第7話
結局、七海は『陽炎』でバイトをすることに決まってしまった。というのも、白妙があの後も散々「あやかしが出たらどうする」と七海を脅したからだ。
赤人の方はさほど乗り気でもなかったようだが、白妙に何か耳打ちされて以降特に反対することもなく、ただ一言「いいんじゃないか」と言ったのみである。
――解せぬ。
まあ、提示された時給はそこそこ良かったし、送迎についても「任せておけ」と白妙が言っていたので、七海にとっても悪い話ではなかったのだが。
「あやかし、ねえ……」
ごろん、とベッドに寝転がり、七海は枕を抱きしめてため息をついた。
これまで、そんなものとは無縁の生活を送ってきたのである。急に「見えるようになっちゃってるから」などと言われても実感がわかない。
――この部屋には、いたり……しない、んだよね?
きょろきょろと部屋の中を見回して何もいないことを確認した七海は、ほっと安堵の息をついた。
それから手を上に伸ばし、自分の指先を見つめる。何を思い出したのか、その顔がだんだん赤くなっていく。
うう、とうめき声を漏らしてパタパタとその手を振ると、七海はごろんと寝返りを打って枕に顔を埋めた。
あれは、帰るために祖母に連絡をし、到着を待っている間のことだった。
散々七海を脅した白妙が、さすがに悪いと思ったのか「契約成立の証に、守護を授けておいてやろう」と申し出てきたのだ。
曰く、七海はあやかしの存在を感じることも、またその目で見ることもできるが、対処することはできないだろう、と。見えていることに気付かれれば、あやかしは必ずちょっかいをかけてくる。それを防ぐため、ということらしい。
「そんなことできるなら、別にここでバイトとかしなくても……」
「なに、効力は一日ももたん弱いものだ。半端に強い力は余計なものを引き寄せるからな」
「あー、はいはい、なるほどなるほど?」
結局、毎日『陽炎』に来なければならない、ということらしい。それならば、確かにここでバイトをした方が効率的である。
なんだか腑に落ちないが、七海は早々に諦めて白妙の方に向き直った。
「手を出せ」
その言葉に従って、七海は素直に手を差し出す。おもむろにその手を掴んだ白妙は、その指先に唇を寄せた。ひえっ、と叫んだ七海が思わず振り払おうとするが、さすがは神使である。七海の抵抗などものともせず、唇を指先に触れさせた。温かくて柔らかい――というのは、後になって思ったことで、その時の七海は初めての経験にプチパニック状態であった。
なにせ、見た目には美形の青年に指先にキスをされているのだ。
「な、なっ……⁉」
「これで、見えはしても近寄れはすまい。……なんだ七海、顔が赤いぞ」
「……白妙、女の子にそれはない」
ひええ、と叫び声をあげながら真っ赤になった七海を、白妙が不思議そうに見ている。赤人は額に手を当て、頭を振りながら「はあ……」と大きなため息をついていた。
そんなわけで、今の七海には白妙の守護、とやらがついている。正直なところ、今までと何かが変わったという実感はない。それに、赤人は「水分の家の中は安全だ」と言っていた。
あの、東京から七海が連れてきてしまった(らしい)あやかしも、水分の家には入れず外をうろついていたらしい。
つまり、家の中にいる限りは問題ないということらしいが、だからといって引きこもっているわけにはいかない。
ふすまの梁にひっかけた高校の制服を眺めて、七海はため息をついた。入学式は一週間後だ。
「気が重くなってきた……」
本当なら、今頃わくわくしながら楽しい高校生活に思いを馳せていたはずなのである。それが、こんな意味も訳もわからない事態になってしまって。
はああ、と重いため息が七海の口から洩れた。
「どうなっちゃうのかなあ……」
先行きはとてつもなく不安だ。ごろごろとベッドの上で転がっているうちに、早起きが祟ったのか、七海はそのまま眠ってしまった。
翌朝目覚めた時には、既に太陽は高く昇っていた。普段規則正しい生活を送っていた七海からすれば、かなりの寝坊である。
あわてて階下に降りていくと、祖母が誰かと大声で電話をしているところに出くわした。
「ああ、今起きてきたわ……うん? ああ~心配あらへんって、うん……ほな、また昼過ぎにでも連れてくわ。……え? ああ、ええよええよ……うん、うん」
はて、と七海は首を傾げた。今起きてきた、というのは七海のことだろう。時刻はもうすぐ九時半になるところなので、かなり惰眠を貪ったことになる。ちょっと恥ずかしいのであんまり広めないでほしいな、と思いながら横を通り抜けてリビングへ向かった。
ダイニングテーブルの上には七海の分の朝食が用意してある。パンをトースターに入れ、スクランブルエッグを電子レンジに突っ込んだところで、電話を終えた祖母もリビングへ戻ってきた。
「おはよ……おばあちゃん、ごはんありがと」
「ん、おはよ。はよ食べてしまいや」
妙にご機嫌な祖母に首を傾げながら、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。牛乳大好きっ子の七海の為に、祖母はわざわざお高めのものを用意してくれたらしい。にやにやしながら注ぎ入れて、まずは一口。
軽快な電子音が温め終了を知らせ、七海は電子レンジからスクランブルエッグを取り出し、テーブルの上に置いた。次いで、焼き上がりを知らせる「チン」という音に振り返る。
「ほら、熱いから気ぃ付けて」
「あ、ありがと」
