第4話

 


〈――梶原氏は、ミナちゃんの件、ご存じなんですか? おおやけにしたくなければ、×日の10時までに100万円振り込んでください〉


 偽名で開設した通帳の振込先を書くと、矢口雅子様、親展と明記して、速達で梶原の住所に送った。野上には自信があった。雅子は決して通報しないと。それでも、期日の前夜は眠れなかった。警察が踏み込んでくるのではないかと、パトカーのサイレンにも戦々恐々せんせんきょうきょうとした。


 結局、一睡もできず、妄想と闘っていた。銀行の防犯カメラに映った自分の顔、銀行の周りに待ち構えた私服警官に逮捕される自分の姿……。犯罪者の写真を掲載していた自分が逆の立場になるのだ。【出版社Mの元社員、野上逸郎を恐喝未遂で逮捕!】そんな見出しが頭の中で鮮明に見えた。


 約束当日。隣駅の人気ひとけのないATMまで行くと、一目散いちもくさんに自動ドアに直進した。震える指でカードを入れると暗証番号を押した。途端、


「おい、待て! 逮捕する!」


 男の声と共に腕を掴まれる妄想が頭をよぎって、背筋が凍った。そして、残高照会を押すと、


「あっ……」


 と小さく発して、目を丸くした。そこには、1,000,000が浮かび上がっていた。名前を確認すると、ヤグチマサコとあった。にわかに高揚感を覚えた野上は、取り敢えず、10万円を引き落とした。


 だが、ここを出た途端、警官に取り囲まれて逮捕なんて、有り得ないよな……。


 それでも不安だった野上は一目散にそこを出ると、人気のない路地に入った。一安心すると、金の使いみちを考えた。


 ……さて、何に使うか。これで当分、遊んで食べていける。雅子様様さまさまだ。


 野上は札束に軽く接吻せっぷんすると、回転寿司を探した。――中トロ、えんがわ、穴子など、好きなものを鱈腹食べて店を出ると、パチンコをした。――金がある時は損はしないものだ。二千円ほど儲けた。運試しにスクラッチを一枚買った。それから本屋に寄って、歴史小説を二冊買った。そして、駅前のコンビニで弁当や惣菜、缶ビールを買うと帰宅した。


 明日は久しぶりに映画でも行くか。旅行もいいな。そんなことを考えながら、ビールを呑んでいると、昨夜ゆうべの寝不足もあってか、俄に睡魔が襲った。――



 熟睡したせいか、翌朝は清々しい目覚めだった。遠足に行くわけでもないのに、野上は朝からそわそわしていた。


 さて、どこに遊びに行くか……。


 昨日買った文庫本をリュックに入れると、スニーカーを履いた。



 気がつくと、栃木に向かっていた。どこへ行くか迷った時、人は無意識のうちに土地勘がある場所を選ぶものだ。今から行く温泉は、昔付き合っていた彼女と一泊したことがあった。


 ……どうしてるかな。結婚したかな。


 川治温泉に着くと、観光案内で紹介してもらった宿まで、紅葉を眺めながらぶらっと歩くことにした。銀杏いちょうは黄色く、紅葉は紅く、美を競うかのようにそれぞれの魅力を発揮していた。


 いかにも古そうな宿に到着すると、お茶を飲みながら三十分ほど休憩した。宿に着いてすぐに温泉に入ったり、頻繁に湯に浸かったりすると、湯中ゆあたりするらしい。


 噴出口に固着した硫黄華いおうかが、古い温泉であることを物語っていた。――半身浴でじっくり浸かった。毛穴からじわっと汗が噴き出す頃が上がり時。かけ湯やシャワーは禁物。タオルで軽く湯の花を押さえる程度でいい。


 湯上がりの一杯は格別だ。この気分は酒呑みにしか分からないだろう。上げ膳据え膳での食事は何年ぶりだろう……。野上は雅子に感謝した。


 本音を言うと、俺の中に雅子への憎悪があった。変な言い方かもしれないが、雅子の変貌が憎かった。当時の雅子は、陰の中に、強さとか、忍耐とか、情とかが感じられた。勝手に、良妻賢母の根源のようなものを見ていた。その姿が、亡き姉の面影と重なって映っていたのだ。


 しかし、今の雅子は違っていた。あの頃の俺の気持ちに反して変貌したことが許せなかった。そして、今の姿が本来の雅子ならば、ミナを死亡に至らす作為の基に、現在の自分を想定していたのではないか。つまり、岩水を利用して、ミナを殺すように仕掛けた。


 だが、そうなると、靴の件はどうなる。靴のことがあったから、俺と伊東は雅子をシロと断定した。最初からミナを殺すつもりなら、足の心配はしないはずだ。そうなると、俺の考えとは矛盾むじゅんする。


 ……あっ! そうか。ミナが日記をつけていることを知っていたとしたら? “また、靴のことを言われた”と日記にあった。毎日のように靴のことを言われたら、必ず日記に書く。つまり、ミナへの愛情を印象づけるためのお芝居だったとしたら? 雅子は自分の手を汚すことなくミナを殺した。野上はそう結論づけた。



 ――翌日、帰宅して、郵便受けを覗いた野上は、あっと声を漏らした。そこにあったのは、雅子からの手紙だった。


 ……どうして、恐喝したのが俺だと分かったんだ?


 この時、自分の知らない所で何かが動いていると、野上は直感した。それは、分厚い氷山が大きな勢力の基に、大地を震動させて一気に崩れ落ちる光景を思わせた。

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