第5話
「はい、これ。落としてましたよ」
「お、拾っておいてくれたのか」
とりあえず腰を落ち着けた『陽炎』の店内で、まず七海はハンカチに包んだ黒縁眼鏡を差し出した。カウンターに並んで座った赤人はそれを開くと、少し目を見開いたあと「サンキュ」と言ってうっすら微笑む。
仏頂面かしかめっ面しか装備していないのかと思っていたが、どうやら他の表情もできるらしい。
銀縁眼鏡をケースに仕舞って黒縁眼鏡に架け替えている目の前で、白髪の美青年――白妙という名らしい――が、カウンターの中で珈琲を淹れる準備を始めていた。
「あ、私……」
「わかっておる、かふぇらてとやらにすれば良いのだろう?」
あれもなかなかうまい、と物知り顔で頷いた白妙が、今度はエスプレッソマシンの準備を始めた。豆を細かく挽き、ぎゅうぎゅうとそれを押し固めると、一度マシンからお湯を出した後に押し固めた粉とカップをセットしてスイッチを入れる。そして、ミルクピッチャーにミルクを淹れると、流れるような手さばきでそれを蒸気で温め、カップに慎重に注ぎ入れた。
「ほら、どうだ」
若干ドヤ顔の白妙が、七海の前にピンクのカップを置いた。覗き込むと、見事なハート形のラテアートができている。
「わ、すっごい……」
「もっと褒めて構わんぞ」
「このアホ……」
本格的な喫茶店になど入ったことのない七海は、流れるような手さばきと完成したラテアートに感動しきりだ。だが、赤人は鼻の頭にしわを寄せ、呆れたようなため息をついた。
「こんなことばっかり上手くなりやがって」
「だが、客は喜ぶぞ」
ほれ見ろ、と白妙が七海を指し示す。きらきらと瞳を輝かせてラテを覗き込んでいる七海を見て、赤人はうめき声をあげた。
それを負けのしるしと見なしたのだろう。白妙の口もとの笑みが深くなる。それをじろりと睨みつけて、赤人は七海に声をかけた。
「そんなことより、話を聞きに来たんだろう」
「あ、そうでした」
赤人の声に、七海はようやく顔を上げた。危うく目的を見失うところだった、と改めて居住まいをただす。
ち、と白妙が舌打ちをしたような気がするが、赤人が反応をしないところを見ると気のせいだったようだ。
とぽとぽと音を立てて、今度は珈琲をドリップし始めた白妙を横目に、赤人が話を続けた。ふんわりとしたラテの匂いではなく、珈琲の強い香りがあたりに漂い始める。
「で、どこから話せばいい?」
「どこ、と言われましても……」
それこそ、一から十まで、七海にはわからないことだらけだ。
「あー……えっと、そもそも昨日赤人さんがおいかけっこしてたアレ、なんなんです?」
「あれは……」
質問に答えようとした赤人が、口を開きかけて一瞬言いよどむ。ん、と首を傾げた七海の顔をまじまじと見ると、なぜか赤人が逆に質問を返してきた。
「あんた、これまでになんか身体が重いな、とか、あそこは近寄ったらいけないな、とか感じたことはあるか?」
「んー……あるといえば、ありますけど……」
歯切れの悪い答えになってしまったが、これにはすこしばかり嘘が混じっている。あるといえばある、どころの騒ぎではない。妙に肩こりが酷くて身体が重いことも、昨日のように座ってはいけないと感じる場所があったり――それから、近づくと良くないことが起こりそうな感じがする場所を見つけることは、実を言うと結構ある。
だが、それを正直に言うと、たいていの場合は笑われたり気味悪がられたりするので、小学校三年生になるころには、それを口に出すことはほとんどなくなっていた。
だが、その答えに満足したのか、赤人はうん、と一つ頷いた。笑われることを覚悟していた七海は、少し拍子抜けしてその顔を見つめる。
「――そういう、近寄っちゃいけないと感じる場所には、ああいう……いわゆる物の怪みたいなものがいる」
「も、もののけ……もののけ姫的な……?」
何度も見た名作アニメの名を口にすると、カウンターの中の白妙がぷっと噴き出した。眉間にしわを寄せた赤人がそれを軽く睨みつけた後、七海に向かって首を振る。
「いや、ああいうやつじゃない。あやかし……うーん、わかりやすく言うと、妖怪みたいなもんだ」
「妖怪などと一緒にするな」
「同じようなもんだよ、おれらからしたら」
ふん、と鼻を鳴らした白妙だったが、それ以上突っ込む気はないらしい。
「昨日のアレは、つまりそういったあやかしの類だ。それも、あんたがおそらく東京から連れてきた」
「え、ええ……⁉ わたしが⁉」
「昨日、妙に身体が重いな、と思わなかったか?」
確かに昨日、ここに着いたときは妙に身体が重たく感じていた。そういえば、帰るころにはだいぶ軽くなっていたような気がする。
だがそれは、長旅の疲れによるものだと思っていたし、ここで少し休憩をしたから身体が軽くなったのだと思っていた。
七海がどう答えようか迷っている間に、赤人は勝手に一人で話を進めていく。
「昨日は驚いた。あんなモン連れて、平気な顔して歩いてるし。かと思えば、その椅子を避けたりする」
くい、と顎をしゃくった赤人が示したのは、昨日七海が避けた入口から正面にあるカウンター席だ。
「あそこには、昨日、白妙が座ってた」
「は、はあ……? え、誰もいなかったじゃない!」
あの時、店内には赤人と七海の二人だけだったはずだ。同意を求めるように白妙の顔を見るが、その白妙も「うんうん」と頷いている。
もう一度赤人に視線を戻す。すると、彼は真面目な顔をして七海を見つめていた。
ドリップを終えた珈琲が赤人の前に置かれ、白妙がカウンターから出て七海を挟んだ反対側に腰を下ろす。ちゃっかり自分の分もドリップしていたらしく、白いカップを手にしていた。
沈黙の降りた店内に、白妙の珈琲を啜る音だけがしている。
「え、なに……だって、白妙さん……人間、だよね……?」
昨日七海は、確かにあそこに誰かいるような気がして座るのをやめた。それはいつもの「あそこに座ってはいけない」と同じ感覚だ。
赤人の言によれば、そこにはいわゆる「あやかし」とかいうものがいる、らしい。
と、いうことは……?
「人間ではないな」
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