皿に乗せられた厚切りトーストを受け取って席に戻ると、七海は「いただきます」と手を合わせた。
何年か前、祖父がまだ生きていたころは米一択だった朝食も、今では祖母の「楽やから」の一言でパン食が多い。
七海が朝食を食べ始めると、祖母ははす向かいの定位置に座ってにやにやとその様子を見守り始めた。
「そうや、七海。あんた、赤人くんのところでバイトする言うてたやろ」
「え? あ、うん……」
昨日の帰り際に、その話はきちんと祖母にもしてある。許可しない、と言ってくれることをひそかに期待していたのだが、祖母はなぜか目を輝かせて「ええやん」とあっさり認めてしまった。
心変わりしてくれたのか――と一瞬期待して、七海は祖母の顔を見て「あ、ないな……」と心の中で呟く。
「白妙くんがな、七海の送迎をしてくれるっていうんよ」
「ああ……なんかそんなこと言ってたね。でも、私原付の免許取るつもりだから、それまでね」
七海が言うと、祖母の顔が少しだけがっかりしたような表情を浮かべた。どうやらこの祖母、白妙がお気に入りのようである。
そういえば昨日も妙にテンションが高かったな……と七海は厚切りトーストにかぶりつきながら思った。
「まあ、便利やからな、その方が。まあ、それでな、今日も来てほしいらしいんやわ」
「きょ、今日⁉」
ごくん、と口の中のものを飲み込んで、七海は一拍遅れて素っ頓狂な声をあげた。そんな七海を、祖母はにまにまとした笑みを浮かべたまま見つめ、うんうんと頷いている。
「ええなあ……あんな格好のええ子ばっかりおる店でバイトとか、ばあちゃんがしたいわ……」
変わってくれてもいい、という言葉を牛乳と一緒に飲み込んで、ぷはあっと息を吐く。なにせ、このバイトには七海の安寧な生活がかかっているのだ。別に白妙と赤人がイケメンだとかそういうことは関係がない。まあ、ちょっとはそう思わなくもないがメインはそっちではない。
そこまで考えてから、七海はふと首を傾げた。
「……え? なんでおばあちゃんがそんな話を……?」
至極もっともな疑問であると思う。スクランブルエッグをつつきながら質問した七海に、祖母は笑顔で答えた。
「さっきの電話、赤人くんからやってん。昨日、七海の連絡先聞き忘れたからって」
「え、ええっ……⁉ それで、今起きてきたとか言っちゃたの⁉」
電話の相手はどうせ祖母の友人だろう、と思っていたから聞き流せたが、七海も知っている人物だというのなら話は別だ。怠惰な生活ぶりを暴露されて、七海の頬が熱くなる。
――ちがう、ちがう……! いつもはもっとちゃんと起きて……っ!
慌てて心の中で弁解を始めるが、それが届くわけもない。うう、と頭を抱えた七海は、ため息をつきながら遅い朝食を終えたのだった。
「お、来たか。水分のばあちゃんも、いらっしゃい」
昼過ぎ、時刻はおやつタイムの手前の十四時半。妙にうきうきした祖母に連れられて、七海は『陽炎』を訪れていた。
今日は土曜日だから少しは客がいるのではないか、と思っていたが、先日と同じく店はガラガラだ。
――バイト、いらなくない?
七海がこう思ったとしても仕方がないだろう。それが顔に出ていたのか、それともガラガラの店内を気にしたのか、赤人が肩をすくめた。
「ま、ばあちゃんの道楽だし。それに、ここのメインの客は夕方過ぎの方が多いんだ。昼間はばあちゃんの友達が来て、結局最後にはばあちゃんは遊びに行っちまうことが多いけどな」
「へ、へえ……」
なるほど、これで三日連続で『陽炎』に来ていることになるが、赤人の祖母と顔を合わせることがないはずである。七海の祖母も、それを聞いてけらけらと笑って頷いた。
「ここで井戸端会議する日もあんねんで」
「井戸端会議……」
「そうそう、イケメンの顔見ながら楽しくお喋り。ま、赤人くんはおらん日の方がおおいけど……白妙くんがおるしな」
なるほど、昼間に集まる主婦たちと、昼間は大学の講義を受けている赤人とでは、微妙に時間が合わないらしい。
しかし、そうやって集まる主婦くらいしかこの辺では客もいなさそうなのに、夕方以降の方がメインとはどういうことだろう。
「ま、その辺はおいおい。今日は七海の連絡先と……あと、勤務時間の話とかまだしてなかったから」
「ああ……そうでしたね……」
とりあえずスマホを取り出して、連絡先を交換する。バイトのこと以外でも、困ったときには連絡していい、と言われて、七海は曖昧に頷いた。
基本、白妙のおかげで日常生活はどうにかなりそうだし、困りそうなことと言ったらあやかし関連くらいだろうから、さほど頼る場面は思い浮かばない。
だが、祖母しかこの辺で頼れる人がいない七海にとって、ありがたい申し出には違いないだろう。祖母が笑顔で礼を言うのに合わせて、七海も「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ほな、私はちょっと買い物行ってくるから。七海はよう話聞いておき」
頼んでいたほうじ茶を一杯、あっという間に飲み干した祖母がそう言って席を立つ。え、と七海が振り返ったときには、既に祖母は『陽炎』の焦げ茶色の扉を開けて、にんまりと笑いながら手を振っていた。
――やっぱり、どうもなにか誤解されてるよね……。
目を丸くしている赤人に向かって肩をすくめると、七海は「今日の日替わりケーキ、なんですか?」と尋ねた。
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