第8話

「いらっしゃいませぇー!」


 カランコロン、と軽快な音を立ててベルが鳴る。もはや条件反射のようにそう言いながら顔を上げると、そこに立っていたのは白妙だった。


「なんだ、白妙かあ……」

「なんだ、とはなんだ」


 そう言いながらも、白妙はいつものように正面のカウンター席に腰を下ろす。

 七海はそこへ、すっかり慣れた手つきでお冷を置いた。


「随分慣れてきたようではないか」

「んー、まあね……」


 ちら、とカウンターの隅っこで作業している赤人を見て、七海は肩をすくめる。視線の先で、真剣な表情で小麦粉を計り終えると、その赤人がすっと顔を上げた。


「おい、七海……白妙ならほっておいていいから、続きやるぞ」

「はぁい」


 少々げんなりした顔つきの七海に構わず、赤人はすでに次の作業に移っている。大きなため息を吐きそうになってあわてて飲み込むと、七海はいつものようにふるいを持ってとぼとぼと彼の元へと歩いていく。

 『陽炎』でバイトをするようになって、まず七海が仰せつかったのがケーキを作るための小麦粉をふるう作業だ。

 意外にも種類が多いため、大量の小麦粉をふるうことになる。

 最初は簡単だと思っていたが、量が多いとそれだけでも重労働だ。なるほど、バイトが欲しくなるはずだ、と七海はげんなりしながら小麦粉をふるう。

 七海が入るまでは、ケーキ類はすべて赤人ひとりで作っていたというのだから驚きだった。


「そのうち、七海には全行程覚えてもらうからな」

「ひええ……」


 ぶいいん、と音を立てて卵白を泡立てながら赤人が言う。それに悲鳴ともつかぬ返事を返して、七海はがっくりとうなだれた。


「覚えたら時給アップしてやる。全種類とは言わないから、二種類くらいは覚えろよ」

「はぁい、よろこんでぇ!」


 もともと時給は悪くないが、アップしてくれるというなら願ってもない。二種類くらいならまあ、なんとかなるだろう。

 やったことがないわけではないのだ。得意なわけではないけれど。

 半ばやけっぱちのような七海の返事を聞いて、白妙が笑いをかみ殺していた。


「どうだ、七海。高校生活の方は順調か?」

「え?」


 いつのまに提供されたのか、しばらくしてホットコーヒーを白いカップから啜っていた白妙が、唐突に尋ねてきた。高校に入学したのはちょうど一週間ほど前になる。

 越境入学と言うこともあって友達ができるかどうかが不安だった七海だが、気安く話しかけてくれたクラスメイトの何人かとは、昼食を一緒に食べたりする関係にはなれた。


「うーん、まあ、ふつう……?」

「そうか、学校は市内だったな……人の多いところは、あやかしも出やすい。特に浮ついている時期には寄ってくる」

「あ、なるほど……」


 道理で、と七海は苦笑した。学校の中でも、たまにチラチラと姿を見かけるあやかしがいる。

 近寄ってこないのは白妙の守護のおかげだろう。ありがと、と呟くと、白妙は満足そうな笑みを浮かべた。


「市内って、高校どこなんだよ」

「履歴書に書いたでしょ」


 一応提出した履歴書には、入学予定の高校の名前も書いたはずだ。赤人の質問にそう返すと、彼はバツの悪そうな表情を浮かべた。

 出すだけ出させておいて、どうやら目を通してはいないらしい。その辺はばあちゃんが、ともごもご呟く赤人に、高校の名前を教えてやると、彼は目を丸くした。


「へえ、わりと頭いいんだな」

「まあ、悪くはないね」


 へへん、と胸を張った七海だが、高校入試がなかなかしんどかったことは秘密である。

 滑り止めも何校か受験していたため、こちらに来られない不安はほぼなかったが、なるべく近場の高校に通いたいのが本音だ。

 ――ま、大阪の高校っていうのも悪くなかったけど……。

 祖母の家から通うには、ちょっとばかり遠すぎる。

 父の母校だったこともあり、できれば受験したいとわがままを言ったので、合格通知をもらったときにはかなりほっとした。


「赤人さんは、高校どこだったの?」

「俺は都内」

「と……え、東京? ……そういえば、関西弁じゃないね」

「まあな」


 詳しく聞けば、赤人は産まれも育ちも東京だという。父親の仕事の都合でずっとそちらにいたのだが、奈良の大学に進学を決めて、一人で戻ってきたのだという。


「……ま、そこでその白妙にとっ捕まったわけだ」

「失礼な言い方をするな」


 憤慨したような白妙の声にひとつ肩をすくめて、赤人は「ま、これもなるべくしてってやつなんだろうよ」と呟いた。


「あ! そうだった、今度の土曜日は休みにしてもらってもいい?」

「土曜? なんでまた」


 その質問に、七海は含み笑いを浮かべた。赤人と白妙は、そんな七海を胡乱気に見つめている。その目の前に、ばばーん、と効果音が出そうな勢いで、七海は原付の免許証を差し出した。


「ふふ、とりあえずおばあちゃんにお金出してもらって、原付を買いに行きまーす」

「原付ぃ?」

「送迎なら我がすると言っただろう」


 約束通り、確かに白妙は七海の送迎を――主に、送る方だが――してくれている。だが、七海はその時のことを思い出して「うっ」と顔をしかめた。

 まさかのまさか、白妙の送迎方法は、あの白犬の姿になって七海を背に乗せて送るというとんでもない方法だったのである。

 ちなみに、白妙の都合の悪い日には、赤人がバイクで送ってくれたのだが、七海としてはそちらのほうがありがたい。とにかくあの背中に乗るのは、バイクに乗るのの数倍怖いものなのだ。

 初日、背中に乗せてもらった瞬間はかなりテンションがあがったが、走り出したとたんに後悔した。

 早い、そして掴むところは白妙の毛しかないので落ちそうで怖い。回を重ねるごとに慣れては来たが、やはり怖いものは怖いのだ。

 それもあって、七海はかなり必死に祖母に願い出て、原付購入費用を貸してもらえることになった。


「というか、七海、もう十六なのか……」

「あ、うん。私、四月二日生まれだから」


 さらりと言うと、赤人と白妙が二人そろってぎょっとした顔つきになった。


「え、ええ……? もう誕生日過ぎてるじゃないか」

「だから原付の免許取れたんだよ」


 高校の入学式は、四月の二週目に行われた。よって、余裕を持って七海は原付の免許を取得することができたのだ。


「言ってくれれば……」

「なあ……」


 なおも、ふたりはぶつぶつと呟いている。どうしたのか、と首を傾げた七海に、赤人はとりあえず土曜の休みは認めてくれた。


「赤人、お前なんで……」

「はあ? そんなこと……」


 男二人はその後も、ぼそぼそと二人だけで会話を続けている。七海は首を傾げると、カランコロン、と鳴った鈴の音に向って再び「いらっしゃいませぇ!」と大声を上げた。

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