決意


「決めたよ、さや」

 ペンを置いて、息を吐きながら部屋を見回す。

 ビルやマンションに囲まれ薄暗いこの部屋は、天気が曇りのせいかいつもより数段薄暗かった。それを意識してしまうと、気分までどんよりと沈んでしまいそうだ。

 おまけに、さやのことも……。


「明日、横山さんにきみを連れていってもらうよ」

 俺は水槽の表面を指先で撫でながら、気持ちを悟られないよう呟いた。



――さやと離れる


 これは、この一週間とエッセイの仕事を棒に振る、ということだ。小説家としての今後も、期待することはできないと思う。

 ただ、俺にはほかの選択肢を考えることはできなかった。

 いまにも沈んでしまいそうな気持ちのまま水槽を覗き込むと、小さく首をかしげたさやが、いつもどおり微笑みながらこちらを見ていた。



「本当は……もっと一緒にいたいんだ。でも……」

 目の前には、キラキラとウロコを輝かせながら動く尾びれ。さやは体をくねらせて水槽を泳ぎ回ってはときおり止まって、俺の姿をじっと見てくる。

 そのたび、胸がキュゥと締め付けられるのがわかった。


「俺は……怖いんだ。という存在、という存在……それに、きみを見てるとここに湧いてくる、得体のしれない感情が!」

 握った拳で胸をドンドンと叩きながら、俺は水槽に向かって吐き捨てた。

 するとなにか言いたげに口をパクパクさせたさやは、水中を勢いよく上昇し、くるりと尾びれを返す。


 水面には小さな波紋。

 今度はまた同じようなスピードで潜水を始めると、水草の陰に隠れ、表に出てこようとはしなかった。




 壁にかけた時計の針が何回転しても、室内が薄暗くなっても、さやが水草の陰から出てくる気配はない。

「どうしたっていうんだ、さや。それに、俺も……」

 言いようのない気持ちが、胸のなかを支配する。こんな気持ちになったのは、この一週間のせいだ。


 横山さんに「人魚の素」を渡され、困惑したあの日。

 意外にも「人魚」の誕生が楽しみだった飼育一日目。

 奇妙な生物だと思っていた「人魚」を可愛いと思ってしまった二日目。

 名前がないと不便だと、「さや」と名前をつけた四日目。

 なぜか……なぜか、日記を書き忘れてしまった六日目。

 七日目の今日は、愛しい存在との別れを決意して……。



「ああ……この気持ちは……」

 出来事を振り返っていると、ポロリと出てきた本音にハッとした。

 数日前から心を支配し始めた、得体のしれない感情。胸が痛くて、苦しくて、時間も忘れてしまう……これはさやを愛しい、と思っているからだったのだ。

「でも……。東京で……この部屋でこんなに一緒の時間を過ごしたのは、きみが……さやが初めてだ」

 まだ姿の見えない水槽をぼんやり眺めながら呟くものの、変化はない。

 俺は小さくため息をついて、うなだれながら目を閉じた。



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