ナミダ

 

 どれくらいそのままでいただろう。シンとした部屋に、ぴちょん、という水音が響き渡った。

 水道から雫が落ちる音なんかじゃない。

「さや!?」

 慌てて水槽を覗き込むと、水面にはゆるやかな波紋。その中心ではさやが、濡れた瞳でこちらを見つめていた。


「さや……ごめんよ。きみが……きみのことが、好きなんだ。俺は……」

 勝手に漏れてくる言葉を小さな声で吐き出しながら、水面を見つめた。

「上京してからずっと一人ぼっちで……孤独で……」

 水槽の表面に指先を触れながら、続ける。

「好きなんだ。そんな俺を慰めてくれた、きみの存在が……」

 そんな呟きに答えるように、さやはガラス一枚隔てた向こうで手を伸ばし、俺に触れようとする仕草を見せた。


「っ……さや……っ!」

 薄いガラス越しに指が触れる。

 体温なんて感じない。でも、不思議と指先に熱を感じた。瞬間、いままで我慢していたものが暴発し、体が勝手に動く。

 俺は水槽に手を入れ、さやの体にそっと触れた。



 小さな肩、細い腰、27℃の水温よりも冷たく感じる、キラキラとした青白いウロコ。上のほうのパーツから順番に指を滑らせ、ひとつひとつ確かめるように愛撫していく。

「ずっと……ずっと……触れたかった。きみは、こんな体をしていたんだね……」

 いままで不確かだったさやという存在が「ここにある」と確信した。そのとき。

 指先に触れていたさやの体から、ポコポコと泡が湧き出てくるのが見えた。酸素ポンプのそれに似ているが、もっと細かい。


「えっ……?」

 いったいなにが起きているのか……。

 呆然と水槽を眺めている間にも泡は広がっていき、みるみるうちにさやを包み込んみ、数分で消えた。

 さやの体もろとも、跡形もなく。

 

 

 突然の出来事に体が硬直し、水槽から手を引き抜くことも、言葉を発することもできなかった。

 俺はかろうじて動く指先でさやのいた水の感覚を確かめながら、まばたきを繰り返していた。


 ほんの数分。

 数分前までここにあったさやの体は、もうどこにもない。

 最初から存在しなかったみたいに、ウロコ一枚、どこにもなかった。

 

「どう……して……?」

 水中に入れた手をグルグル動かし、さやの姿を探す。

「触れたらダメ……。ケガするだけ……って……うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 生まれてはじめて出す大声が、体の中心部から勢いよく溢れていく。

 胸の奥からこみ上げてくる、マグマのように煮えたぎる感情。俺はそれを無視したくて、何度も、何度も同じように叫び続けた。




 それからなにをどうしたのか、まったく覚えていない。明るかった部屋は闇に飲まれていた。

 俺は、水を張ったバスタブに服のまま入り、住人をなくした水槽を抱きしめていた。

「さや……どこにいったんだ?」

 体に張り付く服の不快感に苛立ちながら、胸の前にある水槽に手を突っ込み、じゃぶじゃぶとかき回してみる。でも荒々しい波が立つだけで、さやに姿はどこにもない。

「ああ……さや……」

と呟くと、腕から力が抜けていく。

 すると水槽はバスタブの水にゆっくりと、ゆっくりと沈んでいった。

 混ざりあうふたつの水。

 そっとかき混ぜてみたけど、そのどこにも、ひんやりとしたさやの感触を見つけることはできなかった。



「ハハッ……。そうだ、いつもこうだ」

 自身をあざ笑いながら、呟く。

「俺はいつも、なにも手に入れられないんだ……。故郷では友達も、片思いをしてた『さや』。東京じゃあ……」

 仕事、小説、それに人魚の「さや」。

 口に出さず、頭のなかで何度も何度も繰り返す。正確には、喉が詰まって言葉に出せなかった、だ。

 ほかにも吐き出したい言葉があるのに、胸のつかえが邪魔で外に出てきてくれない。


「こんなことになるなら、東京なんて……来なきゃよかったんだ……」

 ようやく出てきた言葉をボソリと吐き出し、ゆっくりと体をバスタブに沈めていく。


――きっとさやも、こんな感じだったんだろうな


 頭まで水に包まれる感覚。

 それに切なさを感じていると、ふと、先日ぼんやりとしか思い出せなかった詩がハッキリと浮かび上がってくる。


*****


 海にいるのは、

 あれは人魚ではないのです。

 海にいるのは、

 あれは、浪(なみ)ばかり。


 曇(くも)った北海の空の下、

 浪はところどころ歯をむいて、

 空を呪っているのです。


 いつはてるとも知れない呪。


 海にいるのは、

 あれは人魚ではないのです。

 海にいるのは、

 あれは、浪ばかり。


   (中原中也 『北の海』)


******



「きみは……なんだったんだ?」

 水面から顔を出し、空っぽになった水槽に向かって問いかけたけど、返事はない。

 水槽にはしっとりと髪を濡らした俺の顔が、情けなく映っているだけ。でもそれは、さやから同じ言葉――あなたは、なに? と問われているようだった。

「俺は、いったい……なんなんだろうな……」

 ボソリと言うと、開けっ放しにしていたバスルームのドアから、すっかり暗くなった室内に目をやった。


 開いていたカーテンの隙間から見える、まだ明るい向かいのビルで働く人々の姿。

「ハハッ……そういうことか」 

 ぼんやりとした目で、その明かりをじっと見た。


 

「この部屋は、まるで水槽だ。狭くて薄暗い水槽から、外を見る……さやも、こんな気分だったのかい?」

 小さく笑いながら呟くと、泳ぎ回ったり、笑顔を見せるさやの姿が浮かんでくる。

 そんな幻影を映す俺の瞳には、涙が滲んでいた。

「さや……。さや……!」

 何度も呟いていると涙は瞼の堰を越え、水面にこぼれ落ちた。


 ぴちょん……。

 小さな音と同時にできる、小さな波紋。

 それはさやが水槽で作ったものより弱々しかった。

「さや……。俺は……また、ひとりだ。なあ……これからどうすればいいと思う?」

 水槽に向かって力なく問う。

 そのあいだにも、涙はひと粒、またひと粒とこぼれ落ちていく。


 ぴちょん……ぴちょん……。

 水面に涙が落ちる音だけが響き渡る。そして次の涙が瞼の堰に溜まりきったころ、そのなかに青白い光を見た。

 涙はスローモーションで落ちていき、見覚えのある波紋を作る。



「ああ……きみは、そこにいたんだね……」

 空っぽになった水槽を抱きしめると、指先にひんやりとした感覚が蘇った。


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ナミダアクアリウム 文月八千代 @yumeiro_candy

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