第5話
〈拝啓
目に鮮やかな紅葉の候 如何お過ごしでいらっしゃいますか?
その節は私の無実となる証拠の娘の日記を掲載して頂き 誠にありがとうございました
貴方様のお名前は生涯忘れる事はありません
野上逸郎様 この度は あの時のお礼として 僅かではありますが振り込ませて頂きました
また必要な時はご一報くださいませ
貴方様のお役に立てたら幸いです
あの事件に関してですが 主人には申しておりません
何せ知っての通りの怖い人ですので なかなか打ち明けられません
それより 私が心配なのは野上様の事です
ああいう人ですから もし今回の件を知ったら何をするか
野上様の身が危険です
どうかお気を付けくださいませ
かしこ〉
野上の指は小刻みに震えていた。雅子の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いだった。この手紙は紛れもなく脅迫状だ。
……これ以上、あの事件には関わるなと言うことか。
だが、この手紙に因って、岩水との共謀を雅子自らが認めたことになる。
……墓穴を掘ったな。さて、どう処分してやろうか。脅しには屈しないぞ。
この時、自分がまだジャーナリストの
〈矢口雅子様へ
お手紙、ありがとうございます。
貴女様の優しさ、染み入りました。
お心遣い、感じ入りました。
さて、話は変わりますが、服役中の岩水が自白を翻したとの情報を入手しました。
何でも、「あの子さえいなければ、あなたと結婚できるのに」と、貴女様に言われたからミナちゃんを殺したと。
私は岩水の言葉は信じていません。
でも、このことが公になる前に何とかしなければ、ご主人の耳に入ったら、それこそ大変なことになります。
どうしましょうか?〉
……さて、返事を寄越すか。――果たして、雅子からの返事は速達だった。
〈お知らせ頂き、ありがとうございます。
早速ですが、会って頂けないでしょうか?〉
最後に日時と場所が書いてあった。
「やったー!」
野上は思わず歓喜の声を上げた。推測が的中した。雅子は焦燥感に駆られているようだ。
――約束の時間より早めに指定された喫茶店に行くと、目立たない奥の席を陣取った。交渉の準備は万端だった。
間もなくして、三年前を
「……野上さん?」
「ええ」
野上は即答すると、煙草を揉み消した。雅子は安心したのか、肩の力を抜くとテーブルを挟んだ。
「ごめんなさいね、お呼び立てして」
申し訳なさそうに頭を下げると、水を持ってきたウエイトレスにコーヒーを注文した。
「いいえ。お会いできて光栄です」
身を守るために、
「ま、どうしましょう。こんな格好でごめんなさいね。オシャレをしてくれば良かったわ」
そう言って、恥ずかしそうに俯いた。
(わざとらしいことを言うなよ。綺麗な格好をすれば梶原の女房だとバレるからだろ?)
「……で、岩水の件ですけど――」
ウエイトレスが来たので、雅子は中断した。
「……私が言ったと?」
不安げな目を向けた。
「ええ。でもどうして、今頃になってそんなことを言うのか。何か心当たりはありませんか?」
野上は上手に話を作った。
「……いいえ」
心当たりを
「どうして今頃になって自供を翻すのか……。何か約束してて、それを守っていないとか?」
「……いいえ、ありません」
当てずっぽうで訊いた文句に、雅子が意外な反応を見せた。
(動揺している。はて、どんな約束を交わしたんだ? 身代わりの報酬として。……例えば、出所したら結婚するとか?)
「……あなたを守ってあげるにはどうすれば」
野上は苦悩の表情を作った。
「……ありがとうございます。怖い。岩水が怖い」
だて眼鏡を外した雅子は、目を潤ませると、すがるように野上を見つめた。
(よっ! 千両役者!)
雅子の
(人を騙しやがって!)
野上の腹は決まった。
「あなたの無実を確実にするにはどうすればいいか。……岩水の口を塞ぐしか手がない」
野上は深刻な表情を作った。
「……野上さん。お願い、助けて」
雅子は、身を委ねんばかりに、顔を近づけてきた。
「岩水のことは俺がなんとかする。だから、あんたも正直に言ってほしい。……子供の殺害を岩水に仕向けた。それは間違いないか?」
野上は直球を投げた。
「……」
雅子はゆっくりと
(やっぱりか……)
だが、あまりにも簡単に認めたことで、
「言葉にしなきゃ分からないだろ? 岩水に仕向けたの?」
野上は寛容な物の言い方をした。
「……ええ、そうです。あの子さえいなければ、もっと違う人生があるのにって、いつも思ってた」
三年前の報道どおり、やはり、雅子は“鬼母”だった。
「でも、自分で
臆病な岩水は、最初はつねったり、引っ張ったりしかできなかった。でも、慣れると麻痺するのね。蹴ったり、押し倒したりと大胆になっていたわ。私は見て見ぬふり。いいお母さんを演じるのは疲れたわ。
あの子が日記をつけていたのは知ってたから、靴のことをしつこく言ったわ。そうすれば必ず日記に書くって思ったから。案の定、お陰で無罪になった――」
そこには、
――野上の手元には、雅子の会話が録音されたテープがあった。
……さて、これをどう利用するか……。伊東に渡したんでは、あまりにも芸が無さすぎる。
一年近くが過ぎた。野上は、趣味と実益を兼ねて、古本屋を営んでいた。資金の出所は勿論、雅子様だ。
金とテープの交換条件に、次のことを付け加えた。
「俺に万が一のことがあったら、ダビングしたテープが、あんたを取り調べた刑事の
郊外の
だが、間もなくして、梶原が
雅子は、虚栄を脱ぎ捨てたかのように
「梶原と別れたわ」
ボストンバッグを提げた雅子があっけらかんと言った。
……俺にどうしろと言うんだ。まさか、一緒に
「行くとこなくなっちゃった」
……しつこいな。鬼母と一緒に暮らすわけないだろ? どっかに行ってくれよ。
「ここまで歩いてきたから、足が疲れちゃった」
そう言いながら、淡いピンクのスカートから伸びた細い脚を
……また、色仕掛けか?
「ちょっと座ってもいいでしょ?」
甘える表情で迫ってきた。
……俺も同じ穴の
そう思うと、断る言葉が見つからなかった。
結局、雅子と暮らす羽目になった。
……つまり、俺も、雅子と同類項だったわけだ。
野上はそう結論づけると、ドストエフスキーの『罪と罰』の上に載ったボストンバッグを手にした。――
完
真実のノート 紫 李鳥 @shiritori
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