第6話

 カップから口を離した白妙が、さらっとなんでもないことのように言う。背後からしたその声を、今更ながら、七海はどこかで聞いたことがある、と思った。

 ――どこで聞いたんだっけ……?

 こくん、とつばを飲み込んで、七海は恐る恐る背後を振り返った。その目に飛び込んできた姿を見て、悲鳴をあげかけた口をとっさに自分で塞ぐ。

 椅子の上に座っていたのは、大きな白い犬。昨夜窓の外にいた、あの白い犬だ。


「気付くのが遅い」

「いや、普通は気付かないだろ……」


 白い犬が口を開くと、白妙と同じ声がする。騙されているのではないか、と慌ててきょろきょろと周囲を見回してみるが、白妙の――あの白髪の美青年の姿はどこにもない。

 赤人の呆れたような声が背後から聞こえて、目の前の白い犬がくつくつと笑う。


「え、ええ……?」

「しかし、七海とは相性がいいな。もう我の姿に気付かぬことはないだろうよ。あやかしの姿にも」

「……やっぱりか」


 戸惑いの声をあげる七海に構わず、赤人はため息交じりに白妙の言葉に答えた。まだ信じられない、という顔をしている七海の目の前で、ゆらゆらと白い犬の輪郭がぼやけてゆく。ぱち、と瞬きをした次の瞬間、そこには人間の姿をした白妙が座っていた。


「うわ……」


 これはさすがに信じざるを得ない。なにせ、目の前で姿を変えたのだから。


「つまり……白妙さんは、あやかし……?」

「あれと一緒にするな」


 憤慨したように、白妙が語気を強めた。ひえっと肩をすくめた七海の頭を、赤人の手が宥めるようにぽんぽんと軽くたたく。


「白妙、そこはまだ説明してないんだ、そう怒るなよ」

「む、そうか」


 頷いた白妙が、七海を通り越して赤人の顔を見る。早く話せ、とせっつかれて、赤人がごほんと咳払いをした。ずず、と珈琲を啜る音がして、それからカタンとカップを置く小さな音がする。

 そこで、七海も入れてもらったカフェラテに全く口をつけていなかったことに気が付いた。ゆらゆらと湯気を立てていたはずのカフェラテは、すっかり冷めてしまっている。

 口をつけると、やわらかなミルクの中にエスプレッソ自体の苦みを感じた。おいしいのだが、甘党の七海には少しばかり苦すぎる。砂糖を入れたいが、こう温くなってしまっていては溶けないだろう。

 少しだけがっかりした七海の手元に、すっと小さな銀色の容器が差し出された。


「これを使うといい」

「あ、ありがとうございます……」


 中を覗くと、透明な液体が入っている。おそらくガムシロップだろう。とぽとぽと注ぎ入れ、スプーンでかき混ぜた。

 口をつけると、苦かったラテがほんのり甘くなっている。ようやくひと心地ついた気分になって、口からほうっとため息が漏れた。


「冷めてもおいしいですね」

「うむ、そうだろう。修練を積んだからな」


 にんまりと満足げな笑みを浮かべた白妙が胸を張る。その姿は、やはりどこからどう見ても人間そのものだ。

 だが、本人の言によれば人間でもなくあやかしでもないという。じゃあいったい何なのだろう、と胸中で七海が疑問を膨らませた時、ようやく赤人が口を開いた。


「……白妙は、神使だ」

「シンシ?」


 耳慣れない言葉に、七海の頭の中で疑問符が踊る。表情にも出ていたのだろう、赤人が七海のそんな顔を見て苦笑を浮かべる。


「神の使いだ」

「ああ、神社にある……狛犬、みたいなやつ?」

「……まあ、似たようなもん」


 ひらめいた、とばかりに張り切って答えた七海に対し、赤人は苦笑交じりに肯定を示した。


「それで?」

「それで、って……他になんなんだよ」


 説明は終わった、とばかりに再びカップに口をつけた赤人に、七海はずいっと顔を近づけると、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。


「それで、なんで赤人さんがあの……あやかし? を追いかけまわしてたの? 白妙さんが神使だっていうなら、そういうのって白妙さんの仕事じゃないの?」

「それは違うな、七海。あくまで我の仕事は見守ることよ。加護を与えもするし、手伝いもするが、結局あれをなんとかするのは人のすること」


 静かな声でそう言った白妙が、咎めるような目つきで赤人を見た。


「赤人、おまえ、肝心なことを何も話しておらんではないか。それではこの先、七海が困るだろう。昨日、おまえが説明をすると言ったから、我はおまえに任せたのだぞ」

「……わかってる」

「わかっておらんから言っておる」


 どことなく険悪な雰囲気を感じて、七海の背中に汗が流れた。こんなところで二人に喧嘩などされても、七海にはどうすることもできない。

それに、なんだかわからないが、白妙は「七海が困る」と言っていなかっただろうか。突然自分の名前が出てきたことに困惑して、二人の顔をきょろきょろと見比べる。

 それが四往復ほどしたところで、赤人の口から盛大なため息が漏れた。


「この地のあやかしにかかわる困りごとを解決するのが、うちの仕事でな。先代はじいちゃんで、親父は婿入りだから、次はおれ。白妙はずっと昔から、それを手伝ってくれてる」


 空になったカップを手の中で弄び、それにじっと視線を注いだまま赤人が言う。七海はじっと黙ってその続きを待った。


「あれを追いかけまわしてたのも、まあそういう仕事の一環だ。――わかってる、その話もちゃんとするから。それでまあ、七海のことなんだが……」


 白妙も、じっと黙って赤人の話を聞いている。だが、その視線に何かを感じたのか、ため息交じりに手を振って、赤人は七海に向き直った。


「水分の家では、何代かに一人くらい、あんたみたいなやつがいる。あやかしの気配に敏感で、その力の強さによっては、あやかしを見ることもできたりするそうだ」

「……え、私……みたいな?」

「昨日、あんたのばあちゃんも白妙のいる席を避けただろう。水分のばあちゃんはそれほど力が強くないらしくて、ただなんとなく、っていつも言うな」


 目をぱちくりさせた七海に、今度は白妙が声をかけてきた。


「いや、今代は運がいいな。水分の娘が協力してくれれば、仕事はずいぶん楽になる」

「ちょ、ちょっとまって⁉」


 今度こそ驚いて、七海はがたんと椅子を揺らして立ち上がった。にやにやした白妙の顔と、苦虫を噛み潰したような赤人の顔を交互に見る。


「協力って、協力ってなに⁉ む、無理でしょ⁉」

「そうは言うが七海よ……おまえは我の術にもかからなかったし、姿も見てしまった。となれば、これからはあやかしの姿も見える。見えてしまえば、向こうも気づく」

「……残念ながら、見えてしまってる以上仕方ない。気付かれれば、これまで以上に絡まれる」

「か、からまれる……⁉」


 悲鳴のような叫び声をあげた七海に、心底同情したような赤人の視線が注がれた。


「……まあ、体が重くなる程度じゃ済まないかもな」

「面白がって集ってくるだろうよ。だが、七海が一人で対処できるというなら仕方がない」

「で、できるわけないじゃん……!」


 ふと何かに気付いたように、白妙の手が、カウンターの上に置かれていた紙袋に伸びる。その下から、バイトの求人誌を取り出すと、それを掲げてにんまりと笑った。


「ちょうどいい、七海、ここでばいとをするといい」

「えっ⁉」

「働き口を探していたのだろう? 七海は金が稼げる。赤人は七海が近くにいると力が増す。どっちもうぃんうぃん、というやつだ」

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