人魚飼育日記・その2


●4日目


 俺が起きるのを待っていたようで、は水面から顔を出してこちらを見ていた。

 短い時間ではあるが、どうやら肺呼吸もできるらしい。

 口をパクパク動かしているものの、声は出ていない……本当に謎の生物だ。

 水槽に近づかれるのが恥ずかしいのか、ぴちゃん! と小さな波を立てて水底へ潜ってしまった。


 時間になったのでエサを振り入れてやると、はゆっくりと上昇してくる。

 尾びれになった下半身を左右にくねらせる姿が、妙になまめかしい……。

 そんな姿を見つめていると、あっという間に時間が過ぎていく。


 もしかしたら浦島太郎も、竜宮城でこんな気分になっていたのだろうか?

 いや……あれはおとぎ話だ、毒されてはいけない。

 もっとも、目の前にいるの存在も大概だが。


 

 所用で2、3時間家を空けていたが、帰宅するとはイルカが泳ぐように、水面に波を作って泳いでいた。

 これがなりの「おかえり」なんだろうか?

 謎の生物にも感情があると思うと、妙に愛おしくなってくる。


 いつまでもと呼び続けるのは無骨だと思い、と名前をつけることにした。

 女々しいと言われるかもしれないが、昔好きだった女性の名前から。


 寝る前に「おやすみ、さや」と声をかけると、は小さく微笑んだ。



●5日目


 トラブル発生!?


 がエサを食べない。

 いつものように水中に散布しても、水草の陰に隠れて出てこないのだ。

 心配になって横山さんに連絡をしてみると「環境が変わったとか、ストレスとかですかねぇ? まあ、様子見てはどうです?」という気楽な返事。

 心配ではあるが動物病院に連れて行くわけにもいかないので、いつもよりマメに水槽をチェックすることにした。


 俺が水槽のほうに目をやると、は必ず水面から顔を出し、なにか言いたげにこちらを見てくる。

 そんなことが何度も続くもんだから、ついつい「どうしたんだい?」と声をかけてしまった。

 しかし返事はなく(喋れないので当然だ)、ハッとしたあと、ぽちゃりと波紋を作って水中に潜ってしまう。

 一日中、こんな動きの繰り返し。



 夕暮れどき、水草に隠れたがなにをしているのか気になり、水草が映る場所にスマホを置いて、様子を録画してみた。

 なんだ……これは?

 苦しそうに胸を押さえたは、水草の陰から一点をじっと見ているではないか!

 まるで部活中の想い人をこっそり覗く、恋する乙女のような姿で。


 姿形は違うとはいえ、こんな動き、魚には無理だ。

 とは、とはいったい……?


 その後も意識して横目で水槽を見ると、がチラチラと俺を見ているのに気付く。

 どうしてだろう?

 あんな謎の生物なのに、嫌な気分がしないのは。

 俺はときどきに話しかけながら、静かな時間を過ごした。


 そんなこんなでも、夜になるとエサを食べてくれるようになりひと安心。

 パクパクとエサを食べる姿を見ながら、ぼんやりと昔の詩人の詩を思い出す。


 人魚について綴られたあれは……誰の、なんという詩だったっけ。



●7日目


 いけない、昨日は飼育日記を書くのを忘れていた。

 目覚めてから寝るまで、ずっとを眺めていたのだ。

 乙女の表情で俺を見ていることに気づいて以来、妙に胸がザワザワする。

 ゲームなどに出てくる人魚には人を誘惑する能力があるが、も同じ……?

 ふと、横山さんのメールに書かれていた「人魚には絶対触るな」という一文が脳裏に浮かんだ。


 魚は苦手だ。

 だからそんなのありえないと思っていた。

 しかしあの日から、エサを与えるとき、水槽の掃除をするとき……の体に触れたいという気持ちが頭をチラつくのだ。

 これはいったいなんなんだ!


 恋?

 確かに俺はこのに、昔好きだった女性の名前をつけた。

 ああ……重ねてるんだ。

 きっとそうに違いない。

 だからあの体に触れたいと思ってしまう。

 もし触れたとしたら、どうなるというんだろう?


 なぜだろう、怖い。

 このままをここに置いておいていいのか……考えるほど怖くなってくる。

 明日横山さんが来る。

 水槽を引き取ってもらおうか?

 我慢できずに触れて、体を傷つけてしまうのはイヤだから。


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