし……おばあちゃんがいいって言えば私は別に」


 夜なら、既に買い物も済んでいる。特に用があるわけでもなし、別に来るくらいはかまわないのだけれども。

 七海は首を傾げながら、飲み頃になった緑茶を啜った。


「あ、別に夕方からでも入れるけど。忙しくなりそうなの?」

「ん、いや……そうだな、夕方……うーん、いや、やっぱ……七時くらい、かな」


 それじゃ、おばあちゃんに聞いてみますね、と七海が言うと、赤人は少しほっとしたように笑う。眼鏡の奥の瞳が細められて、七海はそれにぱちぱちと目を瞬かせた。

 ――こういう風に笑えるんだ……?

 陽炎に来るようになって、それほど経ったわけではないが、赤人はあまり表情豊かな方ではない。いや、接客業としてそれでいいのか、と突っ込みたくなるほど、基本無表情だ。

 だから、彼が微笑んだところなど七海はこれまでに見たことがなくて――それが思いのほか優しい笑いだったことにびっくりしたのだ。

 ――そんな顔ができるなら、接客の時に使えばいいのに。

 ふう、ともう一度ぬるくなったお茶に息を吹きかけて、七海はそれを「ずずっ」と音を立てて啜った。


「……よし、七海」

「はーい。よろしくお願いします」


 帰りを送ってもらうのは、ここで働くときに条件として挙げられていたことなので当然である。

 だけれども、七海は毎回「お願いします」と「ありがとうございます」を欠かしたことはない。今日もはきはきと言葉を発して、陽炎の扉をくぐる。

 ――あれ、今何か……?

 その瞬間、どこかから視線を感じたような気がして七海は背後を振り返った。だが、

 四月とはいえ、春の夜はまだ肌寒い。上着をきこみ、赤人から投げ渡されたヘルメットをしっかりと被ると、七海は彼のバイクの後ろにまたがった。こうして送ってもらうのは初めてではないのだが、ぎゅっとしがみ付かなければならないのはやはり恥ずかしい。

 だけど、白妙に送ってもらうよりは、主に恐怖心的な面ではるかにマシなので、七海はいつもどおり彼の腰に腕を回した。

 ブオン、と重い低音が響いて、エンジンの振動が伝わってくる。七海は案外、この音が好きだった。

 年齢が満ちたら、絶対に自分も中型免許を取ろうと心に決めている。

 ――まあ、原付はともかくバイクはおばあちゃんが何ていうかわからないけど……。


「おい、しっかりつかまっとけよ」

「ん」


 七海が返事をするのを待って、ゆるやかにバイクが走り出す。吹き付ける風は、少し冷たいが心地いい。

 ちら、と背後を振り返ると『陽炎』の扉が開いて、それからゆっくり閉まるのが目に留まる。だけれども、七海は「あれ?」と首を傾げた。

 ――今入ってった人、尻尾……生えてなかった?

 見間違いだろうか。猫の尾のようなものが一瞬ひらりとこちらに向けて振られたような気がする。

 ――気のせいかな……?

 なんたって、今『陽炎』の店内には神使たる白妙がいるのだ。あやかしが近寄るはずはない。


「おい、七海、しっかりつかまれよ」

「あ、ごめん」


 信号待ちの交差点で、振り向いた赤人に言われて、七海は首をすくめて頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かぎろひ―バイト先の喫茶「陽炎」はあやかしのたまり場でした― 綾瀬ありる @ariru-ayase

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