第4話
「なんだったの、一体……」
それに答えてくれるものはない。事情を知りたければ、結局『陽炎』へ行くしかないわけだ。
眠気はすっかり覚めてしまった。
早朝の山並みを見つめて、とりあえずんんっ、と背筋を伸ばす。
――ラジオ体操でもするかぁ……。
もはや、この状況にまったくついていけていない七海は、まずは日常を取り戻すことにした。別に普段からラジオ体操をしているわけではないが、ここでは特に他にすることもない。七海の部屋にはテレビも置いていないし、そもそもこの早朝ではまだ放送も始まっていないだろう。
手早く着替えを済ませると、ぎしぎし言う階段をゆっくりと降りていく。
念のためリビングを覗いてみるが、祖母の姿はない。さすがにまだ寝ている時刻だ。
そっと玄関の扉を開け、外に出てみる。じんわりと染み入るような冷えた空気が七海を出迎えた。
遠くに見える山の頂上からは、朝日が顔をのぞかせている。
昨日よりもずっと体が軽い。真夜中に起きてしまったのだから寝不足のはずなのだが、と思って指を折って数えると、それでも六時間は寝ていた計算だ。案外寝ていた。
「あれ」
庭に出て、軽く手首を振りながら周囲を見回す。あれほど赤人が駆けずり回っていたのだから、きっとどこかに痕跡が残っていると思っていたのだが、庭は綺麗なままだ。
花も折れていないし、葉っぱも落ちていない。足跡もないし、穴も開いていない。
まるで、これまでのことが夢だったのではないか、と思ってしまうほど、なんの変わりもない庭の姿だ。
だが、七海は見つけてしまった。
「……眼鏡、落としてっちゃってる」
庭の隅の方に、黒縁の眼鏡が落ちている。拾って透かし見てみると、たいして度数の強いものではないらしいことが知れた。
これくらいなら、おそらく一日ぐらいなくても困らないだろう。そもそも、届け先がわからない。『陽炎』に行ってもいいが、いるかどうかは不明だ。
大学生だと言っていたから、今は春休みのはずだが、昨日彼は「休講になった」と言っていた。大学のことは詳しくないのでよくわからないが、授業が行われているのだろう。平日だということを考えると、今日も大学に行っている可能性が高い。
――寝てないだろうけど、大丈夫なのかな。
そんなことを思いながら、眼鏡をそっとハンカチに包んでポケットにしまいこむ。夕方の約束だから、その時に持っていけばよい。もし必要なら、心当たりは探しに来るはずだ。
「よおーし、ラジオ体操第一―」
気合を入れるように声を出して、まずは大きく深呼吸。朝特有のしめっぽく冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出して――七海は結局ラジオ体操を第二までやった。
さて、早いもので時刻はすでに夕刻である。
引っ越しの荷物の整理をしていたら、あっという間に時間がたっていた。部屋の中はおおかた片付いたが、足りないものは後日買いに行くことになっている。
悲しいことに、七海の住む祖母の家から駅までは、交通手段はなにもない。バスは何年か前に廃線になったらしいし、さすがにタクシーを呼ぶ金など中学を卒業したばかりの七海にあるわけもなかった。
祖母の運転する車だけが唯一の手段だ。あとは自転車を漕いでくるしかないのだが、残念ながら七海は自転車を持ってきていなかった。
学校が始まったら、当然毎日駅まで来なければならないのだが、それは祖母が送迎してくれることになっている。だが、祖母宅の周囲には店という店はなく、コンビニすら車で十分はかかる立地だ。
――十六歳になったら絶対原付の免許を取ろう。
固く心に決め、七海はいったん本屋へ立ち寄ってもらうと原付免許の教本を手に入れた。
幸いにも、七海の誕生日は四月に入ってすぐだ。今から勉強をしておけば、誕生日が過ぎてすぐに免許を取得できるだろう。
ついで小説を何冊か買い込み、店頭にあったバイトの求人冊子を手に取る。いったんは、両親に頼むか祖母に頼むかしてお金を出してもらわなければならないだろうが、のちのち返す算段はしておかなければ。
スーパーに行くという祖母に、帰りはまた連絡すると告げ、がさがさという紙袋を抱えながら七海は徒歩で駅前に向かった。
『陽炎』へ行く、というと、祖母はにまにまとしたがあえて理由を聞いては来なかった。なんだか変な誤解を生んだような気がする。何も言われていないのに弁解するのも妙な話だし、かといって昨夜の話をしても信じてはもらえないだろう。
むう、と口がへの字になったところで、目的地にたどり着いた。
扉には「CLOSE」の札がかかっている。看板にも札にも営業時刻が書かれていないので、これから開くのかどうかもわからない。
あれ、と首を傾げた七海の目の前で、焦げ茶色の扉がからんころんと軽やかな音を立てて開いた。
「お、本当に来たな。さ、入れ入れ」
「え、だ、誰……?」
目の前に現れたのは、白い長髪をひとまとめに括った目の覚めるような美形の青年だ。『陽炎』の文字が入ったエプロンは、昨日赤人がしていたものと同じだが、その顔に見覚えはなかった。当の本人はにこにこと愛想よく振る舞っているが、見知らぬ他人にそんな態度をとられても恐怖しかない。
彼は当然のように肩に手を回してきたが、いくら美形でも突然馴れ馴れしくされた七海の警戒レベルはMAXを振り切る勢いだ。
びくっとして逃げ出そうとした七海の背後から、呆れたような声がした。
「おい、驚かせるな。七海、悪いな。大丈夫、これは知り合いだから」
「冷たい言い方をするな。大親友と言え」
聞き覚えのある声に、ほっとして背後を振り返る。そこには、学校帰りなのかリュックを背負って銀縁の眼鏡をかけた赤人がしかめっ面で立っていた。
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